第5話 初恋

 玄関のチャイムが鳴った。

 午後二時、,直との約束の時間だ。

 ついに本心を、長年の直への気持ちを打ち明ける日が来た。伊織は緊張マックスである。

 階段を降りようとすると、直の声が聞こえてきた。

「ご結婚、おめでとうございます」

「,ありがとう。直、札幌に行くんだって」

「はい」

「寂しくなるなあ」

 雄太郎が応対に出ている、直は俺の用事で来たのに、と、何故か不機嫌になってしまう。

 雄太郎はコート姿。入籍したばかりの妻・千里の自宅に行くのだろう。


「この部屋、久しぶり」

 変わってない、と直はつぶやいた。

 確かに、ベッドカヴァーが大人っぽくなったくらいで、子供の頃からのデスクも椅子も配置まで同じ。

 直は、かつてのように伊織のベッドの端に腰を下ろす。小学生だった直は今や一八十センチ、自分より二センチ大きいことが伊織はちょっと気に入らない。ふと、前髪を下ろした小学生の直の面影が浮かんだ。

 冷えたスポーツドリンクを一口飲んで、直は、はあ、とため息をついた。

「どうかした?」

 直は伊織に寂しげな笑みを向けた。

「うん。終わったなあ、と思って」

「終わった」

 オウム返しの伊織に、直は、

「初恋が、終わっちゃった」

 しみじみと言う。

 伊織はギクッとなった。

 初恋。

 恋なんて言葉が直の口から飛び出すのを、伊織は初めて聞いた。

 相手はいったい誰? そして終わった、とは。

 沈黙が流れた。直はうつむいたまま、

「俺、園田センパイが、好きだったんだ」

 伊織は、耳を疑った。


「それって、まさか」

 まさかも何も、兄の雄太郎の他に思い当たらない。

「そうだよ。園田雄太郎さんが俺の初恋、大好きだった人」

 伊織は狼狽した。

 ここ十年、直を注意深く見張っててきたつもりで、その結果、恋愛の臭いはないと勝手に決めつけていた。

 甘かった。

 灯台下暗し、とはこのことか。

 直の思い人はこんな近く、同じ屋根の下にいたのだ。

「ヘンだよね、男が好きなんて」

「ンなことない、けど」


 いいなあ、お兄ちゃんがいて。


 直は、兄が欲しかったのではない、雄太郎が兄で、同じ家で暮らせていいな、と言いたかったのか。ただただ雄太郎が気になって、好意と恋情の境が判らぬままに、いつもそばにいたいと、弟になれば、いっしょに暮らせると思ったのか。

「じゃ、テニス部に入ったのも」

「そうだよ、他に近づく方法がないだろ」

 中一の大会は嬉しかった、と、直は目を輝かせた。

「初心者の俺をペアの相手に選んでくれて、厳しかったけど泣きながらついていったし、そんな自分を先輩は認めてくれた。

 一回戦しか勝てなかったけど、よくやったって肩を抱いてくれて。一生の思い出だよ」

 のろけ話を聞かされたようで、伊織は嫉妬でどうにかなりそうだ。


「S高に行ったたのも、アニキのためか」

「もちろん。クラブ引退後は寝る間も惜しんで勉強したよ」

 好きな人と同じ高校に行きたくて、それであんなに頑張れたんだ。俺にはできない芸当だ。

「でも、高校に入ったとたん、失恋だよ」

 雄太郎は既に、同じテニス部の千里と付き合っていて、誰かが入り込む隙ははかった。

 それでもダブルスの相手に選ばれ、県大会の準決勝まで進めて嬉しかった、と直は言う。

 雄太郎は結婚し、完全に失恋。

「悲しいけど、きっぱりあきらめる。先輩と後輩に戻って、つきあっていくしかないよね」

 薄く微笑む直の横顔を、伊織は無言で見つめた。「ごめん、自分のことばっかで」

 伊織の話はなんだったの、と直は訊いたが、伊織は何も言えなくなってしまった。







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