第八十一話 呼び起こされる痛み

 オヅマは苛立ちと悲しさでおかしくなりそうだった。


 あの笛。

 今の今まで忘れていたのに、目の前にした途端、知りたくもなかった事実を突きつけられる。


 あれは、ミーナのたったひとつの宝物だった。コスタスに見つかれば、すぐに売られてしまうだろうから……と、ずっと隠していた。

 ここに来る時に持ってきたのだろう。

 そのはずだ。あの時、の中でミーナはオヅマに言ったのだから。



「ベッドの下に箱がくっついているわ。そこに、お母さんの大事なものが入っているの。それを持って、ガルデンティアに行って、…………様に見せなさい。と、あなたを見ればきっと……」



 オヅマはの中の母を払った。

 もうあれはだ。

 何も起きていない。

 母は父を殺してない。

 絞首刑になっていない。

 今、ここで、幸せに暮らしている。


 しかしオヅマが苛立つのは、一年が過ぎようとする今になって、古いを思い出したことではない。

 あの笛が、であるということ、それが腹立たしいのだ。激しく嫌悪しているのに、オヅマはその理由を考えたくなかった。頭がまた痛くなってくる。


「クソッ………捨てればいいのに! あんな……モノ……」


 つぶやくと、またさっきの孤独な自分が浮かぶ。

 たった一人のオヅマを慰めてくれた相棒。最後まで捨て去れなかった唯一の繋がり……。


「やめてくれ……」


 激しい頭痛にうわ言が洩れる。

 オヅマはフラフラと覚束ない足取りで小屋まで戻ってくると、ベッドに倒れ込んだ。

 痛い。

 痛い。

 頭が痛い。



 ―――― 哀しげに、帝都の空へと響く笛の音。



 オヅマは耳を塞ぐが、幻聴はしつこく聴こえてくる。

 いや、あるいは母が吹いているのだろうか?


』。


 これは、いったい何なのだ。

 本当になのだろうか。

 どうしてただのがこうまで自分を引っ掻き回す?

 どうしてはっきりとした実感を伴って、こうまで自分に干渉してくる!?


 考えるほどに、痛みが増大する。

 頭も、耳も、目も、手も足も…もうどこもかしこも痛い。身体からだが引き千切られそうだ。


 自分を包む闇の中で、オヅマはのたうち回った。


 永遠にこの痛みは消えないのか。

 永遠にこの掻きむしられる苛立ちを抱いて生きるのか ―――?


 嫌だ! 助けてくれ!

 嫌だ……嫌だ……嫌だ……


「…ぅう……く……」


 息することすら苦しくなってきた ――― その時。



 ―――― オヅマ……



 柔らかく、自分を呼ぶ声。

 永遠に続くかに思えた苦痛が、突然、フイと消えた。

 耳を押さえていた手に、そっと触れる手を感じる。

 ゆっくりと耳から手を下ろすと、また声が呼びかけてくる。



 ―――― 忘れていなさい、オヅマ



 闇の中できらめく虹のような瞳が、自分を真っ直ぐに見つめている。


 夏の参礼で神殿に行った時に、水甕みずがめに現れた不思議な少女。

 勝手に訳のわからないことばかり言って、勝手に消えた。

 けれど今、あの煌めく虹を宿した瞳は、オヅマのを吸い取っていくようだ………。

 助けを求めるようにオヅマは手を伸ばした。

 フッと、何者かが笑った気配を感じる。それからそうっとオヅマの手を優しくつつみ、滑らかな頬に押し当てる。

 冷たくて柔らかな皮膚の感触。


「…………」


 オヅマは彼女の名を呼んだ。けれどその名をオヅマは知らない。知らないはずの名前は、口に出すと同時に記憶から消えていく。


 濃稠のうちょうな闇の中で、彼女の姿はなく、ただ静かな気配だけがある。


 オヅマの目から涙がこぼれた。

 自分でも訳の分からないに翻弄されていた自覚はあった。そのから逃げることしかオヅマはできない。


 自分が何をすればいいのか、何をしたいのか……



 ―――― 生きたいように…生きて……。それでいいの……



 不可解な自分の状態をすべてわかった上で、その存在は受け止めてくれると、確信していた。

 まるで神様のような、けれど神様よりも近い位置で、オヅマを見守っていてくれる。


 ようやくホッと息をつくことができた。

 このままに追い詰められて、自分だけが狂っていくのかと、ずっと恐怖していた……。


 

 ―――― オヅマ………幸せ…?



 問われた答えを言う前に、オヅマは眠りに落ちた。

 心地よい安息の闇の中、久しぶりに何を考えることもなく、ぐっすりと眠った。





 目を開くと、アドリアンが覗き込んでいた。いつもながらの乏しい表情だが、少しだけ心配しているようだ。静かに問いかけてくる。


「……起きたか?」


 オヅマはしばらくぼんやりとアドリアンを見つめた後、眉を寄せた。


「今、何時だ?」

「……もうすぐ夕刻からの修練が始まる時間だ」

「ヤバっ!」


 あわてて起き上がる。

 喉が渇いて軽く咳をすると、たっぷり水の入ったコップが差し出された。


「おぉ……」


 受け取って、一気にゴクゴク飲み干す。


「悪ぃ。……生き返った」

「大袈裟だな」

「うるせぇ。ちょっとは使えるようになってきたかと思ってホメてやったらこれだ」

「褒めた? 今のが?」


 アドリアンは聞き返しながら、内心ホッとする。どうやらいつものオヅマのようだ。

 腕を組んで皮肉な口調で言ってやった。


「人を褒めている余裕があるのなら、顔を洗ってから行くんだな。大泣きした赤ん坊みたいに涙の筋が残ってるよ。タロモン卿(ゴアンの姓)あたりが、しつこく聞いてくるだろう」

「……っ、うっせぇなぁ」


 オヅマは急にさっきまでのことを思い出した。

 いきなり泣き出したオヅマに、きっと全員唖然としたことだろう。


 今日ばかりはあまり表情のないアドリアンが有り難かった。妙に心配されたり、同情されたら、たまったものじゃない。そもそも、どうして泣いてしまったかの理由も、もうおぼろげだ。


 たらいに水を張って、オヅマは一瞬止まった。水面に映る自分をしばらく見つめる。

 一体、何を期待したのだろう。この水に誰かの顔が浮かぶことなど有り得ないのに。

 すぐにバシャバシャと顔を洗った。


「フン、だんだん口減らずになってきやがって。生意気なやつには踊りなんぞ教えてやんねーぞ」


 手拭いで顔を拭きながら言うと、アドリアンは澄まし顔になる。


「踊りの方は君の妹君にみっちり仕込んで頂いたから、もう完璧だよ」

「へえぇ。マリーにねぇ…」


 オヅマは言いながらちょっと意外だった。

 オリヴェルがよく許したものだ。最近は仲良くなってきたとはいえ、マリーがアドルを褒めるとひどく気分を害していたのに。


「オリヴェルも一節ひとふしだけ一緒に踊ったよ。祭りの日も輪に入らなければ踊れるかもな」

「なんだ、なんだ、お前ら。いつの間にそんなに仲良くなってんだよ」

「怒りっぽいお兄さんが行方をくらましている間だよ。さ、行くぞ。本当に遅れそうだ」


 オヅマはあわてて修練場に向かいながら、チラと隣のアドリアンを窺った。

 第一印象は湿っぽくて、嫌味なくらい大人びた、世間知らずのお坊ちゃんだと思っていたが、こうしてくだけた物言いをするようになって、気心が知れるようになると、アドリアンは十分に優しい性格だ。

 今も踊りの話をしながら、ミーナのことにも、ミーナの持ってきた笛のことにも触れない。

 オヅマにとって、あの笛がなにかしら因縁のあるものなのだろうと、薄々勘付いているのだろうが、何も聞かないでいてくれる。そういうところは認めてやってもいい……だろう。


「……あーあ、かぁ…これ」


 小さくつぶやいたオヅマを、アドリアンは不思議そうに見ていた。

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