第三章

第五十三話 領主様の帰還

 領主館はあわただしかった。

 いつもであれば霜氷そうひょうの月半ば頃に帰ってくる領主様が、一ヶ月も早く帰ってきたからだ。

 しかも帰還を知らせる前触さきぶれの使いすらもなかった。

 いきなり土煙をあげて現れた一団に、町と外を隔てる古い城門を守っていた当番の騎士は、すわ山賊の急襲かと、色めきだった。

 先頭を進む黒角馬くろつのうまに気付いて、一人が飛び出して領主館へと知らせに走った。


「領主様だっ! 領主様がお帰りになったぞーっ」


 そこから領主館はそれこそ大騒ぎになった。

 嘘だろうと飛び出してきたネストリは、門番のジョスに留守の間の守衛をねぎらっているヴァルナルを見るなり、すぐさま踵を返して使用人達に次々と指示を下した。


「エッラ、領主様の部屋の片付けは済んでいるのか? 風呂の用意をしておけ。オッケ、食料庫にソニヤを連れて行って、不足がないかを確認させろ。ロジオーノ、食器の準備を。私も後で行く。あぁ! 若君に知らせねば……アントンソン夫人! アントンソン夫人はどこか?! 何? 休暇だと? すぐに戻ってもらえ。領主様が帰還されたと伝えるのだ!」


 領主館を仕切るネストリ同様に、あわてまくったのは居残り騎士団の団長代理であったマッケネンだった。


「おい! 兵舎の掃除…副官宿舎の掃除の当番は誰だ? ゴアンらだと? あいつら絶対やってないぞ。フレデリク、お前すぐに行って、とりあえずシーツの皺だけでも伸ばしておけ! 風呂場の掃除はしてるんだろうな!? 誰かパウルさんかイーヴァリに言って、泉の水門を開けてもらえ! 食堂も片付けろ! 駒取りチェス盤だの何だの放り出してるだろう!!」


 マッケネンはよくやっていた方だった。

 居残り組は元は傭兵だった連中が多い。自分よりも年上の先輩相手に、うまくやっていた方ではあったが、それでも多少なりと風紀の緩みがあったのは否めない。

 ちょうどその時、早朝から昼過ぎまで行われた調練が終わり、午後の休憩時間であったのもある。

 それぞれが自由時間を楽しんでいて、中には午睡ごすいむさぼっていた人間もいて、いきなり領主様を始めとする騎士団が帰還したのだと聞かされても、目を白黒させて呆然とするしかない。


「起きろ! 鬼が帰ってきたぞ!!」


 いつまでも起きないゴアンの耳元でサロモンが怒鳴る。ヒエッと声を上げて、ゴアンは飛び起きた。


「なんだッ!? 鬼ッ? 鬼って、鬼カールのことか?」


 副官の一人であるカール・ベントソン卿の容赦ないに恐怖する騎士達は、陰で彼のことを『鬼カール』と呼んでいた。その場にいた騎士達の間に、その名称を聞いた途端にビリビリとした緊張感がはしった。


「ヤバイぞ!」

「宿舎の廊下の窓拭きなんざ、全然やってねぇぞ」

「ヤベェって。あの人、窓のさんの埃までチェックするんだぞ」

「おい! 出迎えするって招集かかったぞ」

「うわ、マズイ……どうすんだよ」


 オヅマはいい年した大人たちが右往左往するのをニヤニヤ笑って見ていたが、それを見咎めた騎士のサッチャが怒鳴りつけた。


「オイ、オヅマ! お前、兵舎の掃除してろ!」

「えぇ? なんでだよ?」

「お前は一人前の騎士じゃないからな、出迎えしなくたっていいんだ。見習いは、俺らの尻拭いするもんだ」

「堂々と言うことかよ、それ」


 オヅマが口をとがらせると、頭の禿げかかったゾダルが申し訳なさそうにオヅマの肩を叩く。


「すまん、オヅマ。頼まれてくれ。便所に置きっぱなしにしてるんだ」

「何を?」

エロ本」

「なんでそんなモン、そんな所に置いておくんだよ!」

「そりゃ、お前……いずれわかるよ」

「知るか、そんなの!」

「頼むから! マジでヤバイんだって!!」


 最初に頼んできた禿げのゾダル以外にも数名に頼まれて、オヅマは頬をヒクヒクさせながら彼らの言う通りにするしかなかった。サッチャの言う通り、自分はまだ見習いであるので、正式な騎士達と同列には扱われない。

 招集がかかって無人になった兵舎の中を、オヅマは雑巾を持って歩き回った。窓やら机やらを適当に拭いて、食堂に置きっぱなしになっていた駒取りチェス盤やら、絵札トランプやら、雑多な遊興ひまつぶし道具を、とりあえず空の木箱に次々に入れていく。

 便所掃除をして、例のゾダルに頼まれていたエロ本を箱に放り込んだところで、懐かしい声に呼ばれた。


「オヅマ」


 顔を上げて、彼の姿を見た途端、オヅマは箱を持ったまま走った。


「領主様!」

「相変わらず、元気そうだな」


 ヴァルナルの優しい笑顔に、オヅマも自然と笑った。


「それしか取り柄ないから! あ…いや、取り柄ないです、から」

「ハハハ。そういえば、マッケネンから礼法なども学んでいるらしいな」

「はい。一人前の騎士になるために、頑張ります!」

「結構。それじゃ、一つ頼まれてくれるか?」


 ヴァルナルはそう言うと、体をひねって半身になった。

 そこにはオヅマとそう年の変わらなそうな少年が立っていた。

 黒と見違うほどの濃い茶色の髪、何の感情もないとび色の瞳。

 オヅマは見た瞬間に、どうも合わなそうな気がした。


「なんです? そいつ?」


 思わずぶっきらぼうに尋ねると、少年の背後に控えたカールとパシリコの顔が微妙に引き攣ったが、オヅマは気付かない。


「彼は私の知人の息子だ。今回、この騎士団の見習いとしてしばらく参加することになった。お前と同じだな」

「はぁ……そうですか」


 気乗りしないオヅマに、ヴァルナルは諭すように言った。


「騎士達が対番ついばんになっているのは知ってるな?」


 騎士達は基本的に二人一組で行動する。

 元々は戦場において、一人の敵に対峙するにも、二人で行うことで確実に殺傷すること以外に、互いに無防備になりがちな背を合わすことで、複数の敵からの攻撃に対処することを目的にしている。

 戦時においてだけでなく、普段から騎士達は二人で行動することで、阿吽あうんの呼吸を持つことが推奨された。

 まぁ、今回のようにお目付け役がいなくなると、大真面目に守るような奴はいなかったが。


 オヅマはヴァルナルの言葉を聞いた途端に嫌な予感がしたが、果たしてそれは当たった。


「この子は、しばらくお前の対番になる」

「えっ?」


 思わず声に嫌悪がこもる。ジロリと目の前の少年がオヅマを見上げた。

 ヴァルナルはハハハと笑ってから、オヅマの肩を叩く。


「まだ、見習いとしてはお前に一日いちじつちょうがある。しっかり面倒みてくれ。あぁ、もちろん寝る場所も、お前の小屋でな」

「えっ? マジで?」


 つい、いつもの言葉遣いになる。


「オヅマ…」


 鬼カールが低く唸るように注意すると、オヅマは首をすぼめた。

 ヴァルナルは振り返って、その少年に自己紹介するように促した。


「……アドリアン…です」


 オヅマはポリポリと頭を掻いてから、自分も名乗った。


「オヅマだ。よろしくな」


 アドリアンはご丁寧に深々と頭を下げてくる。

 その様子を見て、オヅマは彼がおそらく自分のような平民の出ではないのだろうと思った。まぁ、領主様の知り合いの息子であるなら、そうだろう。


「じゃあ、早速色々と慌ただしいようだから、頼んだぞ」


 ヴァルナルはオヅマにアドリアンを託すと、行ってしまった。

 オヅマは軽く溜息をついてから、アドリアンに尋ねた。

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