第十四話 紅熱病

紅熱こうねつびょうです」


 最初に倒れた馬丁ばていを診察した医者は言った。

 紅熱病はこの十数年の間に、帝都とその近郊において度々流行した伝染病だった。

 高熱が出て、舌や喉が赤く腫れる。白い肌の人間などは、全身が赤くなることもあった。さほどに長引く病気ではなく、三日から五日間ほど適切な看護を受けて静養すれば、症状は落ち着いた。ただ、元から病弱であったり、年老いた人間がかかると、時に死に至ることもあった。


 病名が判明した段階で、高熱を出していた者が四名。喉の痛みや咳などの症状を訴えた者が十名いた。

 ヴァルナルは早速、この病への対策を講じた。


「無症状の者は家に戻って休ませろ。ただし、体調の変化にはくれぐれも留意して、家族や周囲の人間との接触を極力減らし、伝染うつすことのないように厳命しておけ」


 その上で、領内において流行が起きた場合に備えて、主家 しゅけであるグレヴィリウス公爵家に医者の派遣を要請する。

 帝都から遠く離れたレーゲンブルトにおいて、この病はまだ未知のものだった。一気に広がる可能性がある。


 春の種植えの時期にかかってくれば、収穫量にも関わってくる。

 雪解けの豊富な栄養を含んだ水は、この短い期間にしか流れてこない。

 この時期に種を植えて、成長させることで、作物は十分な栄養によって強くなり、夏に突発的に起こる冷颪ひやおろしにも耐えうる力をつけるのだ。


「困ったことになりましたね」


 発病者の名簿をみて嘆息するヴァルナルに、カールが声をかける。

 ヴァルナルのめいで、公爵本邸に行き、先程、戻ってきたところだった。

 公爵からの手紙を読んで、ヴァルナルはほっと一息つく。


「よかった。公爵様がすぐにも医者を派遣して下さるようだ」

「えぇ。領主様からの手紙を読んでいる間にも、補佐官にただちに医者を選出するように命じておられました」

「む。そうしたことでは、行動が早くて助かる」

「騎士団の人間はほとんど罹患りかんしたことがあるので、大丈夫だと思われます。ただ、オヅマはこちらの人間ですので、もし症状の出た場合には必ず休むように言っておきました」


 紅熱病は一度罹患すれば、かかることはほとんどない。あっても症状は軽い。


「とりあえず領主館の中で収まればいいのだが……」


 ヴァルナルは溜息をついた。

 一年のうちの数ヶ月、領地に戻るこの時期は、色々と仕事は忙しくとも、精神的にはゆっくりできる、ヴァルナルにとってはいい休養期間なのに、今年はそうでもなさそうだ。

 その上でますますヴァルナルを悩ますことになったのが、一人息子であるオリヴェルが紅熱病に感染したことだった。





 オリヴェルはその日、喉の痛みで目が覚めた。

 しかしそのことを言わなかったのは、その日に洗顔のたらいを持ってきたのが見慣れない女中だったのもあるし、そうした体調の変化について毎日必ず聞いてくるアントンソン夫人がやって来なかったのもある。

 理由はマリーがやって来て教えてくれた。


「なんだか病気がいっぱい流行はやってるんだって」

「病気が…? じゃあ、みんな病気になってしまったってこと?」

「みんなじゃないよ。私もお母さんもお兄ちゃんも元気だよ。それとえっとパウルお爺さんも、ヘルカお婆さんも元気だけど、もう年取ってるから、病気になったら大変だから、東の塔には行っちゃいけない…って」

「東塔に? どうして?」

「えっと、病気になった人達はそこで寝てるの」

「あぁ…そう」


 東塔は領主館から少し離れた場所にある。

 元は兵舎兼見張りの塔だったが、それは戦時のことで、当時に比べて領地における兵員は大幅に縮小され、必要がなくなって、ほぼ放置されている。

 今では時々、騎士達が最上部の見張り部屋までどれだけ早く行けるか競争するのに使用されるくらいだが、この事はオリヴェルも知らない。


「じゃあ、アントンソン夫人も病気なのか」

「うん。昨日はまだそんなに多くなかったのに、今日になったらあっという間に増えちゃったみたい。まだ病気になっていない人で、家に帰れる人は帰っちゃったし。だから、今とっても人が少なくなってるんだよ」

「そっか。でも、そのおかげで見つかりにくくなっていいや」


 オリヴェルはそう言っていたずらっぽく笑った。

 マリーもニコ、と笑う。

 二人は午後の時間を誰に邪魔されることもなくゆっくりと過ごしたのだが、そろそろ帰ろうという時間になって、マリーはオリヴェルの顔色が良くないことに気付いた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。いつものことだ。……少し寝ればすぐに戻るから」


 言っている間にも、オリヴェルは頭痛がひどくなってきていた。

 本当はマリーと遊び始めたときから、喉の痛みが朝よりもはっきりと痛くなってきていたし、手や首を動かすのもだるかった。

 それでもネストリが帰ってきてから、なにかと部屋を訪ねてきたりして、あまり落ち着いてマリーと話することもなかったので、久しぶりに満喫まんきつしたかったのだ。


「大丈夫だから、行って」


 オリヴェルはバルコニーを開けてマリーを押し出そうとしたが、窓を開けた途端に吹き付けた冷たい風にゾクリと悪寒が走った。ふっと、視界が揺らぐ。

 オリヴェルはゆっくりと膝から崩れ落ちるように倒れた。


「オリヴェル!」


 マリーは叫んだが、オリヴェルはその時には蒼白の顔になって震えるばかりだった。


「オリヴェル! オリヴェル!!」


 マリーは何度も叫んだ。けれどオリヴェルは気を失ったままだ。


「誰か……」


 言いかけてマリーはためらった。

 誰かを呼べば、自分がオリヴェルの部屋に無断で来ていたことがバレてしまう。そうなれば、領主館から追い出される。



 ―――――いいな。俺らだけの秘密だからな。



 オヅマの言葉が脳裏によぎる。

 しかし、マリーの選択は早かった。

 立ち上がって、オリヴェルの部屋の扉を開ける。廊下に出ると、階下に向かって大声で叫んだ。


「誰かッ! 誰か来てーっ! オリヴェルが死んじゃう!」





 その声を聞きつけてやって来た女中のナンヌと従僕のロジオーノは、マリーの襟首を鷲掴みして、容赦なく何度も頬をつネストリの姿に言葉をなくした。


「あ…ど、どうしたんです?」


 ロジオーノが声をかけると、ネストリは苛立たしそうに睨みつけた後、マリーを襤褸ボロ布のように壁に向かって放り投げた。

 ナンヌが駆け寄ると、マリーは真っ赤に頬を腫らし、涙を流す緑の瞳はどこか虚ろだった。


「そのガキを折檻せっかん部屋に入れておけ!」


 ネストリが怒りもあらわに命令する。

 ロジオーノはマリーとネストリの間に割って入り、おろおろと問いかける。


「一体、何があったのです? さっき、叫んでいたのはマリーでは?」

「そうだ! このガキ、やっぱり若君の部屋に入り込んでいたのだ。まったく、思った通りだ! だから私はこんな紹介状もない小作人こさくにん風情ふぜいの親子を館に雇い入れるなど反対していたのに!」

「しかし…あの、さっきマリーはその…お坊ちゃんのことを言っていたのじゃあ……」


 ネストリは乱れた前髪と、襟を整えながら、ロジオーノがそれ以上言うのを制止した。


「若君には私がと言い含めておく。お前達はとっとと、この汚らしいガキを折檻部屋へ連れて行って、牢に閉じ籠めておくように。いいな、ロジオーノ!」


 ナンヌはロジオーノをじっと見つめた。

 ロジオーノは肩をすくめて軽く首を振ると、マリーを抱き上げる。

 何があったのかは定かでないが、執事の言うことにはとりあえず従わねばならない。


 ネストリは二人が去った後で、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

 ようやくあの親子を排除できそうだ。まったく、自分の許可もなく雇う人間など、やはり礼儀もなっていない愚蒙ぐもうの輩だ。

 ドアをコツコツとノックする。

 返事はない。

 ネストリはフン、と鼻をならして、


「ネストリでございます。入らせていただきますよ」


と、ドアを開けた。

 開け放たれたバルコニーの窓際で倒れているオリヴェルを見つけて、驚嘆したネストリが腰を抜かすのに数秒もかからなかった。


 館は一気に騒然となった。


 医者によってオリヴェルが紅熱病に罹患したことが診断されると、その看護を誰がするのかということが問題になった。


 普段からオリヴェル付きの女中やアントンソン夫人は既に発症して東塔で療養中であった。その他の女中といっても、レーゲンブルトから出たことのない、紅熱病に罹ったことのない者では、いずれ発症して世話できない可能性がある。


 ヴァルナルは屋敷にいた使用人に過去に紅熱病に罹患りかんした者がいないかを調べさせた。

 一人だけ見つかった。

 彼女はかつて帝都にいたらしく、罹患した経験があったのだ。


 ヴァルナルはその者を執務室に呼んで話をしていたが、ちょうどその時に飛び込んできたのがオヅマだった。


「領主様ッ」

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