第五十六話 告白(1)
その夜、久しぶりに息子との夕食を終え、行政官の持ってきた収穫についての資料に目を通していたヴァルナルは、控えめなノックの音にすぐさま反応した。
扉が開く前から、そこに立っているのが誰かわかった。
「入るとよい、ミーナ」
声をかけると、扉が静かに開いてミーナが入ってくる。
その手にはヴァルナルの贈った箱があった。手紙でも申し伝えてきたように、律儀に返還しに来たらしい。胸の前でその箱を持ったまま、深く頭を下げる。
「帰着されたばかりの忙しい中、お時間をとらせて申し訳ございません」
相変わらず丁寧で、品のある言葉遣いだ。
オヅマは母親は時々、生まれ故郷の西方の訛りがあると言っていたが、ヴァルナルに対するミーナの言葉はちゃんとしたキエル標準語で、その上で洗練された貴族的古語まで使いこなしていた。
ヴァルナルは立ち上がると、執務机の前にあるソファに座りミーナも座るように促した。
「その箱を受け取る気はないぞ」
ミーナがテーブルの上に箱を置く前に、ヴァルナルは言った。
今しも箱を置こうとしていたミーナの手が止まり、困惑したようにヴァルナルを見た。
ヴァルナルはニコリと笑う。
「中身が気に入らないなら捨ててもらってもいいし、誰かに……マリーにやってもいい。ただ、マリー以外の女性にあげるのはやめてもらいたいな。一応、選んだ身としては、
ミーナは箱を膝の上に置いて、再び頭を下げた。
「申し訳ございません。気を遣っていただいたのに…無下なことをと…ご気分を害されたことでしょう」
「私が? まさか、気分を害したりはしない。貴女が奥ゆかしい人物だと尚のこと感心するだけだ」
ミーナはゆるゆると首を振ってから、しばらく黙り込んだ。
ヴァルナルは蝋燭の炎に揺らめくミーナの艶やかな褐色の肌と、耳元に垂れた淡い金の髪を見つめた。
何かを考え込む伏せた薄紫色の瞳の、長い睫毛すらも美しい。
「……迷惑だったか?」
ヴァルナルが自嘲気味に言うと、ミーナは顔を上げてヴァルナルを見てから、少しだけ笑った。
「迷惑ではございませんけど…少し……困りました」
「…正直だな」
「申し訳ございません。でも、このような贈り物を一介の召使いが頂いて…その前にも
ヴァルナルは一気に渋面になった。今更だが、恥ずかしい。
あんなものを女に最初の贈り物で贈る男なんぞいないと…ルーカスにも馬鹿にされ、公爵閣下までが苦笑していた。
「あれは、こちらこそ申し訳なかった。勘違いさせるようなものを贈って…」
「いいえ。とても嬉しゅうございました。あのインクは珍しいものですね。時間が経つと、色が紫に変わって…並んだ文字が
「あぁ! そうなんだ、店主が見本を見せてくれてな。時間が経てば経つほどに、色が薄紫色になっていって、ちょうど……」
嬉しげに話すヴァルナルを、その薄紫の瞳が微笑んで見ている。
ヴァルナルは言いかけた言葉を呑み込んだ。一気に顔が熱くなる…。
ミーナは急に黙り込んだヴァルナルに、改めて礼を言った。
「心遣い、感謝しております。けれど、そこまでして頂かなくとも、私はオリヴェル様のお世話を
ミーナがそう言う理由に、ヴァルナルはすぐ思い至った。
オリヴェルには元々、乳母代わりとなってずっと面倒みてくれた女がいた。
彼女は元々、オリヴェルの母であるエディットの侍女の一人として帝都からやって来た。
最終的にヴァルナルとエディットの関係が破綻して、彼女がレーゲンブルトから去った後も、エディットに命じられたのか、自分から志願したのかは知らないが、オリヴェルの世話を一手に引き受けて面倒を見てくれていたのだ。
しかしそこには魂胆があった。
オリヴェルの世話を焼くことで、ヴァルナルと親密な関係になり、ゆくゆくはエディットの後釜として男爵夫人となることを目論んでいた。
ヴァルナルはオリヴェルの世話をしてくれる彼女に感謝はしていたが、女性としては何らの魅力も感じていなかったので、とうとうしびれを切らした彼女がヴァルナルの寝室に忍び込んできた時に、はっきりとそのつもりがないことを言ったのだ。
すると、彼女は翌日には出て行った。
しかも子供のオリヴェルに、何かしらひどいことを言い残していったようだ。
オリヴェルは熱を出して寝込んだ後、何も言わぬ子供になっていた。
ちょうど春の種播きが終了した頃の、公爵邸へと向かう時期であったため、ヴァルナルは医者と女中頭にオリヴェルを任せて出立してしまったのだが、そこから親子の隔絶が始まったのは否めない。
ミーナはおそらくオリヴェルから彼女の話を聞いたのだろう。
そうであればこそ、尚の事、オリヴェルに対して心を込めて、慎重に接してくれていたに違いない。
この数ヶ月の間のオリヴェルの劇的な変化は、ただオヅマとマリーという友を得た以上に、ミーナという安心できる存在があればこそ、だろう。
「貴女がオリヴェルのことを、我が子同様に責任を持って面倒をみてくれていることは知っている。貴女の職務の熱心さを疑う気は微塵もない」
ヴァルナルは一気に言ってから、軽く息をついた。
こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか。ある意味、皇帝陛下への挨拶以上に…いや、それとは全く違う緊張感だ。
「あの文筥も、その髪飾りも…オリヴェルの世話をしてくれているお礼として贈ったのではない。貴女に私の気持ちを伝えたかったからだ…その……好意を持っていることを…だ」
我ながら口下手な言い様にヴァルナルは情けなかった。
ルーカスならもっと気の利いた台詞が出てくるだろうに。……
ミーナはヴァルナルの言葉を聞いて、膝の上で手をギュッと握りしめた。
寄せた眉に憂いが滲み出る。
自分はそういうことからは遠ざかりたかった。
既に二人も子供のいる
けれど、目の前にいる
だとすれば、彼がもっと納得できる理由で断るしかない。
「領主様、失礼ですが…見てもらいたいものがございます」
急に決然とした口調で言うミーナに、ヴァルナルは目を丸くしながら、問いかけた。
「なんだろうか?」
ミーナは唇をキュッと閉じると、クルリと後ろを向く。
それからシャツの衿紐を取ると、グイと衿を大きく引っ張った。
「ミッ…ミーナ?!」
ヴァルナルは慌てたが、ミーナは静かな声で告げた。
「肩を、見て下さい」
言われてヴァルナルは少しだけ目を細めながら、蝋燭の灯りに照らされたミーナのか細い線の肩を見つめた。
そこには菱形が三つ並んだ、青黒い入れ墨のような痕がうっすらとあった。
ヴァルナルは言葉を失った。
「それは……」
「今まで黙っておりましたこと…誠に申し訳ございません」
顔を俯けて謝ってから、ミーナはすぐに衣服を元に戻した。
再びヴァルナルと向き合い、深く頭を下げる。
「ご覧いただいておわかりのように、私は昔は奴隷でございました」
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