第九話 悲しい叫び

「……?」


 オヅマは手を止めて、しばらく耳を澄ませた。

 早朝の忙しい気配の中に響く、異質な声。


 はっきりとではなかったが、確かに甲高かんだかい子供の声がした。


 しばらく考えてからオヅマは歩き出した。

 幸いにも騎士団が出て行った後の兵舎周辺は人気ひとけがない。

 例の禁止されている棟の、この前マリーが殴られた廊下のところまで来ると、はっきりと子供の叫び声が聞こえた。


 ひどく悲しくて不安をかきたてる。

 いったい、誰がどうしてあんな声を上げているのだろう?


 素早く辺りを見回す。

 いくつかの柱や窪んだ壁を確認してから、気配を殺して歩きつつ、誰か来たら瞬時に身を隠せる場所を転々として近付いていく。


 叫び声は途中で止まった。

 代わりに聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてくる。


「いい加減になさいまし! そのように泣いてどうなるものでもございませぬぞ!!」


 ネストリだった。

 苛立たしげで耳障りな声。階段の上から聞こえてくる。


 深い臙脂色えんじいろの絨毯が敷き詰められた人気のない階段の上を見上げていると、バタンと乱暴にドアを閉める音がした。

 オヅマはあわてて階段下に隠れた。

 すると先客が声を上げそうになって、あわてて口を手で押さえている。


「………マリー」


 オヅマは小声で言ってから、口を閉じた。

 足音も荒々しく降りてくる音が頭上で響く。

 二人で息を潜めていると、足音はだんだんと遠ざかっていった。


 マリーが出て行こうとするのをオヅマは止めた。

 もう一度、周囲の気配を探る。


 全身にピリピリとしびれにも似た刺激がはしる。

 周囲の音や、ささいな空気の流れさえも感じ取ろうと、新たな感覚が神経の糸を伸ばしていこうとする。……


 そばで見ていたマリーは、兄がいきなり不気味な生き物になったように見えて、思わず腕を掴んだ。


「……お兄ちゃん」


 不意に遮られて、オヅマは我に返る。

 心配そうなマリーを見て、少し顔をこわばらせながらも微笑んだ。


「どうした?」

「……なんかヘンよ」

「え? あぁ…いや」


 そう言われると、自分でもおかしかった。

 周辺の音を耳以外の全身で感じ取るなんてことは、騎士でも相当に訓練を積んだ高位の者しかできない。

 どうして自分にそんなことができるなんて思ったのだろう……?

 騎士になりたいと思うあまりに、すっかりその気になってるみたいだ。


 オヅマは安心させるようにマリーの手を握りしめ、耳を澄ませた。

 気配がないのを確認した上で、ひょっこりと頭を出してキョロキョロと確認する。

 誰もいないことが確実であるとわかってから、そっと階段下から出た。


「お前、戻っておけよ」


 小声で叱ってマリーの肩を押すと、マリーはプゥとふくれっ面になった。


「わたしが先に聞いたんだもん」

「そういう問題じゃ…」


 言っていると、階上からまた悲しげな声が響く。

 今度は叫んでいるというより、泣いているようだった。


 マリーは大股でタッタと階段を上がっていく。絨毯が敷かれていたお陰で、体の軽いマリーの足音は響かない。

 オヅマはあわてて後に続いた。

 二階は案外と部屋が少ないようで、ドアは三つしかなかった。声は廊下の右奥のドアから聞こえてくる。

 もう一度オヅマは辺りの気配を探ったが、働いている大人はいないようだ。

 だがマリーは頓着とんちゃくせずに手前のドアに耳をあてて首を振り、奥のドアへと近寄っていく。


「おい、マリー…待て」


 オヅマが止めるよりも早く、マリーはそのドアから声がするとわかった途端にキィと開いた。


 その部屋からは変な匂いがした。嗅いだことのない、喉が少しせるような感じになる匂い。臭くて鼻が曲がるというのでもないが、かといっていい匂いでもない。

 大きな窓には、重たそうなカーテンがかかっていた。わずかな隙間からの光と、ベッド横のサイドテーブルに置かれたランプだけが、暗がりの部屋の中にいる人の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 天蓋てんがいのあるベッドの上で、男の子が突っ伏して泣いている。

 マリーはベッドの側まで寄ると、そっと声をかけた。


「どうしたの?」


 その声にびくっと震えて、男の子は顔を上げた。

 ヴァルナルと同じ赤銅色しゃくどういろの髪。青みがかった灰色グレーの目。

 怯えを浮かべながらも、その目は興味深そうにマリーを見つめていた。


「………………………誰?」


 長い間、黙ったまま観察した後、彼は問うた。


「私はマリーよ」


 オヅマはこういう時の妹の度胸にあきれつつ感心した。

 よくにっこり笑いながら挨拶できるものだ。

 こちらは招かれたわけでもなく、ここに来ることを許されてもいないのに。


「マリー……?」


 彼がつぶやくと、マリーは矢継ぎ早に質問した。


「ねぇ、どうして泣いてるの? どうしてさっきまで叫んでいたの? ネストリさんに怒られてたけど大丈夫? あの人、怖くない?」

「おい、マリー」


 オヅマが声をかけると、彼はそれまで暗がりに静かに立っていたオヅマに気付いていなかったのか、ヒッと短く喉をならして後ずさった。


「あっ、ごめんなさい。お兄ちゃんなの」


 マリーがあわてて言うと、ジロジロとオヅマを見ながらつぶやく。


「お…兄…ちゃん……?」 

「俺は、オヅマって言うんだ。勝手に入ってごめん。なんか叫んでるのが聞こえてきたから気になって…」

「君達は…この館にいる人?」


 男の子は少しだけオヅマ達の方に寄った。


「うん。そう。領主様に来ていいよ、って言われて来たの」


 マリーがとても簡単な説明をすると、男の子は意外そうに聞き返した。


「父上が?」


 オヅマはこの時になってようやく、自分達がネストリに怒られた理由がわかった。


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