第五十五話 ネストリの思惑
ヴァルナルはオヅマにアドリアンを託した後に、領主館に向かった。
玄関の大きなドアを開いて入ると、大階段の広間には主だった召使いが集合してヴァルナルらを迎え入れた。
「お帰りなさいませ、領主様」
代表して執事のネストリが挨拶し、深々とお辞儀すると召使い達が全員頭を下げる。
その中で一人だけ立ち尽くしていたオリヴェルは、久しぶりに再会した父と目が合って、思わず顔を伏せてしまった。
隣にいたミーナがそっとオリヴェルの手を包む。
大丈夫、と声にせず言っている。
一方、ヴァルナルもまた久しぶりに対面した息子が、以前に比べて随分大きくなったことに驚きながら、どう声をかけたものか迷った。今更ではあるが、それまで放任してきたせいで、こういう時の当たり前の会話すら出てこない。
しかし、オリヴェルの手をそっと握ったミーナに気付いて、ヴァルナルもまた勇気をもらった。
軽く咳払いした後に、息子に近づくと少々緊張しながら声をかけた。
「随分と…大きく…元気になったようだな。オリヴェル」
オリヴェルは驚いたようにヴァルナルを見上げてから、ニコリと笑った。
「はい。元気になりました。皆のお陰です」
「うむ。騎士達の修練の見学にも来ていたようだな」
「体調の良い時に、皆さんの邪魔にならないように、時々見学させてもらっています。先日も、格闘術の試合を見せてもらいました」
オリヴェルは話しながら不思議だった。
父とこんなに普通に会話できると思っていなかった。以前は目の前にしただけで怖くて、悪いことをしたわけでもないのに、申し訳ない気持ちになって縮こまっていたのに。
ヴァルナルはオリヴェルの頭を軽くなでてから、頭を下げているミーナをチラリと見た。
ひっつめた髪に贈った髪飾りはない。
ヴァルナルは溜息をもらしたが、思っていたほどに落胆はしなかった。手紙で固辞していたのだし、仕方ない。
「出迎えご苦労だった。皆、仕事に戻ってくれ。ネストリ、執務室に来てくれ」
ヴァルナルはその場ではあえてミーナに声をかけることはなく、急な領主の帰還で慌てている召使い達に仕事を続けるように促す。
ヴァルナルが階段を上って行くと、その後に続きながら、ネストリはミーナをチラと見てフンと鼻で
やはり、都から戻ればこの程度の女など目にも入らなくなるのだろう。数ヶ月前までは領主様の贔屓もあったが、そろそろ潮時だと当人もわかったはずだ…。
ネストリは内心せせら笑っていたが、執務室でヴァルナルからグレヴィリウス公爵の後嗣アドリアンが来訪していると告げられると、驚嘆してミーナのことなど一気に吹っ飛んだ。
「え…小公爵様…が?」
ヴァルナルは頷いた。
公爵邸での勤務経験のあるネストリは既にアドリアンの顔を見知っているだろうから、知らせた上で対応させた方がよい。
「そうだ。公爵閣下からの直々の仰せで、今回は特に一騎士見習いとしてこのレーゲンブルトで過ごすように言われ、いらっしゃっている。ついては、このこと…つまり、アドリアン様が小公爵様であることはレーゲンブルトで雇った人間に口外せぬようにしてもらいたい」
「は…あ…?」
ネストリには意味がわからなかった。
どうして公爵様はこんな辺境の寒さ厳しい地に、小公爵を来させることにしたのだろうか。
堅牢なだけで、何らの豪奢も面白みもない、ただの北国の小さな館だ。
しかも一騎士見習い? 一体、どういうつもりだ?
しかし……と、ネストリは素早く頭の中で自分がどのように動けばいいのかを構築する。
「つまり、私めはアドリアン様を小公爵様であるように扱わないようにする…ということですね。敬語ではなく、様と呼ぶこともないようにせねばならない…と」
「そうだ。一応、一緒に生活してもらうオヅマには私の知人の息子ということで紹介している。君にもそのつもりで接してもらいたい」
ヴァルナルが何気なく言った名前に、ネストリはピクリと眉を寄せた。
「少々、お待ち下さい。ただいま、領主様はオヅマと小公爵様、二人で一緒に生活してもらう…と
「そうだが?」
「ご冗談を! 小公爵様をあの無礼な小僧と一緒に!? 後でどんなお叱りを受けるかもしれませんぞ! ご再考下さいませ!」
ヴァルナルは笑った。思っていた通りの反応だ。
「君の心配はわかるが、この事については公爵閣下、小公爵様共に了承しておられる。よほどのことでもない限り、不敬を問われることはないだろう」
「しかし…奴めは若君……オリヴェル坊ちゃまに対しても、時々非常に横柄な口をきいて…この前も母親のミーナに叱られておったのです。しかも、その叱責に不服があるような…不満気な態度で…まったく図々しい」
ヴァルナルは大笑いした。いかにもオヅマらしいエピソードだ。
「あの二人については、双方の意志にまかせている。オヅマも騎士としての修養を積めば、いずれ分限を知ることになる。そうなれば自然と相応の態度を身に着けることになるだろう。………私もそうであったしな」
話すヴァルナルの脳裏に、若き日の公爵とその奥方の姿が思い浮かぶ。
物知らずな若い騎士見習いを、弟のように可愛がってくれた。
あの日々の思い出があるかぎりにおいて、ヴァルナルがグレヴィリウス公爵家を裏切ることは有り得ない。当然、皇家の直属騎士になることも。
「………承知致しました」
ネストリは最終的には了承した。
考えてみれば、特に自分の負担はない。
元々、ネストリにとって小公爵はあまり有難い存在ではなかった。
グレヴィリウス公爵とその夫人は仲が良かったものの、不思議と子宝には恵まれなかった。公爵は妾をとることもなかったので、当然跡継ぎについて問題視されたが、それでも公爵が夫人と離婚することはなかった。
そのため、うるさく言ってくる親戚を黙らせる為に、公爵は自分の妹が産んだ男の子を養子とすることに決めたのだ。
それがグルンデン侯爵家の次男・ハヴェルだった。
まだ、公爵夫人に子供ができる可能性も皆無でなかったので、正式な養子となるのは成人の後とされたが、ハヴェルはほとんどグレヴィリウス公爵家の後嗣としての教育を受け、ネストリは彼の従僕として仕えていた。
ところが、結婚九年目にしてようやく公爵夫人が懐妊。その後に出産。
ハヴェル公子はあっさりと捨てられた。グルンデン侯爵家に戻されたのだ。
未だにこの事を恨みに思う人間は多いし、公爵が自分の息子を疎ましく思っているのは有名なことだったので、あるいはハヴェル公子をやはり公爵家の後継とする可能性もあるのではないかと、注意深く窺っている勢力もあった。
ということでネストリとしては、アドリアン小公爵様を崇め奉る必要がないのであれば、むしろ気楽であった。内心の不満が多少噴き出たとしても、今回においては免除されるということであろうから。
「……どうも、腹に一物ありそうな感じですね」
ネストリが去った後、カールは不信感もあらわに言った。
小公爵がレーゲンブルトに行くことが決まってから、内々に兄のルーカスが領主館にいる使用人について調査している。その中でネストリがハヴェル公子の従僕であったことが、懸念材料として挙げられていた。
「大丈夫でしょうか、領主様。彼がもし小公爵様に対して…」
パシリコが不安そうに言いかけると、ヴァルナルは「わかっている」と頷く。
「一応、念のために彼がハヴェル公子側の勢力と繋がっているのかは調べている。そのうち知らせが来るだろう。とりあえずしばらくは様子を見るとしよう…」
ヴァルナルは言ってから、少しだけ嫌な予感を持った。理由はない。ただ一瞬、嫌なものが胸をよぎった。
だが行政官の来訪を告げる声に、久しぶりに領主としての顔を取り戻す。
「入り給え、ミラン行政官」
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