第五十一話 レーゲンブルトへ

「貴公らは公爵閣下の言葉を聞いておられたか? 閣下は小公爵様に、騎士としての修練を積むことで、精神的に成長して欲しいと考えておられるのだ。その意を汲み取ることもできずに、自らの名利みょうりを求め、小公爵様をまるで犬猫を預かるかのごとく軽々に扱って、それこそ不敬であろう」


 それまで我こそは…と手を挙げていた者達は、ゆっくりと手を下ろす。公爵の苛立ちを感じて、互いに目配せしながら、必死で視線を逸らした。

 その中で勇気を持って立ち上がったのは、エシル領主のブルーノ・イェガ男爵だった。曽祖父の代に叙勲され、領地を与えられて以来、代々公爵家に仕える騎士でもある。


「もし、騎士団での若君の修練を望みとあれば、我らにて預かることもできます。わざわざ遠方のレーゲンブルトにまで行かずとも、我らが領地であれば本領地からも近く、若君にも多少なりと見知った土地でありましょう」


 しかしその言に、ルーカスは皮肉げに口の端を歪めた。


「ほぅ。イェガ男爵は小公爵様の師たる器量があると大言壮語なさるか?」

「そ…それは…多少は…」

「言っておくが、小公爵様の剣の師匠はクランツ男爵だ。彼に実力で勝てるのか? 剣だけでなく、馬術においても、格闘術においても。騎士団同士の実戦試合においてもレーゲンブルトに勝ると申されるのか?」

「ルーカス」


 公爵が手を挙げて制した。


「それくらいにしておけ。イェガ男爵はじめ、エシルもまた、代々グレヴィリウスを守ってきた優秀なる公爵家の騎士団の一つだ」

「失礼致しました」


 ルーカスはすぐさま矛を収める。


「イェガ男爵の申し出は有難いが、やはり言い出した者に任せるのがよかろう。――― ヴァルナル」


 公爵が呼びかけると、ヴァルナルは「は」と頭を下げる。


であれば、なるべく早くに帝都を出立することだ。三日後。それまでに準備できるか?」

「問題なく」

「よかろう。ルンビック、小公爵を執務室に連れて来るように」


 公爵は家令に命じて立ち上がる。ガタガタと皆が立ち上がり、胸に手をあてて敬礼する中を、公爵は去っていった。


「フン! うまく取り入ることよ」


 ヴァルナルの横を通り過ぎざま、ニーバリ伯爵が吐き捨てていく。

 他の面々も概ね似たような不満げな顔でヴァルナルを睨みつけながら去った。

 連なる列の最後であったイェガ男爵はヴァルナルに向かって言った。


「公爵閣下はあのように仰言おっしゃられるが、小公爵様は唯一の継嗣であられる。重々、気をつけて監護なさることだ」

「ご忠告痛み入る」


 ヴァルナルは特に皮肉でもなく返事をする。

 イェガ男爵はそれでも心配そうにつぶやいた。


「これまでにも小公爵様には、色々と不穏なことが起きることがありました故、くれぐれもご用心くだされ」

「承知致した」


 明快なヴァルナルに、男爵はそれ以上何も言えなかった。

 神経質に眉を寄せ、嘆息しながら立ち去る。


「やれやれ、お前さんもやってくれたもんだな」


 最後に残っていたルーカスが呆れたように言った。


「そうまでして、早くにレーゲンブルトへ戻りたいか?」

「そうまでして?」


 ヴァルナルが聞き返すと、ルーカスは肩をすくめる。


「さっさとレーゲンブルトに戻りたいから、格好の口実を考えついたんだろ?」

「まさか。そんな訳ないだろう。そもそも園遊会が終われば帰っていいとの言質げんちは頂いていたんだし、こんな事が起こるなど想像もしておらぬさ」


 ルーカスはしばらく思案して、「それもそうか」と頷く。


「で? 本当に小公爵様の身分を隠して、一介の見習い騎士として生活させるのか?」

「そりゃ当然。公爵閣下からの条件であるのだから」


 ルーカスは軽く肩をすくめ、嘘をつくことを知らぬ友を見つめた。


「まぁ、そうであればこそ、公爵閣下もお前に預けることを決められたのだろうがな」


 おそらく他の者であれば、公爵の条件を受諾しながらも、明らかな贔屓ひいきなり手加減をするであろう。だが、目の前のこの男にそうした斟酌しんしゃくは無縁であるし、公爵の直々の命令とあれば、疑いもなく実行するに違いない。

 さすがは、公爵閣下の命令というだけの理由で結婚までする男なだけある……。


「ま。時間がなくとも、手土産の一つくらいは買って帰ることだな」


 立ち去る間際にそんなことを言われて、ヴァルナルは顔色を変えた。


「そうか……そうだった。失念していた」

「……」

「ルーカス。頼みがあるんだが……」

「お前、本当に進歩がないな」


 ルーカスは鈍く頭痛がして、眉間を揉んだ。

 本当に相変わらず誠実だが、気の利かない男だ。


「とっとと行くぞ。店が閉まる前に」


 苛立たしげに言うルーカスに、ヴァルナルはホッと笑って言った。


「すまんな、ルーカス。恩に着る」

「おう。例の黒角馬くろつのうま、公爵様の次にはくれよ」

「わかった」


 これも普通であれば社交辞令であろうが、この男のことだ…律儀に守るのであろう。ルーカスはあきれた溜息をつきながら、ひどく懐かしい気分になって微笑んだ。

 本当に昔から変わらぬ、の弟分だ。……





「大公殿下の公子に向かっての狼藉ろうぜきの罰として、お前にはしばらく帝都並びにアールリンデンの公爵邸への立ち入りを禁じることとなった。クランツ男爵がお前の身を引き受けてくれる。彼と共にレーゲンブルトに向かい、しばらく騎士見習いとして生活するように。自分が公爵家の後嗣こうしであることは、一切口外してはならぬ」


 疑問を差し挟む隙もなく、公爵はアドリアンに命令した。


「…はい」

「領主館の者達は若様のことを存じ上げませぬ。彼らに身分を伝えることのなきように、とクランツ男爵に申し伝えております故、少々の理不尽や無礼は許容なさいますように」


 家令のルンビックが補足すると、公爵が再び口を開く。


此度こたび経緯いきさつが何であるかはもはや聞かぬが、ヴァルナルはお前の意志を尊重して、私にも話さなかったのだ。の者の忠義を無駄にせぬよう、公爵家の後嗣として今後恥ずべき言動は控えよ」


 アドリアンは深く辞儀した後、顔を上げて言った。


「では、すぐにもレーゲンブルトに向かう用意をして参ります」


 執務室を出るなり、アドリアンは足取りも軽く自室へと向かう。

 少しだけ笑みがこぼれた。罰、とは言われたもののしばらくの間、自由になった気がする。窮屈で陰鬱な公爵邸を離れて、晴れやかな空の下で存分に空気が吸える。何度かヴァルナルから聞いていたレーゲンブルトに、こんなに早くに行けるとは。

 元々グレヴィリウス公爵家では、公爵位を継ぐ前に各地の公爵領を回って視察するという慣習がある。だからいずれ行けるだろうとは思っていたが……。


 アドリアンは途中から走り出していた。

 必死に隠していたが、楽しみで仕方ない。

 いつもは沈着冷静で、老成した小公爵様と呼ばれているアドリアンは、初めての長旅とこれから始まるであろう新生活に、すっかり浮かれていた。

 だからこの時は思いもしなかったのだ。

 確かに父は、自分にとってひどくつらい罰を課したのだということを。

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