第八十二話 アウェンスの肉屋

 少し時間が戻って、おおよそ一月半ひとつきはん前。

 薄墨空うすずみそらの月、中頃 ――― 帝都。


 アウェンスの肉屋の二階、中央の部屋は普段は閉じられていて滅多と開くことはない。そこに案内されるのは、肉屋で「豚のレバーを三百もんめ。血抜きはこちらで」と店のオヤジに頼み、「レバーパテでも作るのかい?」と聞かれて、「いや、塩蒸しにする」と答えた人だけ。

 塩蒸しは帝国ではあまり知られていない調理法なので、そもそもそんな言葉を普段の生活において使う帝国人はいない。

 これは二階の中央の部屋へ案内されるための符牒ふちょうだ。


 その日、そこにやって来たのは、貴族にしては少々くたびれた格好をした青年だった。癖の強い栗茶の髪に、澱んだ赤褐色の瞳。何日も体を洗っていないのか、少々臭う。

 しかし、案内役である肉屋の女将は、腫れぼったい瞼を何度か瞬きしただけで、疲れたような表情に変化はなかった。


「こちらでお待ちを」


 久しぶりに開いた中央の部屋は、少し埃っぽかった。

 青年は眉を寄せて、ゴホゴホと咳き込む。

 内心、こんな狭苦しい汚い部屋で客を待たせるなんて…と憤慨していたが、肉屋も含めて周辺一帯は、自分の生きてきた世界とは隔絶した下層の者達の住む場所で、下手に文句を言った日には、まともな姿でここから出られる保証はない。


 案内されて座った椅子の前には、両替商で使うかのような大きな机が一つと、その向こうに革張りの背凭れ椅子が一脚。椅子の背後にある窓からは、すぐ隣の家の煙突と陰鬱な冬の空が見えるだけ。いっそその窓を開いて、この部屋の淀んだ空気を外に出したかったが、なにせ油断ならない場所で勝手に動くことははばかられた。


「………遅い…」


 青年は苛々と足を揺らす。コッコッコッコッ、と床に踵を打ち付けるたびに、埃がかすかに舞って、薄暗い部屋を浮遊した。

 時間が経つにつれ、青年は緊張で神経が逆立った。一体、いつになったらとやらは現れるのだろう? 窓の外の景色が夕暮れ近くになってきた頃、ようやく背後のドアが開いた。


 青年はビクリと立ち上がる。


「おぉ、客人。お待たせした」


 ドアをパタンと閉めて、日焼けした浅黒い肌と少し褪せたような赤毛の男が青年を不躾にジロジロと眺めた。

 青年はムッとして、男を睨みつけた。


「いったい、いつまで待たせる気だ? 僕はちゃんと君らの知り合いからの仲介でやって来た客だぞ」


 赤毛の男は無精髭をザリザリと撫でてから、慇懃いんぎんに挨拶した。


「これはこれは、申し訳ございませんでしたな、若様。少々、連絡に行き違いがあった模様でございます」

「連絡を怠ったのは肉屋の男か?」

「………」


 青年の問いかけに、赤毛の男はニコリと笑って答えない。

 それから心の中でケッ! と吐き捨てる。

 どうもつまらない客のようだ。

 に来て、こちらの内部事情をあけすけに訊いてくるなど、まったくわかっていない。

 確かに連絡役の肉屋夫婦はすぐに報告に来なかったが、新規の客を待たせるのは、その反応を見ることも含めてこの世界の常識だ。


 黒の布を張った椅子に座ると、赤毛の男は笑顔を張り付かせて青年に向き合った。


「それで、どういったご依頼でしょう?」


 青年はいよいよとなった途端に、また緊張で顔が強張った。

 ゴクリと唾をのんでから、余裕のあるところを見せようと笑ってみせたが、右の口の端が少し上がっただけだった。


「こ、子供を……殺してほしい……」

「ほぅ、子供?」

「そうだ! 子供を殺して……」


 青年は急に大声で叫んでから、逡巡するかのように落ち着きなく目を動かした。

「いや……」とつぶやいて、手指の爪を噛み始める。


 赤毛の男はそれとわからぬようにため息をついた。

 おそらくこうした依頼をすることも始めてならば、誰かを直接的にしろ間接的にしろ殺したこともないのだ。殺人を依頼する程度で、こうまで落ち着きをなくすなど。

 しかし一応はここを聞き出してきた『客』であるから、それなりの接遇をせねばならない。

 赤毛の男は笑みを浮かべたまま、続きを促す。


「どうされました?」


 青年は親指の爪をしばらく噛んでいたが、男の声でハッと顔を上げた。


「あ、いや……殺すのは……いい」

「では依頼はなかったことに?」

「いや。殺すのは僕が直接、やる。お前達は、その子供を誘拐してきてほしい」

「依頼は誘拐、ですな」


 赤毛の男は確認する。

 青年が頷いた。

 即座に赤毛の男は報酬費用の交渉に入った。


「まずは前金として五十ゼラ。成功報酬として百ゼラ

 

 青年は眉を顰めた。


「高くないか? たかが誘拐だぞ。殺すのを頼んではいない」


 赤毛の男は笑っていたが、その口の端がニイィと吊り上がった。


「若様、誘拐というのは案外と、殺人よりも面倒なものなのです。なにせというのは、色々と危険が多い。誘拐された側の家族は当然探し回るし、誘拐された当人も逃げようとする。こちらはその為に色々と手配が必要でね。つまるところ、人件費がかかるんです」


 丁寧な口調ながら、赤毛の男の醸し出す異様な迫力に、青年の顔が強張った。


「……わかった。しかし、今は三十ゼラしかない。成功した場合は、後から百七十払おう」

「ふむ…しめて二百ゼラですか……」


 青年の申し出に赤毛の男はしばし考えた後に、いかにも如才ない商人然とした笑顔に戻る。


「ようございます。それで、誘拐する子供というのは?」


 そこで青年はまた、片頬だけをヒクヒクと動かして笑った。


「あ…あぁ……アドリアン……アドリアン・グレヴィリウス小公爵だ」

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