第七十一話 揺れ動く心

 ミーナが少しだけ寝て目を覚ましたのは、いつも一緒に寝ていたマリーの寝息が聞こえないことに違和感をもったからかもしれない。

 それこそ赤ん坊の頃からずっと自分のそばで寝ていたのだ。ラディケ村の小さなベッドでも、オヅマと一緒にマリーを挟んで親子三人で身を縮めて寝ていた。冬の寒さは隙間風の入る家の中で容赦なかったが、それでもミーナにとって安堵と幸福を感じる時間だった。

 

 オヅマもマリーもどんどん大きくなっていく。

 オヅマが生まれた時のことなど、昨日のように鮮明に思い出せるのに、それももう十年以上昔なのだ。


 窓向こうには、静寂を包んだしろい月が浮かんでいる。ミーナはしばらく見つめていたが、月明りに誘われるように外に出た。


「あ……」


 外廊下を歩いて中庭に出ると、そこで剣を振るうヴァルナルを見つけて足を止める。


 ヴァルナルはヴァルナルで、昨夜見たアドリアンとオヅマの剣舞に興奮が醒めやらなかったのかもしれない。一度横になったものの、浅い眠りですぐに目覚めてしまい、何度かベッドの中で輾転てんてん反側はんそくした後に、あきらめて起き上がった。

 眠れぬ夜を無駄に過ごすこともない…と思って、庭に出てきて久しぶりに剣技の型の復習などを始めたのは、無論、昨夜の子供二人の剣舞に刺激を受けたからだろう。


 かすかに聞こえた女の声にピタリと動きを止めて振り返る。そこに立っているのがミーナだとすぐにわかったが、しばらくヴァルナルは声をかけられなかった。


 質素な寝間着にベージュのショールを羽織っただけのミーナの姿は、飾り気がない分、しろい月明りの下で一層神秘的に見えた。まるで月からの精霊であるかのようだ。淡い金の髪は、月からの光を集めて光り、薄紫の瞳は臈長ろうたけた愁いを覗かせている。


 ミーナはしばらく困ったように視線をさまよわせてから、無言で頭を下げ、踵を返した。


「ミーナ」


 思わず呼びかけてから、ヴァルナルは何を言うべきなのかを探さなくてはならなかった。

 ミーナは立ち止まり、振り返ってヴァルナルの言葉を待ったが、慎重に言葉を選んでいるらしいあるじの姿に、少しだけ心が緩んだ。


「マリーがいなくて、なんだか起きてしまいました。ご領主様も何か気になることでもございましたか?」


 ヴァルナルにこんな時間に起きていることを聞く前に、自分のことを言うのが礼儀であろうとミーナがほがらかに話しかけると、ヴァルナルはホッとした笑みを浮かべた。


「あぁ…いや、少々気が立ってるというか…おそらくオヅマ達の舞が見事であったからだろうな。あれを見て以来、どこか気持ちが落ち着かないのだ。まだまだ私も及ばぬところもあるのだと思うと、居ても立ってもいられない…」


 ミーナはヴァルナルの話に少し笑ってから、ポケットから取り出した手拭いを差し出した。


「汗を拭いてくださいまし。風邪を召されでもしたら大変です」

「あぁ、すまない」


 ヴァルナルが受け取って汗を拭くと、ミーナが手を出す。


「いや、いい。これは私の方で…洗っておく」

「何を仰言おっしゃっておられます。領主様に洗濯などさせるわけには参りません」

「いや、いい」

「こんなことで気を遣っていただいては、かえって恐縮致します。私は領主様の下僕げぼくでありますのに」


 ミーナの言葉にヴァルナルはピクリと眉を寄せる。手拭いを手の中にギュッと掴んで、ヴァルナルはミーナを見つめた。


「ミーナ……頼みがあるんだが」

「なんでございましょう?」


 ミーナはヴァルナルの真剣な声音に、あえて気付かないように振る舞った。


「その……この前にああしたことを言ったので、気まずいだろうとは思うが……せめて、以前のように振る舞ってくれないだろうか?」


 ミーナは目を伏せて、唇を引き結んだ。

 ヴァルナルの真摯しんしで温かな眼差しに、また、ジワリと泣きそうになってくる。


「帝都に向かうまでの間、貴女あなたと話す時間はとても有意義だった。オリヴェルのことも詳しく、楽しく話してくれて……私の話にも耳を傾けてくれて。貴女は聞き上手なのだろうな。貴女と話していると、時々上手に話を整理してくれて、頭がすっきりとまとまるのだ。そうだな……相談相手でいいから、以前のような時間を作ってくれないだろうか?」

「相談相手なんて…私などが……勿体ないことでございます」


 頭を下げながら、ミーナの声は震えた。

 どうしてこの人はこんなにも優しいのだろうか。決してミーナに迫るのではなく、丁寧に、穏やかに、手を差し伸べてくれる。


 かつてミーナが手を伸ばした相手は、何も知らないミーナにただ先を示してみせた。彼の大きな手は、明るい将来へとミーナをいざなっていた。

 けれど、ある日ミーナは唐突に気付かされた。あの手を掴んではいけなかったのだと。自分には、そのような資格などなかったのだと。


 もう二度と、間違ってはいけない。

 そう決めた。

 ……はずだった。

 心を固くして、自分はただオヅマとマリーの『母』として生きるのだと……『女』としての自分を封印した……。


「ミーナ」


 ヴァルナルは一歩だけ近寄ると、優しく呼びかけた。

 おずおずと顔を上げたミーナを見て、ニコリと笑う。


「手紙でも書いたが、私は貴女にとても感謝している。オヅマもマリーも、優しくて純粋で、本当に素晴らしい子達だ。オリヴェルにとっても、小公爵様にとっても、きっと将来、かけがえのない友となる」

「そんな…畏れ多いことでございます」

「いや。身分に関係なくつき合える友がいることは、何よりの財産だ。私にも、故郷に帰れば私が男爵であることなどお構いなしの友人が何人かいる。彼らと話していたら、いつも安心できるんだ」


 ミーナは少しだけ微笑んだ。

 多くの友人に囲まれて、楽しげに談笑するヴァルナルの姿がすぐに想像できる。


「私は貴女を困らせたいわけじゃない。だから、無理強いをしているなら、謝る。はっきり断ってもらって構わないが…………駄目だろうか?」


 了承を求めるヴァルナルの顔は、どこか少年っぽいあどけなさを含んでいた。まるで子供が母親にクッキーを食べていいのか、と訊いているようだ。

 ミーナは思わず笑みを浮かべた。この人に打算はないのだろうが、なぜだか心がほどけてしまう。


「私などはただ話を聞くだけでございますが……領主様の助けとなるのであれば、喜んで話し相手ぐらいは承ります」


 ミーナは恐縮しながらも、きっぱりと言った。

 心の中でしっかりと自分に言い聞かせる。

 出過ぎなければいいのだ。自分の身分をわきまえて、決して踏み外すことのないように。


 一方、ヴァルナルは見ていてわかり易すぎるくらいにホッとした表情を浮かべた。


「良かった。断られたら、しばらく仕事が手につかないところだった」

「まぁ……御冗談を仰言っておられず、そろそろおやすみ下さいませ」


 そう言うと、ミーナはベージュのショールをフワリとヴァルナルの肩にかけた。


「風邪を召してはいけませんから」

「しかし貴女が寒いだろう」

「私の部屋はすぐそこですし、もう戻ります。おやすみなさいませ」


 ミーナは挨拶すると、すぐに駆け出した。

 ヴァルナルと話すのはミーナにとっても楽しかった。だから今も本当はもっと話していたかった。けれどそういう自分の気持ちに、ミーナはあわてて鍵をかけないといけなかった。


 ヴァルナルは挨拶を返す暇もなく行ってしまったミーナの後ろ姿をしばらく呆然と見つめていた。

 なんとなく ―― あるいは希望的観測かも知れないが、多少、手応えがあったのではないだろうか…? 


 肩に掛けられたショールから、ほのかに残った温かさが伝わってくる。同時に爽やかで、どこか異国情緒を感じさせる甘さを含んだ香りがした。


「…………」


 ヴァルナルはショールの端を掴むと、そっと唇を当てた。

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