第七十話 星の名を教えた人


 ―――― オヅマ……



 まただ。

 また、自分を呼ぶ声。


 だが、以前の少女の声ではない。若い男の……



 ―――― オヅマ……



 涼やかな鈴の音のように、心地よく響く声。

 沁み入るような懐かしさと同時に……



 ―――― いつか……君に……会える……



 頬を撫でられた気配がして、オヅマはゾワリとおののいて目を覚ます。


「……ッ…!!」


 しばらく固まったまま、暗闇を凝視する。

 荒い息遣いが自分のものだと気付くまで、少しかかった。

 胸を掴むと、心臓がものすごい勢いで拍動している。ゆっくりと息を整え、目を一度閉じる。冷汗が脇や背中を湿らせていた。


 背を向けた真後ろで寝息がきこえる。だが、それはそこにいるはずのマリーのものではなかった。というのも、この寝息をオヅマは何度か聞いていたからだ。

 クルリと寝返りをうつと、案の定そこにいたのはアドリアンだった。


「てめぇ……」


 風邪でもひいたのか、声がカサついていた。

 グイーっとアドリアンの腹を足で押して、向こうに押しやると、オヅマは起き上がった。


 最初にそこにいたマリーはいつの間にか布団の奥に穴熊か何かのように潜り込んで、そのマリーを包むようにオリヴェルが身を寄せ合っている。


「犬の子か、お前らは」


 オヅマはズキズキする頭を押さえながらつぶやくと、ベッドから出た。


 ふぅと息をついてソファに座る。

 ヴァルナルの好意は嬉しかったが、正直、オヅマは皆で一緒に寝るのは嫌だった。マリーだけならばともかく、オリヴェルやアドリアンと一緒なのはどうにも気持ちが悪い。

 アドリアンは何度かオヅマのベッドに潜り込んで叱られる度に、オヅマのこの『気持ち悪い』という意味がわからないようだった。オヅマにだってよくわからない。ただ……嫌なものは嫌なのだ。


「…………」


 痛い、頭が。

 目覚める前に聞こえた声は記憶からもう消えていた。残っているのは、奇妙な懐かしさと、相反するこの気分の悪さだけ。

 何度目かの溜息でどうにも気持ちが晴れないので、オヅマは着替えると靴を履いて部屋を出た。


 ポツポツと蝋燭の灯された廊下を抜けて、外廊下への扉を開くと、冷たい空気が一気に押し寄せた。一瞬、ブルリと体を震わせた後、長く息を吐く。白い息が吐いてからすぐに消えていくのを見てつぶやいた。


「そんなに寒くもないか」


 空は相変わらず晴れていたが、風もなく、北国生まれのオヅマにはさほど寒さは感じない。

 いつもアドリアンに貸している狸の毛皮のチョッキを着ていれば十分だ。


 特に目的もなかったが、なんとなく舞を舞った境内けいだいの方へと向かった。

 あの広い場所で体を動かせば、この気味悪い汗も流れていくだろう。

 とにかく今はあの声の残滓ざんしを消し去りたい。


 宿泊所の外廊下を伝って本殿の方向へ。

 月は既に中天を通り越して、西の空へと傾いていた。鉄紺の空には、星々がまぶしたように大小の光を放っている。


「ゴルドー、ダム、サザヴェナ……マヨリ……」


 夜空を見上げながら、オヅマは朱や金、あおの星の名前をつぶやいた。

 いくつかを口にしてから、ふと考える。

 誰に、星の名前なんて教えてもらったろうか? 母さん…? いや、そうじゃなかった。

 あの、北の空で動かない白い星の名を教えてくれたのは……


 ぼんやり考えながら足を進めていると、中庭の方からボソボソと人の話し声が聞こえてくる。

 オヅマは眉を寄せた。声に聞き覚えがある。

 咄嗟に息を潜めて足音を消す。

 そろそろと歩いて、柱の陰からそっと覗くと、そこにいたのは母とヴァルナルだった。

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