第106話 切り裂き悪魔事件

四章、切り裂き悪魔事件


 ギロリという形容が似合うと思う。刑事はそのするどい瞳で俺を睨みつけた。犯罪者を相手取り萎縮させてきたその眼光は、はじめて会ったその日からひと時も揺らぐことはなかった。今もなお。


 緊張のせいかもしれない。俺の背すじはピンと伸びていて、いつの間にか拳を握り込んでいることに気付く。そっと緩めた手のひらにはじわりと汗をかいていた。


 話があると言った、俺の意を汲んでくれたのだろうか。刑事はチッ、と舌を打つ。

「事件に関係がないなら、いまは無理だ」


 俺の表情からどんな話かを察したのか、刑事はそうはき捨てる。勘も鋭いものだ。さすがは警察だなというべきか。それともメヒの兄弟だなというべきだったか。


「出直せ」

 と刑事は小さなノートを取り出し、殴り書いたメモをちぎっては渡してくる。

 メモにはどこぞの住所が書かれていた。


「喫茶店だ。明日、そこに来い」

 よかった。どうやら話は聞いてもらえるようだと、ほっとひと息つく。安堵したからなのか、すこしは余裕が生まれてきた。メモをペラリとひっくり返して言う。


「メモは警察手帳にしないんですね」

 という俺の言葉は聞こえなかったのか、刑事はもうふり返ることもなくスタスタと去っていった。


 つぎの日、指定された時間よりすこし前に待ちあわせ場所へと向かう。その喫茶店は俺の家からちょっと離れた場所にひっそりと、それはもうひっそりと。隠れるように佇んでいた。入り組んだ道を行かねばたどり着けない隠れ家的な店なのだろうか。


 古民家が並ぶ町並みに見合ったレトロな外観をしていた。見るからに古そうな木のドアは重たい雰囲気で、刑事に呼ばれでもしなければ入ろうとは思わない店構えだ。


 ギッと軋むドアを引き開ける。チリンと軽快なベルが鳴り、一歩踏みだす。恐る恐る中の様子をうかがってみると、ほんのりと薄暗い店内にはカウンター席とテーブル席が数脚。ひとの姿がパラパラとあった。

 そしてなぜか、演歌が流れている。


 カウンターの中のマスターがゆっくりと顔をあげてこちらを向く。そして険しくもするどい眼差しを飛ばした。カウンターに座っていた客もつられるようにくるりと首をこちらに回す。歩みを止めて、このまま逃げだそうかと思った。一見客に向ける眼差しがどうこうとか、学生が生意気にもとかいうような話ではない。こう思ったからだ。

 ここはヤクザの事務所なのか、と。


「いらっしゃい」

 ドスの利いた声でマスターが席を促す。目つきのわるい客はカップを口へと運びながら、射すくめるような視線を俺に向けている。どちらも強面で近寄りがたい。 


「来たか、こっちだ」

 店の入り口で固まっていた俺にテーブル席から声がかかった。手をあげて顔をのぞかせる刑事も負けじと怖い顔をしていたが、今日ほどその顔に安心感をおぼえたことはなかった。駆け足でテーブルに向かう。


 すべてのテーブル席には背の高い衝立てが立ててあり、それぞれ半個室といった風になっている。刑事の真向かいの席にこっそりと隠れるように着席した。


「なんだ、お前のツレか」

 笑ったのか、怒ったのか、わからないような声でカウンター席にいた男が言った。刑事は、この怖い店の常連なのだろうか。

「ええ、まあ。妹の友だちです」

「ああ、そうなのか」


 男はそれっきりで詮索してこなかった。メヒのことを知っているのだろうか。刑事に好きな物を頼めと言われブレンドコーヒーを注文する。ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。刑事がマスターに頭を下げるのを見て俺もペコリと頭を下げる。ちらりと見せた刑事の目は、いつものするどい視線ではない。それははじめて覗かせた刑事の揺らぎだったのかもしれない。


 怪訝な面持ちをしていたかもしれない。目があったら刑事に、なんだと問われた。物珍しいものをみたからだとは言えない。


 刑事の様子は気になるが、この喫茶店の客層も気になる。マスターを筆頭にみんながみんな、街で出くわしたら目を合わさずにすれ違いたくなる風貌をしていた。刑事はこの店でリラックスできるというのか。キョロキョロ周りの様子を伺っていると、フンと笑われてしまった。何だか珍しい。

「ここは警察OBの店でな。客も現職の刑事ばかりだ」

 それはまあ、なんとも。納得だった。


 なんでだろうなと刑事は言うけれど、ここで寛げる猛者はそういないのではないかと思う。もしもいたなら、そのひとはいずれ彼らのご厄介になりそうでさえあった。

「おかげで、話をするのにここほど安全な場所はほかにない。法律にさえ触れてなければの話だがな」


 ゴクリと喉が鳴った。刑事が衝立の位置をすこしいじると、不思議なことにまわりの音がほとんど聞こえなくなってしまった。ここはそういう場所なのではないのだろうかと、思わず勘ぐってしまう。

「それで、話とはなんだ」


 刑事と俺とでは世間話もないだろう。飾ることもせずに、単刀直入に言う。

「メヒになにがあったか教えてください」


 にわかに視線はするどくなる。ジロリともギロリとも鳴りそうな瞳で刑事は問う。

「なにか、とは?」

「全部です。なぜメヒは名を使わないのか。なぜ刑事さんの兄弟としてここで暮らしているのか。なぜ俺に悪魔と名乗ったのか」


 刑事は息をつき、肩をすくめる。どれもがはぐらかされてきた質問ばかりだった。そしてやはり今回も話してはくれないようで、刑事はゆったりとコーヒーを口に含みカチャリと音を立ててカップを置く。

「話はそれだけか?」


 返答しだいではそのまま席を立ってしまいそうだ。俺は苦い顔で歯を食いしばり、それから考えてきた言葉を放つ。

「俺はホームズにはなれません」


 無言のまま、視線だけで促される。

「メヒは俺の目を褒めてくれました。謎を探せる目だと。でもそれだけです。ホームズやメヒのように、そこから推理することが俺には出来そうにないんです」


 我ながら情けない話だと思う。もし俺に名探偵とまでいわなくとも推理力があったなら、メヒの身に何があったかがわかったかもしれない。だがそれでも、そんな俺でも知る方法がないわけではない。


 短く息を吐き、腹にぐっと力をいれる。

「でも訊くことはできます。十九世紀なら探偵に頼らざるを得ないのかもしれませんが、いまは二十一世紀です。化学に、警察に頼れるんです。頼ってもいいはずなんです」

「お前は名探偵は必要ないと、そう言っているのか?」

 目をみて、静かにうなずく。


「頼れる相手がふえたということです」

「まちがっても、アレにそんな話をしてくれるなよ」

 眉間にしわを寄せてつぶやく。


 そうか、刑事もホームズのファンだったなと思いだす。そしてしばしの沈黙。話してくれることを願って、ただただじっと待つ。しかし時間だけが過ぎていった。


 刑事が深く目をつぶるのをみて、やはりダメなのかとため息をつく。しかたがないと、俺の脳裏にはなぜか悪魔のようにほほ笑むメヒの姿がよぎっていた。

「刑事さん。時にメヒは、目をふさがれることを異様に嫌いますよね。肩を震わせ、微動だにせず。異常なほどにです」


 ほんの戯れとして目をふさいだとき、メヒのみせた反応はただごとではなかった。身を固くし、ことが過ぎるのをただじっとおとなしく待っていた。あのときはかける言葉をまちがえたせいだと思っていたが、あの場面。ふり返って確認するのが普通の反応ではなかったかと思う。


 メヒはなぜそうしなかったのだろうか。


「お前はアレの眼を覆ったのか」

 怖い、と思った。いままでの刑事の視線も充分に鋭いものだと思っていたのだが、怒りを持って向けられる視線はそれ以上のものがあった。低く語気を荒げる刑事に、ひと回り小さくなったような感覚を覚えながら首を縦にふった。言葉はでてこない。


「二度とするな」

 思わずうなずきそうになるのを堪えて、その言葉に身を奮い立たせて反論した。

「わかりません。理由がわからなければ、またしてしまうかもしれません」


 たっぷりと時間をかけ、刑事は俺の目をぎろり睨みつける。ヘビに睨まれたカエルはこんな気持ちだろうか。追い詰められたネズミは、よくここから猫を噛みにいけたものだと感心してしまう。


 刑事はふいっと視線を外し、

「慣れない腹芸などするな」

 と、コーヒーに口をつけた。


 お見通しか。さすがだった。

 カップをのぞきながらクルクルと回し、

「お前がアレに影響されてどうする」

 呆れられてしまった。


 面目が立たない。家庭教師としてはあるまじき行為だとわかっていたが、それでも俺は食らいつく。メヒが時折りみせるあの寂しそうな顔の理由を、優しさを持ち合わせているはずなのに悪魔と言った理由を、俺はメヒのことを知りたいのだ。


「刑事さんは俺に家庭教師を頼みました。それはこのままではいけないと思ったからではないんですか。メヒに変わってほしいと願ったからではないんですか!」

 深く頭をさげる。

「お願いします。教えてください」


 返事はなかった。

 刑事は、カチャンと音を鳴らしてカップを置き、コーヒーのおかわりを注文する。マスターはすぐにコーヒーを運んできた。それも二杯。すっかりと冷めてしまっていた俺のコーヒーも、そっと交換してくれる。


 それから刑事の肩をポンと叩いて去っていった。その顔は相変わらず怖いものでありながら、すこし優しくみえた気がした。話が聞こえていたのだろうかと首をかしげていると、刑事は言う。

「安心しろ、話は聞こえてやしない。お前が俺に頭をさげるのをみて、大方察してくれたんだろう。さすがは俺の大先輩だよ」


 誇らしげにカウンターを眺める刑事の横顔をみつめる。お世話になった先輩だったりするのだろうか。マスターの運んでくれた優しさをそっと口に含むと温かく、そしてちょっぴりと甘かった。


 そうしていると、刑事は唐突にむかし話をはじめた。

「昔、あるところに裕福な家庭があった。その一家の大黒柱はある企業の社長でな。それはそれは恵まれた生活を送っていたそうだ。そしてそこに、ひとり娘がいた」


 メヒの話だとすぐにわかる。このむかし話は、刑事なりの照れ隠しなのだと思う。俺の想いが伝わったか。マスターにほだされたからなのかわからないが、黙って聞くことにする。

「その娘はある日、誘拐されてしまった。学校の帰りにうしろから顔を隠され、無理やり連れ去られたそうだ」

「あ……」 


 刑事はちらりと一瞥したが、なにも言及せずにそのままむかし話をつづけた。

「そして犯人グループから身代金の要求があった。家族はそれに応じて、無事に解放されることになる。だがそれ以来、娘は闇を恐れるようになってしまったわけだ」


 のどが渇き、ゴクリとコーヒーを流し込む。トラウマだったのか。目をふさがれた時に見せたあの反応は、被害者だからこそのそれだったというわけだ。


 刑事は口淀む。どうやらむかし話はここまでで終わりらしかった。しかしそれは、些か断片的すぎやしないだろうか。誘拐をされたのだろうし、恐怖も覚えたのだろう。目をふさがれるのを嫌う理由はきっとそこにあるにちがいない。


 だが、それだけだ。ほかの疑問の答えにはなっていない。そして俺の知るメヒは、解放されたからといって済ますような奴でもない。メヒならきっと、どうして飲み込んでしまうんだいと言うにちがいない。


 だったら部分的にとはいえ刑事が話してくれたのは、もう二度とメヒの瞳を覆うことがないようにと、妹に対する素直でない優しさからくるものだったのだろう。


 だがそれは、新たな疑問を生む。これも以前にメヒから教わったことだ。いつでも謎は数珠繋ぎであると。いままでそれを、さんざっぱら見てきていた。


「あのメヒが、誘拐事件をみすみす見逃すとは俺には思えません。解決に向けて全力で首を突っ込もうとするはずです」


 返事はなく、聞いたことのない演歌だけがうっすら耳に届くばかりだった。じっと忍耐強く待つ。しびれを切らし、重たい口がようやく開かれるものの、でてくる言葉ははぐらかす為のものにちがいなかった。

「主犯はすでに服役中だ」

「追い詰めたのは、メヒなんですか?」


 刑事は沈黙を貫く。しかし、その態度もまた気にかかる。ただの気むずかしいひとかとも思うが、それにしてはすこし変だ。 


 そもそも、この妙な店にしてもそう。秘密厳守といえる、刑事にとって信頼できる場所に呼びだしてからの話し合い。メヒのことをむかし話に喩えたりする、やや迂遠ともとれる物言い。語らないのではなく、語れないのではないだろうかという気がする。それは俺が想像した、突拍子もない予想と方向を同じくしたものだった。


 根拠も証拠もなにもない。ただの妄想。思いつきにすぎない。そんなものゲームやマンガの見すぎだと、一笑に付されるだけかもしれない。構うものか、聞いているのは刑事ひとりだけだ。


 口を開くときに母の教えが頭をよぎる。アンタッチャブル。俺はおそらく、触れられたくないだろうものに手をのばそうとしている。構うものか、そうしなければ見えない世界があるのだ。


「メヒは名を『名乗らない』のではなく、『名乗れない』のではないですか?」

 それはメヒの謎を語らない刑事とおなじように、語れない刑事とおなじ理由で。


 刑事は深く目を閉じ、ズッとコーヒーをすする。それは苦さを味わっているのか、それとも思案しているのか。スッと開かれた瞳はやはり鋭いものだった。

「どういう意味だ?」


「メヒが名乗らない理由を考えてみたんです。ごっこ遊び、虚言癖、キラキラネーム、記憶喪失、世を忍ぶ仮の姿、異界の住人」

 刑事の口が横に曲がるのをみて、話す。


「名乗らない理由なら、それこそごまんとあります。でもどれも名乗れない理由にはならない。それも刑事さんが協力してくれるような理由ともなれば、尚更です」

 刺すような鋭い視線がそっと外れた。俺はその視線をきょろりと追いながら言う。


「メヒは名を捨てた。いや、捨てさせられたのではないですか。捨ててしまった名前だからこそ、名乗ることができなくなってしまったのではないでしょうか」


「ハッ、そんなことができるものか」

 とその口調こそ荒唐無稽さを笑ったものだったが、馬鹿にされたり、呆れられているような気はまるでしなかった。


「普通では無理だと思います。親の再婚や、離婚で変わるのは名字だけですから。最近じゃあ、キラキラネームやDQNネームで改名も有りえないことではないそうですが、本人の同意なしには難しいはずです」


「調べたのか」

 刑事の問いにこくりとうなずく。もしやと思い、名前を変える方法。名前を捨てざるを得ない状況を調べていくなかにひとつ。これはどうかと思うものがあった。それはまるで馴染みがなく、とても現実的と思えないものだったが、刑事の話を訊いていく内にふつふつと確信へと変わっていった。


「調べてみたら、世界には証人保護プログラムというものがあると知りました。メヒはそれの適用者。名前を、戸籍を変えて、刑事さんの下で保護されていたのではないですか?」


 証人保護プログラム。証言により不利益を被る人物からの返り討ちや暗殺を防ぐ、身辺保護のために取られる制度のことだ。それはときに名を変え、戸籍を変えることもあると聞く。そして、捨てた名前を名乗ることはおそらく許されるものではない。


 腕にグッと力が入り、身をググッと乗りだしまっすぐ刑事をみつめた。これでもまだ話してくれない気だろうか。鋭い眼光に気圧されて目を逸らしてしまいそうになる。いままでの俺なら諦めて飲み込んでいた。だが、いまはちがうと粘る。


 目も乾きはじめたころに、刑事は大きく息をついてガシガシと頭を掻いた。ぐるりと周りを見渡してから、俺を射すくめる。

「これをどう取るかは、お前の勝手だが」

 という前置きで話しだす。


 話されるのはさっきのむかし話だった。

「その娘の父親はたいそうな野心家でな。金も地位も手に入れた男が、つぎに手にしようとする物がなにかわかるか?」


 金も地位もない高校生に訊かれても困るような質問だが、ふむ、と唸って考える。頭に浮かぶのはじつに平々凡々な言葉だ。

「名誉ですか」

「だといいんだがな」 


 困った顔をみせる。職業柄、そうでないひと達とばかり関わってきたであろう刑事は断言してみせた。

「権力だ」


 ひとを服従させて支配する力。程度の差こそあれ、求めないとするひとは居ない。たとえメヒの親がそうだったとしても責められたものではないはずだった。への字に曲がった俺の口を、刑事はつまらなそうに視界の端にとらえた。


「その父親が求めた権力はそこいらのものではなく、裏でも使うことのできうる暴力的な権力だった。社長になれるくらいだ、もともと才覚があったんだろうな。とある犯罪組織の幹部までのしあがっていった」

「え。ちょっ、ちょっと待ってください。……犯罪組織ですか?」


 声を抑えたつもりではあるが周りは刑事だらけ。ふと心配になり、きょろきょろと首を回すもののだれも気にしている様子はなかった。どうやら音が漏れないというのは本当のことらしい。

 刑事はおれの問いなどまるでなかったことのように、表情を変えず淡々と語る。


「そしてその娘はあいにくと聡明だった。その娘の前では秘め事は意味をなさず、話し、語る。緑の悪魔と恐れられてしまうほどにな。それを父親はきらったんだろう」


 ざわりと嫌な予感が頭をよぎる。さっき飲んだコーヒーのせいだろうか、口の中は苦い味がじわりと広がっていく。

「裏の大仕事を目前に控えたある日、その娘は誘拐事件にあってしまう。無事に解放されたころには、父親はさらなる権力を手にしていたことだろう」

「それは──」


 突如の展開に動揺する俺を待つように、刑事はゆっくりカップを持ち上げた。俺も落ち着こう思い、コーヒーをのどへと流し込む。あわてたせいか、すこし火傷した。


 そのおかげか、ちょっと冷静になれた。しかしだ。刑事の話が真実ならば、メヒを誘拐したのは父親ということになってしまうのではないか? そんなおかしな事があるのだろうかと考えてみる。


 緑の悪魔。いったいだれが呼んだのか、父親が知らないはずはない。その大仕事がメヒに露見することを恐れ、文字通りに目を塞ぐために娘の誘拐を指示したのでは。いや、待てよ。たしか刑事はこうも言っていなかったか。

「主犯は、服役中だと言いましたよね?」


 コーヒーを口に含み、カップの陰から俺に向いた視線はカップの方へスッと移動していった。いちど断られた質問をふたたび投げつける。また断られると知りながら。


「追い詰めたのは、メヒですか?」

 無言。

「そうなんですね」

 無言、の肯定。


 刑事は最初に言った。この話をどう取るのかは俺の勝手だと。いつだったか、刑事が口にした杞憂の意味がようやくわかった気がする。メヒには犯罪者の血が流れていて、その親を逮捕へと追い込んでいたのだ。


 メヒは危ういのだ。


 血筋がどうこういうつもりはない。英雄の血であろうが、犯罪者の血であろうが、それそのものがなにかを決めることはないと俺自身はそう思っている。


 俺はずっとA型だと思って育った。血液型占いもよくあたった。でもある時に本当はO型だとわかってからというもの、O型の血液型占いがよくあたるように変わった。


 血筋なんてのはそんなものだろう。だが、まわりの環境となれば話はべつだ。環境はひとそのものを変える力があると思う。俺がこの性格になるまでに母の教えや、姉の教育が深く関わってきていたのとおなじく。


 メヒの育ってきた環境が行動や考え方、判断基準に大きな影響をあたえてきたはず。ふとそのタガが外れてしまったらと思うと、刑事が心配する気持ちもわかるというものだった。

 深く息を吸い、もやもやと共に吐く。


「その犯罪組織の残党から逃れるために、メヒは自分の名前を捨てたんですね」

「芋づる式に多くの逮捕者がでたからな。血の掟というのか、恨む相手なら数多い。娘は報復に命を狙われる羽目になった」

 ひと呼吸あけ、

「母親からもな」

 と冷ややかな声で言う。


「あ」

 とも、

「う」

 とも、言葉にならない声がでてきた。


 母親も恨んでしまったというのか。娘が悪魔のようにでもみえたのだろうか。メヒの推理が、発言が、犯罪組織の幹部である父親を監獄送りにしたことを許せないと、そう思ってしまったというのか。


 父も母も失ってしまったメヒを救ったのが、証人保護プログラムだということか。名を捨て、故郷を捨て、メヒはどんな気持ちで自らを悪魔と名乗っていたのだろうか。どんな想いで謎を追いかけているのだろう。俺には想像できそうにない。


 話せないことを話してくれた刑事にもう一度頭をさげて、礼を述べる。メヒが時折のぞかせたあの陰りの正体を、どうやら俺は垣間みることが出来たようだった。

 それでもひとつ、疑問が残る。


「刑事さん、メヒは。いや、その娘はなぜ自分の父親を暴いてしまったんですかね」

 鋭い視線はさきを促す。

「その娘なら謎を解くと思います。犯人をみつけもしますよ。でもそれでも普通は、父親を庇おうとしませんか?」


 みるみる間に刑事の顔は険しくなった。警察に話す内容ではなかったかもしれないが、それにしても不可解だった。そこまでメヒは正義を信奉しているわけではない。もしそうだったとしたら、刑事が俺に家庭教師など頼むこともなかっただろう。探偵が正義であってたまるものかいとは、メヒの言葉だったはずだ。


 苦い顔をする刑事もそこは同意のようで渋々と認めた。あくまでもメヒのことではない体は貫くようで、他人行儀に話す。

「それを知るのは、その娘だけだろう」


 そう締めくくった刑事に俺は、俺が想像した突拍子もない妄想を打ち明けた。それはいままで見て感じてきた違和感を拭いはするものの、現実味のない与太話だ。


 案の定、刑事には鼻で笑われてしまった。それでも俺は意気込んで話す。

「刑事さん。お願いがあるんですが──」


 ──ガクガクと身体を揺さぶられた。


「Kさん。Kさんってば。なんだい、寝ちゃったのかい。そんな事でどうするんだい」

 くり返し何度も揺さぶられる内に意識がハッキリとしてきた。重たいまぶたを開けてきょろりと辺りを見回す。


「む、ここは? 電車の中か」

「まったく、ようやく起きたのかい。どうも反応が薄いと思ったらウトウト、むにゃむにゃとさ。ボクはきみに潰されちゃうかもと、ヒヤヒヤしちゃったじゃないか」


 どうやら、電車に揺られる内にうたた寝をしていたようだ。長シートの隣に座ったメヒにもたれかかっていたかもしれない。

「おお、そうか。すまん、すまん」

 と謝り、よだれを拭う。


 ガタンゴトンと鈍行列車に揺らされる。座席シートに座ったままで、メヒはきょろきょろと落ち着きもなく車内を見回していた。謎でもさがしているのだろうか。


 今日も今日とて謎をさがしに出かけて、見事解決してきたその帰りだというのに。ひょっとしたら、それでも推理し足りなかったのだろうか。悪魔のような探偵はまだまだ謎をご所望だったのかもしれない。


 指で目頭を揉みしだく。すこし気持ちがいい。つい、ウトウトとしていたらしい。朝が早かったせいだろうか。電車に揺られているうちに気持ちよく寝てしまい、あの日の夢をみていたらしかった。


 いつだか聞いたことがある。夢は記憶の整理中にみるものだと。もしそうならば、あのときの話は、まだ俺の中で整理ができてないということになるのだろうか。ちらりと、金髪彗眼な探偵の姿をみる。


 刑事から聞き出した話はどれも驚くべきことばかりだった。おそらくは真実なのだろうが、いまだに実感は湧いてこない。

「ねえねえ、Kさん。不思議じゃないかい? みんなが取り憑かれたようにさ。スマホとにらめっこしているんだよ。マインドコントロールでもされているんじゃないかな」


 すこし声が大きいけれど、そこに悪意は含まれていないように思う。メヒにバレないように息をつき、含み笑いをする。

 大丈夫だ。

 俺のメヒをみる目はいつも通りのまま。なにも変わってなどいない。たとえそこにどんな血が流れていようとも、色メガネでみるような事はせずに済みそうだった。


「メヒは知らないかもだが、スマホはあれで色々とできるんだぞ。電話にメールにSNS、ゲームだってできる。本も読める」

「ボクをばかにするんじゃないやい。それくらいなら知っているさ」


 プクッと膨れ、翡翠の瞳はきょろりきょろりとなおも謎を探すようだった。俺たちの声に反応したのか、向かいの席に座っていた茶髪のお姉さんが顔をあげる。


 すかさず悪魔のような美少女は、じっとお姉さんをみつめて離さない。お姉さんはすっかり照れてしまったのだろう。あわてた様子でスマホを顔の前に出し、食い入るように画面をみつめた。不思議がるメヒに、こそっと伝える。

「視線をそらすのにもひと役買うんだぞ」


「ふぅん、なんだい。ここにいるみんなはきっとシャイなんだね」


 目を見開きまんじりともせず、物言わぬ美少女にじいっと見つめられていたなら、シャイにもなろうというものだった。じっと見つめることはしないけれど、俺も車内を見回してみる。そろそろ夕刻になろうとしていた。ぐったりと疲れたような勤め人たちや、ワイワイとにぎやかな学生たちで車内はそこそこ賑わっている。


 まだどうにか席につくことはできるが、もうすこししたならピークを迎えて車内は満員ちかくなることだろう。まあ、その頃には俺たちも家にたどり着けるだろうから、とくに問題はないかと視線をもとに戻す。


 なにもめぼしい謎がみつからなかったのだろうか。暇を持て余したのだろう。メヒはつまらなそうに足をパタパタさせはじめてしまった。停車駅のアナウンスが流れる。


 つぎの駅が最寄り駅だ。もしかしたら、混む前に帰れそうだと安心したのが良くなかったのかもしれない。つぎに流れてきたアナウンスは停車駅を知らせるものではなかった。録音された女性のアナウンスは、淀みない声で告げる。


「お客様にお願いします。最近、車内座席シートを切る行為が多発しております。もし車内で、不審な人物、座席シートが切られているのを発見された方は、速やかに係員までお知らせください。お客様の御協力をお願いします。繰り返しお客様に──」


 悪いことをする奴もいたものだなと息をつく。ふと隣りに目をやると、案の定メヒは満面の笑みを浮かべていた。ふむ、俺の目にはいま色メガネがかかったと思った。


 喜色満面、という言葉が似合う。

 喜びの色があるとするならばこんな感じなんだろうなと思う笑顔だ。満面の笑みとはこうも余すことなく、喜びで満たされるものなのだなと感心するほどだった。動機はいささか不純ではあるが、とにかくメヒは嬉しそうにしていた。


「Kさん。聞いたかい? ねえ、聞いたよね? ジャック・ザ・リッパーだよ。切り裂きジャックが現れたんだってさ」

「おお、メヒよ。あまりそう喜ぶな。座席シートが切り裂かれたのを嬉しがる、物騒なひとだと勘違いされてしまうぞ」


 切り裂きジャック本人に疑われたとして、文句も言えなくなる。とは言ったものの、俺は切り裂きジャックにそこまで造詣が深いわけではなかった。犯人が捕まったのかどうかも知らない。いや、そもそも実際にあった事件なのだろうかと思い、あごに手をやる。


「切り裂き魔は、ジャックという名前だったのか?」

「ジャックは一般的な俗称さ。そうだね。日本風に言い直すとするなら、タロウ・ザ・リッパー。切り裂き太郎だね」


 途端に童話にでてきそうな名前になってしまった。ますます実在のものかどうか、あやふやになってしまった。俗称に太郎を使うのはいかがなものかと思う。それに今はもう、太郎という名前が珍しくなった気もする。まあ、いま風の名前であってもそれはそれで困るのかもしれないなと鼻白む。メヒはタロウ・ザ・リッパーに思うところがなかったようで、嬉々として話す。


「弱っちゃうね。ああもアナウンスに頼まれちゃったらさ。もうしかたがないよね」

 ワクワクと浮足立つ。言わんとするところはわかるが、念のために確認しておく。

「いったいなにを頼まれたんだ?」


「うん、聞いていなかったのかい、Kさん。不審な人物を速やかに捕まえて、係員にお知らせくださいと言っていたじゃないか」


 そんな放送だったかなと首をかしげる。どうやら切り裂き太郎を追いかける気のようだ。言い出したら聞かないメヒのこと。止めた所でムダだろう。ならば俺も付き合うしかないではないか。電車が混む前に帰れると踏んでいたが、電車が混むまでに降りるのは難しくなってしまったようだった。


 シートを撫でるメヒに問う。

「座席シートの切り裂き魔なんて、本当にいるのか?」

 つられて俺も席を撫でてみる。柔らかでいてハリがあって、作りのしっかりした普通のシートだ。手触りも心地よかった。


「これはモケット生地だね。擦れに強くてとても丈夫なものさ。それが自然に裂けたりなんてするわけがないよ。それに放送でも言っていたじゃないか。多発しているんだよ。ふぅん、そうか。多発、ね」

 自身の言葉に対してうなずいている。

「なにかわかったのか?」

「うん、なんとなくの犯人像がね」


 言うが早いかメヒはやおらに席を立ち、向かいの空いている座席へと駆けていく。それを目で追いかけ、なるほどなとしきりに感心するように頷いた。切り裂きが多発していたのならば、犯人像が。……わかるのか? 


 早くないだろうか。俺も席を立つ。メヒの座るその前まで歩いて行き、ほかの席はあいにく空いてなかったのでつり革に掴まる。入念にシートを触るメヒは、座席が切り裂かれていないかどうか調べているのだろう。


「どんな犯人像なんだ?」

 手を止め、つり革に揺られる俺をそっと見上げて逡巡してから口を開いた。

「犯人は十代後半から三十代前半。たぶん男じゃないかな。服装、髪型、髪色、目立つ格好はたぶんしてないね。耳にイヤホン、帽子を深く被ってるかもしれないよ。性格はおとなしめ。そして寂しがりやさ。利き手じゃない手でスマホを持ち、みるでもなくスマホをみてるんだろうね」


「おお? なんだ、その犯人像は」

 と訊く前に、また駆けだした。

 トテトテと空席をみつける度に喜び勇んで駆けていく。そして座席シートをそっと撫でては、ふむと思案顔になる。最初の頃こそ俺もあとを追いかけていたが、電車内が混んでくるにつれてそれも難しくなった。このでかい身体を便利に思うことは数あれど、不便に感じることも同じくらいにしてある。


 すこし車内に閉塞感を覚えはじめた頃、ひとの間を器用にもすり抜け、メヒは戻ってきた。もう空席がなくなってしまったのか。俺の脇に立ち、背のびしてつり革を掴む。


「さっきのはなんだったんだ?」

「うん? 切り裂かれているシートは残念ながらみつからなかったよ。もしかしたら車両がちがうのかもしれないね」

 悔しげに口を曲げて言うが、その口の端はすぐに持ちあがり、やがて破顔した。


「でも所々シートの表面が綺麗になっている箇所があったんだよ。ねえ、知っていたかい、Kさん。あのシートはね。かんたんに取り外して交換することができるんだよ」

「おお、そうなのか。それは知らなかったぞ。いや、メヒよ。そうではなくてだな」


 俺が聞きたかったのはさっきの犯人像のことだったのだ。メヒはもっと座席シートの知識を語りたかったのだろうか。すこし名残り惜しそうに口を引き結んだ。

「なんだい、つまらない」

 と口を尖らせながら、説明してくれる。


「カッターかナイフかは知らないけどね。シートを切り裂くには案外、力がいるものさ。だから犯人は男かなと思ったんだよ」

 背のびをし続け疲れたのか。メヒはつり革を掴んでいた手を離して俺を掴む。つり革にされるのは、はじめての体験だ。


「制服やスーツ。どこの所属なのかわかる格好はたぶんしていないと思うんだよね。もちろん目立つ服装、髪型もしていないんじゃないかな」

「どうしてそう思うんだ?」

「どうしてそう思わないんだい?」


 聞き返されても困ってしまう。むむむ、と唸るとメヒは愉快そうに言った。

「多発しているからさ。それも、電車内という同じ場所でね」


 多発していたらどうだというのか。あごに手をあて考えようとつり革から手を離すと、俺をつり革にしていたメヒはバランスを崩してほっぺを膨らます。しっかりとつり革を掴むように言われ、そしてしっかりと掴まれる。ふむ。


「いいかい、Kさん。シリアルキラーであれ、スプリー・キラーであれ、犯行現場は変えていくものだよ。それが普通なのさ」

 普通でないひと達の普通とはいったい。首をかしげていると、メヒは目で笑った。切り裂き太郎も、物騒な連中と一緒くたにされてしまったものである。


「同じ場所で同じ犯行をくり返す度にさ。露見しやすくなっちゃうからね。捕まりたくないのならそうするはずさ」

 それは尤もだと思い、こくりと頷く。

「でもこの犯人は場所を変えないんだよ。気付いたかい、車内には貼り紙もされていたんだ。シート切りは刑法二六一条に違反する犯罪ですってさ。放送も何度もくり返されていたよね。でも捕まってないんだ」


「なるほど、それで目立つ格好はしていないだろうということか。イヤホンと帽子をしてるというのも同じ理由からなのか?」

 だが、かぶりを振られてしまう。

「それもあるとは思うけどさ。どっちかというと外部を遮断してるんじゃないかな」

「外部を遮断?」


 それはどういうと口にする前に手のひらで車内を促される。見てみると車内の半数以上のひとがスマホにかぶりついて、外部を遮断している真っ最中だった。

「Kさんがボクに教えてくれたんじゃないか。スマホは視線を逸らすのにひと役買うんだよね? それとおんなじことだよ」


 スマホは視線を遮断し、イヤホンは会話を遮断する。逸らすは、逸らさせる。相手に強要させることもできるらしい。構って欲しくない時には有効な手だった。


 しかし、とメヒは言う。

「犯人は繋がり方を知らないのに繋がりたい、構ってちゃんじゃないのかな」

 そんな可愛らしいものかどうかは置いておくとして、そんな素振りがあったろうか。


「その心は?」

 と、問くと、

「トンチじゃないんだからさ」

 と、返ってきた。


 口もとを緩め、

「とんちんかんな質問だね、Kさん」

 そう言われくすくすと笑われてしまう。 

 またなにかを見落しているのだろうか。口を突き出し難しい顔をする俺をよそに、メヒは笑ったままの口で尋ねる。


「犯人の目的は、なんだと思うんだい?」


 座席シートを切ることに目的があるのだろうか。いたずらや、ストレス発散。抑えきれない破壊衝動。迷惑をかけることそのものが快楽になるひともいるとは聞く。


 ううむと唸っていると、ふたたび注意を促す放送が流れてきた。すると俺を掴んでない方の手で、天を指さす。

「ボクはね。これが原因だと思うんだよ」

 これ、これとはつまり、

「この放送のことか?」

 と俺も天を指さす。


 メヒに掴まれている方の手は塞がっていたので、つり革を掴む手を離してだ。その拍子に電車がガタンと揺れたのですこしよろめく。メヒも共によろめき、俺を掴む手がキュッと力強くなる。口を尖らせながら言われる。


「そう。あの放送さ。切り裂き事件は一度や二度じゃなくて、多発しているんだからね。職員さんに反応してもらえたのが嬉しかったんじゃないのかな」

「そんなことの為に?」 

 と思わずあきれてしまう。


「どんな形であっても、だれかと関わりたいと思っちゃう寂しんぼはいるものさ。関わり方が、関わるひとが、ほかに思いつかないひとなのかもしれないね」

「だからと言ってだなあ」


 それはひとに迷惑をかけてまですることだろうか。自分が困らなければそれでいいとでも言うのだろうか。それはあまりにも独りよがりがすぎる。憤る気持ちがため息となって出てくる。


「ちょっとした反応が嬉しくて、つい意地悪しちゃうんじゃないかな。ボクに頼られるのが嬉しいあまりに、つり革からよく手を離しちゃう、Kさんみたいにさ」


 キョトンとした。俺には、てんでそんなつもりはなかったのだが。ふむ、どうやら俺は知らぬ間に頼られているらしかった。そう言われるとなんだかすこし意識する。メヒの掴んだ部分がすこしあたたかく、ぬくもりが伝わるようでちょっとばかし恥ずかしくなってきたので、そっぽを向いた。

 照れ隠しにオホンと咳ばらいし、訊く。


「利き手じゃない方の手で、スマホを持っているというのはなんだったんだ?」 

「なんだい、そんなの決まっているじゃないか。利き手はね。ポケットにでも隠しておいたナイフだか、カッターだかを握らなきゃいけないんだから、そうなるだけさ」


 物騒な話を嬉々として語る姿に肩の力が抜けてくる。そっぽを向いてしまったことが恥ずかしくなり、こっそりと向き直った。メヒはとくに気にせず、ニコニコとしたまま凶器の形状がどんなものか語りはじめる。


 刃物による切り傷のちがいを説明され、なんとも言えぬ気持ちになる。ひとしきり話し終えて満足したのだろう。話の止み間を縫って尋ねてみた。

「それで、どうする気なんだ?」

「どうしようかなと思ってさ」


 珍しかった。メヒでも方策が決まらずに悩むことがあるのだなと思っていると。

「どうやって放送室を乗っ取ればいいのかをね。いま、悩んでいるんだよ」

 眉間にしわが寄る。悩んでいたのはべつのことだった。


「メヒよ、いったいなにをする気だ」

「構ってちゃんを炙り出すにはね。ズバリ構わないことだよ。もう既に構っちゃってるみたいだけどね、うん。それもちょうど好都合になるんじゃないかな」


 悪魔のようにほくそ笑むその顔は危ないものにちがいなかった。いままでの俺の経験がそうだと告げている。危なっかしいことにはならないように、家庭教師として釘を差しておいた方がいいのかもしれない。


「放送室を乗っ取るだなんて、とんでもないことだぞ。それはいけないことだ」

 口ではそう言うものの、どうするつもりだったのかは気になった。

「それで、乗っ取ってどうするんだ?」


 ちらと見やり。悪魔はまるで魅了してくるかのように眉を上げ、ニヤリとする。

「もう言ったじゃないか、Kさん。構わないんだよ。ただしそれは時間をしぼってね。あえて構わないようにするのさ」


 ふむ、時間をしぼるとな。そうすればいったいどうなるというのだろうと、すこしばかり想像してみる。構われなくなってしまった構ってちゃんは──。考えれば考えるほど、より酷い事態になる想像が広がる。


「構ってほしいあまり、行動がエスカレートしていくのではないか?」

「うん、それが狙いだもん」


 事もなげに言ってのけ、呆気にとられる俺をあざ笑うように話しだす。

「犯人はどこかでこの放送を確認しているはずだよ。通勤か、通学か、私用かは知らないけどね。自分の方を向いているんだと、どこか誇らしげにでも思いながらさ」


 メヒは手で口を覆い、笑みを隠そうとはしていたが、それはよほど楽しい想像でもしているのか。くつくつと手のすき間から楽しさが漏れだしている。


「そんな時に、構っちゃいけない時間帯を作ったらどうなるのかな。きっとあわてることだろうね。いちどは構ってくれた相手がいなくなるんだ。その反応する時間帯で、犯人が電車を利用する時間がわかるのさ」


 俺は目を閉じ、ううんと頭を悩ませた。メヒよ。まったく、なんという方法を考えているのだと。犯人によりいっそうの犯行を促してどうする。とても褒められた行動ではないものの、しかし一理なくもない。


 電車の利用時間がわかるとなれば、犯人をだいぶ絞り込めると思う。その時間だけ見回ってもいい。メヒの言う怪しい犯人像と照らし合わせば、犯人逮捕も夢ではない。


 しかし、倫理的にはどうなのだろうか。わざわざ犯罪を生んでいるような。おとり捜査ともいえるような。おとり捜査は日本では認められていなかったような。苦い顔をしていると、メヒはぽつりと呟く。


「あとは、どう義兄さんをそそのかすかだね。鉄道警察に知り合いはいるのかな?」

 刑事のしかめっ面が目に浮かぶようだ。気の毒だとは思うが、それでも俺はすこしほっとしていた。どうやらメヒが単身乗り込むようなことにはならなさそうだ。


 そろそろ電車の込み具合はピークを迎えようとしている。推理もひと段落ついたようだったし、いま優先的に考えるのは刑事をそそのかす方法だ。ならば。


「メヒよ、今日はもう引き上げようか」

 身動きが取れなくなってきた車内を見渡し、そうだねと同意を得る。車内アナウンスがつぎの駅名を告げた。


 その時、あ、とあることが頭をよぎる。もし近くに寄ることがあったら買ってきて欲しいと、出掛けに姉に頼まれ物をした。幸か不幸か、つぎの停車駅は目的のお店の最寄り駅になる。用は済んだことだ。知らぬふりをするのもなんだかなと頬をかく。


「すまんな、すこし寄る所があったんだ。ひとりで帰れるか?」


 パッと掴んでいた手を離し、狭い車内でいったいどうやったのかメヒは両手を上に掲げてみせる。

「Kさん、ボクを子ども扱いするんじゃないよ。帰れるに決まっているじゃないか!」

「おお、気をつけて帰るんだぞ」

「そちらこそだよ!」


 くすくすと周りから笑い声が聞こえた。電車を降りると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。家路をいそぐ人々の波に翻弄されながら、目的の地へ向かっていそいそと歩く。まだまだ店が閉まるような時間ではなかったが、なるべく急いだ方が良い。あまり遅くなると姉に夕飯を片付けられてしまうかもしれない。


 連絡をいれておこうかと悩みもしたが、べつに構わないかと思い直す。急げばそれで済む話だった。すこし早歩きで向かった。じんわりと汗をかきはじめたころには店がみえてきた。店内をぶらぶらとすることもなく、一直線に目的の品を手に入れてからすぐに店をあとにする。


 店内の冷房にすこしあたっていたい所ではあるが、これからもうひと汗かかなくてはならないのだから、涼んでいてもどうせ同じことだろうと思っていた。すぐにそれは誤算だったと気付く。


 行きはよいよい帰りは怖い。

 もともと身体が温まっていたせいなのか。帰りの方がより暑く感じる。汗の不快感に気を取られていると、自然と足取りも重くなるというものだった。満員電車に乗ることを想像していたから、余計にだろうか。


 歩くペースをゆっくりと落としていく。大丈夫だ、俺にはこの姉からの頼まれ物がある。これをみせれば、今日くらいは姉のサービスもよくなるとソロバンを弾いた。


 よし、方針変更だと人混みを避けるようにして、ゆるりと駅へ向かうことにした。その甲斐あってか、駅についた頃には帰宅ラッシュはもう終わっていたようだ。


 すこし時間をずらしただけなのに、駅はもう閑散としている。この辺りの住人特有の現象なのかもしれない。これはシメシメとよく空いた車内で、広々とした長シートに悠々と座った。


 席につきスマホを取り出そうかと思ったが、メヒにああも言われたあとのことだ。なんだかそんな気分にならず、暇つぶしにぐるりと車内を見回してみる。俺以外のひとは、みんなスマホでなにかをしていた。


 それはそうだと思う。俺も普段なら右に倣へとしているはずだった。どうにもメヒにペースを握られている。苦笑していると、逆向かいに座っていた男と目が合った。


 男はすぐに目をそらし、手元のスマホに視線を落とす。なんだろうか、すこし珍しい気がした。どのひともみんな、一心不乱にスマホにかぶり付き、視線は合わないのが常だったのに。


 その姿に目を這わせる。男は背もたれに深く腰かけていた。深い青色のポロシャツに、ベージュのチノパン。頭にはニット帽を目深くかぶり、その上マスクもしているので顔はほとんど見えない。目だけきょろりとのぞかせている。


 俺より年上に見えるが、そこまで離れているようにも思わなかった。大学生くらいだろうか。耳にはイヤホン、左手でスマホを操っている。右手はチノパンのポケットに突っ込まれていた。


 なんと偶然にもメヒの偏見に満ちたあの犯人像にそっくりだ。やはりそんなひともいるのかと思い、すこし感心してしまう。まさか犯人、切り裂き太郎だったりするのではないだろうか。


 などと考えているとふたたび目が合ってしまい、怪訝な目つきをされてしまった。今度は俺が視線をそっと外すことにする。あまりジロジロと見るのも失礼な話だ。


 男は見られるのを嫌ったのか、隣の車両へ移っていく。わるいことをしてしまった。つぎの停車駅ではカップルが乗ってきた。今度はジロジロ見ないようにしなければと気を引きしめ、窓の外の風景に目をやり、流れる景色をぼうっと眺めていた。


 今度メヒに会ったら、スマホを触らないと手持ち無沙汰にもなるぞと伝えておこう。揺られる景色に飽きていると、カップルの方からひそひそと話し声が聞こえてくる。


「ねえ、これ。みてよ」

「ん、どした?」

「シートが破れてる」


 おお? 聞き捨てならない会話だった。いま、彼女の方はなんと言ったのか。座席シートが破れていると、言ってなかったか?


 とくに気にしていなかったが、カップルが座るのはさっきまであの男が座っていた席だった。ふたりはひそひそと話しながら何度もシートを確認している。


 俺は席を立ち、カップルの元に向かう。ふたりの視線がちらりとこちらを捉えた。彼氏はスッと彼女の前に身を出し、彼女はその背に身を潜めた。警戒されている。

 あわてて手をふり、頭をさげた。


「すいません。その、座席シートが破けていると聞こえたのですが、本当ですか?」

 ふたりは眉をひそめ、すこし顔を見合わせてからこちらへ向き直る。

「ああ。ほら、これ」

 と彼氏が答え、指で破けた箇所をかるく持ちあげてみせる。

 パックリと開いたシートの表面からは、すこしだけ中身がのぞいていた。


「最初からそうなってたのよ」

 という彼女に、わかっていますと何度かうなずいてみせる。 


 ふたりに礼を述べて席から離れる。視線はすぐに隣の車両へと向いていた。さっきまでそこの席に座っていた男は、あの破れに気付かなかったというのだろうか。


 それとも知っていた上で触れなかったのだろうか。メヒの想像した犯人像と特長のピタリと合うあの男は、やはり切り裂き魔だったのではないかという気がしてくる。連結部のドアに手をかけて、あの男のいる車両へ移動しようとしたら電車はブレーキ音を響かせつつゆるやかに停車していく。


 どうやらつぎの停車駅へ着いたらしい。電車の扉が開く瞬間、俺はたしかにこの目でみた。後ろをふり返ったあの男は連結部にいた俺と目が合わせたが刹那、一心不乱に駆けだしていったのだ。ガチャン、と音を立てて連結部のドアを開く。


「お、おい。待て」


 言われた相手が待つはずないとわかっていても、喉の奥から勝手に言葉が飛びだす。まるでその言葉に背中を押されているかのように男は加速していった。必死になって男のあとを追いかける。駅の改札を跳ねるようにして駆け抜け、階段の段をすっ飛ばして走る、走る。


 まさか追いかけてくるとは思わなかったのかもしれない。さきを駆ける男は驚いた拍子につまずき、転んだ。しめた、チャンスだとばかりに俺は力を振りしぼり、男との距離は急激に縮まっていく。


 ようやく起きあがった男は四足歩行の獣のように這いながらも、狭い路地に転がり込む。だが、そこが男の運の尽きだった。狭い路地は見通しもよくない上に、乱雑に荷物が置かれていた。どこから持ってきたのかもわからないビールケースや段ボール、だれかの植木鉢も置きっ放しで、とにかく足場が悪い。俺の手はもう、すぐそこに。


 男の背に、手が。──届く。


 だが俺は失念していた。なぜ忘れていたのか。切り裂き太郎だ、構ってちゃんだと男のことを見くびり、侮っていた。メヒは言っていた。切り裂きジャックが現れた、と。切り裂きジャックが切り裂けるものは、なにも座席シートだけではなかった。


 ズキン、と痛みを感じる。突然のことに驚き、大きく息を吸うと痛みもおなじように大きくなり、びっくりして息が止まる。ズキズキがじわじわと広がり、次第に身体が焼けるように熱くなる。


 視線を落とすと、真っ赤な絵の具をぶちまけた時のようなシミが胸に滲みあがる。シミはどんどん深く、紅く、胸を染めあげていった。身体の力が抜け、膝をついたと思ったら地面が目前に迫ってきた。


 男の声か、それともちがう誰かの声か。聞こえたような気が。気のせいだろうか。近づいてくるのか。いや遠のいているのか。もうどちらかもわからない。


 痛い、痛いいたいいたいいたいいたい。熱い、熱いあついあついあついたいあついあついたいたいあついたいたいた。いや。


 さむい──。


「もっと速く飛ばしたまえよ。さあ速く」


 ボクがこうも必死になってお願いしてるっていうのに、タクシーの運転手はタハハと笑った。ルームミラーをみているのか、それとも前をみているのかはわからない。視線は、宙ぶらりんに浮かんでいる。


「そうは言ってもねえ、制限速度ってものがあるんだから。法律ってのはきちんと守っとかなきゃおっちゃんが捕まっちまうよ。そうしたら、おまんまの食い上げだ」


 後部座席からひょいと身を乗り出して、スピードメーターを覗いてみたら法定速度ぴったりだった。ううん、もどかしい。

「速度なんかよりもさ。守らなきゃいけないものがあると、きみは思わないのかい」

「無茶を言わんでくださいよ、お客さん。だいたいそんなに急いで、病院にいったいなんの用があるっていうんです」


 口をつむぎ、押し黙る。きっかけは義兄さんからの電話だった。イヤな予感なら、最初からぷんぷんとしていた。だってボクにかけてきたことなんてほとんどない義兄さんからの着信だったもの。急に泊まり込みになったなんて言っていたけれど、ざんねんながらボクの目はごまかせやしない。


 問い詰めて、揺さぶって、綻びをみつけてみたらどうだい。じつはKさんが病院に担ぎ込まれているというじゃないか。

 無事でいておくれよ、Kさん。


 ぎゅっと拳を握っていると運転手は、

「しっかり、掴まっていなさい」

 真剣な口調で、顔を真っ直ぐ前に向けた。  


 病院に向かうことを予期していたのか。義兄さんは病院の入り口の前に陣取って、むんずと腕を組み仁王立ちで待っていた。すばやくボクの姿をみつけるや否や、開口一番にきびしい言葉を飛ばしてくる。


「なぜここにいる。来るなと、そう言ったはずだろうが!」

 一喝。びりっと空気が震えた気がした。 そして義兄さんはふいっと顔を背ける。

「何故この病院だとわかった」


 ざわりと予感が不吉を告げていた。話をそらそうとするなんて義兄さんらしくないことをする。義兄さんはそんなムダなことはしないひとのはずだった。


「そんなことはどうでもいいじゃないか。それよりもKさん、Kさんは無事なのかい? いったい何があったというのさ」

 なにも言わず、静かに首を横にふった。

「なんだいそれ。どういう意味なんだい」

 それでも義兄さんは沈黙を貫いた。

「なんだか変じゃないか。どうしてなにも言おうとしないのさ」


 まるで言葉を選ぶようにして、なんども小さく首をふって息をつく。いつものようにきびしい言葉を投げる義兄さんの方が、いつも通りでまだよかった。そんな反応、そんな態度。非日常。それじゃあまるで。まるで、そんな。イヤな想像でボクの頭がいっぱいになった頃、義兄さんはようやく呟いた。


「十三箇所の刺創で、出血性ショック死。もう手遅れだったそうだ。──めった刺しにされていた」


「いったいそれはなんの冗談なんだい? きみはなにを言ってるんだよ」

 肩がふるえる。ぎゅっと手でおさえた。足がふるえる。ぎゅっと足をひっつけた。ついさっきまで、数時間前までボクはKさんといっしょにいたというのに。そのKさんが、めった刺しな目にあっただって? 

「そんなことがあるもんか」


 しぼりだす声もふるえる。言ったら頭をよぎる。刺創、つまりそれは刺しきずだ。ボクらは切り裂きジャックを追っていた。


「Kさんは切り裂きジャックに会ってしまったんだね?」

「切り裂きジャックかは知らんがな。鉄道警察が追っていた被疑者の可能性が高い」

「きみたち警察はなにをやってたのさ!」


 義兄さんはなにも言い返してはこない。

「おねがいだから言い返してきておくれよ。それじゃあ本当に、本当にKさんは」

 いや、ボクはそんなの信じない。

 一歩を踏みだそうとしてみるけれど、

「どこへいく気だ」

 と刑事の勘なのか、さきに気取られる。


「Kさんのところさ。この目でみないかぎりKさんが死んだなんて信じられないよ」

 義兄さんはかぶりをふった。

「やめておけ、みるに堪えない体だ。とてもみれた姿じゃない。何度も刺され、それは惨たらしいものだった。……だからくるなと言っておいただろう」


 捜査一課の刑事だからもう慣れちゃっているのか、義兄さんは淡々とした口調で語った。それがよけい、これは現実の間違いないことなんだと実感させる。イヤな予感を振りほどくようにぶんぶんと頭をふり、歩みを進める。肩を摑んで止められた。


「離したまえよ! 離してよ!」

「落ち着け。今さらもうどうにもならん」

 身を捻りもがいてみたけれど、義兄さんの力強い手を剥がせそうもない。だったらと、後ろをふり返って言う。


「タクシーの代金は、このひとが払うよ」


 ハッと義兄さんは顔をあげ、ボクの後ろにいたタクシーの運転手にようやく気が付いた。運転手は一歩近づいて、会釈した。


「お取り込み中すいませんね。お兄さん、あんたがこの子の保護者かい。緊急のようだったから目はつぶるけどさ。無賃乗車なんてさせちゃいかんな。困っちまうよ」

「なっ」 


 戸惑うその手がゆるんだところで、身をよじって抜け出した。そして義兄さんの脇をすり抜けて駆けていく。

「おい、ちょっと待て」

 と静止をうながす声は、耳に届かない。


「Kさん。どこだい、Kさん!」

 病室かな、それとも手術室かな、と考えながら病院の受け付けまで走る。問い正したけれど、居場所を教えてはくれなかった。それどころか、ボクを止めようとしてくる。なんだいなんだい、みんなして。


 どう忍び込もうかなと頭をひねると、

「あなたいま、Kさんって言ったの?」

 ボクの背に声をかけてきたのは髪の長いお姉さんだった。知らないお姉さんだったけれど、なぜだか会ったことがあるような気もする。どこかで聞いた覚えのある声。確信をもっては言えない。だってお姉さんの声は涙声だったから。

「きみは、だれだい?」


 うんと頷いてお姉さんは気丈にも涙声を隠しつつ、それでもやさしい声をだした。

「その声。そう、あなたがメヒちゃんね。あたしはそうね。Kさんのお姉ちゃんかな」


 大きく目を見開く。

「お姉ちゃんなんだね。あのね、あのね」

 突然の驚きとあせりであわてるボクに、

「落ち着いて」

 とKさんのお姉ちゃんは言い、受け付けのお姉さんにぺこりと頭をさげた。

「メヒちゃん、あっちで話そうか」


 待合室のすみのソファーを指さされる。そこはひとの通りもすくなく、静かに話ができそうな場所だった。横に並んで座り、逸る気持ちでKさんはどうなったと訊きだす前に、お姉ちゃんが口を開いた。


 それはとても優しい声色で言われて敵意を感じるものじゃなかったけれど、でもとても否定的なものだった。

「あのね、メヒちゃん。帰ってもらえないかな」


「え?」


 思考がとまる。ぱちくりとしていると、お姉ちゃんはほほ笑むような声で続ける。

「あのバカはね。いつもメヒちゃんの話をするのよ。『メヒはむちゃくちゃだー』、『ひどいことをするんだー』なんてことを言うんだけどね。それでも、いつも楽しそうに笑いながらあたしに言うのよ」

 くすりとお姉ちゃんは笑った。


「『それでもメヒは大事なことをまちがえてない』ってね。あたしもそう思うようになった。ま、聞いた限りしかわからないけどね。優しいところも色々聞いてるよ。あのバカも、すこしずつ変わっていったね」


 お姉ちゃんはすこしためらい口淀んだ。それでもボクから顔を逸らさなかった。

「……わかってるのよ。わるいのは刺した犯人。それと勝手に首をつっこんでいったあのバカだってことも。なにもメヒちゃんのせいじゃない。それでもね、どうしても考えちゃうのよ」


 スンと鼻を鳴らし、せっかく隠したはずだというのに段々と涙声に染まっていく。

「メヒちゃんがもし探偵じゃなかったら、あのバカが変わらなかったら。こんなことにはならなかったんじゃないのかって考えちゃうの。逆恨みなのはわかってるんだ。勝手だね、ごめんね」

 お姉ちゃんは震える声をおさえながら、何度も何度もボクにあやまっていた。


「あたしね、ずっとメヒちゃんに会ってみたいって思ってたの。本当よ。でもそれは、こんな形でじゃなかった。もっとちゃんとした形で会いたかったのよ」

 努めてだす明るい声は、ゆっくりとボクを締めつけていく。苦しいくらいに。


「あのバカが好きだったメヒちゃんをね。あたしも好きでいたいの。嫌いになりたくなんてないのよ」

 深く、それはていねいに頭をさげられてしまった。


「だからね、メヒちゃん。お願い。今日は帰ってもらえないかな。あたし達は、またはじめましてからはじめましょ?」


 ボクには、お姉ちゃんがどんな顔をしてそれを言っているのかがわからなかった。ぽたりと水滴が手に落ちてくる。じわじわと視界は滲んでいって、まるでプールに飛び込んだときのようになってしまう。


 ぽろぽろと水滴は止まってくれない。お姉ちゃんはそんなボクの背中をそっと撫でてくれた。鼻からも水滴がではじめたところでボクは悟ってしまった。


 本当にもうさよならなんだね、Kさん。


 追いついた義兄さんの姿がちらりと見えたけれど、ただただボクたちのことをなにも言わずに眺めていた。病院に流れていた穏やかなBGMが耳に届くようになるまで、水滴が干上がってしまうまで、だれもその場を離れようとはしなかった。


 それから数日、まるでボクは死んだように過ごした。義兄さんはバタバタ忙しそうにして、泊まり込みの間を縫っては帰ってきていたみたいだけど、ボクはその姿をみていない。部屋にこもっていたから当然だ。


 義兄さんの部下のひとが、代わる代わるにボクの様子を覗きにきていた。ひょっとしたら、変な気を起こさないように見張られていたのかもしれない。


 人目を盗んで部屋をでると冷蔵庫の中には、めしを食えという貼り紙と共に大量のパンと牛乳が用意してあった。まったく、なんなんだいこれはと呆れた。張り込中の刑事じゃないんだから。義兄さんらしいやと息をつく。


 パクリとあんぱんにかぶりつき、時計をちらりと眺める。お昼をすこしまわったところだった。まだちょっと早かったかな。


 ごそごそと部屋を漁って、しばらく袖を通してなかったあの服をとりだす。茶と黑のチェック柄に腕を通し、バサリと音を立て外套を羽織り、鹿撃ち帽をキュッと目深く被った。パイプ代わりにくわえようかと、キャンディをひとつポケットに忍ばせる。


「おお、メヒよ。俺の分はないのか」

 そんなそら耳が聞こえたような気がしたから、もうひとつをポケットに放り込んだ。Kさんなら、いったいどう言うかな。危ないことをするなとボクを叱るのかな。仕方のないやつだと呆れながらも、ボクを守ろうと渋々あとをついてくるのかな。


 ボクは切り裂きジャックを捕まえるよ。と誰に言うでもなく、宣言する。そろりと玄関を目指したら、向かいのドアがギッと音を立ててすこしだけ開かれた。


 びっくりすると、

「どこへ行く」

 眠たそうで不機嫌な声が聞こえてきた。きのうも遅かったのかな。


「なんだい、義兄さん。帰ってたんだね。ちょっとそこまで買い物に行くだけだよ」

 ひと間あき、

「その格好でか?」

 と問われる。

「ボクの正装さ」 


 下手な嘘が義兄さんに通じないのはわかっていた。逃げだす心づもりをしていると、ふんと鼻で笑われる。

「大方、仇討ちか。そろそろじっとはしていないだろうと思っていたが、案の定か」

 あわてて靴を履こうとしたら、

「俺も行こう」


 義兄さんはそう言った。目をぱちくりとさせて耳を疑う。なんだろう、聞きまちがいかな。義兄さんならボクを止めるにちがいなかったのに。首を突っ込むなと、邪魔をするなと言うのが常だったはずなのに。


「どういう風の吹きまわしだい」

「やめろと言って、やめるタマでもあるまい。それにアイツには借りもあるからな」

 借りなんてあったんだ。不思議に思うと大きくドアが開く。義兄さんはすでに準備をすませているようだったけれど、その姿にボクは戸惑ってしまった。


「なんだい、その格好は」

 私服なだけで珍しいっていうのに、伊達メガネに黒マスク、すっぽりと頭を覆う大きめのポークパイハット。普段の義兄さんの姿からは想像もつかない格好をしていた。

「変装だ。非番の刑事が、不用意に現場をうろつくわけにもいかないからな」


 その言葉にすこしひっかかりを覚える。

「ふぅん、現場なんだね。げんじょうじゃなくってさ」


 警察は事件が解決して過去になったものをげんばと呼び、捜査中ならげんじょうと呼ぶはずだった。それを本職の義兄さんが使いまちがえるはずもない。ボクが動く気になった理由のひとつは、まさにそこだ。


 さすがにここ数日、ニュースだけは毎日欠かさずに見ていた。なのにKさんが刺された事件の報道は、どこにもされていない。もちろん、解決されたとも聞いていない。


 隠してもムダだと思ったのか。義兄さんは深く嘆息をついたあと、とても信じられないようなことを口にした。

「事件として、立件されてはいない」


「なんでそんなことになるのさ。Kさんは、Kさんは死んじゃってるんだよ!?」

 短くかぶりを振り、

「詳しくはわからん。上の判断だ」

 と顔を背けた。

 想像がぐるぐる巡る。


 犯人が未成年だったりするからなのか、それとも警察の関係者なのか、どこか偉いひとから圧力がかかったのかもしれない。きっとそうなんだね。この事件は、だれかにもみ消されてしまおうとしているんだ。義兄さんが一緒に行くと言いだしたのも、そんな理由からかもしれない。何にせよ、もう警察をあてにする事はできなかった。


「義兄さんも、お役所仕事で大変だね」

「やかましい」

 コツンと小突かれ、ボクらはともに捜査へでかけることになった。道すがら捜査の方針を訊かれたので、あのときボクとKさんが交わした会話を語って聞かせる。


「やっぱりね。Kさんは切り裂きジャックを目撃しちゃったんじゃないかと思うのさ」

「お前の想像したでたらめな犯人像がいたとでもいうのか?」

「でたらめとはお言葉だね。あれはボクのプロファイリングによる、しっかりと」


 うるさいうるさいと手を払い、御する。

「詰まる所、お前は待っていたわけだな。ほとぼりが冷める頃合い、構ってちゃんと思しきマルタイが動きだすのを。そうか、では電車を見張るんだな」


 さすがは義兄さんだ。理解がはやいもので張り合いがない。おそらく犯人史上最大の悪事だというのに、ニュースにも、警察にも相手にされない現状は、構って欲しい犯人にとっては面白くないはず。様子を見に現れてもおかしくないという推理だった。


「Kさんの乗った路線も時間もわかっているからね。犯人がしびれを切らせてなにかをしたら、その場でふん捕まえてやるんだ」


 義兄さんは憤怒するボクをよそに浅く息をつき、それきりなにも言ってこなかった。なにを考えているのだろう。駅についても、ボクらは言葉を交わすことはしなかった。誰が聞いているか、犯人がどこに潜んでいるのかわからないのも理由の内のひとつだ。


 時間はまだすこし早かったけれど、車内にきびしく目を走らせる。犯人さえ現れたならぼくの瞳をごまかすことはできない。どちらからともなく、義兄さんとは距離をとって電車に乗った。まわりから不自然にみられないようにたまに乗り換えながら、ひとりひとり乗客の姿をあらためていく。


 車内のみんなはお喋りに夢中だったり、スマホを掲げていたので、ボクらには都合がよかった。見逃さないように探偵と刑事の目を光らせ、じっくりと観察していく。とくに怪しい人影はみつからないままで、ただ時間だけが過ぎていった。気が付いた時には、もう数時間が過ぎていた。


 だんだん車内は混みだしてきて、あの日にKさんと別れた時刻がそこまでやってきていた。あのときいっしょにいっていれば、犯人をみつけるまで調査をしていたなら、ボクがKさんに犯人像を語らなければ……。


 ダメだダメだ、と頭を振る。そんなことばかり考えてる場合じゃないはずだった。それはもう、散々に考えてきたじゃないか。ぶんぶんと何度も振って、襲いかかってくる後悔を振り落としていく。ボクがこんな風じゃ瞳が曇ってくる。見えるものも見えなくなってしまうというものだった。


 ぎゅっと、強く口びるを噛む。


 駅が変われば乗客も入れ替わっていく。ぎゅうと壁に押され、身を縮こませてひとのすき間をするりと抜ける。こうも混んできたのなら、義兄さんはそろそろ身動きが取れなくなる。ボクが頑張らないと。


 視線を這わす。心臓がトクンと跳ねた。その男は深い青のポロシャツを身に付け、ベージュのチノパンを履き、目を隠すほどに深くニット帽を被る。それだけじゃない。大きなマスク、両耳にはイヤホン。Kさんに話した犯人像、そのままの男がいた。


 背たけは義兄さんとあまり変わらない。男は空いた席の前に向かい、背負っていたリュックを降ろした。網棚を眺めてすこし腕を持ちあげる。でも結局は膝の上に荷物を乗せることにしたみたいだった。


 バクバクと高鳴る鼓動を相手に聞かれないように、ジリジリとにじり寄っていく。 


 ブブブ、ブブブ……。


 ひゃあと声が出るかと思った。ポケットの中のスマホが震えているのに気付いた。なんだいこんな時にと画面を見てみると、義兄さんからのメッセージが届いていた。


『動くな。駅を降りてからだ』

 ハッとして、ペチペチとほっぺを叩く。しっかりしたまえよ。落ち着くんだ、ボク。義兄さんの言う通りだった。相手は刃物を持っているかもしれない、切り裂き魔だ。混雑している車内で揉めたら被害者が出てしまう。もう犠牲者を出したくなんてない。


 逸る気持ちを抑えて遠巻きに警戒する。男は右手に持っていたスマホを左手に持ち替え、空いた右手をポケットに放り込む。座席を切り裂くつもりなのかもしれない。こんなにひとがいる中で犯行に至るかなと思ったけれど、ううんと考えなおす。


 ニューヨークの地下鉄では、気付かれずに死体が揺られていたことだってあった。そうさ、時にひとはひとに無関心なんだ。


 きょろりと男の顔がこっちを向き、ボクはあわてて顔をふせた。その瞬間に目撃してしまった。男のあの左手。スマホを触ってはいたけれど、その指のフリックが画面から離れて動いていたのを。あれはひとの目を避けるためにしているんだ。スマホを触るフリをして、男は周囲を見回していた。

 それはいったいなんのために?


 男はスッと立ちあがり、電車のドアの横へ移動しはじめた。ボクの視線が気取られたのかと不安になる。逃がしはしないよと男のあとを急いで追いかけたら、女のひととぶつかりそうになる。


「ごめんよ」

 と謝るとその女のひとも頭を下げ、

「いいかしら?」

 と指をさす。


 さされたのは座席シート。なるほどね、ボクが空席に向かってきたように思ったのか。こくりとうなずいて返す。

「ボクなら座らないさ。どうぞだよ」

「ありがとうね」


 あの男がこっちを見ているように思えたので、女のひとの影にこそりと隠れるように移動して男とそっと距離をとる。ちらりと女のひとの持つカバンに赤ちゃんを抱くマークがあるのが目についた。


 マタニティマークだ。そうか、妊婦さんだったんだ。このひとが襲われちゃったら大変だ。巻き込まないようにしないといけないと、あの男に掴みかかりたくなる衝動をぐぐっと抑えこんでおく。


 男はドア横にもたれかかり車内を見回していた。その視線から逃れようとボクは、 離れた位置にあるドア横に身をひそめた。


 しばらく見張っていると電車が止まり、ひとがわんさと乗りこんできた。人ごみに揉まれながら、まだ降りないのかと注意を払うのを忘れない。男はじっとしている。この駅でも動きはないようだねと肩の力をすこし抜く。


 でも、ちがった。サイレンが鳴りはじめてドアが閉まる瞬間、男はささっと電車を降りてしまった。急なことだったのでドアがワンバウンドしてわずかながらに開く。迷っている暇はなかった。そのすき間を狙って、ボクも反射的に電車を飛び降りる。車内で慌てている義兄さんの姿がみえた。


 ドアまで駆け寄ってくるけれど遅かったようだ。電車はすでに走り出し、義兄さんはなにかを言っているようだったけれど、それはもう届かなかった。まったく、日本警察はなにをやっているんだいと息をつくと、スマホが震えてメッセージが届く。


『俺が行くまで待ってろ。深追いするな』

 そうは言うけども、男はもう駅の出口へ向かって歩きだしていた。待っていたなら、見失っちゃうよ。金色の髪が隠れるようにと、鹿撃ち帽をできるだけ深くかぶり直してから歩きだす。ひとりでもやるしかない。ばれないように、こっそりと尾行していく。


 男が自動改札機に触れようとした所で、向かいから強引におばさんが割り込んだ。男がくるりとふり返るから冷や汗をかく。幸いバレはしなかったけれど、すこし距離を取った方が良さそうだ。男が頭をさげて改札を出ていくのを物陰から見張った。


 帰宅ラッシュの時間だからか、駅は混雑している。ときどき見失いかけるけれど、男は立ち止まって。ううん、そうじゃない。どこかのおばあちゃんに捕まったようで、立ち止まらされていた。困った素振りの男はおばあちゃんを連れて改札口へと戻る。それから、掲示板を指さして話す。


 道案内をしているのかな?


 おかげでボクは男を見失わずに済んだ。おばあちゃんに感謝しておいた。ついでとばかりに男は駅員の元に向かい、なにかを手渡している。あれはいったいなんだろう。ちいさなキーホルダーのようにも見える。カギか何か、それは落とし物なのかな?


 横一列に広がって歩いてくる女子高生には横に避けて道を譲り、駆けていく子どもの邪魔にならないようにと、こまめに荷物を持つ手をいれかえている。


 なんだい、それは……。


 いったいなんだっていうんだ。ボクはいつのまにか腹わたが煮えくり返っていた。腹立たしかった。ガマンの限界が近付いているのを感じる。


 やめたまえよ。

 

 ぎゅっと拳を握り込む。ひとに優しくなんて、そんなこときみがするんじゃない。罪ほろぼしのつもりかい? そんなことできみの罪が許されるとでも? 欺瞞だ、自己満足だ。どうしてその優しさを、すこしでもKさんに向けてあげることができなかったのさ。


 その男がだれかに優しく振る舞う度に、あざけ笑われているような気がしてしまう。これ以上あの男を放置しておいたら、ボクはどうにかなってしまいそうだった。

 義兄さんはなにをしているんだ。

 スマホを取りだしてみると、

『いま引き返す。どこにいる』

 とアテにならない返信がある。


 まったく、腹立たしい事ばかりだった。犯人も、義兄さんも、Kさんも、そしてボクもいったいなにをやっているんだ。グッと下口びるを噛み、ギリギリとこぶしを握りしめ、ギュウと力強く目を閉じる。そして深く息をはいて、ゆっくりと目を開いた。


 ガラスのショーウィンドウにはボクの姿が映る。茶と黒のチェック柄、鹿撃ち帽。そこにはホームズの姿があった。ホームズなら、いまのボクを見てどう思うのかな。笑っちゃうかもしれない。感情にブンブンふり回されている。冷静に、論理的に判断できなくなることは、ホームズがなによりも避けていたことだったじゃないか。


 ボクはいまどんな表情をしているんだ。怒っているのかな。悔やんでいるのかな。悲しんでいるのかな。笑ってはいないと思うけれど、ボクにはわからない。

 ふぅ、と息をつく。


 そう、落ち着きたまえよワトスン君だ。ありえないことばかり起きたから、ボクはすっかりと取り乱していた。ホームジストにはあるまじき姿だったと反省する。


 大きく息を吸うと急に頭がさえてきた。そうだ。優しく振る舞う切り裂き魔なんて、そんなのはありえないことじゃないか。

 ホームズの言葉を思い出す。


『ありえないことをぜんぶ排除してしまえば、あとに残ったものがどんなにありそうもないことであっても真実に他ならない』


 クスっと自嘲する。そんな初歩的なことすらも忘れていたなんて。まったく、ボクはどうしちゃったと言うんだ。ありえないことなら省かなきゃダメさ。


 男のあとをつけながら、推理していく。歩みをすすめる度に、ボクの推理もおなじように歩みを進める。男が目的の場所へと着くころには、推理もおわりを迎えた。


 そうか、これが事の真相だったんだね。


 男はキョロキョロと辺りを入念に見回してから、とあるビルの中へと入っていく。あとを追いかける前にビル名を確認して、義兄さんにメッセージを送る。結局、義兄さんは間にあわなかった。


 まあいいさ、と気楽に構える。その内に義兄さんも追いかけてきてくれるはずだ。歩みを止める理由にはならない。到着するのは、ボクがあの男と対峙したそのあとでも構いやしないだろう。


 すこし薄暗いビルの中をまっすぐ進んでいくとエレベーターホールに突き当たる。そこに男の姿はなく、一台のエレベーターが上昇しているところだった。男はどこに向かっているのか。エレベーターが止まるのをじっと待って、降りた階数にあたりをつける。エレベーターは止まった後、動く気配はない。


 降りたかな。案内板にあった表示を確認すると、レンタルスペースの会社名が書かれていた。たしかレンタルスペースって、会議や集まり、行事なんかで使う部屋や会場を貸しだすところだったはずだ。こんな場所になんの用があるのかなと首をかしげる。すぐにエレベーターを呼んで、ボクもその場所へと向かった。


 目的の階を降りるとすぐに受け付けがあった。担当のお姉さんがようこそと明るくお出迎えをしてくれる。


「さっき、来たひとのツレなんだ」

 と言うと、

「あちらでございます」 

 と手で案内された。


 ありがとうと礼を述べて通り抜け、部屋のドアノブを掴む。ガチャリと音を立てて扉を開けると、中にはあの男がひとりだけでポツンと佇んでいた。

 声をかける。


「これはどういうつもりなのかな。切り裂きジャックくん。いや、そうじゃないね」

 男はすっと顔をあげた。


 「──Kさん」


 メヒは部屋に入ってくるなりまっすぐに指をさし、翡翠の瞳を向けてこう言った。

「きみはKさんだ」

 と。


 俺はそんな姿を目にし、さすがの慧眼だと口もとにフッと笑みを携えた。マイクを手に取ってそっと電源を入れる。イイン、とスピーカーが唸るのを聞いてから話しだす。

「おお、メヒよ。さすがだな」


 俺の声を聞いたメヒはどうしたことか、へたりと床に沈み込んでしまった。

「よかった、Kさん。生きていたんだね」

 と相好を崩し、泣き笑いのような表情を浮かべる。


 だが感動の再開はそこまでだった。次第に落ち着きをとり戻していくにつれて笑顔は消えていき、沸々と、それは烈火の如く。火山がどかんと噴火してしまったらしい。


「Kさん! きみね! いったいこれは何のお遊びなんだい! どういうつもりなのさ!!!」


 む、怒っている。だがそれも当然のことだった。死の偽装など、人生においてする機会がそうそうあってはならないものだ。ゆらりと立ち上がり、じりじり距離をつめようとしているメヒを言葉で制す。


「すまん、すまん。まあ、落ち着くんだ、メヒよ。しかしだ、よく俺とわかったな」

「しらないよ!」


 ふん、と憤りそっぽを向く。ぷりぷりとしているようだ。無理もない。話をする気はまだ残っているだろうかと、質問を投げて試金石としてみる。

「どうやって推理をしたのか、聞かせてはくれないか?」


 ちらりと半眼の瞳は眼前を捉える。その瞳は、怒りの色で染まっているのだろうか。とがったままの口が、ゆっくりと開いた。

「なんだか、チグハグだったからだよ!」


 怒ってはいるようだが、メヒは根っからの探偵気質なのだろう。推理を披露する場が設けられていたら、それを不意にするような真似はしないようだ。謎を解いたならば語らずにはいられない。探偵とはずいぶんと難儀な生き様をしているらしい。


「どう、チグハグだったんだ」

「そうだね。いろいろとあるけれど、まずは電車でKさんが席を立ったことさ。ボクの視線に気付いたのかと思ったけど。あれはそう、妊婦さんに席を譲っていたんだね」

「まあな」


 そんなところまで見ていたのかとおどろき、すこし照れくさくなりほほを掻く。

「そこがね、決定的にちがうんだよ。きみが切り裂きジャックたりえないところさ。それどころか切り裂き太郎ですらないよ」

 首をかしげて尋ねる。

「そうなのか?」


「あのとき、きみは座席を切り裂くフリをしていたよね。いわば攻撃をしようとしている興奮状態さ。そんな場面でも優しくできるひとはシートを切り裂きやしないよ」

 ふむと唸る。


 優しくできたその時の俺は、つまり興奮状態ではなかったと。だから犯人ではないと言っているらしい。そういうものだろうかとも思うが、切羽詰まった危機的状況。怒り心頭な状態でも優しくできるひとは、あまりいないだろう。俺も腹が減ったら腹も立つ。そういうものなのかもしれない。


「おばあさんに道案内をして、落とし物を駅員さんに預けて、ひとに道を譲ってとしていたね。ボクとはじめて会ったあの日も、きみはそうだったよ」

 中空を眺め、そうだったかとふり返る。

「そんなバカみたいにひとに優しくする。忠実に尽くすひとなんて。まったく、Kさんくらいなものだろうさ」


 褒めているのか、バカにしているのか。怒りのエッセンスを振りまいたメヒの言葉は、いったいどちらなのかと計りかねる。その怒りは、もう一方にも向けられた。

「義兄さんもグルなんだね」


 返事を濁していると、メヒは言う。

「よく思い出してみるとね。そうにちがいないのさ。義兄さんだけだったんだから。『Kさんが死んだ』とボクに言ったのは」

 とても悔しそうに地団駄を踏んでいる。


 そう、俺はあの日。刑事からメヒの過去の話を聞いたときに、俺のとある妄想を確かめるために協力をお願いしていたのだ。口をへの字に曲げて、メヒは言う。


「義兄さんも変だったよ。病院にくるなと言う割にはボクに連絡してくるし。遺体のきみに会わせまいとするし。電車できみを捕まえようとしたら邪魔をしてくるしさ」

「ふむ、そうなのか」


 刑事の甲斐甲斐しい協力に、感謝する。俺の唯一の推理ともいえる妄想は、刑事に笑われて終わるかもしれないと思っていた。それくらい突拍子ないものだったからだ。いまもそれが本当か半信半疑でならない。


 刑事はよく信じてくれたものだと思う。このあとの行動で、すべてがわかるはずだ。そのために俺は、周りに迷惑をかけてまでここまでしてきたのだと、緊張がはしる。

 メヒはなおも兄への不満を垂れていた。


「ひとりだけ電車に取り残されちゃう失態をおかしているもんね。それにまだ追いついてこない。本当だったら、警察失格さ。義兄さんもそこまで愚かではないよ」


 たはは、とたまらず苦笑いだ。メヒよ、要らぬ汗をかかせるではない。刑事が聞いていたのなら、怒ってしまうではないか。


「それに警察がKさんの事件を隠ぺいしたなんて匂わせてくるんだよ。そりゃそうさ、事件になんてならないよ。だってKさんは、死んでいなかったんだからね」


 そう、たしかに事件にはなっていない。傷害事件にすらなっていない。あれは事故として処理されている。なぜなら被害者が被害届けをださないとゴネたからだ。刑事には多大な迷惑をかけて申し訳なかった。


 実際あのときのことは事故に近かった。切り裂き太郎は威嚇のためにナイフを取りだし、俺はそれに気付かずに揉み合った。ナイフはぐうぜんに俺の胸をかすめ、血を見て動転した切り裂き太郎は逃げ出した。


 そこを犯人を張っていた刑事たちが、既に捕まえている。俺がよけいな手出しさえしなければ、すぐにでも逮捕される手はずだったと聞いた。座席シートを切り裂いた切り裂き太郎として、罪を償うことだろう。


 俺は気を失ったが、見た目の出血ほどに傷も深くはなく。第一発見者が刑事だったことも幸いして、すぐに然るべき治療をうけることができた。病院で目を覚ました俺は、この事故を利用しようと考えた。刑事と病室で、この騒動を念入りに打ち合わせることにしたのだった。


「Kさんのお姉さんも、グルなのかい?」

「いや、姉には話してないぞ。話してはいなかったが、──なぜだか知っていたな」

「ん、そうなのかい」

 と唸る。


 メヒと話したことを姉から聞いた。姉にもなにか思うところがあったのだろうか。なにも知らないはずの姉だが、メヒを追い払うのにもひと役買っていた。姉は本当になんでも知っている。サトリでなければなんなのだろう。探偵か?


「Kさんのその格好は、なんなのさ」

 メヒが語った犯人像の姿、そのもの。

「これはあれだ。あのとき見た、切り裂き太郎の格好に似せて用意をしてだな」

「きみは切り裂き太郎に会ったのかい?」


 あ、と思う。迂闊な発言だった。

「Kさん、きみは切られたのかい? おかしいと思っていたんだ。病院がこんなことに協力するわけはないと思ってたんだよ!」

「いや、まあ。たいしたことではないぞ。大丈夫だ。犯人もすでに捕まっているし」


 まだ傷口はズキズキと痛む。それもそのはずだった。縫ってもらってはいるのだが、中がまだ繋がっていない。病院もこっそりと抜け出してきている。心配をかけてしまうので、言うつもりはないが。


 しかし、メヒの前に隠し事はできないのかもしれない。みるみる間に顔色が曇っていってしまう。推理してしまったのか。

「そうまでしてさ。きみは、きみたちは、いったいなにがしたかったというんだい」


 メヒを騙すには、こうでもするしかないと思った。なにせ推理できてしまうから。こんな方法しか俺たちには思い浮かばなかったのだ。刑事はたしかこう言っていた。

『正常性バイアスだ。自分の推理は疑わないだろう』と。


 なにが目的と問われ、ふむと意気込む。そろそろ頃合いだろうか。メヒのするどい推理力は、なるほど、俺と刑事の悪企みですら見事に解き明かしてみせた。そこには一部の隙もない。だが、しかしだ。だからこそメヒは、自信満々のその推理を信じて疑わない。それこそ、俺たちの求めた状況にほかならなかった。


 メヒに向かってポーンと大きく山なりに、まるで弧を描くようにマイクは宙を舞う。突然のことだったのにも関わらず、ハッシとそれを上手く掴んでみせる。

 翡翠の瞳がきろり、するどい視線を向けてくる。その視線を受けつつ、空いた手で身に付けたマスクとニット帽を取り外す。あらわになる素顔に向け、メヒはぷんすかと怒った。


「なんだい、Kさん。危ないじゃないか」

 メヒは受け取ったマイクを口もとに添えて話す。スピーカーから、音は流れない。首をかしげて、マイクをポンポンと叩く。

 スピーカーから声がする。


「これが、知りたかったことだ。メヒよ、やはりそうだったのだな」


 メヒはやはり聡い。そのひと言で、すべてを悟ったらしい。サッと顔色が変わった。口を紡いでしまったメヒに代わり、話す。

「はじめて会ったとき、メヒは言ったな。俺をみて興味が湧いた、と」


 すこし上を向くと出会いが思い浮かぶ。


「なぜ俺なのかとずっと考えていたんだ。それは今回の事とおなじなのだな。メヒの言う所の、ひとにバカみたいに優しくしていたからなのだろう?」


 自分で言うとすこし照れくさくなった。俺にそんなつもりはなかったが、長年の母の教えはもうすっかり身に染み付いて離れないものになっていた。性分なのだろう。

 そして返事はなかった。


「メヒにはそんな俺が、他の人とはすこしちがって見えていたわけだ。顔で選ばれたのではない。そういえば俺がフツメンなんだと話したときも、無反応だったな」


 声には出さなかったが、口の端がほんのすこしだけ持ちあがるのがみてとれた。

「本屋でEさんを眺めていた、Oくん達がいた。あのとき、メヒは俺に聞いてきたな。彼らはどんな表情をしているのかと」


 メヒはくるりと首を回して室内を物色しはじめたが、気にせずにつづける。

「メヒは目が悪いのかとも思ったが、そうではなかった。むしろ目はいいはずだ。目ざとく様々なものを見落とさないからな」


 室内カメラを発見したメヒは、その視線をジッとそらさなかった。

「その反面、ピーターパンをみたと言うHくんには、どんな顔をしていたのかを聞かなかったな。俺がおふざけでメヒの目を隠したときもそうだった。確認しなかった」


 メヒはかつて誘拐されたことがあった。目を覆われて、こわい思いをしてきたはず。あの震えはきっとトラウマによるものなのだと思う。


 だが、ふり返らない理由にはならない。誘拐の経験者だからこそ、トラウマによる拒否反応がでるからこそ、ふり返って安全を確認しようとするものなのではないか。でも、そうはしなかった。


「メヒには、その発想がなかったのだな。そのひとの顔をみて、誰なのかと確認することのだ。だれもがしているはずの行動。だが、メヒにはその習慣がなかったんだ」


 室内にいる男にメヒが向き直るのを見てから言った。それは荒唐無稽な話で、おおよそ信じられないことなのだが、今までの話しをまとめるとそう言わざるを得ない。


「メヒよ。きみはひとの顔が識別できないのだな。相貌失認、いわゆる失顔症というやつではないのか?」


「そんなバカなことがあるもんか。いったいなにを言ってるのさ、Kさん」

 刑事にも隠し通してきた真実。おそらくは気付いてからもずっと守り通してきた、メヒの秘密なのだろう。きっと認めることはしない。だが、ごくりと喉を鳴らし言う。


「今メヒの目の前にいるのは俺ではない。──刑事さんなんだ」


 メヒは黙ったままで、とくに驚いた様子はなかった。やはりさっきマイクを手放したとき、スピーカーからマイクを持たない俺の声がした瞬間にすべてを悟ったのか。


 刑事へのお願いは、『俺と入れ替わって欲しい』というものだった。メヒはひとの顔のちがいがわからないかもしれない。それを言う俺の話を、刑事は真剣に聞き入れてくれた。だが、ただ俺たちが入れ替わるだけではすぐにバレてしまう。なんといっても相手はあのメヒなのだから。俺が切り裂かれたのは、そんな矢先の話だった。


 ならばと考えに考え抜いた方法は、俺が切り裂きジャックへと化けることだった。メヒには能力を遺憾なく発揮してもらい、存分に推理してもらった上でメヒ自身に、『Kさんだ』と言わせようと思ったのだ。


 そう信じ込ませようとした。目論見通りメヒは切り裂きジャックの正体に気付く。そこで俺はこの建物に入って、同じ格好に扮した刑事と入れ替わったというわけだ。


 刑事には俺とおなじ髪型をしてもらい、ふたりして切り裂きジャックとおなじ服装に身を包んでいる。どちらの格好でもなくなってしまえば、持ち物からだれかと推理される恐れはなくなると見越してのこと。


 だがそれは、顔さえ確認すれば別人だとひと目でわかってしまう程度の変装でしかない。普通は俺と刑事を見まちがえることはありえない。だがメヒは、目の前で帽子とマスクを取った刑事を違和感なく、『Kさん』と呼んだのだった。


「ちょっと間違えただけじゃないか。気が動転していただけなんだよ。いままでボクが誰か間違えたことがあったかい?」


 ゆっくりかぶりを振る。放送室のカメラ越しに見ている俺の姿はメヒに見えるわけがないのに、それでも伝わってしまうような気がする。つまりはそれが原因だった。俺はマイクに向かってゆっくりと話す。


「メヒには推理をする力があったからな。ひとの顔を見て判断できなくとも、難なくこなせてしまう。そんな推理力がメヒにはあったんだ」


 例えひとの顔がわからなくとも、体躯、服装、声、話し方。そしてまわりの反応。それらからメヒは誰が誰か、推理しながら会話していたのだろう。恐らく幼い頃から、ずっとそうしてきたにちがいなかった。


「いや。もしかしてメヒのその推理力は、相手の顔がわからなかったからこそ培われてきたものではないのか?」

 普通に過ごすためには、そうならざるを得なかったのではないだろうか。


「そんなことは……」

 口を濁す。


「メヒは、ひとの名前を使わないな。名前だけでは誰が誰なのか、判断できなかったからではないのか?」


 いつだったか言っていた。名前は所詮、記号なのだと。なるほど。顔と名前が結びつかなければ、それはただの記号にすぎないものなのかもしれない。

 視線を落とすメヒに訊く。


「アルファベットを開放すると言い、俺をKさんと呼んだな。それはアルファベットだけなら、ひとの名前を間違えることも往々にしてあることだったからなんだろう?」


 俺と光本のお爺さんが等しくKだったように。呼び間違えたとき、違和感を残させないないための予防線だったのではないか。室内カメラに視線を向け、ぐっと口を結んでからメヒは言った。


「どうしてそんなこと言うのさ」


「教わったからな。謎を飲み込むな、と」

 飲み込んでしまったばかりに、取り返しがつかないことになる可能性を見てきた。


「どうして、そんなこと思ったのさ」


「教わったからな。観察するように、と」

 観察とは見るだけでなく、思考しながらにして観ることだ。推理のできない俺は、ずっと近くでメヒを観てきた。メヒのことを考えて、すこしずつでも推理してきた。


「それを知って、きみはどうしたいのさ」


 深く目を瞑る。

「こうも教えてくれた。謎は数珠つなぎである、と」

 謎は謎を呼び寄せる。そしていつの間にか寄せあつまっては、手のつけようのない複雑怪奇なものになってしまう。


 だがひとつ。たったひとつの謎を解き明かしてみれば、その謎はまたべつの謎を解くためのカギとなった。ひとつ解き明かしたこの謎は、カチャリと音を立てメヒの過去をぱらりと紐解いていく。


「数珠つなぎってなんのことだい」

 言って、鹿撃ち帽を外した。探偵としてではなく、ただのメヒとして向き合っているということだろうか。帽子を外したおかげで浮き彫りになったその素顔。俺には狼狽えているようにも見えた。


「メヒは誘拐されたことがあるんだな」

 くわっと大きく開かれた瞳が、そうだと物語っている。メヒのうしろに佇んでいた刑事もカメラに、俺に。ぎろりとするどい眼差しを向けてくる。このさきは刑事にも言っていないことだったから当然だった。

「犯罪組織の幹部だったメヒの親は大仕事をはじめるそのあいだ、翡翠の瞳を逸らすためだけに誘拐を企てたのだったな」

 

メヒは訝しみ、そして強気にほほ笑む。

「それも推理したっていうのかい? すごいじゃないか、Kさん。なんだい、きみはまるでシャーロックホームズのようだね」

 浅く嘆息をついた。まさかそれを本気で言っているとは思わない。


「俺にはそんなこと、どだい無理な話だ。刑事さんから事情を聞いてきただけだ」

 ホームズのようになれたらと思う。が、俺にはホームズのようにいくつもの事件を解決することはできない。考えに考え抜いてもせいぜいひとつ、謎を解き明かせたなら良くできた方ではないだろうか。


 ならそれは今がいい。兄弟がにらみ合うのをしばし待つ。やがて気が済んだのか、くるりとふり返った。キュッと結んだ口は横にまがったままだ。

「知っているのなら、隠してもしょうがないよね。そうだよ、それがどうしたのさ」

 半ばあきらめたように髪を撫でる。声はすこし暗く、表情も沈んでいた。


「メヒの推理が決め手なのか、きっかけなのか。俺にはわからないが、父親は逮捕されてしまい、そのことで母親や犯罪組織に命を狙われるようになってしまったな」

「……そんなことまで聞いたんだね」

 返事をする声は吹けば飛んでしまいそうで、消え入りそうなほどに弱々しい。


「だが、そこが不思議でならないのだ」

 息をのむ。メヒがひた隠しにしてきたであろう秘密の扉はもう俺の目の前にある。


「何故メヒは親の犯罪を暴こうとしたのかなと、俺も考えた。優しさがないわけではない。正義に囚われているわけでもない」


 カチャリと今、カギを開ける。


「メヒ。きみは捕まえようとした犯人が、自分の親だとわからなかったのだろう?」


 メヒは自分を誘拐した犯人を捕らえようと推理して追い詰め、捕まえた。犯人を隠すことも、庇うこともしなかったのだろう。なぜなら、メヒにはひとの顔のちがいがわからなかったから。


「親はその瞳のことを知っていたのか?」


 もし知らなかったなら、メヒのその行動は母親の目に非情に映ってしまっただろう。親を売ろうとするさまは、家族への裏切りにも思えただろう。その姿は、まるで悪魔のようにみえたのではないだろうか。


 そしてメヒはいずれそのことに気付く。自分のしたこと、母親の考えたこと。メヒならばそのどちらもわかってしまうだろう。そうして自分を悪魔だと思うようになり、自らを責め、蔑んできたのではないのか。とっさに名乗った偽名が悪魔の名なのは、きっとそんな理由があったからではないか。苦しみ続けているのだなと痛ましく思う。


 俯いたままメヒは話す。その声は震えて、それでも気丈であらんとしていた。

「ボクの目に気付いたのはね。Kさん、きみがはじめてなのさ」

「──親には言わなかったのか?」


 すこし間が空き、

「言えるわけないじゃないか」

 顔を伏せる。

 俯いてしまったがメヒの言葉を待った。すると憂いに沈んだ声でポツリとこぼす。


「なんて言うのさ。顔がわからないから許してよ? ボクの親だから見逃してよ?」

 そんなのはダメだよと言わんばかりに、自らううんと首をふっていた。


「だったらね。ボクは謎を解いてしまった探偵として、探偵足らんとするしか、ほかに道はないじゃないか。ねえ、そうだろう? そうだと言っておくれよ、Kさん」


 それはうっかりすれば聞き逃してしまいそうになるほど、か細い声だった。いつものように拳をふりあげて怒ってきてもいい、わんわんと泣き叫んだって構わなかった。


 だが、メヒはそうしなかった。

 ゆっくりと顔をあげたメヒはその翡翠の瞳いっぱいに涙を溜めて、それでも決して泣こうとはしない。ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、にっこりとほほ笑むのだ。


「親の罪を暴いちゃったボクは、いったいどうすればよかったんだい」


 教えておくれよというその問いに、俺は最後まで答えることができなかった。

 静寂が流れる。


 誰もが言葉を発さない。見ていられなくなったのだろうか。刑事は目深にニット帽をかぶり直し、メヒを連れて外に出ていく素振りをみせる。刑事は何も言わなかったし、メヒも逆らいはしなかった。


 ほとんど隠れてしまったその瞳で、刑事はじろりとカメラをみつめて去っていった。俺はひとり、ぽつんと放送室に取り残されてしまった。


 ──俺はどう答えればよかったのだろう。メヒは悪魔なんかではない。この騒動の前にはそう言ってやろうと思っていた。そう思わせることが出来るのなら、心はグッと軽くなるのではないかと思っていた。


 だが、いまさら俺がそれを言った所でどうなるというのか。空々しく響くだけだ。親も、本人でさえも悪魔だと言って。名を変え、国を変え、過ごしてきた身なのに。


 俺はなにがしたかったのか。変わろうと思って母の教えに背いた。ひとの迷惑になることをした。されたらイヤになるだろうこともした。そうまでもして、すこしでも真相に近付こうとした。

 その結果がこれだ。


 ひと様の迷惑にならないように。されて嫌なことはしないようにという母の教えがぐさりと胸に突き刺さる。いままで俺は、ずっとそうしてきたはずだった。いたずらに迷惑をかけて、ただひとを傷付けて、と。俺はいったいなにをやっているのだか。


 ……やはり母の教えが正しかったのではないだろうかと、後悔だけが胸を突いた。だれもいない部屋にゴツンと音が響く。


 どうやって帰ったのかも覚えていない。家に帰ってからもずっと悩み続けていた。しんと静まる部屋の中で、明かりもついているのだかいないのだか。机に突っ伏し、目は開いているが目の前は真っ暗だった。心のもやもやが目に映っているかのように、見えているようで、見えていない。


 そんな風だったからか、俺を呼ぶ声にも気付かなかった。部屋で塞ぎこんでいると、バスンと激しい音を立てドアが開く。

「ご飯だって、言ってるでしょうが!」


 なんだ姉か、と思う間もなくズカズカと部屋に乗り込んでくる。

「いい、食欲ない」


「片付かないでしょ」

 返事をするのも億劫だった。姉はわかりやすく、フンと息をついてベッドに座る。

「ふぅん、メヒちゃんね。何があったの」


 相変わらずのサトリ具合だ。まるでひとの心を読んでいるような姉なら。なんでも知っている姉ならば、あの時メヒに気の利いたひと言でもいえたのだろうか。


 ワラにもすがる思いで姉に打ち明けた。普段の俺なら姉に相談はしない。いままでにそんなことをしてきた覚えはなかった。姉を信用していないわけではなかったが、どうにも照れくさく感じてしまう。


 男心は繊細だった。だが、いまはそれも気にならない。それくらい切羽詰まっていたのだと思う。たとえ気の利いたひと言でなくとも、優しい慰めの言葉でもくれるのではないだろうか。そんな打算もあったのかも知れない。

 だが、くれたひと言は予想外なもので、落ち込む俺に向けて姉はこう言ってきた。


「アンタ、バカァ?」

 と。


 キョトンとして戸惑った。おお、姉よ。『アンタ、バカァ?』とそれは、そのセリフは。語尾をすこし伸ばし気味に、口調をあげながらに言うそれは紛れもなかった。あの有名アニメの名セリフではないのか。それは、モノマネだったのだろうか?


 しかし姉の顔をみても平然としている。

 それどころか、

「なによ、妙な顔して」

 と言われる始末だ。


 姉は知らないのだろうか。驚きのあまり、ふと思ったことが口をついて出てくる。

「姉はなんでも知っていると思っていた」


 今度は姉がキョトンとする。

「なんでもなんて知るわけないでしょうが。あたしはただ、知ろうと努力してるだけ」

 口もとをニヤリとさせている。

 息をついて、

「アンタとちがってね」

 と言う姉の言葉にすこしへそを曲げる。


「俺だって努力してきたつもりだったんだ。でもそれがこのザマだ。いまじゃすこし、しなきゃよかったかなと後悔している」

 はあ、と大きくため息をつかれた。それもやれやれとわざとらしく首をふりつつ。


「アンタは、ホーントになんにもわかっちゃいないんだね」


 その言い草にムッとする。すでに答えを知っているような物言いだった。それなら意地悪せずに、教えてほしいものだ。

「アンタさあ。そんなんじゃあ、母さんが口を酸っぱくして言ってきたことの意味も、本当はよくわかってないんじゃないの?」


 本当の意味。


「なんだ、それは」

「ほら、アンタがバカみたいに守ってる、例のアレのことよ」

 バカは余計だが、大人しくして訊く。


「『ひと様の迷惑にならないように』と、『されて嫌なことはしないように』だろ。ちゃんと覚えてるよ。優しいひとになれと、母はそう言っているのだろう」

 口の端を持ちあげるのが気にかかる。

「じゃあさ、なんで母さんはそれをアンタだけに言ったと思う? もしそれが教育方針なら、あたしにも言うはずじゃないの」


「む」

 なぜだろう。姉が優しくてとくに言う必要もないと思ったから。むむ、俺が優しくない乱暴者で手のつけようがなかったから。ううむと悩む。どちらもしっくりくる説明だとは思えなかった。あごに手をやり熟考する俺に、姉はあっさりなんでもないことのように言ってのける。


「全部、アンタの為に決まってるじゃない」

 そうは言われても意味がよくわからない。どうしてそうなるのだと首をかしげる。

「わっかんないかなあ」


 遠慮なしに座ったベッドの上で、うーんと手と足を伸ばしながら姉は言う。

「不器用だったアンタが外で敵を作らないようにってね。母さんはそう思って心配したから、アンタにずっと言ってきたのよ」

「姉に言わなかったのはなぜだ」

「あたしはほら、そのへん上手くやれるからさ」

 そのままゴロンと横になってしまった。俺が目をぱちくりとさせたまま呆然としていると、どうしたのと問われる。


「ずっとわからなかったんだ。母はなぜ、あんなにもひと様のことばかり気にしているのだと思っていた。俺のことよりもひとの方が大事なんだなと、そう思っていた」


 そうだったのか。本当はちがったのか。俺は知らず知らず、大事にされていたのか。なんだ、親の心子知らずだとは本当によく言ったものだ。俺はそんなこともわからずにいたのかと、がっくし肩を落とした。

 横目でちらりと見て、姉は不思議なことを言いだす。


「メヒちゃんはなんで悪魔を名乗ったんだろうね」

「それは」

 と口ごもる。

「じゃあ、悪魔はさ。魂を求めていったいどうする気なんだと思う?」

「ん、そりゃあ。……食べるのだろう?」


 素っ頓狂なあきれた声がする。

「アンタねえ。魂なんて、あるのかどうかもわかんないものをどうやって食べるのよ。あたしはどうせ食べるんなら身がいいわ」

 などと、身もふたもないことを言う。

「じゃあ、どうする気なんだ」

「見るんでしょ。きっと知りたいのよ」


 それは姉の言っていた、知るための努力なのだろうか。悪魔がひとを知って──。

「そんなことしてどうするんだ?」

 横たわり、ゴロゴロしたまま姉は言う。

「さあね。ひとのやっつけ方を調べたいのかもしれないし、友だちになるためとか。それとも、ひとになりたいのかもね」

「悪魔がひとになりたがる? そんなことがあるのか?」


「相手のことを知りたいのなんてね。結局は対処したいか、仲間になりたいか。そのどっちかでしょうよ」


 姉はむくりと起きあがり、ポンポンと枕で遊びはじめた。高くほうりあげられる枕をながめつつ逡巡とはほど遠いながらも、すこしずつだが考えを進めていった。

 悪魔もひとに憧れを持つのだろうか。


 緑の悪魔と呼ばれていたアイツは、メヒはどうだろうか。ひとの顔の区別がつかず、親を裏切り、親に裏切られ。それでもメヒはひとに、普通のひとに憧れを持つのか。俺が見てきたメヒは、さあどうだったか。


 見た目は眉目秀麗ではあるものの、その言動はまるで少年の樣。ひと懐っこいその笑顔の裏では、悪魔の顔でケタケタ笑っているようなやつだ。いたずらとも呼べないことを平気でしでかし、反省の色をまるでみせる様子はない。じつに困ったやつだ。


 だが時折りは優しさを覗かせ、その卓越した推理でだれかを救ってみせたりする。傲慢であり、横暴であり、すこし照れ屋でもあり、スキンシップの苦手な女の子だ。


 趣味はたしか、人間観察と言っていた。ああ、そうだったと思い出す。あの時メヒはしっかりと見ていた。ひとの顔もまるでわからないというのに。ひと目で、ひとの心の中までをも読めてしまうというのに。


 それでもメヒは、ひとを見ていた。


 そしてバカみたいに優しくしていた俺。すこしでもひととは違って見えた俺に、メヒは声をかけてきたのではなかったか。俺に興味を持ったと、そう言っていたのだ。


 それに約束もしたはずだ。真相をみせる代わりに、魂をみせてとメヒはそう願ったのだ。それはいったい何のために。そんなことは決まっている。


 悪魔はひとに焦がれ、或いは羨んで、ひとを眺めていたのだ。ひとを知り、ひとの区別がつくただのひとに、自分もそうなりたいという希望を抱いて。もしもそうであったなら、だれも傷付かずに済んだのにと後悔を胸に秘めながら。


 そうか、俺にはなにもみえていなかったのだなと感じて、ぐっと歯を噛みしめる。母の言葉の、本当の意味を知らなかった。そしてあれだけ側で見てきた、あんなにも考え抜いたメヒの本当の気持ちでさえも。


 俺はもともと鋭くなんてない。ひとが見逃す謎を見つけられるとメヒに褒められて、いくつかの事実を見つけてしまったから、俺はすこしいい気になっていた。


 なんでも知っているはずの姉も、本当はそうではなかった。姉でさえもそうなのだ。それなら俺にいったいなにが見えるというのか。なにが見えていたというのか。

 ポスンと音を立て、姉は枕を掴んだ。


「メヒちゃんが悪魔を名乗った理由、もうアンタにはわかるよね?」


 その言葉に黙ってうなずいて、ありがとうと口にすると姉はフッとほほ笑んでいた。心のもやもやはいつの間にか晴れていて、頭も妙にすっきりとしている。したかった事もようやくみえてきたような気がする。


 すっくと姉は立ち上がり、

「はい。じゃあ、さっさとご飯食べる食べる。片付かないでしょ」

 と手を叩いた。


 追い立てられるようにして部屋を出た。そうだ、やり始めたことはちゃんと片付けないとダメだった。いつだったか、メヒも言っていた。後片付けはいつだって大人の仕事なのだ、と。俺も大人にならないと。


「おお、そうだった。忘れる所だった」

 と思い返し、先を行く姉に声をかける。

 知らないこともある姉に教えておかねばな、と思っていたのだった。

「なあ、姉よ。さっきの『アンタ、バカア?』というのはだな。ある有名なアニメの──」


 顔を真っ赤にさせた姉がその言葉を外で言うことは、もうないだろうなと思った。


 次の日、俺は自宅療養という名のもとにぼーっと安静に過ごすはずだったのだが、居ても立っても居られずに家を抜け出した。あっさり家を抜けれたのは、はたして偶然なのだろうかと疑念をいだく。姉の計らいがあったような気がしなくもないが、それはさすがに考えすぎだったかなと苦笑う。


 平日の昼すぎ、天下の往来を我が物顔でぶらりと歩く。健全な学生としてはすこしばかり気が引けるというものだ。もっともそんなことをあの悪魔が気にしているとは到底、俺には思えないけれど。


 メヒに会いにいくことにした。ひとつ、どうしてもしておくべき大事な話があった。どこかで待ちあわせしたわけでもないが、不思議と会えるような気はしていた。


 初めてメヒと会ったのは、もう閉店してしまったあの大型スーパーだ。それからは謎を求め、ふたりして駅にもよく行った。本屋にも行ったのだった。どこもかしこもひとの出入りの激しい場所ばかりだった。


 きっとひとの波を、ひとの顔を、翡翠の瞳で観るためだったのだと思う。ひと通りの多い所を好んでメヒは佇んでいたのだろう。そしておそらく今も、きっと。なぜかそんな気がする。


 自然と足取りはひと通りの多い駅へと向かう。電車に乗って降りてをくり返すこと、数駅分。駅前に佇むひとの姿を、きょろりきょろりと確認していく。駅前でひとを探すといえばすこし難しそうに聞こえるが、しかしそこは片田舎。ひと通りとは言っても大したものではなく人並みもしれたもの。駅前のロータリーにあったベンチで、すぐにそれらしい人影をみかけることになる。


 しかし、かくりと首をかしげて悩んだ。あれはメヒなのだろうか、と。いままでにメヒを探すのに苦労したことなどはない。それは、いつものあの目立つ探偵服が目印代わりとなってくれていたからだ。


 でも、今日は違った。茶と黒のチェック柄はどこへやら。ひらひらとした、まるでカーテンのような服に身を包み、驚くべきことにスカート姿をしているではないか。どこからどう見ても女の子だった。思いもよらなかった美少女の登場に、声をかけるのにもすこし躊躇いが生まれる。

 ちらりと目を動かし、メヒは言う。


「Kさんはまったく失礼なやつだね。ボクだって気が進まない時もあるさ。なんだい、またまたボクを泣かせにきたってのかい」

 いつもの威勢にほっと息をつく。やおらに近付いていって、隣りへと腰掛けた。

「やはりメヒか。よく俺だとわかったな」


「きみはキョロキョロ辺りを見回し、五秒ボクに見惚れ、三秒人違いだと──。ううん、そんなことはどうでもいいんだい」

 フッと口があがる。そういえば、会った当初もそんなことを口走っていたか。相も変わらずよく見ているなと、感心する。

「ひとを眺めていたんだな」

「まあ、ね」


 あごを手に乗せ、駅の出入口を眺めて、メヒは素っ気なく答える。俺もそれに倣ってしばしふたりして道行くひとの姿を観察していた。お互いにだまってなにも話さず、傍目に俺たちは仲良く日向ぼっこでもしている風にみえているのだろうか。


 言いたいことはいろいろあったけれど、中々うまく話せる気にはならず。いつもとは違うメヒの格好に、俺もちょっとばかしは高揚していたかもしれない。頭に浮かんできたのはこんな言葉だけだった。


「なあ、メヒよ」

「なんだい」

 と聞こえる優しい声色に、喉を鳴らす。


「きみを確実に破滅させないことが出来るならば、俺の利益の為に俺は喜んで死を受け入れよう」

 きょとんとした顔で向き直る。


「Kさん。ボクに倣い、かのホームズの言葉を引用したんだろうけどさ。間違ってるよ。それじゃあ、ホームズがモリアーティの味方になりたがっているように聞こえるよ」


 そう言って、翡翠の瞳を三日月のように柔らかく形作りながら、

「慣れないことをしようとするからだね。まるで告白のようじゃないか」

 くつくつと笑っていた。

「む、そのつもりなのだが。やはり伝わり辛かったか。だが概ね、そんな気持ちだ」


「んん? Kさん、それってつまりその」

 メヒならば伝わるかとも思ったのだが、俺の話し方がよくなかったのかもしれないと反省する。いや、それともこれは伝わったと思ってもかまわないのだろうか。以前、刑事から聞いたホームズの言葉を借りてみたのだが、どうだったのだろう。


 死を受け入れる、──か。


 たとえ偽死だったとはいえ、俺はたしかにあのとき死んでいたのだ。そんな俺が。すでに死を受け入れた人間が、この言葉を口にするのはすこしズルかったか。いや、俺だってすこしはズルくなったりもする。


 ちらとメヒの様子を伺う。あわてふためき茹でダコになっているか。それとも照れ隠しに意地を張るか。冷たくあしらわれたりするだろうか。ぶっきらぼうに返されるかもしれない。


 だがメヒの反応はどれでもなく、それでも驚いてはいるようで、これでもかと言わんばかりに大きく瞳は開かれている。それを初めて目にしたとき、瞬間、目を奪われた。あの宝石のようなグリーンアイ。その両眼にじっと見つめられて、そっと口を開く。


「メヒに破滅してほしくない。泣いてほしくもないし、困ってほしくもない。その為ならそう、俺は死も受け入れるだろうな」


 ホームズとはちがう理由で、だ。自分の利益のために行なうそれは、とてもひとに誇れるものではない。ふり回されている内に気になってしまった女の子に、笑っていてもらおうとしているだけなのだから。


 悪魔を名乗る理由を知ってしまったいま、俺はメヒにそう名乗らせまいとしている。自らを傷付けず済むように、自分を許せるようになるように、と。


 翡翠の瞳からスッと目を離す。ぼうっと中空を眺めながら、そうっとなんでもないことのようにつぶやく。今日はいい天気だというくらい日常のことのように、それがまるで当たり前のことのように。


「──だから、母に会いに行かないか?」


「え」 


 短く発す言葉にはいったいどんな気持ちが込められているのだろう。こんなとき推理ができれば、恐れもせず済むのだろうか。俺は恐れながら、話つづけるしかない。

「メヒは母に会うべきだ。話し合うべきだと俺は思う」

「ムリだよ。だってボクは」

 消えいく言葉には目もくれない。


「俺はずっと母の教えを守ってきたんだ」

 突然の話に訝しげな視線を向けられて、サッと胸に不安がよぎってくる。俺はいちど失敗した身なんだ。ゆっくり目を閉じる。


 優しくあろうとするだけでは何もわかりはしないからと、まるでわかったような顔をして挑んだ。見様見真似で悪魔のように振るまった結果、いたずらにメヒを傷付けることになってしまった。


 ただ優しいだけでは足りないし、悪魔になってもいけなかった。傍若無人に振る舞う悪魔の姿にひとは憧れて、悪魔もまたひとの姿にこそ焦がれている。どちらかなのではない。どちらも混ざってこその人間というものだった。気をつけねばならないなと、胸に手を当てて目を開く。


「だがずっと守ってきたはずのそれは、俺の間違いだったのだと姉に気付かされた。母の想いを知らずに俺はただそれを守り、ただそれに反目し、拗ねていたんだよ」

「子どもみたいじゃないか」

 クスクスと笑われ、

「子どもだったんだ」

 とすこし照れながら答える。


「俺の見ていた世界ではそれが正しいことだったが、姉にはそんな俺が滑稽に見えていたわけだ。ひとの視点とは面白いものだな。視点が変われば世界が変わるし、その視点はひとの数だけあるんだ」

 俺の視点にメヒを捉えて、言う。

「メヒのこともそうなのではないか?」


 じっと見つめてくる。翡翠の瞳は俺の顔が分からないにも関わらず、まじまじと。そして心の内を読んでくる。その瞳が見るのは顔でなく、心の中なのかもしれない。


「Kさん、きみはこう言いたいんだね。ボクがなにかを見落としてるんじゃないかと。まるであの時と逆だね。いいよ、聞かせてもらおうじゃないか。事の真相をさ」


 挑んでくるような視線にたまらず笑い声をあげた。息を整えてから、口をとがらせる悪魔にほほ笑みかける。


「俺に推理はできないと言っただろう。推理するのは、ホームズは。メヒ、君なんだ。だが、せめて俺はその礎になろうと思う」

「ん、どういう意味だい?」

「メヒは聡い」

 口は丸みを取り戻し、口角がやんわり持ち上がる。ふふんと満更でもなさそうだ。


「見事な観察と推理でまさしく探偵だな。それでもメヒには見えてないものがある。文字通り見えていないものが、な」

「ふぅん。それをきみが、ボクの代わりに見てくれるっていうんだね」

「ああ、そうだ。ホームズにはワトスンが付きものだと昔から決まっているだろう?」


 それは姉が、俺の間違いを正してくれたことのように。それはメヒが、俺の固定観念をぶち壊してくれたことのように。俺がメヒの目となり、新たな視点となろう。

「それじゃあ聞こうか、ワトスン君。ボクはいったいなにを見落としたというのさ」

「メヒは子どもだ」


 手で制す。

「まあ待て待て。そう怒るものではない。メヒは母に組織に、命を狙われていると聞いたのだが。それはやはり変ではないか」

 どこがさ、と首はかしげられる。

「いくらメヒが聡いと言ってもだな。大の大人が子どもを殺そうとしたとして、本当に逃げおおせるものだろうかと思ってな」


 クワッと、大きくなった瞳がきょろりと動きだす。鹿撃ち帽をかぶり直そうとしたのだろうか。手が髪に触れた所で、探偵服ではないことに気が付いたようだった。


 メヒがいったいどんな推理をしたのかは俺にはよくわからなかったが、

「会うべき理由ができたみたいだね」

 と高揚するのをみるに、メヒにはきっと事の真相がみえているのだろうなと思う。


 どんな結末になるのかはわからないが、親が子どもを殺そうとするなんてことなければいいのになと、俺は真に願う。


 思わぬスピード解決に、

「さすがはメヒだな」

 と名探偵をほめ称えておく。

 コホンと咳ばらいをし、

「それで、俺の告白の──」

 言いかけると、

「Kさん」

 と改まって名を呼ばれ、

「ありがとう」 

 と、天使のようにほほ笑まれる。


 はじめて言われた感謝の言葉だった。悪魔らしからぬ行動に心臓がドキリとする。探偵への称賛か。それとも、俺の告白か。そのありがとうの言葉はいったいどちらへの返答だったのだろうかと、とうとう最後まで訊くことが適わなかった。


 だが嬉しいとき、褒められたとき。照れたり、意地になったりせず。素直にお礼を述べるというその行為は、紛れもなく俺がメヒに教えたことにちがいなかったのだった。


『──というようなことがあったんだ。姉ならもう知っているのかもしれないがな。一応ここにしたためておくことにする』


 姉と呼ばれたその女は、パラリと便箋を繰る。続きの文には、こう書かれていた。


『俺はメヒといっしょにメヒの母に会ってこようかと思う。彼女には見えなかった母の表情をみれば、母の本当の気持ちがわかるかもしれない。なに、心配はいらないといってもやはり姉は心配をするのだろうか。刑事さんもいっしょだと言えば、まだ安心はできるだろう。ほら、おぼえていないか。あの病院にきてくれていた刑事さんだよ。刑事さんは元々、メヒと母を会わせようと水面下で準備をしていたそうだ。それは俺たちとしても心強いものだ。たぶん危ないことにはならないと思う。メールや電話なら止められるかもしれないと思って手紙にしてみたわけだが、筆不精な俺のことだ。うまく書けているのかはわからないが、姉ならばきっと伝わることだろう。

俺は結局、母の教えを守ったのか。それとも破ったのか。いったいどっちなんだろう。まちがいなく姉には迷惑をかけることになるから、やはり破ったことになるのかな。姉には面倒をかけるが、あとに残る色々なこと諸々、どうかよろしくとお願いする。

されて嫌なことはしない。

ひとに迷惑をかけないように。

だれにも迷惑をかけずに過ごすというのは難しいものだな。誰かに優しくすることでさえも難しくなる。だがひとは、他人とも書くよな。だとするならだ。家族となればまたべつの話なんだろうか。家族ならば、迷惑をかけたとして許してもらえたりしないだろうかなんて、勝手を言っているな。

すまないけれどよろしく頼まれてほしい。どうか頼むよ、お姉ちゃん。

もう飛行機の時間が迫ってきた。そろそろ刑事さんが迎えにくるころだ。詳しい話はまた帰ってきてからにするよ。ゆっくりとちゃんと聞いてほしいんだ。帰ってきたら、たっぷりと怒られるからさ。それじゃ、行ってくる』


「まったくあのバカは、こんな時ばっかり。なにが、『お姉ちゃん』なんだか」


 女はピンと、便箋をつま弾いた。ひらりひらりと手紙は舞いつつ下に落ちていく。しかしその口調とは裏腹に、女の口もとは柔らかく持ち上がっていた。そしてだれもいない部屋でひとり、だれに聞かせるわけでもなくぽつりと口にこぼす。


「本当、アンタは優しいよ」


 困ったようにほほ笑みながら──。


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