第四章:声と蛍

声と蛍1

 太一が突然いなくなってからの事はあまり覚えてない。飛び出してきてしまった会社やおじさんおばさん、うちの両親に友達への連絡。それからお葬式まで。全てがあっという間だった。うちの両親やおじさんおばさんに手伝って貰いながら色々としたはずなんだけど、まるで抜け殻が勝手にやったみたいに全然覚えてない。

 それからは少しの間、会社がくれた休みを一人家で過ごしていたけど毎日のように哭いてた。毎日じゃなかったけど、両親やお姉ちゃん、おじさんおばさんに友達のみんなが家に来ては私を慰め元気付けようとしてくれたから何とかなった。でももしずっと独りだったらと思うと少し怖い。それほどまでに私は底にいた。暗くて息苦しい、冷たくて怖い――悲しみの底。いや、底なんてない。ずっと落ち続けるだけ。底なし沼のように深く、深海のように暗く冷たい悲しみを。ただ落ち続ける。

 まるで世界から太陽が消えてしまったような気分だった。私は希望のない世界がこんなにも暗い事を初めて知った。双眸から流れ落ちる泪は涸れても心の流す泪は涸れないという事を初めて知った。本当の意味での独りぼっちの夜がこんなにも淋しい事を初めて知った。

 私は自分にとって太一がどれだけ大きな存在かを改めて知った。私は太一と話をして抱き締め合ってキスをする事がどれだけ幸せかを改めて知った。私は太一をどれだけ愛してたかを改めて知った。


「もう一度、会いたい……」


 家に独りでいると淋しさと辛さで身が持たない。そう思った私は会社に戻った。会社のみんなに心配されながらも私はそれから毎日のように必死に仕事をした。忙しさで頭を埋め尽くした。悲嘆の入り込む隙間を無くすように。

 太一と付き合ってから私の世界は色鮮やかになった。蒼穹や虹、花や雨でさえも。私の双眸に映る世界は鮮やかで綺麗だった。でも太一がいなくなってからそれは一変した。毎日が悪天候のように薄暗く、虹や花でさえもモノクロのように見える。私の世界から美しさが消えた。

 長年付き合った最愛の人と結婚し次は結婚式という幸せの真っ只中から太一の病気が見つかって、それでも幸せの中に居たはずなのに。そこから一気に転落した私は泪が涸れても泣いて、泣いて……。心にぽっかりと穴が開いたような――それどころか心が抜き取られたような感覚に襲われ、私の目から光は消えた。分厚い暗雲に覆われ陽光すら差込まず蛍火すらない暗闇。それでいて鉛のように重い心を抱えながら忙しさでそれを誤魔化し私は欠けた日々を過ごしていた。

 あれから一体どれくらい時間が経ったんだろう。そう思う程の時間は過ぎてないのかも。でも彼がこの世を去ってから日付なんてどうでもよくなってそれすら分からない。ただ毎日を作業のように生きているだけ。

 友達や家族のみんなが私を元気づけようと食事や遊びに連れて行ってくれた時はもちろんちゃんと楽しかった。


「アタシめっちゃ水族館行きたいんだけど今度の休み一緒に行かない? 双葉は決定として雫と八重は?」

「何で私は強制なわけ?」

「いーじゃん! それに行きたいでしょ? ペンギン可愛いぞー。それにイルカショーも絶対楽しいし、良く分からない魚もいっぱい! その後、寿司食べよ」

「いや、あんたサイコかよ」

「じょーだんだってば。でもその後の夕食は行くからね。何食べたい?」

「あそこは? 双葉ちゃんか雫ちゃんが言ってたあのお店」

「パスタのお店?」

「そう! そこ」

「いいね! けってーい! じゃあ休みはまた合わせるとして――」


 その時間が心から笑えて楽しいのは嘘じゃない。みんなと一緒に居るのはいつだって楽しい。

 だけどやっぱりどこか心の欠けた部分がチラつく。それに家に帰ればやっぱり太一が恋しくなる。彼の好きだった本や映画を見てみたり、彼の好きだった音楽を聞いてみたり、薬指で光る指輪を眺めてみたり、寝る時たまに太一がよく着ていたシャツを抱きかかえたり。でもどうしても満たされない。夢で太一を見る事も(私の元から太一が去っていく嫌な夢ばかり)、目が覚めれば泪で枕が湿ってる事も珍しくない。このままじゃいけないって分かっていても心では太一を求めてしまう。私の名前を呼ぶ彼の声を、抱き合った時の彼の温もりを、キスをした時の彼の唇を。私はずっと大宮太一が恋しくてたまらない。

 でも太一を想えば想う程、もう彼がいないという現実が襲い掛かってくる。私は独りぼっちなんだって思わされる。どれだけそうじゃないって思っても現実は変わらない。私はいて、太一はいない。どれだけそれを非難しようと怒りをぶつけようとも変わらない事実としてそれは私に襲い掛かった。


「淋しいのは分かるけど、アンタがどれだけあの子を求めてもあの子を恋しがっても何も変わらないわよ。アンタの中にはいても、もうここにはいない。遅かれ早かれアンタはあの子の死を乗り越えないといけなくなる。アンタがそうしてる間にもどんどん歳は取っていくんだよ? そうやって独りで年老いていくアンタをあの子は見たいと思う? そろそろ乗り越えないと」


 あれから頻繁にうちにやってくる(泊まることも屡々)お姉ちゃんは私にそう言った。それは私も分かってる。このままじゃ駄目だって。でもそれを中々変える事は出来なかった。

 そんなただ生きているだけの日々を送っていたある日、心はまだ出来なくてもまずは物だけでも少しだけ整理をしようと入院してた時の彼の物が入っているバッグを開けた。特別何かが入ってる訳じゃないけど開けた瞬間、彼の匂いがした――気がした。物凄く近くに太一を感じ少し瞳が潤む。

 でもそんな気持ちをグッと堪え、一つずつ物を出していった。色々と出していると一冊の本に手が止まる。それは彼が読み切れなかった最後の本。


「空を泳ぐ夢鯨と僕らの夢」


 題名をぼそりと声に出しながら表紙を撫でる。それは読み終わった後にやる彼の癖だった。私は少しだけ表紙をぼーっと眺めると中を見てみようとパラパラ捲り始めようとした。

 だけど真ん中辺りに何かが挟まっているのに気が付き、真っ先に出来たその隙間を開いてみる。そこには白い手紙が挟まっていた。小首を傾げながらその手紙を取り出し本は傍へ。

 白い封筒には彼の字で名前が書かれていた。


『双葉へ』


 その手書きの字から感じる太一の存在にさっきよりもより一層目頭が熱くなり始めた。

 そして焦るように封を切ると中の手紙を取り出す。そこには白い便箋いっぱいに太一の文字が綴られていた。彼の想いと言葉が広がっていた。

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