夏の終わり6

「ご主人の脳腫瘍は少しずつ大きくなってきています。もしこのまま治療の効果がみられなければ――」


 それはお見舞いに行ったある日の事。太一が眠っている間、病室に来た先生に呼ばれた私はそう告げられた。太一の状態は良くないらしい。もう少しだけ様子を見てみるがもしもの場合も覚悟しておいてほしいと。それとこの事を太一には先生から伝えるかどうかも訊かれた。最初は私から伝えようかと思ったが、伝えられる気がしなくて先生に頼んだ。

 私はどう受け取ればいいか分からないまま病室に戻るとまだ眠ったままの太一の傍に腰を下ろした。まだそうと決まった訳じゃないが、その可能性は高い。私は目の前で穏やかに眠っている太一を見ながら掛け布団から出した彼の手を握った。そして彼の顔見ていると自然に溢れてきた泪を拭うと須臾の間、手を握りしめたまま彼の胸に顔を寄りかからせた。聞こえる鼓動、伝わる体温、香る匂い。その全てが私の中にある大きく膨れ上がった不安を落ち着かせ、安心感を温もりのように広げてくれた。大丈夫、きっと大丈夫。それを感じながら私はそう心の中で唱えるように呟いた。

 それから徐々に太一は辛そうにしてる日が増えた。何も無くてもぼーっとしてたり、苦痛に必死で耐えたり。たまに泣いてる事もあった。ある日、病室に入ろうとした私は中から聞こえた声に少しだけドアを開けて中を覗いた。太一はベッドで一人泣いてて、私はその姿に病室へ入る事が出来なかった。だからドアを閉め少し時間を置いてからいつも通り病室へ。太一もそんな私を何事も無かったかのように迎えた。でも毎回そうだった訳じゃない。私が居る時に堪え切れなかったのか自然と流れたのか泪を零す時もあった。その時は泪を拭い抱き締めてあげる。そんな私の胸の中でただ泣くこともあれば不安を零す時もある。いつもは平気そうだけどたまにそういう姿を見せる時があった。だけどそれは一人の時か私が一緒の時だけ。他の人の前ではその姿を見せる事は無かったから、みんな太一は気を強く持って頑張ってるんだと思ってた。そうじゃない事を私だけが知ってる。

 でもそんな思いをしながらも彼は常に希望を見据え毎日を乗り切っていたのは事実。もちろんそんな彼に対して私も弱音は吐かずいつも通り全力で支えた。出来るだけ笑顔を浮かべ彼に触れ、一緒の時間を大切にした。特に調子が良い日はより一層その瞬間を大切にし楽しんだ。言葉を交わし、想い出を懐古し、手を握り、抱き合い、キスをする。

 もちろん、彼を支えたのは私だけじゃなくてお見舞いに来てくれるみんなもだ。会える日もあれば会えない日もあるけどみんな時間があれば来てくれる。


「太一に双葉ー。アタシと雫が来たぞー。お土産片手に――」


 それはいつもより調子が良くて、窓から差し込む陽光も心地良い日。ベッドに座り彼に寄り添っていた私たちはいつの間にか流れるようにキスをした。短いキスを何度も。久しぶりで幸せに満たされていた所為かそれについ夢中になってて気が付けば二人が病室に入ってきていた。


「えーっと。あたしたち外で待ってようか?」

「いやいや。続けてどーぞ。待ってるからここで」


 恥ずかしくて少し気まずかったけど幸せな時間だったことは間違いない。そんな風にただただ幸せだけを感じられる時間もちゃんとあった。

 でもやっぱり太一が苦しむのを見る事も少なくなかったし、そんな姿を見るのが私は辛かった。特に目の前で太一が苦しそうにしているのに私は何も出来ずただ見守るしかないのが辛くて仕方ない。手の痺れで絵が描けなくて溜息を零す姿も痛みに耐える姿も何も出来ずぼーっとしてる姿だって。私は自分の無力さを感じてしまう。その痛みを分け合う事も和らげてあげる事も出来ず、ただ時間が過ぎ去るのを待つように彼の苦しみが終わるまで待つしかない。


「それが見守り支える側の苦しみです。奥様もそうやってご主人と一緒に闘っているんです。ですのであまりご自分を責めてはいけません。それに奥様の支えはご主人の力を与えています。何も出来ていない訳ではありませんよ」


 先生はそう言ってくれたが、それでも苦しむ太一を見ているとやっぱり無力さを感じる。

 そして先の見えないこの日々がとても辛く圧し掛かる日もあった。家で一人食事をしてる時、一人ベッドに入る時、朝目覚めても横には誰もいない時。森閑としたリビングで一人ソファに腰掛けている時。酷い孤独感に襲われる時がある。太一にもしもの事があったら私はこうやって独りぼっちになってしまうんだと。そんな事を――太一がいなくなってしまったらなんて想像するだけで、私はどうしようもない恐怖に包み込まれてしまう。冷たく身の毛がよだつような暗闇が内側で広がっていく。

 でもそんな気持ちを忘れる方法がある。それは絵の練習だ。私はあの日から毎日のように練習を続けている。太一もその成長に感心するほどだ。お返しっていう訳じゃないけどあの絵を見せてもらった時に頭に浮かんだ絵を早く描いて太一に見せて反応を見たい。だから絵の練習には集中できたし、そのおかげで少しぐらい嫌な事も忘れられた。

 そうやって私は私なりに乗り越えながらやっていくしかない。一番辛い太一が諦めず頑張っているんだから――いや、もし太一が諦めたとしても私は彼を支え続ける。先がどうなっていようとも私は大宮太一の妻としてその手を離しはしない。辛さが鋭くなればなるほど、それに抗うように私はそう強く決意した。


         * * * * *


 それは私が会社に行ってる時、丁度給湯室で珈琲を入れてた時の事だった。最近、少し仕事が忙しく太一のとこへ二日ほど行けてなくてこの日は久しぶりに(といっても二日ぶりだけど)病院へ行く予定。だから今日は朝から自分でも分かる程にご機嫌だった。

 でも鼻歌なんか歌いながら淹れた珈琲を一口飲もうとしたその時。スマホに呼ばれた私はポケットから取り出すと画面を一度押し耳へ当てた。画面の表示で分かっていたがそれは病院からで相手は先生。何だろうと思いながら電話に出た私は先生の言葉に黙って耳を傾けていた。だけどその言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になり何も返事をしないまま電話を切った。

 そして私はまだ仕事中だというのにそんな事は気にせず(というよりそんな余裕はなかった)会社を飛び出し一心不乱に病院へ。その間、頭の中はさっきの先生の言葉で埋め尽くされ他の何かが入り込む余地はない。そして病院へ駆け込んだ私はすっかり慣れた道順で太一の病室のドアを開けた。

 息を切らしながら騒々しく病室へ入ってきた私へ太一の傍に立つ先生と看護師の視線が同時に向けられる。でも私は気にも留めず真っ先に太一の元へ駆けた。穏やかな表情で目を瞑ったままの太一。


「太一! 太一!」


 私は声を荒げながら何度も彼の名前を呼び体を揺すった。だが太一は目を開かずただ私に揺らされているだけ。


「容体が急変し、手は尽くしましたが……」

「そんなの……。嘘。だって太一はまだ……」


 その表情もただ寝てるだけだし、頬に手を伸ばしてみれば体温を感じる。どっからどう見ても太一はまだ生きてる。いくら先生の言葉とは言え私の頭は必死にそれを否定していた。だがもう片方の手で彼の胸に手を触れたその瞬間、凍り付くような感覚に襲われた。そこにあるはずの生命の声が――口から返事をしてくれなくても絶対に応えてくれるはずのものがそこには存在してなかったから。まるで誰もいない家のように不気味な程に酷く静まり返っていた。

 私は顔をこわばらせながら視線を隣の先生へ。


「残念ながらご主人は、亡くなられてしまいました」


 もう一度、太一へ顔を戻した私はピクリとも動かない彼をじっと見つめた。そして一滴また一滴と屋内だというのに太一に雨が降り注ぎ始める。全身から力が抜け崩れ落ちた私は先生に体を支えられ椅子に座らされた。一気に込み上げきた悲痛に呼吸は何度も突っかかり、紅涙は私の意思とは関係なく溢れ出す。胸は今にもはち切れそうなのに、それでもまだ打ちのめすような感情は止まらない。

 もはや自分と言う人間の主導権を失い私は荒波に弄ばれるだけの船のように太一へ突っ伏しただ慟哭した。ただ溢れるがまま泪を流し声を上げ、圧し潰されそうなほど胸に溜まった感情を少しでも外へ吐き出した。他の事を考える余裕はあるはずもなく一つの行動をするようプログラムされたロボットのようにひたすらに。

 それからは、もうどれくらい泣き続けたかも分からない。


「大宮さん。一度外へ出て落ち着きましょう」


 ただそう言われると私は看護師の手に導かれ立ち上がり一度病室を出た。そして受付傍の待合にあるソファまで寄り添われ行くとそこで腰を下ろした。もう体の水分を全て出し切ったと思えるぐらい流したはずなのにまだ頬を伝う泪。看護師さんは私を座らせると少しして水を持ってきてくれた。小さくお礼を言ってそれを受け取ると一口。その間に看護師さんは隣へ腰を下ろした。

 そして紙コップを手に持ったままの私が人の温もりを求めるように寄り掛かると看護師さんの手が回り優しく抱き締めてくれた。すっかり体は疲れ何も考えられずぼーっとしてるはずなのに、喉に詰まる悲しみと胸に溢れる悲嘆がハッキリとそこにあるのが分かる。そしてそれに呼応するように流れ落ち続ける泪。

 私は未だ自分でも自分をどうにも出来ないでいた。

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