第八十三話 エラルドジェイ(1)

「エラルドジェイ、仕事だ」


 その声を聞いた途端、エラルドジェイと呼ばれた男は、紺色の髪を物憂さげに掻き上げた。髪と同じ濃紺の瞳がジロリと赤毛の男を見つめる。


「さっきの客?」

「そうだ」


 赤毛の男は、青年の前の笑顔が嘘であったかのように、強面こわもてを微動だにさせない。

 エラルドジェイはふあぁ、と大あくびをして、床に直に置かれた皿からナッツをつまんだ。ボリボリ食べながら、いつの間にかとりだした胡桃くるみの実を二つ、ゴリゴリとてのひらで回す。


「珍しいな、ニーロ。あんたがあんな阿呆そうな客の依頼をけるなんて」

「どうせ、勘当かんどうでもされた下級貴族の放蕩ほうとう息子か何かだろうが、一応、念のために調べとけ。今はピグルボにあるアーケンシの親爺がやってる壺宿つぼやどにいる」


 ニーロ、と呼ばれた赤毛の男は命令して、どっかと椅子に腰掛けた。


 ピグルボはここから大通りを挟んだ、運河沿いに東西に長く伸びた街の一画だ。

 帝都を流通するあらゆる荷物をここで荷分けするため、広大な集積地の周囲には商人や、運河を行き来する箱舟ゴンドラ船頭せんどう達の居住区がある。

 壺宿はあまり金のない商人や、冬から春の間だけやってくる季節労働者達が宿泊する簡易な宿泊施設で、小さい部屋にはベッドが一つきり。あくまで寝るだけの部屋で、虫や鼠が這い回るような、ありがちな安宿だった。


「なんだよ、けさせたんなら、そのまま調べてこりゃいいじゃないか」


 エラルドジェイが面倒そうに言うと、ニーロはジロリと睨んでぼそぼそ言い訳する。


「尾行が精一杯だ。新入りだからな、ボロでも出されちゃ困る。せっかくの金づるを……」


 三ヶ月前に、ちょっとだけ見どころがありそうな孤児の坊主を雇って養成しているようだが、三ヶ月してまだ尾行が精一杯とか言うなら、あまり役に立ちそうもない。 

 エラルドジェイは大きなため息をついて尋ねた。


「いくらで請け負ったんだよ?」

「とりあえず、前金で三十」

カーク?」

ゼラだ」


 エラルドジェイは目を丸くした。


「三十ゼラだって? 一体、どこの大物を始末するように言われたんだ? 勘弁してくれよ。俺は命張った仕事なんぞする気はな~いぜ~」


 ニーロはニヤリと笑って、無精髭の生えた顎を撫でさする。


「大した仕事じゃねぇ。殺しでもないんだからな。坊やの誘拐さ」

子供ガキの誘拐? それで三十ゼラ? うーわ。このオッサン。ボりやがって」

「知ったことか。相場を知らない馬鹿が悪いんだよ。向こうが言ったんだからな、今は三十。後金で百七十だ」


 エラルドジェイはナッツをガジリと噛み砕いて、渋い顔になった。


「嫌だなぁ……そんなので二百ゼラだって? 嫌な感じだよ……」

「泣きごと言ってんじゃねぇよ、エラルドジェイ。この平和ボケした国じゃ、俺らみたいな商売を必要とする貴族なんぞ、そうそういやしねぇ。来るのはゴミみたいな街で、お山の大将気取ってケチな勢力争いばっかりしている奴らの、ケチでしみったれた依頼だけさ。親分連中の暗殺ごっこで、チマチマ稼ぐしかないのに比べりゃ、ガキ一人誘拐して二百ゼラ。こんないい仕事ないだろうぜ」

「ンなこと言って、貴族相手の仕事にゃ用心に用心を重ねないといけない…って言ってたのは、どこの誰だよ」


 現皇帝の即位に至るまでの政争で、こうした暗殺や誘拐、時に汚職の捏造ねつぞうなども行う闇組織は、貴族間において大いに利用された。しかし皇帝即位で事態が終了すると同時に、現在の宰相さいしょうであるダーゼ公爵によって、徹底的な闇ギルド狩りが行われ、帝都に大小合わせて五十近くあったこうした組織は根こそぎ壊滅させられた。

 そのためニーロは貴族が関わる案件については、非常に慎重だった。

 皇帝の代替わりから数年後に発足した自分たちのような弱小の闇組織でさえも、帝都の治安維持部隊 ―― 通称、鷹の目 ―― に目をつけられたら、その時点で徹底的に叩き潰されることは間違いない。


「だから、調べてこいと言っているんだ。ちょっとでもあの、白髭宰相と関わりがあるようなら、手を引くさ」


 帝国宰相のダーゼ公爵は当年取って五十歳になるが、見事な白髭の持ち主で、庶民からは白髭宰相と呼ばれている。そこには皇帝を支えて長く平和な施政を行っているダーゼ公への尊敬や好意と一緒に、一部の不満分子からの皮肉も込められている。


「誘拐するのが宰相閣下の一人娘なんてことじゃないだろうな?」

「そんなもん千ゼラ積まれたってお断りだよ。誘拐する子供ガキの名前はアドリアン・グレヴィリウス。グレヴィリウス公爵家のお坊ちゃんだとよ」

「長たらしい名前だな」

「お前が言うな」

「で、下級貴族のお坊ちゃんがなんだって、その公爵家の坊やを誘拐したいのか…ってのを、探ればいい訳だな?」


 依頼人に対して、その依頼の動機を訊くことはタブーである。

 そもそもそこに関心などもないし、依頼人の言葉がであるという保証もない。そのため依頼があった場合、ある程度の情報は自分で探るのが鉄則だ。


 貧民街にたむろする連中の縄張り争い程度のことであれば、普段からの情報でおおむねわかっているので、特に調査する必要もないが、今回のように新規の、まったくこれまでとは違う貴族相手となれば、それなりに調べる必要が出てくる。あるいは治安組織の罠である可能性もあるからだ。


 エラルドジェイはようやく立ち上がると、手早く白い布を紺の頭に巻きつけ、パチリと端を猫の形のブローチで留めた。

 そのまま出口へと歩きかけて振り返る。


「その男のシュミは? 女? 男?」

「おそらく女の方がいいんじゃないか?」

「じゃあ、娼婦ねえさん達に頼もうかな。五十カークほどは必要経費だよな?」


 ニーロはニヤリと笑って頷いた。


「いいともさ。俺ゃ、今気分がいい」

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