第八話 執事ネストリ

 領主館に来て、もうすぐ一月ひとつきになろうとしていた。


 オヅマは仕事にも慣れて、他の使用人や騎士達ともすっかり打ち解けていたが、ある日、信じられない光景を目にする。





 バシッと鈍い音がして、怒鳴り声が響いた。


「こんなところまで来るとは、何を考えているのだ、貴様ッ!!」


 メソメソと泣く声にオヅマはすぐにそれがマリーだと気付き、走って向かう。

 角を曲がって、ようやく姿を確認すると、泣いて床に倒れたマリーの前には領主館の執事であるネストリが、今しも足を上げて蹴りつける寸前だった。

 オヅマが加速してマリーを庇ったと同時に、ネストリの革靴がオヅマの顔にめりこむ。


「……ッ貴様……!!」

 

 ネストリは急に現れた人影に驚いたが、それがオヅマだとわかるとフンと鼻をならして、軽蔑もあらわに見下した。


「お前も、何用でここに来た?」

「俺は…」

「僕は!」


 ネストリが嫌味ったらしく訂正する。

 オヅマはグッと苛立ちを呑み込んだ。


「僕は…マリーの声が聞こえたから」

「つまり声が聞こえるような場所にいたということだな。こちらのむねには入るなと、聞いてなかったのか?」


 ネストリはじっとりとした目で、オヅマを睥睨へいげいする。


 確かにこの先に続く棟には近づかないようにと釘をさされてはいた。だが、ここはまだ禁止されていた場所ではなく、中間地点だ。


「そんなこと言ったって、兵舎にはこの廊下をいつも通ってて…」


 ネストリは手を振り上げると、当たり前のようにオヅマを殴った。


「口答えは許さない」


 言いながら、殴った手にフッと息を吹きかける。いかにも汚いものを触ったかのように。


「貴様らごとき、領主様の御厚意でここにいるということを忘れるな。貴様らを追い出すなど訳もないのだ」


 そのままネストリはオヅマの反論を聞くこともなく、その棟の奥へと向かっていった。


「大丈夫か?」


 オヅマはマリーを立ち上がらせると、軽く服についたほこりを払った。


「私…あのおじさん嫌い」


 マリーがポツリとこぼす。オヅマは妹が案外と怯えた様子もなく、むくれて言うのを聞いて、安心したように笑った。


「そうだな。俺も嫌いだ」


 ネストリは基本的には優しい人の多い領主館にあって、極めて異質な人物だった。 

 彼は多くの使用人と違い、この地方の出身者ではなかった。

 元は公爵家の従僕じゅうぼくであったらしく、そのことに誇りを持つあまりに他の使用人を下に見ているきらいがあり、正直、領主館のほとんどの使用人から好かれていなかった。


 ヴァルナルは時々ネストリのその堅苦しいまでの態度に苦言を呈したが、自分の主家しゅけたる公爵家からわざわざ派出はしゅつされてきたので、強くは言えなかった。


 ダークブロンドの硬質な髪にオイルを塗ってすべて後ろになでつけ、皺一つない執事服に身を包み、表情を崩すことなく使用人に的確な指示を与える。

 そつなく領主館の雑事をこなすネストリは、一見すると理想的な執事であった。

 だが、緑灰の瞳はいつも酷薄な光を浮かべていた。


 彼のオヅマ達一家に対する態度は、他の使用人に比べてもひときわとげのある厳しいものだった。

 それは彼の承諾を得ずに、ヴァルナルが雇用を決めてしまったことが主な理由で、通常、使用人の人事は執事が行い、主人は執事からの意見をもって雇用の可否を決める。(一般においてはそれすらも形骸化けいがいかしていて、主人は執事からの人物調査書と紹介文書の内容を概ね聞いて、了解するだけ。)直接、主人が雇用を決定するなど、ネストリからすれば職権侵害であった。

 しかしヴァルナルにそうした前例にった抗議は通じない。彼はネストリの言い分を聞くことはしたが、自分の決定を覆すことはしなかった。ヴァルナルにとっては、ネストリの領分りょうぶんよりも、少年との約束を守ることの方が大事だった。


 だからオヅマ達が領主館を訪れた時、ネストリは仕方なく受け入れるしかなかった。冷たい面をピクリと動かすこともなく、彼はオヅマ達に領主館の扉を開いた。



「でも、なんでこっちに来てたんだ?」


 オヅマは不思議に思った。

 さっきネストリにも言ったように、騎士団の兵舎はこの先にあるので、こちらに来る必要がオヅマにはあるのだが、マリーは来る必要もなかったし、そもそも大人の男が苦手なマリーが、好んで騎士団に行くことはない。


「だって…声が聞こえたの」

「声?」

「男の子が叫んでるみたいな声」

「男の子?」


 オヅマは聞き返して首をひねった。

 ここに自分達以外に子供がいるのだろうか? そんな話は聞いたことがない。


「風の音がどこかに反響してそう聞こえただけだろ?」


 マリーは首をひねった。


「そうかなぁ?」

「とにかく、またゴチャゴチャ言ってくる前に厨房ちゅうぼうに戻っとけよ」


 オヅマはマリーの背を押して、追いやった。

 マリーは釈然しゃくぜんとしないながらも、やはりネストリに怒られたのが、少しばかりこたえたのだろう。チラとだけ禁止された廊下の奥を見てから、小走りに厨房の方へと戻っていった。





 領主館において、一番の早起きはオヅマだった。

 夜明け前から起きて、馬の餌やりをせねばならない。

 朝駆あさがけに行く一刻前(*一時間前)までには済ませておく必要があるのだ。


 本来、それは新米騎士であるフレデリク、アッツオ、ニルス、タネリら四人の役割であったが、オヅマが見習いとはいえ騎士団の末端に加わったことで、彼らの労働は随分と楽になり、四日に一度は誰か一人が長めに眠れるようになった。

(この事は後に副官カールの知るところとなり、彼らは大目玉を食らうことになるのだが)


 例のヘルミ山で見つけた黒角馬くろつのうまも元気に過ごしていた。

 仔馬は時々騎士達も乗っているようだったが、親馬はどうやら人を選ぶらしい。真珠色の毛のメスは気まぐれだったし、オスの方も最初にオヅマが乗った以外ではヴァルナルしか乗せなかった。副官二人も見事に振り落とされると、騎士達は日頃の溜飲りゅういんを少しだけ下げたようだ。


 オヅマはあの時以来、黒角馬に乗ることはしなかった。

 一度、騎士の一人が乗ってみろよとはやしたが、運悪く、ちょうど背後に立っていた副官パシリコにしっかり聞きつけられ、その騎士は即座に拳骨の制裁を受けた。


「オヅマ。言っておくがな、お前が見つけたとはいえ、この馬達は既に領主様の馬だ。勝手に乗ることは許さないぞ。もし勝手に乗って、馬の脚が折れるようなことがあれば、即座にお前の首は胴から離れることになる」


 馬は重要な乗り物だった。

 それは貴族でない平民であっても、持っていればその一頭の働きだけで家族四人を養ってくれるくらい、大事なものだった。まして騎士の乗る軍馬ともなれば、その価値はの命では代償がきかない。


「はい!」


 オヅマが返事すると、パシリコは少し言い過ぎたと思ったのか、ポンと軽く頭を叩く。


「領主様もいい馬が手に入ったとお喜びだ。また今度ヘルミ山に行って、新たな黒角馬を捕らえたら、公爵様にも献上する予定だからな。お前、しっかり世話をしてくれ」


 その数日後には、また新たに十頭の黒角馬が捕獲された。

 無論、オヅマが例の馬の耳と角の間のツボを教えたのも役に立ったのであろうが、元々、良質な野生馬を捕らえて繁殖させることは騎士団の仕事の一環でもあった。

 多少風変わりな馬であったとしても、馬である以上、さほど大きく性質は変わらないらしく、一度経験してしまえば捕獲作業は慣れたものだった。


「おはよう」


 ヴァルナルはやってくると、必ずオヅマにも挨拶してくれる。

 そうして今から乗る最初に捕らえた黒角馬(この馬はシェンスと名付けられた)の腹をやさしく撫でてから、ヒラリとまたがる。


「では、行くぞ」


 オヅマは騎士団が一斉に馬に乗り走り出す光景を見送りながら、いつもあの日のことを思い出していた。

 領主館から出て、寝静まった街中を静かに行進し、古く城塞都市であった名残の城門を抜ける。そこから騎馬の足並みは早まり、なだらかに続く丘陵を超えたその中途で、一旦行進が止まる。


 整然と並ぶ騎馬の列。

 畑の向こう、遠く見えるグァルデリ山脈の間から昇る太陽。

 何の号令もなく、騎士達はその曙光しょこうに礼拝する。


 あの荘厳で美しい戦列の中に自分が騎乗してたたずむ姿を想像するたび、オヅマは背筋がゾクゾクした。

 早く大きくなりたい、と切実に思う。


 騎士団が朝駆けに行った後は、残った黒角馬達のグルーミングを行いながら体調を観察する。

 どの馬も食欲があり、便の状態も問題なかった。

 馬の中には神経質なのもいて、環境変化で腹を下す馬などもいるらしいが、この種の馬は図太いようだ。

 もっとも黒角馬にしてみれば、厳しい環境下であるヘルミ山に比べると、毎日食うに困らず、のんびりと柔らかい土の上を歩いて過ごす方が居心地がいいのかもしれない。

 今日も長いたてがみをブラシで丁寧にいた後、編み込んでいたら、不意に子供の叫び声が風にのって、うっすら聞こえてきた。


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