サバの缶詰め落下事件
第1話 姉はなんでも知っている
「アンタは優しいね」
前置きもなく突然そう言われたら、どう返すべきなのだろう。
「ありがとう」
と言えば良いのか。
それとも、
「そんなことないぞ」
と
返答に悩みながらすこし身構えていた。
なぜならそれを言ってきたのが俺の姉だったからだ。兄弟で互いをほめ合うような間柄ではない。そんなむず痒くなりそうな風習、あいにくウチにはなかったと思う。
だとしたら、姉はいったいなにを企んでいるのだろうか。
「アンタは優しいよね?」
とまた訊いてくる。
笑顔が力強く、有無を言わさぬ迫力がある。俺はゴクリと言葉を飲み込み、コクリとうなずいた。
「よかったあ。そうだと思ったよ」
顔だけのぞかせていた姉はニッと笑い、ズカズカと俺の部屋へと乗りこんでくる。Tシャツに短パン。いかにも部屋着でございと言いたげなラフな格好をしていた。
長い髪を揺らしつつ、勝手知ったるままに突き進み。ひとのベッドであろうがお構いなしに遠慮なく座る。そして火を灯したような力強い瞳で、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「アンタさ。あたしの代わりに、ちょっとおつかい行ってきてよ」
差し出すその手にはエコバックが握られていた。なんだ、優しいのかという質問はそのためだったのかと合点がいく。
「なんで俺が」
形だけの抵抗をしてみた。
姉も心得たもので、
「いいじゃん。優しいんでしょ?」
ニコリと笑みを崩さない。
自分では行かないのかと目で訴えるも、
「お姉ちゃんは外に出るのにもね。いろいろと準備があって大変なのよ」
と、勝手にひとの心を読んだ上での返事をくり出すのだから困ったものだ。
姉はサトリか何かなのだろうか。
俺はちらと目を配せ、
「外に出る準備か」
と嘆息をつく。
すでに化粧はしているようだし、あとは着替えるだけじゃないのだろうか。いやいや、大学生ともなると他にもいろいろ準備がいるのかもしれないなと思い直す。
それに俺が、女子の準備のなんたるかを知っているとは思えなかった。
俺が知らないだけでいつもお出かけ前には天候が変わらぬ様、山の神に祈りのダンスを捧げていたかもしれない。こっそりとブードゥーの儀式を施してから外出するのが恒例だとしても、何ら不思議ではない。
そんな想像をしていると、にわかに姉からの視線が鋭くなった。半眼の瞳で首をクイッとかしげてみせる。
「アンタ、またつまらないこと考えてるでしょ?」
おお、やはり姉はサトリかもしれない。そのままサトリはニヤッ、と口の端を持ちあげた。
「それにアンタね。だれがご飯作ってあげると思ってるのよ。もう冷蔵庫の中はすっからかん。さっさと買い物に行かないと、昼も夜も抜きになるけどそれでいいの?」
ふむ、それを言われると弱い。
料理のできない俺にとって、姉の料理はまさに生命線なのだ。そもそもはじめから俺に拒否権などはないに等しい。
ささやかな抵抗も虚しく、
「ん」
と手をだすと、
「よし」
と買い物のメモを渡された。
ちらりと目をやって、メモのなかにカレーのルーという文字を見つけて口もとを綻ばせる。どうやら今日はカレーのようだ。俄然、やる気がでてきた。エコバックと財布も受け取って、すっくと立ち上がる。
姉はやれやれと息をつき、
「アンタは優しいよ」
と、今度は眉根を寄せて困ったような表情でつぶやく。
む、その困った顔は俺がするべきだと思うのだが。のっそりと部屋を出ていく背に向けて、元気いっぱいな声が投げられる。
「気をつけて行きなよ」
何にだ、車にか。
はたしてそれは高校生にかける言葉なのか。まるではじめてのおつかいのような気持ちで送りだされてしまう。
おお、姉よ。こっそりとあとをつけてきやしないだろうなとふり返った。
自転車にまたがり、肩越しに姉の姿がないのを確認してから自転車をこぎ始める。もうすでに腹は減っていた。これはどうやら急いだ方がよさそうだ。
ペダルを漕ぐ足にも力が入る。
曲がり角を
「どうした、ぼうや」
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