声と蛍4

 そんな太一の姿に気が付いた私の体は勝手に動き出していた。立ち上がり一歩二歩とまるで蛍火のように淡い光に包まれた彼へ近づいた。


「来てくれてありがとう」


 近くにいるのにどこか遠く儚い声だったけど、それは紛れもなく聞き慣れた太一の声だった。声を聞いただけで――いや、その姿をもう一度見れただけで泪の勢いは増す。きっと私の顔は酷いものになってたかもしれない。でもそんな事を気にする余裕は今の私には無い。


「太一……」


 言いたいことは沢山あったはずなのに泪と一緒に言葉も流れてしまって何も言えず、私はただ彼に抱き付いた。そんな私を優しく抱き締め返してくれた手が背に触れるのを感じる。

 それから少しの間だけ私たちは抱き合っていた。だけどそれは本当に少しの間だけ。


「ほんとはずっとこうしてたいけど――」


 まだ全然足りないのに。太一の手は言葉が消えていくのに合わせそっと私の背から離れていった。でも私はもう二度と離れたくなくてずっと抱き付いたまま。

 なのに彼の体は私の腕からすり抜けるようにゆっくり上へ、上がり始めた。蛍たちと一緒に夜空へ上っていく。


「やだ……。一緒にいる。もっと……。ずっと一緒に。もう離れたくないよ」


 太一がまた離れてしまう。私はそれを止めようと咄嗟に手を伸ばすが、そんな手とすれ違い彼の両手が私の顔へ伸びてきた。大きくて優しい手が顔を包み込むように頬に触れる。

 そして私の願いを一度だけ叶えるように彼の顔がぐっと近づいた。それから唇に触れる不思議で懐かしい愛と温もり。最後にしたのいつだろう。そんな事を考えながら私は彼の首に腕を回す。

 最初は少し緊張したけどそれからは何度も交わしてきた。何度も何度も。でも彼はいつも短めが好きで私は少しだけ物足りなさを感じてた。たまに少し長めにしてくれる時もあったけど、それでも私はもっとしたかった。

 でも今回は今までの中でも特別に長くて。私が満足するまでずっと触れ合っていた。

 だけど私の心が愛で満ち溢れるとそれを感じ取ったのか彼はゆっくり離れ始める。唇には余韻と物寂しさが残り、回していた腕すらすり抜けた彼はどんどん遠ざかって行った。


「ずっと愛してたよ、双葉」


 私は必死に手を伸ばし何とか彼の手首を掴んだけどタイムリミットを告げるようにゆっくりと滑っていく。手首から掌へ。


「私も――私も愛してる。ずっと……。だから――」


 そして掌から指まで滑り。


「俺が居なくてもちゃんと幸せになるんだぞ」

「やだ……行かないでよ」


 最後は指先が微かに触れ。そして完全に離れ離れになってしまった。


「じゃあ――また」


 太一は私から夜空へ顔を向けると蛍たちと共にずっと上へ、上へ。振り返らずに行ってしまった。

 まだ伸ばしたままの手と止まることのない泪。私はその後ろ姿を見送る事しか出来なかった。


「――さん? ――お姉さん?」


 気が付けば体は揺すられ、女性の声が聞こえた。導かれるように顔を上げると隣ではギターを片手にお姉さんが少し心配そうに私の顔を見ている。私は頭の理解が追いつくより先に夜空を見上げた。でもそこには蛍も太一の姿も無い。


「あの……大丈夫ですか?」


 その言葉に私はお姉さんへ顔を戻した。


「えっ? あっ、はぃ」


 今にも消えそうな声でとりあえず返事をした。


「ならいいですけど。とりあえずこれどうぞ」


 そう言ってお姉さんが差し出したのはハンカチだった。


「何の夢を見てたかは分からないですけど、これで拭いてください」


 私はハンカチを受け取る前に自分の目元に触れた。指先が濡れると自分が酷い顔をしてるんじゃないかって急に恥ずかしくなった。


「あ、ありがとうございます」


 お礼を口にしつつ顔を逸らしながら少し慌て気味でハンカチを受け取った。

 そして泪を拭きながらさっきの夢現なあの出来事を思い出していた。体を抱き締められる感覚も、手の触れる感覚も、キスの感覚でさえ。全てが現実だったと言うように残ってる。でもあれが本当に現実で起きた出来事なのかは分からない。単なる夢だと言うにはあまりにもリアルで、現実だと言うにはあまりにも信じられてない。

 そしてそんな感覚と共に蘇ってきた遠ざかっていく太一の背中。思い出すだけでも、駄々を捏ねる子どものように嫌だって思ってしまう。だけどそう思いながらも心のどこかでは止めることが出来ないことも、もう一緒に居られないことも全部分かってた。むしろ分かっているからこそあの止められない後ろ姿を嫌だと思ったのかもしれない。

 どれだけ切望しようともう太一は居ないし戻らない。私はずっと分かってる。もしあれが私自身が自分に見せた夢だとしても、本当に太一がお別れをしに来てくれた現実だとしてもどちらにしてもちゃんと心のどこかでは分かってるんだ。いつまでもこのままじゃダメだって。目を背けてばかりじゃダメだって。太一のいなくなったこの現実を受け入れて生きていかないといけないって事を。それが太一の望みだって事も。

 それにこの機会を逃したら多分私は一生このまま。周りにも心配をかけ続け、私自身も自分の情けなさが嫌になるだろうし。なにより太一に愛想を尽かされてしまう。それだけは嫌だ。

 だから私は空を見上げた。


『本当は嫌だけど。分かったよ』


 心の中でそう呟いた。でも本当はこの場所に来た時点でちゃんと太一とお別れをしなきゃいけないって分かってたのかも。ここに来た時点である程度の覚悟は出来ていたのかもしれない。だけど最後の一押しが中々、自分では出来なくて。そんな私を見かねた太一が手伝ってくれたのかも。もうあれが夢か現実かなんてどうでもいい。私の中であの出来事があったと分かってればそれでいい。

 そして私が夜空から視線を下ろすと一匹の蛍が私の方へふわふわと飛んできた。そして左手の薬指――指輪の上にゆっくりと止まった。まるで何かを伝えるように長さの違う点滅を繰り返す蛍火。

 まずは第一歩。踏み出せる時に踏み出さないと。

 そう思った私がゆっくり立ち上がるとその蛍は飛び立ち、私が歩き出すと傍をふわり飛んでついて来た。数歩だけ足を進めた私は緩やかに流れる小川の前で立ち止まりその場にしゃがみ込んだ。

 そしてハンカチは膝に乗せ少し震える手を指輪に伸ばす。目を瞑ると太一との想い出が瞼裏に映し出され、私は時間を掛けて指輪を指先へと進めた。これがあればずっと彼と繋がっていられるような気がしてた。まるで赤い糸を可視化してくれてるように。これが今となっては唯一の繋がりだって。

 でも結局これに縛られて――しがみ付いてただけなのかもしれない。だから私はずっと太一の手を離せないでいた。だけどもう……。

 そして思ってたよりもすんなりと外れた指輪と共に目を開き、最後に指輪へと視線を落とす。


「約束だもんね」


 そう小さく呟いて指輪に軽く口づけをした。

 そして私はその指輪を川へと近づけ、蛍はそれに合わせ水面へ。微力ながらも浅く澄んだ水を照らしてくれた。蛍にお礼の笑みを浮かべると冷たい水が手を包み込む。

 私は川底でそっと指輪を手放した。

 これでお別れだと思うと胸が締め付けらる。でもそれでいて心は穏やかで清々しく温かかった。

 少し涙腺が緩みながらも水面から手を出すと蛍は舞い上がり上へ。顔でその姿を追いながら濡れてない方の手でハンカチを手に取り立ち上がった。その間にも見上げた蛍どんどん夜空へ向かって飛んでいく。

 そして淡く儚い蛍火は煌めく星に紛れ消えた。


「これで最後だね。愛してるよ太一」


              ―完―

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