第六十六話 アドリアンの二つの悩み

 最初は慣れないことばかりで、何かとオヅマに叱られまくっていたアドリアンであったが、ひと月も過ぎる頃には手慣れた様子で日々の雑務もこなすようになっていた。

 騎士たちの方も最初は『小公爵様』という遠慮があったのが、オヅマがあの調子でまったく頓着なく接するので、だんだんと麻痺してきたのか、同じような扱いになってくる。


 オヅマは口は悪かったが、きちんとしたところもあった。

 最初に会った日にアドリアンが棒亜鈴アレイで鍛錬しようとしていたことを覚えていて、数日後には自分が使っていたという緑の棒亜鈴アレイを出してきてくれた。


「まずは、緑からだ。一つの指で持ち上げて、この砂時計の砂が全部降りるまで。全部の指でやって、簡単にできるようになったら、次はこの青のやつ。その次がこの黄色な。いきなり重いやつでやろうとすんなよ。手綱だって握れなくなるぞ」

「あ…ありがとう…」


 アドリアンが戸惑いながらも礼を言うと、手だけでなく足の指でも棒亜鈴アレイを掴んでみせてくれた。


「これやってると、足の指がよく動くようになるんだぜ。色々、便利なんだ」

「どう便利なんだ?」

「木登りして、手じゃとれない木の実を取ったりできる」

「……ごめん。どういう状況かがよくわからない」


 アドリアンが真面目くさって答えると、オヅマはあきれたように笑った。


「そこはなんとなくでいいんだよ!」


 なんとなく ―― というのが、今ひとつ理解できなかったが、アドリアンはオヅマにつられるように少しだけ笑った。

 やっぱりここに来て良かった。

 公爵邸では何も言わずとも、アドリアンの行動に沿って皆が動いてくれるが、そこに気持ちはない。ただただ淡々と職務をこなす者達がいるだけだ。

 誰も、自分を『アドリアン』として見ず、公爵家の後継者として扱うだけ。別にでなくとも、誰でもいい……。


 だが、そのアドリアンにしても、こればかりはどうにかしたいという悩みが二つばかりあった。その一つが毎日のベッド争奪戦だ。


「なんだって、お前にベッドの方を譲らなきゃならないんだよ。新入りは藁ベッド。ほら、いけいけ」


 アドリアンにしてみれば、そのベッドとやらもさほどに心地いい代物ではなかった。それでも、衣装箱を三つ合わせてその上に適当に藁を敷いて、シーツを被せただけのベッドよりはマシだ。


 最初のうちはオヅマに言われてその藁の敷かれたベッドで寝ていたのだが、十分に睡眠できなかった。チクチクと藁が体を刺してくるし、なんか痒くなってくるし、朝起きたら体中が痛い。睡眠不足では満足に雑務も訓練も行えない。


「これじゃあ、仕事に支障をきたす。交代で寝ることを提案する」


 アドリアンが抗議すると、オヅマは冷たく吐き捨てた。


「うるせぇ。慣れろ」


 そのまま問答無用で自分はベッドですぅすぅ寝始める。

 アドリアンは不承不承、また藁ベッドに寝たのだが、自分でも相当にストレスが溜まっていたのかもしれない。

 とにかくチクチクしないベッドで寝たい……と、夜中に起きてフラフラ立ち上がったことまでは、うっすら覚えている。だが、その後にまさかオヅマの寝ているベッドに潜り込んでいたとは思わなかった。


「てめーッ、なんでこっち入ってきてんだぁーッ!」


 怒号と同時に蹴飛ばされ、床に落ちて、寒さでゆっくりと目が開く。


「……うるさいな」


 自分に合わないベッドのせいで、夜遅くまで眠ることのできないアドリアンの寝覚めは非常に悪かった。その時ですらも目をこすりながら、またオヅマのいるベッドに戻って寝ようとしていた。

 

「入ってくんな! 馬鹿! 起きろ!!」

「………」


 起きていれば言い返すが、まだ意識が覚醒していないアドリアンはそのままコテンとベッドに倒れて寝た。

 するとしばらくして、オヅマはアドリアンの顔に、熱湯にくぐらせて固く絞った熱い手拭いをビシャリと叩きつけた。

 一瞬、熱ッ! となりながらも、すぐに手拭いの熱は冷めてゆき、ほんわりとした温かさが瞼をやさしく刺激する。


「…………ありがと」


 アドリアンはようやく目を覚ます。そのまま熱い手拭いで顔も拭けて一石二鳥だ。

 実はこの熱々手拭い攻撃は、いくら怒鳴ろうが叩こうがつねろうが、一向に起きないアドリアンに弱りまくったオヅマが、母・ミーナから教えられたものだった。


「起きるのが嫌だと、なかなか起きないけど、気持ちいいと目が覚めるでしょう?」


 聞いた時には半信半疑だったが、効果はてきめんだった。

 そのためにオヅマは起きてすぐに水を温め、熱湯にくぐらせた手拭いをアツ、アツと言いながら水で手を冷やしつつ固く絞る……という余計な朝の用事が増えているのだが、これが寝坊助ねぼすけアドルには一番有効なのだから仕方ない。


「『ありがと』……じゃねぇよ! 勝手に入ってくんな!!」

「仕方ないだろ。眠れないんだから」

「何が眠れないだ! 今だってグースカ寝まくって起きねぇくせに!」

「十分に眠れないから、朝が起きられないんだ!」

「うるせぇ! とにかく、入ってくんなったら、入ってくんな! 気持ち悪い」

「はぁ?」


 アドリアンは過剰に反応するオヅマにちょっと違和感をもった。一緒に寝るくらい、どうってことでもないだろうに。


「とにかく、交代で藁とベッド、どちらかで寝ることを提案したい」


 すっかり目が覚めたアドリアンが再度抗議すると、オヅマはチッと舌打ちした。


「交代は嫌だ。じゃんけんで決める」

「じゃんけん?」

「お前、じゃんけんもしたことねぇの?」


 オヅマは心底あきれつつも、アドリアンに丁寧にやり方を教えてくれた。簡単な模擬戦の後で、


「じゃ、今日帰ってからじゃんけんで決めるからな。それで負けたら藁ベッドだ。文句はなしな」


と、勝手に決めてしまった。しかしまぁ、確率としてベッドで寝られる可能性を得ただけマシだ。

 その後は毎夜、ベッド争奪戦のじゃんけんが繰り広げられた。勝率は互いに五分五分といったところだ。


「でも、結局コイツ、藁のベッドで寝てても、朝にはこっち入ってきて、勝手に寝てやがるんだぜ。っとに…いい加減にしろっての」


 オヅマがぶつくさ言うと、マリーとミーナは笑っていたが、仏頂面なのはオリヴェルだった。


 これが悩みの二つめ。

 オリヴェルはいまだにアドリアンに心を開かない。


 もはや定例会のように、三日に一度くらいの頻度でオリヴェルの部屋を訪れては、ほぼオヅマの愚痴を皆で聞く会になっているのだが、オリヴェルは笑い話のようなことでも、ずっとムスッとしたままだった。よほどにアドリアンとオヅマが一緒にいるのが気に食わないらしい。


「ベッドなんて、どこかに余ってるのがあるんじゃないの?」


と言うのは、アドリアンの為ではない。寝ぼけたアドリアンがオヅマと一緒に寝ることを阻止するためだ。

 しかしミーナはハタと手を打った。


「まぁ、確かにそれはそうですわね。オヅマ、一度ネストリさんに聞いてみたら?」

「言ったよ、とっくに」

「なんと仰言おっしゃっていたの?」

「居候に特別待遇はないってさ」

「まぁ…」


 ミーナはひどく気の毒そうにアドリアンを見る。

 その何か言いたげな様子を見て、アドリアンはこの人は自分の正体を知っているのだろうな……と感じた。


 実際、ヴァルナルからの再三のアプローチにあれだけ鈍感であったミーナは、アドリアンの言動を観察していて、すぐに気付いたようだ。いまだ気まずいヴァルナルにわざわざ会いに行って、尋ねた。


「領主様、あのアドリアン……様は、もしかして公爵家の方ではございませんか?」


 ヴァルナルとしては隠すつもりだった。

 相手がミーナでなければ、素知らぬフリを貫けたかもしれない。ただ、あの夜以来、久しぶりに二人だけで会うことに多少、緊張していたのもあり、思わぬ質問であったこともあり、顔に出てしまった。


「ミーナ。これは公爵閣下からの命令なのだ。小公爵様の身分を明かさず、一騎士見習いとして扱うように……と」

「まぁ……そんな。オヅマがどれだけ無礼なことをしていると」

「それはあらかじめ予想した上だ。小公爵様も甘んじて受け入れられておられるのだ。だから貴女も、くれぐれも遠慮しすぎて、小公爵様であると他の者に知られることのなきように……気をつけて接してほしい」


 そんな訳でミーナはオヅマのアドリアンに対する態度に正直ハラハラしどおしだったが、それでも謝るわけにはいかない。


「じゃあ…一度、ご領主様に伺ってみましょう」


 ミーナとしてはなるべくヴァルナルとまともに会って話す機会は避けたかったが、アドリアンが誰かを知らぬはずがないネストリが、なぜか小公爵を冷遇するのであれば、仕方ない。

 ミーナからの話を聞いたヴァルナルが、その日のうちにカールに命じたので、騎士達によって不要となっていたベッドがオヅマの小屋に新たに運ばれ、衣装箱はお役御免となった。

 これで一件落着となったと思ったが、新たに来たベッドが、元からあったベッド よりも寝心地がいいとわかると、オヅマは言った。


「じゃ…これからは勝った方が新しいベッドな」


 ベッド争奪戦は結局続く羽目になった。

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