第十六話 マリーの献身

 ノックもなく突然入ってきた闖入者ちんにゅうしゃを、ドアの側にいたカールが素早く押さえ込んだ。


「無礼千万だぞ、オヅマ」


 オヅマは後ろ手を引き絞られ、痛みに顔をしかめながら叫ぶ。


「お許し下さい! 俺が悪いんです! マリーは悪くありません! 若君と会っていたことは謝ります。どうか、お許しください!」


 その言葉に、ピクリとヴァルナルの眉が動いた。

 そこにいたミーナは突然のオヅマの告白に驚きながらも、すぐさま膝をついて平伏した。


「申し訳ございません、領主様。私の…親である私の監督不行届でございます」


 オヅマは母がこの場にいることで、事態は一層悪くなっているのだと認識した。きっと母が先に呼ばれて糾弾きゅうだんされていたのだろう。

 実はそれはオヅマの勘違いだったのだが、そのことを指摘する人間はその場にいなかった。


「フン! やはり私の思った通りだ!」 


 ネストリは勝ち誇ったようにヴァルナルに向かって叫んだ。


「こんないやしい親子など簡単に雇ってはいけないのです! 若君のお部屋に忍びこんだだけでなく、案の定、病気まで持ち込んで!」


 カールは青い瞳をギラと閃かせた。


「つまり…ご領主様の判断が間違っていたと…ケチをつける訳か、執事殿は」

「そ…そういう訳ではございませんが」


 ネストリはヴァルナルの背後にいるパシリコと、オヅマを押さえつけたまま下から睨み上げてくるカール、二方向からの圧のこもった視線に口ごもった。

 ヴァルナルはふぅと溜息をつくと、カールに目配せした。

 カールがすぐにオヅマの腕を離す。

 ヴァルナルは少し疲れた様子で、オヅマに言った。


「オヅマ。今は紅熱こうねつ病への対処を講じることが優先される。オリヴェルの病のこともあるので、後日詳しく聞くことにしよう。それと、すまないが、お前の母親を借りるぞ」

「母さんを?」


 オヅマは母親が別に連れてゆかれて、厳しく責問せきもんされるのかと恐れたが、そうではないことをすぐにヴァルナルが話してくれた。


「この病気は過去に一度かかっていれば、罹患りかんすることは少ない。かかってもさほど重くなることもない。この土地の人間は紅熱病に対する免疫を持たないから、オリヴェルの看護を頼むことができないのだ。お前達兄妹には迷惑をかけることになるが、しばしミーナにオリヴェルの看護を任せたいのだ」


 何が起きているのかよくわからず、呆然とするオヅマに代わって、ミーナが答えた。


「ありがたきことにございます。必ず若君がご本復ほんぷくなさいますよう、微力ながら尽くします」


 ネストリは丁寧な言葉遣いで話すミーナを忌々しげに睨みつけていたが、看護をできる者がミーナ以外いないのは確かなことなので、ありとあらゆる悪口雑言を口の中にしまい込んだ。

 それでも、


「これで帳消しになるなどと思うなよ」


と、余計な一言を言わずにおれぬようだった。

 ヴァルナルはネストリの言葉を無視した。


「む。では早速にも頼む。ネストリ、ミーナをオリヴェルの部屋に案内して、看護に必要なものを揃えよ」


 ネストリは不満げに鼻をならしたが、それでも職務に忠実であることが信条だったので、冷たい面差しを固めてミーナを連れて行った。

 残されたオヅマに、ヴァルナルは優しい口調で問いかけた。


「オヅマ。お前はオリヴェルと仲が良いのか?」


 オヅマは逡巡しゅんじゅんした。うつむいて、正直に話した。


「仲は……今、喧嘩してます」

「喧嘩?」

「ちょっと…言い合いになっちゃって…」

「………」


 気まずそうに言うオヅマをまじまじと見た後、ヴァルナルはフッと笑った。「成程」

 立ち上がると、オヅマの前に来てさとす。


「お前達の仲についてはわかった。だが、今はしばらくオリヴェルに会うことはできぬ。お前達もこの地で育ったから、紅熱病に罹ったことはないだろう。しばらく控えよ」


 オヅマはその時になって、ようやくオリヴェルもまた伝染病に罹ったことを知り、途端に心配になった。


「オリヴェルは…大丈夫だよね? 死んだりしないよね?」


 ヴァルナルが少し沈んだ顔になる。

 パシリコが後ろから言った。


「そのためにこそ、手厚い看護が必要なのだ。お前達の母親は既に紅熱病に罹ったこともある上、看病の経験もある。若君の世話には適任だ。しばらく母がいなくてお前達も寂しいだろうが、若君のためにわかってくれ」


 オヅマは頷いてから、ハッとなって再び頭を下げた。


「あの、どうかマリーを許して下さい。妹は俺の言う通りにしただけです。だから、折檻せっかん部屋からは出してやって下さい。罰が必要なら、俺が代わりに……」

「ちょっと待て」


 ヴァルナルは途中で遮った。

 厳しい顔になってオヅマを見つめる。


「マリーを折檻部屋にだと? 誰だ、そんなことをしたのは?」

「言うまでもなく、先程出て行った、今はこの場にいない御仁ごじんでありましょう」


 オヅマが言うよりも先に、カールがオヅマの背後で冷たく言い放つ。

 ヴァルナルは深い溜息をついて、頭を押さえた。


「まったく…困った執事だな。幼い子供を折檻部屋になど。カール、オヅマを連れて行って、すぐに出してやりなさい」


 カールとオヅマが退出した後、ヴァルナルは疲れきったようにソファに身を投げだした。

 眉間を押さえながら揉む。


「ブランデーでも用意しますか?」


 パシリコがキャビネットに近付きながら言ったが、ヴァルナルは首を振った。


「いや…いい。後でオリヴェルの様子を見に行くからな。それにしても、パシリコ…お前は気付いたか?」

「は? なにをでしょう?」

「……いい。しばらく横になるから、半刻半はんときはん(*約15分)ほどしたら起こしに来い」

「かしこまりました」


 パシリコが頭を下げてから出て行くと、ヴァルナルは再び深く溜息をついた。

 とんだことになった。てんやわんやの大騒ぎとはこの事だ。まだしも戦場で剣を振りかざしている方が楽な気がしてくる。


 この時、ヴァルナルにとって一番厄介だったのは、領地内で起きた伝染性の熱病のことよりも、その熱病に罹ってしまった一人息子のことよりも、それまで全く気にもしていなかった女の姿が勝手に頭に浮かんできてしまうことだった。

 消し去ろうとして他のことを考えても、淡い金髪と印象的な薄紫ライラック色の瞳がじっと自分を見つめてくる。

 ヴァルナルはコツコツと額を叩きながら、独り、その名前をつぶやいた。





 オヅマはマリーを折檻部屋から連れ出した。

 ネストリに張られた頬は少し赤くなっていた。

 鼻の下に赤い血がこびりついているのは、おそらく鼻血が出たのだろう。


「何を考えてるんだ、あの男…」


 カールはここに来るまでにオヅマからおおよその事情を聞いていたので、格子の鍵を開けて、倒れていたマリーを見た途端に、痛々しい姿に顔をしかめた。

 オヅマはとりあえず大怪我を負ってないことにホッと一息ついてから、さっと辺りを見回した。

 カールに持たされた明るいランタンの灯りで、部屋の中がよく見える。

 そこには拷問道具がいくつか転がっていた。昔、実際に使っていたのであろう、茶色く変色した血がこびりついている。

 それらをオヅマはしばらく凝視してしまった。

 なぜか、それが使を知っている……。


「オヅマ、あまり見るな。さっさと出るぞ」


 カールはぐったりしたマリーを抱き上げて、足早に出て行く。

 オヅマはあわてて後を追った。

 オヅマ達家族は使用人の居住する北棟の階下や東棟の屋根裏ではなく、庭園の隅にある物置小屋を改装してもらい、暮らしていた。

 マリーを抱っこしてきたカールはベッドにゆっくりと下ろしてから、オヅマに言った。


「熱がある。もしかしたら、マリーはもう伝染うつっているのかもしれない」

「えっ?」

「後で医者をやる。てもらえ」

「え…でも」

「紅熱病で亡くなることは少ないとはいえ、子供は熱で痙攣けいれんの発作を起こすこともある。熱冷ましの薬を飲んで、しっかり食べて休ませろ」


 オヅマは途端に不安になった。


「あの…ちょっとだけ母さんに来てもらうことはできないの?」

「………」


 カールは黙り込んだ。

 無論、マリーには母親の看病が必要だし、してもらう権利は十分にあった。だが、今はなんとしても若君の看病に専念してもらわねばならない。


「残念だが…今は若君が優先だ。元から体が弱い上に、紅熱病は発症した当日の夜が一番熱が上がると言われている。今日はなんとしても側についててもらう必要がある…」

「そんな…母さんは俺達の母さんだぞ!」

「……申し訳ない」


 普段は『鬼』と異名されるほど厳しいカールが素直に頭を下げてくるので、オヅマはそれ以上言えなかった。

 オリヴェルが苦しんでいるのも予想できる。

 一度、バルコニーからしばらく修練場を見ていただけで、蒼い顔になって倒れかけたこともあったから。

 その時、おんぶして運んだオリヴェルの体の軽さに、内心、驚いたものだ……。


「…お兄ちゃん……」


 マリーがいつの間にか目を覚ましていた。オヅマの袖を力なく引っ張っている。


「マリー、大丈夫か?」


 オヅマが手を握りしめると、マリーは頷いて、切れ切れに言った。


「大…丈夫…だ…から。私は…お母…さ…いなく…ても。オリ……は、お…か…さん…いない…から……寂し……から……私は…お兄…ちゃ……いる……から」


 オヅマの脳裏に、ぶわっとの記憶が襲った。



 有り得ない

 成長したマリーの、傷ついた姿。

 痩せこけ、骨と皮だけになった腕。

 それでも最期までオヅマを信じて、オヅマに心配かけまいと…笑って………。



「…マリー……」


 オヅマは再び意識をなくしたマリーの手をギュッと握りしめながら、突っ伏して泣いた。

 どうしてこの妹は、、どんなに自分が苦しくとも、誰かのためになろうとするのだろう。……


 その様子を見ていたカールは兄妹に深く頭を下げ、小屋から出て行った。

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