第7章 風は種を孕みゆく

           1.あね・いもうと


 翌日午後遅く、ルシアは森に入った。

 非戦闘員のアサッシンたちと一緒にだ。

 強行軍だった。夜も寝ずに進んだ。背中から今にもアジェンタ軍が襲ってくるのではないか、と思えた。

 だが、アジェンタ軍はやってこなかった。

 ギャラハットたちがよく抑えていると見るべきだった。

 「太陽王ならば、負けることはない。大丈夫だ」

 アサッシンたちはそのように言いあい、励ましあった。

 「太陽王」という存在は、アサッシンたちの間で大きく確かなものに成長しているようだった。

 峠は喧騒を極めていた。大規模な土木工事を行っていた。

「柵を作っているようですな」

 アサッシンの一人が周囲を見渡しながら言った。

 たくさんの人々が働いていた。アサッシンもいれば、見慣れぬ風俗の男たちもいる。これが森の民であろうか。ふたつの民族が混じって、伐り出したばかりの巨木を運んでいる光景がそこかしこで見られる。

「提督さま……!」

 ルシアは人々の中にケインの姿を認めて呼び掛けた。

 馬車を降りて、駆け寄った。

 ケインの側には一人の少女がいた。二人が作業の指示を出しているようだった。

少女はルシアに振り返った。思わずルシアは足を止めた。不思議な感覚が胸に湧き上がっていた。少女もルシアの顔を凝視している。

 「ルシアではないか。無事に着いたか」

 ケインはおおいに喜んだ。ルシアの手を取って引き寄せた。

 「迎えに行けなくて悪いことをした。しかし、防柵を突貫で造らねばならなかったものでな……おっと」 

 ケインは気がついて、少女を紹介した。

 「この方が森の民の族長の立場におられるソフィアどのだ。まだ子供の年頃だが、立派に部族をまとめておられる。わしも感服して協力させてもらっておる」

 少女は微笑んだ。子供っぽい顔かたちに大人びた表情を浮かべている。

 「ルシアさんですね。お話はケイン提督からうかがっています」

 ルシアは慌てて挨拶を返した。これではどちが年上だかわからない。

 ソフィアはルシアとケインをいざなって、森の部落に入った。

 部落も慌ただしかった。人が動き回っている。

 「村がこのように活気に満ちたことはついぞなかったことです。アサッシンの人々ともうまくやっていけそうです。それが戦争のためとは皮肉なことですが……」

 ソフィアの家に案内された。

 居間に通された。お茶が出た。給仕は可愛い顔立ちの少年だ。ラナスである。

 ルシアはラナスに微笑みとともに礼を言った。ラナスは赤くなった。

 しばらくお茶を喫した後、ソフィアは口を切った。

 「いま、森を防塞化しようとしています。巨木を伐り出し、森へ入る峠を封鎖するための柵を造ろうとしているのです。多くの木を伐らねばならないのは悲しいことですが、森全体を守るためにはやむを得ません」

 ソフィアはアサッシンと結び、アジェンタと闘うと言った。アジェンタに屈すれば、今後森は列強の間で争奪されることとなろう。まずアジェンタの野望を挫き、列強の欲望が首をもたげるのを防ごうと言うのだった。

 「カーラの関門が破られたらしいというのは、それにしても痛手じゃな」

 ケインが沈痛な面持ちで言う。

 「ギャラハットは無事じゃろうか」

 ルシアは無言だった。ギャラハットの消息は知れない。おそらく、カーラの関門付近でアジェンタ軍と戦っているのではないか。伝令も跡絶えていた。

 「救援を出してやりたいのだが……そんな余力はないのが現状じゃ。とにかく、柵を造り上げ、最低限の防御拠点を築かぬことには」

 「わかっています」

 ルシアはようやくかすれた声を出した。

 「今やれることをやりましょう。わたしが手伝えることなら何でもします」

 「ありがとう。人手は多ければ多いほど助かります」

 ソフィアは頭を下げた。元に戻したソフィアの顔は上気していた。見れば、目許にはうっすらと光るものがある。

 ケインはそれを横目に見て、ソフィアに向けてかすかにうなずいて見せた。

ケインはルシアに向き直った。

 「ルシアよ。おまえにはまだたくさん聞きたいことがあるのではないかな。ここへ来た本当の理由があるだろう」

 ルシアは首肯した。時が時だけに個人的なことは堪えようとしていた。もしも、ここにアジェスと父親がいるならば、かならず会えるはずだと思っていた。何も、多忙なソフィアをわずらわせることはないと考えていた。

 「アジェスもダン・ラズロもここにはいないそうだ。アジェスはダン・ラズロを迎えに森の中心部に向かったという。今日あたり戻ってくるだろうということだ」

 「父はやはり、生きていたのですか!?」

 胸が高鳴っていた。父の顔形は記憶の底にかすかに残っているだけだ。声もはっきりとは覚えていない。だが、母の話や港の人々の話から彼女なりのイメージを形作っていた。誇るに足りる男だったと信じている。

 その父に再会できるかもしれない。話したいことがやまほどある。今までのことをすべて話したい。そして、質問したいこともある。なぜ、自分と母のもとに戻ってきてくれず、便りすらも寄越さなかったのかを。いかに辺境にいるとはいえ、手だてがなかったとは思えない。

 でも、嬉しさが先に立つ。ルシアはもう一度呟いた。

 「父が……生きている」

 「ええ。ですが、もう二年近く音沙汰がありません。父は村を捨てたのです」

 ソフィアが言った。

 「え?」

 ルシアは一瞬耳を疑った。ソフィアは何と言ったのか。

 「ルシアよ……おまえがこのことをどう思うかはわしにはわからん。わからんが、事実は事実として受け入れねばなるまい」

 ケインがゆっくりと言葉を紡いだ。

 「このソフィアどのはダン・ラズロの娘御であるということだ。すなわち、おまえとは腹違いの姉妹ということになる」

 ルシアは弾かれたように目前の少女に視線を向けた。

 ソフィアの双眸に涙が大きく盛り上がっている。


 その後、ケインは工事現場に戻ったが、ソフィアはルシアの側を離れなかった。

 話を続けた。

 ソフィアの話をルシアは聞きつづけた。ソフィアは延々と喋りつづけた。語ることが嬉しくてたまらぬかのようだった。それによってルシアは、難破してからの父の航跡を知ることができた。

 と同時に、ソフィアはルシアのこれまでを知りたがった。ルシアもぽつぽつと話し始めた。始めると、すべてを知ってもらいたい衝動が突き上げた。ソフィアが身近な存在に思えてならなかった。すべてを理解してもらえそうな気がした。

 実際、ソフィアはルシアの物語に鋭く反応した。ルシアが一番辛いと思っている部分では涙を流し、楽しかったことを話したときには幼子のように笑いこけた。

 お互いに語り合うことで、わだかまりは解けていた。

 いつの間にか夜が訪れていた。

 食事どきにケインが戻り、状況を報告した。

 柵の構築は順調に進んでいた。今夜突貫で作業をし、朝には仕上がるであろう。

「ギャラハットから何か連絡は?」

 ルシアが訊いた。

 ケインは首を横に振った。

 「しかし、ロスタムの軍勢がまだ現れぬところを見ると、どこかで防いでおるのだろう。物見として、アサッシンの若者に出発してもらった。明日の昼までには何らかの報告があるだろうて」

 今はその返事で満足するしかない。だが、ルシアの表情は暗くなった。

その夜、ルシアとソフィアはひとつの寝所で眠った。


その頃。

 ギャラハットは戦場にいた。

 数の上ではまったく勝負にならない。ギャラハットが動かせるのはわずかに三十数名ばかりに減ったアサッシンたちだけだ。

 正面からぶつかったのではどうしようもない。

 機会を窺っていた。

 アジェンタ軍がカーラの関門を破った直後は狙い目だった。

 彼らはいったん隊列を整え、朝まで仮眠をとっていた。

 しかし、厳重な警戒を行っていた。攻め入れば、簡単に殲滅されてしまいそうだった。

これでは夜襲は通じない。

 ギャラハットは、アジェンタ軍の行軍に伴って、その行軍の中に隙を見出そうとした。

 アサッシンに、ここから賢者の森までの地勢を詳しく聞き、攻めるに適した場所を熟考した。

 アサッシンの持ち味はなんといっても接近戦だ。

 それを生かせる地形がいい。

 結局、賢者の森まで一時間ほどの距離にある狭い峡谷がよいとなった。

 この峡谷を抜けて、急斜面を登り、峠を越えれば賢者の森に入れるのだという。

 ここでは、アジェンタ軍も縦に伸びざるを得ない。

狙いはロスタム一人だ。ロスタムの異常なまでの執着心が全軍を引きずっている。ロスタムを斃せば、アジェンタ軍は壊乱するだろう。

 ギャラハットはアサッシンたちを率いて、アジェンタ軍に先行した。

 夜、今も走っている。

 行動の跡をアジェンタ軍に発見されぬために、山肌を縫うようにして行く。山走りの得手なアサッシンにはよいが、騎馬のギャラハットには少々面倒な行程だ。

 アジェンタ軍の行動は、二人のアサッシンに監視させている。何か動きがあれば、すぐに狼煙で伝える。

 よく伝説や物語で不敗の将軍の話が出てくる。かれらは神のように敵の動きを予見し、罠をかけ、それは外れることがない。敵の動きはこちらに筒抜けなのに、こちらの動きはまったく敵には伝わらず、伝わっていたとしてもそれは将軍の機略による偽情報であったりするのが物語の相場であるらしい。

 そんな楽なものかよ、とギャラハットは思う。今、ギャラハットが情報戦でアジェンタ軍よりも優位に立っているのは、地の利に通じ諜報活動に長けたアサッシンたちが配下にいるからだ。と同時に、ロスタムという男が戦時偵察という発想を持ち得ぬ愚物であるからでもある。それでも数の差は補えないものなのだ。現に、ギャラハットは戦闘そのものには勝利しつづけながらも、じりじりと戦力を殺がれつつある。

 そして、情報戦の優位も崩されつつある。

 アズマが死んだ。アズマは得がたい情報将校であった。それを失ったことは、ギャラハットから目と耳を奪ったに等しい痛撃を与えた。

 同時にアル・アシッドの存在もある。敵側にアシッドがいる限り、アサッシン流の作戦は通用しないだろう。

 だが、今はあまり深く考えないようにした。

 考えて有利になる状況ではないからだ。

 ただ闘うしかない。

 


 ギャラハットが走っている。

 砲弾が炸裂した。

 無数の破片がギャラハットの肉体にめり込む。

 鮮血が迸った。

 金色の髪が空に散った。

 血液が大地に吸い込まれていく。

 焦げた指先が、地面を弱々しく引っ掻く。

 絶命した。

 ルシアはギャラハットに駆け寄った。

 つい今し方までギャラハットであったそれは、今は顔のない肉塊であった。

 裂けた腹腔から、鉛色の腸が流れ出していた。

 ルシアは脊椎を貫く恐怖に絶叫していた。


 「どうしたの、ルシア姉さん」

 ソフィアが心配そうな声を耳元に送っていた。

 ルシアは我に返った。目を見開いていた。闇の中にいた。

 寝所であった。ルシアとソフィアは寄り添うようにして眠っていた。

 ルシアは夢を見たのだ。

 「どうしたの、ひどい汗」

 ソフィアの小さな冷たい手がルシアの頬を撫でていた。

 「ギャラハットの夢を……みたの」

 「悪い夢ね」

 ソフィアが立った。水を注ぐ音がした。水差しから器に水を汲んでくれたのだ。

 ルシアはソフィアから器を受け取った。受け取ってから気がついた。喉がからからだった。

 「ありがとう。ソフィア」

 ルシアはふと、母親と二人で暮らしていたときのことを思い出した。

母親は優しかった。病気がちだった子供の頃、母親に看病してもらったときのことが忘れられない。発熱したとき額にあててくれた掌の柔らかい感触は、今もはっきりと思い出せる。身体を売って、心も蝕まれ、ぼろぼろになって死んでいった母親の悲しみが、ルシアの血の中には溶け込んでいる。

 「ソフィア、ここに来て」

 ルシアはソフィアに呼び掛けた。

 ソフィアはルシアの側に座った。

 「ソフィア、わたしはあなたに謝りたいことがあるの。わたし、あなたのことを提督さまから聞いた瞬間、嫌だな、と思ったの。父さんがわたしや母さんのことを忘れて、あなたのお母さんと結婚していたと知ったときに……悔しかった。母さんが惨めに死んでいったことを思うと、あなたのことを……一瞬だけど……憎いとさえ思ったわ。だって、わたしの父さんと、ずっと暮らしていたんだもの」

 ソフィアは無言だった。かすかに、肩が震えている。

 ルシアは言葉を続けた。自分の心の中にある腫瘍を今は直視しなければならないと思っていた。そうしなければ、ソフィアと本当のきょうだいにはなれないと思っていた。

 「でも……それはソフィアのせいじゃない。もちろんソフィアのお母さんのせいでもない。父さんも悪くない。だれかのせいで自分が不幸になったと考えることは、不幸であること以上に悲しいことだわ。同じように、好きな人を好きだと認められない心は病んでいると思う」

 「ルシア……」

 「ソフィア、わたしはあなたが大好きよ。あなたの顔形も、声も、よく気がつくところも、勇気があってどんな苦境に立っていても挫けない強さも……あなたは最高だわ」

ルシアはソフィアの手を取った。

ソフィアはびくりと震えた。泣きそうになっている。ルシアはびっくりした。ソフィアは潤んだ声で言った。

 「わたし、最高なんかじゃない。ほんとうは族長なんか、できる人間じゃないんです。わがままだし、勇気だってない。恐い。戦争も、男の人も……」

 「男の人が……?」

 「去年、乱暴されたんです。アル・アシッドという男に」

割れそうなガラスのように透明なソフィアの声だった。

 ルシアは息を飲んだ。ソフィアはようやく十三歳になったばかりの少女だ。

 「アシッドは、ずっと狙っていた、と言いました。森の民を支配するためには、族長の血筋の娘を妻にするのが早道だと。何度となく押し倒されました」

 ルシアは、アル・アシッドの風貌を思い浮かべた。切れすぎる刃物のような印象の男だった。アル・アシッドが裏切ったことは、すでに伝わっていた。

 「ソフィア……かわいそうに」

 ルシアはソフィアを抱きしめた。

 「姉さん……」

 ソフィアは嗚咽を始めた。

 「誰かに……本当は相談したかったの。でも、ここではわたし、族長だし……アジェスやラナスには絶対に話せなかったし……」

 「大丈夫よ、ソフィア。気になんかすることはないわ。これからはわたしがいる。あなたにアル・アシッドを近づけはしない」

 「姉さん……」

二人は抱き合った。心が溶け合うような気がした。二人の悲しみや屈託は消え去りはしない。だが、共有しあうことで重荷は減っていた。それは確かなことだった。




     2.死の谷


 翌日未明、狼煙が上がった。

 ギャラハットたちは峡谷の上部に陣取っていた。見晴らしはよく、狼煙もはっきり認識できた。ここしばらく好天が続いているのも幸いしている。

 ギャラハットはアサッシンに翻訳をさせた。

 予定通りにアジェンタ軍はこちらに向かっている。

 アル・アシッドに解読されぬために、暗号を組み替えた狼煙だった。

 「アシッドも馬鹿ではない。たとえ内容がわからずとも、意味は読み取るだろう」

 ギャラハットは長い顔をほころばせた。ここ暫くの戦場焼けで、すっかり肌の色が濃くなっている。無精髭も伸びっぱなしだ。

 「もっとも、こちらの手の内が読まれていたとしても、やれることはひとつしかない。作戦通り、この峡谷で敵を襲い、ロスタムを殺すのだ。それでもアジェンタ軍の行動を阻止できぬとあっても、後がなくなったわけではない。森には今、柵が構築されつつあるというしな」

 昨夜、森からの斥候と接することができたのは幸いだった。有用な情報が手に入った。また、自分たちが健在であることも伝えられた。これで、いざとなれば、賢者の森に残存している戦力と連繋することもできる。

 そのことをギャラハットは頼もしげに言った。アサッシンたちの顔から、張り詰めたものが若干だが解けた。過剰に入っていた力が肩から抜けたらしい。

もっとも、内心のギャラハットは口ほどには楽観はしていない。

 「所詮はにわか造りの柵だ。ものの役には立つまい」

 そう思っている。だが、それは口にするべきことではない。士気にかかわる。

 アサッシンの顔に希望の色が浮かんでいた。同じ戦うのでも、希望を持っている兵の方がいざという時の粘りがある。逆に死を決意した兵士、すなわち死兵は生還を期待していない分、もろい。

「そろそろ配置につけ。やつらが来るまで、じっと我慢だ。声も立てるなよ」

 ギャラハットは命じ、アサッシンたちはそれぞれの持ち場に散った。

 合図をしてからの動きは検討に検討を重ねていた。

 狙いはロスタムの命だ。もしも可能ならば火砲も奪う。奪取が不可能ならば、火砲を使えなくするだけでいい。

 それでおそらくアジェンタ軍は戦意を失うはずだ。

 ギャラハットは数人のアサッシンと固まって、地面に伏せた。下から見られないようにするためだ。

 (ルシアはどうしているだろうな)

 日射にさらされた地面の熱を腹から吸収しながら、ギャラハットはふと思った。

 (アジェスという男と会ったのだろうか……)

 あさましいと思いつつも、想像せずにはいられない。

 眉間にしわを寄せて熱い息を吐くルシアの表情を思い浮かべた。

 (馬鹿か、おれは。もうすぐ死ぬかもしれないってのに)

 われながらおかしくなって、ギャラハットはくつくつと笑った。

 側に伏せているアサッシンは不思議そうな顔をしたが、声は立てなかった。

 じりじりと時間が経った。


 「きた」

 低い囁きがギャラハットの耳朶をうった。ギャラハットは、はっとして目を凝らした。意識が断絶していた。寝ていたのかもしれない。

 確かに、アジェンタ軍の行軍だ。まず、騎兵隊が先行している。威力偵察も兼ねている。

その後を少し離れて、主力の騎兵隊、歩兵と砲兵が中心の中軍が続いている。おそらくねロスタムもその中軍にいるのではないか。中軍の後は輜重隊の荷車が続き、しんがりは軽騎兵と歩兵からなる部隊だ。

 総勢千名ほどと見える。

 「ここからが正念場だ。見つかるなよ」

 ギャラハットは小声で最後の指示を出し、後は岩と一体になった。

 威力偵察部隊は、峡谷の前で停止し、周囲に騎兵を飛ばした。

 伏兵を探しているのだ。

 これに発見されてしまったら、すべては水の泡だ。

 アサッシンたちはすべて見事に気配を断ち、岩になりきっていた。ギャラハットも砂をかぶり、大地に同化している。

 偵察は、しかしおざなりなものだった。峡谷の入り口周辺と出口のあたりを調べると満足したらしい。後続に合図を送り、自分たちは進み始めた。

 「いいぞ」

 ギャラハットは心の中で快哉を叫んだ。アル・アシッドが行軍に随行していれば、アサッシンの戦法はすべて見抜かれてしまう。ギャラハットもそれを恐れていたのだが、杞憂であったようだ。

 「勝てる」

 そう確信した。狭い峡谷で乱戦に持ち込めば、数が少ない方が逆に有利になる。多い方は同士討ちをする危険が大だからだ。当然、攻撃は手薄になり、いっそう寡兵の優位さが明瞭になる。

 アジェンタ軍がそろりそろりと峡谷を通過しはじめた。

 「まだだ……まだだ……ロスタムは……」

 火砲が馬車に積まれてガタガタとひどい音を立てている。

 その後を、華麗な騎馬兵が優雅に進んでいる。

 「側近の騎兵たちだな……ということは」

 ギャラハットは、ひときわ豪奢な甲冑を身に着けている男に目をつけた。

 陽光を受けて甲冑がきらきらと輝いている。見ると、身体もぽってりと太っている。

 「ロスタムだ……!」

 ギャラハットは、以前に何度か宮廷で会釈をしたロスタムの風貌を思い描いていた。どうやら、そうらしい。

 「やつが真下に来たときに、いくぞ」 

 ギャラハットは合図を出した。アサッシンたちの間に緊張がみなぎった。

 騎兵たちが峡谷に入った。狭い峡谷だ。一列縦隊になって進んでいる。

 「行くぞ!」

 ギャラハットが立ち上がった。それを潮に、アサッシンたちが一斉に動く。

 斜面をましらのように駆け下る。

 声は立てない。無言の襲撃だ。

 ギャラハットも、斜面を、これは滑って降りていた。

 剣を抜き放っている。

 乱戦には銃はむしろ邪魔だ。短めの槍か剣が一番いい。

 アサッシンたちは槍、もしくは短剣を手にし、ギャラハットは刃が大きく湾曲した山刀を持っていた。

 滑り下り、すぐさまそれぞれの獲物を見つけて突進した。

 火砲を狙う者。

 騎兵の馬を標的にする者。

 峡谷の前後に進んで混乱を拡大する者。

 そして、ロスタムの首を取る者。

 最後の担当はギャラハット自身である。

 「ロスタム!」

 叫びつつ、甲冑姿の男に突進する。

 男は狼狽したのか、慌てて馬の手綱を引きすぎた。

 驚いた馬は激しく跳ね、男は鞍から飛ばされた。地面に激突して転がる。腰を打ったらしく、立とうとしない。

 「馬鹿め!」

 ギャラハットは男に向かって走った。

 「待てっ!」

 騎兵の一人が槍を構えてギャラハットの行く手を遮る。

 「狼藉者めが!」

 鋭い気合いとともに槍が繰り出される。

 ギャラハットは身体を捻ってそれをよけ、山刀を下から上に薙ぐように振るった。

 骨に刃がぶち当たる鈍い音がして、騎兵の両の上腕が鮮血の弧を描きながら飛ぶ。

 騎兵は絶叫しつつ、ギャラハットの前を駆け抜けた。

 ギャラハットはロスタムを探した。だが、落馬してうずくまっていた男の姿は消えていた。

 「ロスタム、どこだ!」

 ギャラハットは周囲を見回した。ロスタムの姿はない。

 「太陽王……!」

 アサッシンが数人駆け寄った。彼らもロスタムを狙う役割を負っていた。

 「ロスタムは!?」

 「やつは落馬をして腰を打っている。このへんにいるはずだ、探せ!」

 ロスタムを逃がしたのでは作戦は意味を失う。

 ギャラハットはアサッシンたちとともに、周囲に注意を配った。あたりでは、ギャラハットの狙い通り乱戦が繰り広げられている。アサッシンはよく動いていた。アジェンタ軍は逃げ惑うしかない。

 だが、何かおかしい。ギャラハットの勘は戦場を流れる異常な雰囲気を察知していた。

 「敵が薄い……中軍にしてはあまりに少なすぎる」

 敵の最密集部隊を狙ったはずなのである。それなのに、周囲での戦闘はアサッシンとアジェンタ兵とがほぼ同数の状態で行われている。

 アジェンタ兵が急速に前後に退いているのだ。そのため、中軍のいるあたりが急に疎になったのだ。

 「太陽王、変だ。やつらは襲撃に気付いていたみたいだ」

 アサッシンの一人がギャラハットに近づいて言った。

 「やつら、戦わずに逃げていく。このままでは、入口も出口も塞がれて、挟み撃ちに遭うのではないのか」

 ギャラハットの顔が歪んだ。このアサッシンの言う通りだった。はめられたのは、どうやらギャラハットの方だったらしい。

 「ようやく気付いたかね、太陽王」

 背後から、揶揄するような声が響いた。

 ギャラハットは振り返った。

 きらびやかな甲冑をまとった男が立っていた。

 男は目深にかぶった兜を取り去った。

「てめえ、アル・アシッド!」

 切り揃えられた前髪の奥で、白目がちの細い目が笑っていた。

 「見事な指揮ぶりだったよ、太陽王。ここで襲撃をかけてくることは見え見えだったが、それでも手配りはたいしたものだ。感心したよ」

 「ほめられても嬉しくないな。落馬もわざとか」

 ギャラハットはアシッドを睨みつけた。

 「ロスタム公がいるところにアサッシンは集まる……だろ?」

涼しい顔でアシッドは言った。アサッシンにもめずらしいほどの整った容貌であるだけに、今このようにしてさらさらと物を言うと、貴公子のような印象をすら与える。

 「ロスタムは、どこにいる」

 「あの男が自らを危険に晒すはずがあるまい。しんがりの軍に守られて、ゆったりと来ておるよ」

 「いいようにあしらってくれたものだな。すべてお見通しというわけだ」

 ギャラハットは、じりり、間を詰めた。

 視線はアシッドから離さない。

 「その様子なら、峡谷の前後はもはや塞いだのだろう?」

 「当然だ。ばかりではないぞ。上を見ろ」

 ギャラハットは用心しながら視線を上に向けた。

 峡谷の上にもアジェンタ兵が移動している様子が見て取れた。

 上への道も封じられた。

 「袋の鼠というわけか……」

 ギャラハットは吐き捨てた。アサッシンの長所を生かすための峡谷が今は枷になっていた。

 「どうするね、不敗将軍のギャラハットどの。今までと同じように、切り抜けられるかね?」

 アシッドの口元は今にも裂けそうなほどに吊り上がっている。

 「さあて……な」

 ギャラハットは首を捻った。関節を派手に鳴らした。

 「ま、やってみるわな」

 言うなり、アシッドに突進した。

山刀を叩きつける。力任せの一撃だ。

 が、アシッドは反応している。後方に跳ねていた。

 「お手並み拝見といこう」

 笑いながら、宙に浮いている。

 ギャラハットの山刀が空のみを切る。

 その時にはアシッドは、ギャラハットの視界から消え失せている。

 ギャラハットは深追いはしない。すぐさま走り出した。

 アサッシンたちについてくるよう、身振りで示した。

 「前方の敵を突破する!」

 中軍の大半を残している後方よりは突破できる可能性はまだしもある。だが、いったい何人が囲みを突破できるものか、まったく見えない。

 アサッシンたちはギャラハットの後を追った。

 主を失った馬を見つけると、それを拾っていった。

 行く手に残るアジェンタ兵は蹴散らした。

 二十数名が一団になった。

 峡谷の出口を目指して、疾走を始めていた。

 

 

       3.再会


 「敵が見えたぞ!」

 その報告が集落に駆け抜けていた。

 女たちは昼食の支度をしていた手を止め、子供を家の中に引き入れ、閂を扉に入れるように命じると、自分たちは柵の前の広場に集まった。炊き出しやその他の仕事が山のようにあった。

 男たちは老いも若いも関係なしに防御柵に集合する。

 森への入り口である峠に設けた即席の柵だ。

 伐り出した木を地面に突き立て、並べただけの柵だ。扉は一箇所にだけある。突貫工事で造られたことを考えれば、これ以上は望むべくもない出来だ。

 柵はこれだけではない。その前方にも人の背丈ほどの柵を数箇所配置してある。この小規模な柵にも守備兵が入り、敵騎馬の侵入を防ぐ。

 柵内では人々が慌ただしく防備の準備をしていた。

 石を運び集め、大釜で湯を煮立たせ始めた。柵に取り付く兵がいたら、この熱湯で撃退するのだ。

 恐ろしいのは火砲だが、対策は何もなかった。弾が尽きてくれていることを望むばかりであった。

 「ケイン提督、状況は……?」

 ソフィアも峠にやって来ていた。ルシアもいる。

 ケインは憔悴した顔をソフィアに向けた。どうやら昨夜は一睡もしていないようだ。ただでさえこけた頬がいっそうえぐれている。しわひだも深さを増したようだ。肌にも精気がない。

 だが、双眸には力があった。気骨だけは廃れることがないようだ。

 「物見の報告によれば、アジェンタ軍は峡谷を抜けたとの由、あと半刻もすればここまでやって来ましょう」

 「ギャラハットは? まだ戻らないの!?」

 ルシアは青い顔で訊いた。その肩をそっとソフィアが支える。

 ケインは辛そうな顔をした。

 「言いづらいが、ルシアよ。アジェンタ軍があの峡谷を抜けたということは、ギャラハットの策は実らなかったということじゃ。されば、その命も……」

 「うそ!」

 ルシアは叫んだ。

 「ギャラハットが死ぬはずない!」

 「ルシア……!」

 「姉さん……」

 取り乱しかけたルシアの意識は、二人の家族によって平衡を取り戻した。養父と、腹違いの妹と。

 ルシアは口元に弱々しい笑みを浮かべた。

 「ごめんなさい……大声を出してしまって……。でも、ギャラハットは生きている、そう信じていたいの……」

 「そうだとも。わしも気弱になってしまった。あの男がそうたやすくやられるはずがない」

 ケインも気を取り直すように言った。

 「さてと……! わしは前衛の柵に入っておるシルバと打ち合わせをしてこよう。また、後でな!」

ケインは大股に歩み去っていった。

 「ソフィア……!」

若い声がソフィアを呼んだ。

 ラナスが息を弾ませながら駆けてくる。

 「ソフィア……ここにいたのかい、探したよ!」

 「どうしたの、ラナス。そんな慌てて」

 ラナスは地面にへたり込み、激しく肩を上下させている。しゃべるのも辛そうだ。

 「それが……たんだよ」

 「え?」

 「帰ってきたんだよ」

 「帰って……父さんが!?」

 ソフィアの声が高くなった。

 ラナスは初めてソフィアの顔を見上げた。

 「ちがうよ……帰ってきたのはアジェス一人だよ」

「えっ」

 ソフィアの表情が凍った。

 「アジェスさん……だけ……?」

 ソフィアは茫然として呟いた。期待が大きかっただけに、衝撃も大きかったのだろう。目にみえて失望していた。

 「でも、アジェスが戻ってきたんだ。もう大丈夫だよ。アサッシンなんかに守ってもらわなくたって……あ、ごめんなさい」

 ラナスは、ルシアを見て、ばつの悪い顔になった。

 ルシアは微笑んだ。

 「気にしないで。わたしはアサッシンではないから。でも、今はアサッシンは味方よ。そんなふうに言うのはよくないわ」

 「ごめんなさい」

 ラナスは素直に詫びた。詫びてから、ルシアをちらりと盗み見た。頬を赤くした。

 「どうしたの、ラナス」

 ソフィアが見咎めて問うた。

 「えっ? いや、あの……ルシアさんてきれいだなあって……」

 ラナスはしどろもどろで口走っていた。

 「まあ」

 ルシアは口元を抑えて笑った。

 ソフィアがふくれている。

 「なによ、ラナス、姉さんばっかりほめて」

 「あ、いや……ソフィアも……かわいいよ」

 そう言って、いっそう顔を赤くした。

 ソフィアも頬を染めた。

 (ソフィアにも……こんなに子供っぽい表情があるんだ)

ルシアはそう思うとなぜだかとても嬉しかった。

 「あ、アジェスが待っているといけないから……」

 ラナスは踵を返した。

 その動きが止まった。はしゃいだ声を上げた。

 「アジェス、こっちに来たの?」

 その声は、集落の方から近づいてくる男に対して投げかけられたものだった。

 ルシアは撃たれたように硬直した。

 見覚えのある歩き方だ。ほんの少し右足を引きずるような、それでいて、ゆったりとした大きさを感じさせる。

 腕っ節が特に強いわけではない。弁舌が立つわけでもない。外見が際立って立派だというわけでもない。だが、人を惹きつけずにはいられない何かがあるようだ。

 それはきっと、アジェスという男に常人にはない純粋さがあるからではないのか。

 ルシアはギャラハットを愛しているが、アジェスとギャラハットのどちらがより「好ましいか」となると、ためらいなくアジェスを挙げるだろう。アジェスに捨て置かれながらもそう思わざるを得ない。

 アジェスは現世の損得勘定では行動しない。わかりにくい男だ。

 ふつう、男は自分の力を誇示しようとする。とくに女に対してそうだ。こんなに強いのだ、と自らを大きく見せようとする。と同時に、自分よりも強いもの、大きいものに対しては従順だ。強さによる位階性に甘んじる。強いものに対しては尻尾をふる。

 だが、アジェスはふつうの男とはちがう。剛直な芯が魂を貫いて走っている。

 アジェスは道連れをもとめない。保護も求めなければ、子分も持とうとしない。

 信念がある男は社会に溶けこみづらい。だから、一人でしか旅をしない。他人を巻き込むことを好まない。他人を自分の信念に巻き込みたがるのは、暴君だ。暴君になることを選ばない男は一人で生きざるを得ない。

 そうルシアは男を理解している。そう理解できるようになったからこそ、アジェスを想うことをやめた。

 アジェスという男は恋愛の対象にはなり得ない。風のように実体がないのだ。

 風は音に聞こえる。肌に感じる。その巻き上げる砂塵を目で捉えることもできる。

 だが、抱きしめることだけはかなわない。そういうものなのだ。



茫然として、アジェスは集落を歩いていた。

 数日の間に集落は一変していた。

 あちこちに巨木の切り株がある。伐り倒されたままの太い幹もそのまま残されている。

 人々も慌ただしく行き来している。しかも、森の民に混じってアサッシンたちも立ち働いている。信じられぬ光景であった。

ラナスからはまともな話は聞けなかった。興奮してすぐさま走り去ってしまった。アジェスはやむなくラナスを追った。

 しばらく行き、森の出口に近づいた。

 見慣れぬ構造物ができていた。ちょうど森に入る峠道にそれはあった。

 柵か。どうやら、木々を伐り倒したのはあれを造るためであったらしい。それは納得がいった。

 だが、何が起こったというのか。

 「アジェスさん……お帰りなさい」

 アジェスに声を掛けたのはソフィアだった。

 ラナスがいた。地面にへたりこんでいる。

 そして、ソフィアとラナスの他にもう一人、娘がいた。見知らぬ娘だ。アサッシンの若い娘であるようだ。そういう服装をしていた。

アジェスはアサッシンの娘を凝視した。息をのんだ。

 「ルシア……」

 アジェスは呟いた。雰囲気が変わっているが、確かにルシアであった。だが、なぜここにルシアがいるのか。

 「アジェス・ルアー……」

 ルシアは、そう言って絶句した。言葉が続かないらしい。

 「なぜ……」

 と、アジェスは問おうとした。問おうとして、ルシアの傍らにいるソフィアの表情に気がついた。ソフィアは懸命な視線をアジェスの顔に合わせていた。アジェスの表情から、ダン・ラズロの安否を探りだそうとしているのか。

「ソフィア……すまぬ。ダン・ラズロを連れてくることはできなかった」

 正直に詫びた。ソフィアの眉がきゅっとすぼめられる。紅い唇を噛んだ。

 「父は……どうしていましたか……? まさか、死んでいたのでは……」

 ソフィアは言い募ろうとして、言葉に詰まった。

アジェスは困惑した。だが、あやふやな言葉はいっそうソフィアたちを傷つけるだろう、と思った。

 「死体はあった。だが、それがダン・ラズロのものであったかどうかは確かめられなかった。それに、おれはダンと話した。ソフィアのことやルシアのことを語った」

 アジェスは簡潔に聖域で起こった出来事を述べた。

 ルシアとラナスの顔に驚きの表情が刻まれた。にわかには信じがたい話だ。

 だが、ソフィアだけは相貌を崩すことなく聴いていた。

 じきにアジェスは語り終え、その結尾にこう付け加えた。

 「この記憶が夢や幻でない限り、ダン・ラズロは聖域のどこかで生きているはずだ。ダンが生きていながらここに戻ろうとしなかったとしたら……かれにはきっとなにか考えがあるのだ。聖域に残って、何事か為すべきことがあったのだと思う」

 「そうですか……」

 ソフィアは顔を伏せた。しばらく無言でいた。

しばらく沈思した後、ソフィアは落ち着いた声で言った。

 「父は……森に魅入られたのでしょう。平原びとであった父は、この地で生まれ育った森の民以上に森に心を奪われていました。森は、森を愛する者を手放さないといいます。父は森の意志を具現しようとしているのでしょう」

 「森の意志……」

 アジェスはその言葉を反芻した。

 確かに森には意識がある。アジェスはこの数日間でそのことを実感した。そういう感覚は、この森に生まれ育った人間にはかえって育ちにくいのではないか。異邦人であるからこそ、より鮮烈にその息吹に触れられるのかもしれない。

 「その意志とは……なんなのだろう」

 その問いに答えを与えられる者などおりはしない。アジェスもそれを知って、言葉を音にはしなかった。

「ありがとうございました」

 ソフィアはアジェスに深々とお辞儀をした。

 その小さな身体には威厳がみなぎっている。はりつめたガラスのように華奢な威厳ではあった。けれど、だからこそ冒しがたいものを感じさせる。

 アジェスは少女の落胆を悲しんだ。ソフィアはこれからも部族を率いつつ森を守る責任を、この小さな身体に背負いつづけねばならないのである。

 が、今は情け深い態度よりも事務的な簡明さの方が少女の心の救いになるだろう。

 「礼などよりも状況を教えて欲しい。おれがいない間に何が起こった。そして、これから何が起こる?」

 ソフィアはうなずき、修飾も主観も一切ない簡潔しごくな説明を行った。その説明の中には、むろんルシアのことも含まれている。


 「アル・アシッドが……そういうことか」

 あらかたの状況を聞き終わって、アジェスは呟いた。

 情勢は最悪になりつつあった。危急存亡のときであるといえた。

 「で、ギャラハットという男は、無事なのか」

 ソフィアの話からすれば、この太陽王という大仰なふたつ名を持つ男の闘いぶり次第では、情勢の劇的な変化が期待できよう。その安否が気遣われた。

 「それは……わかりません」

 ソフィアは口篭った。ちらり、とルシアに目をやった。

つられてアジェスはルシアを見た。

 ルシアの双眸に悲痛なものが浮かんでいた。ギャラハットという男に対するルシアの想いが痛々しいほどに伝わってくる。

「そうか……」

 と、言うより仕方がない。

 改めて、ルシアを見詰めた。

 アジェスと別れてからおおよそ一年の時が流れている。その間に、なんと少女は大人びてしまったことだろう。アジェスは見詰めつづけることに息苦しさをすら覚えていた。

 そのルシアの心の中にはアジェスの知らぬ男が棲んでいる。

 かすかな苦みがアジェスの胸に広がった。

 「太陽王だ! 太陽王が戻ってきたぞ!」

 集落を大音声が貫いた。

 触れ回る男の声だ。

 ルシアは全身を震わせた。弾かれたように柵に向かって走り出していた。



      4.集いし者たち


 ギャラハットは意識を失っていた。

 一人の小柄なアサッシンが必死でギャラハットを支え、引きずるようにして柵に近づいている。

 その後方に、アジェンタ兵が追いすがっていた。

「太陽王を救え!」

 前衛の柵に入っていたケインたちはわっとばかりに押し出した。

 ギャラハットたちを追っていた兵士たちは、その剣幕に恐れをなして逃げ帰った。

 「太陽王!」

 アサッシンたちはギャラハットに群がった。

 傷の状態を調べた。

 ギャラハットの存在は、今のアサッシンたちにとっては巨大なものになっていた。すでに王であると言えた。

 ギャラハットはかなりの傷を負っていた。刀傷の浅いものは無数。腿に貫通銃創も受けている。脚の付け根を縛って出血を抑えているが、それでも相当量の血液を失ったらしく、顔は土色をしている。

 アサッシンたちはギャラハットを連れて柵の中に戻った。数人がかりで抱え上げるようにしている。ケインがそれを先導した。

 「ギャラハット!」

 ルシアが叫びながら駆け寄った。

 ケインがそれを制した。

 「待て。まずは集落に運ぶのが先じゃ」

 集落に一行は向かった。

 医療所にギャラハットを運びこみ、医術の心得のある森の民がギャラハットの脈を取った。森の民の眉が曇った。よくないらしい。

 それでも、ギャラハットの傷を洗い、太股の止血もやり直すなど、手当を始めた。

ソフィアはかいがいしく手伝った。ラナスも湯を沸かすなどの仕事をした。

 ルシアはギャラハットの横から離れなかった。泣きそうな顔で、ギャラハットを見詰めていた。

 アジェスはケインの近くに立っていた。特に話はしなかった。ケインの方は、ちらりとアジェスを見て、見慣れぬ男であるな、と訝しそうな表情を浮かべたが、それだけだ。

ひと通りの応急措置は行われた。

だが、ほとんど気休めにもならない。

 「……か」

 ギャラハットの唇がかすかに動いた。

 まぶたが薄く開けられている。

 「ルシア……か」

 「ギャラハット!」

 ルシアはギャラハットの二の腕に触れた。まだ出血が続く傷口から赤い液体が半固形状になって盛り上がっている。

 ケインも思わずギャラハットの枕許に駆け寄った。

 ギャラハットはケインとルシアの顔をながめ、それからルシアに話し掛けた。

 「父親には……会えたか?」

 ルシアは首を横に振った。振り続けた。そんなことはもういいのだ。ギャラハットの方が大事だ。そういう意志を身振りにこめていた。

 「そうか……」

 ギャラハットは目を閉じた。

 アジェスはどうだ、と聞こうかと思った。もしかしたら、この部屋の中にいるのではないか。だが、やめた。今更ルシアの心を試すようなことはしたくもないし、その必要もない。

 そして、ふと思いついたように、

 「とっつぁん、おれは、どうやってここまで来た?」

 と、訊いた。

 「あまり喋るな……おまえさんはな、アサッシンの一人に抱えられて森の側の峠道まで運ばれてきたんじゃよ。敵に追われておったわ。物見がそれを見つけ、兵を繰り出して保護したというわけじゃ」

 ケインの言葉にギャラハットは猛然と反応した。眦が裂けるほどに両眼を見開いた。

 「馬鹿な! おれ以外のアサッシンは全員逃げ延びる途中で死んでしまった。おれは独りで逃げていたのだ。それで……気を失って……」

 「で、では、あのアサッシンは……」

 ケインはうろたえて周囲を見渡した。あの小柄なアサッシンも同行してきた、ような気がしていた。だが、いない。いつの間にか消え去っていた。

 「おい、あの男は誰じゃ、なんという名じゃ!?」

 ギャラハットを抱えてきたアサッシンたち一人一人に語気も激しく問うた。

 アサッシンたちは茫然と首を横に振った。

 「太陽王に気を取られていて、よく見ていなかった」

 「顔は泥と土にまみれ、いでたちもぼろぼろで、誰とも判別つかなかった」

 そのように弁解した。

 「急げ! 守りを固めろ! やつだ、アル・アシッド……!」

 ギャラハットが叫んでいた。

 

 

 アル・アシッドはずっと屈めていた腰を伸ばし、物見台の上に立っていた。顔に塗りたくられた泥土は、アシッドの輪郭を巧みに変化させていた。肩をすぼめ、腰を屈め、体形を変える術とあいまって、アシッドはまったく別人になりおおせていたのだ。

 暗殺・暗闘を生業とするアサッシンならではの術である。

 アシッドの足元には、物見に上がっていた森の民の男の死骸が転がっている。

 アシッドは、すぐ側にまで接近しているアジェンタ軍に、万事順調を表す手信号を送った。送り終わると同時に、物見台から飛び降りた。

 前衛の柵ではどうやら敵に気付いたようだ。二人のアサッシンが飛び出していた。本陣から何の指示も出ないことに業を煮やしたシルバが送ったのだろう。

 飛び降りざま、アシッドは人の命を奪う颶風となった。

 柵に穿たれた唯一の扉を守る兵たちを毒爪で屠っていく。

 兵たちの大半は森の民であった。みな、抵抗らしい抵抗もできず、毒を受けて倒れていく。すぐは死なない。だが、声も出せず、全身に毒の作用が広がっていくのを自覚しながら死んでいく。

 この毒は、毒性が凄まじく強い。致死量が少しで済むから、乱戦において多数の人間を殺すには適していた。この毒は、入った部位から急速に神経を殺していく。脳は侵さずに筋肉を動かなくさせる。死は、毒が胸に届いた時に訪れる。呼吸ができなくなり、心臓も鼓動を止めるからだ。

 アシッドは防備柵を制圧してしまっていた。

 扉を内から開け放った。

 前衛の柵からの伝令たちが飛び込んできた。

「なにをしている、敵が、すぐそこまで……っ!」

 喚こうとして、伝令たちは凍りついた。

 死体が散乱している。

 そのただなかに、アル・アシッドの姿を見出していた。

 「わが同胞よ。森はアジェンタの手に落ちる。われとともにアジェンタに降るがよい。命と禄を保証しようぞ」

 高らかにアシッドは言い放った。

 「ばかな……裏切り者が……!」

 気概あるアサッシンの若者がそう吐き捨てた。

もう一人は―――中年に近い年齢だったが―――脅えたような表情を目に浮かべてすくんでいる。

 「裏切り者……? わからぬなあ。おれはアサッシンがアサッシンとして生きられるような世の中にするために立ち働いている。裏切り者となじるのならば、シルバこそがそれであろう。やつはアサッシンの誇りを捨て、異邦人を族長の座につけようとした。あまつさえ、支配し従わせるべき存在であった森の民にすら膝を折った」

 「アサッシンの国を地上に樹てるためだ。裏切りではない」

 「馬鹿は死んだほうがいいな、ええ、ティム・ウォン?」

 アシッドは笑い、すうっと沈んだ。

 ティムと呼ばれた若者はアシッドの技を警戒して後退した。

 「サヴォンどの、シルバさまにこのことを!」

 中年男に叫んだ。

 「サヴォン、いずれにせよ森は落ちるぞ。おれは森を傷つけたくないからこんな手をとったが、アジェンタには火砲があるのだ。勝てはせぬのだよ」

 アシッドの言葉にサヴォンの足が止まった。

 「サヴォンどの!?」

 ティムは必死の叫びを放った。

 アシッドが凄まじい勢いで接近していた。

 ティムの技量では防ぎ切れない。そのことがわかっていた。

 「たのむ、サヴォン!」

 喚いていた。無駄死にをしたくはなかった。身を的にして、危機をみなに伝えたかった。

 その意識は、アシッドの爪に引き裂かれた。

 ティムは顔面をえぐられた。爪は顔面を襲った後、下から更に一閃し、喉を破った。

 声もない死がティムに訪れた。

 サヴォンは硬直して動けない。

 アシッドは、サヴォンを冷たく見据えていた。返り血をすら、浴びていない。

 「行け。シルバに伝えよ。この柵に異常はなかったと。前方の敵に対して、そちらの手持ちの兵力で攻撃をかけてほしい、とな。それが太陽王の指示であったと言うのだ」

 「はっ……はあ」

 「それと、戦いの間にはどこかに身を潜めておくがよい。すべてが終わってからゆるりと出てくるのだ。死んではつまらぬ」

 「はい!」

 サヴォンは大きくうなずき、駆け出した。前衛の柵に向かう。

 その後ろ姿をアシッドは侮蔑の視線で見送った。

 凝視しつつ、かすかな呟きを漏らした。

 「アズマといい、ティムといい、なぜに道理をわかろうとせぬ。あのような愚物のみをアサッシンとして残すつもりか……?」

 その口調は確かに、民族の将来を憂える男のそれであった。


 

 「太陽王がそう申されたというのか」

 シルバはサヴォンの報告に戸惑った。

 その命令は、シルバ以下、前衛の柵に入っている全員に死を与えるのに等しい。だが、ギャラハットならば、という期待もある。

 「太陽王にはなにか策がおありになるのだろう。にしても、そのような指示を自ら出されるとは、思いのほか傷は浅かったのであろうな」

 シルバはギャラハットに民族の明日を賭けていた。その賭け代に、自分の命を投ずることはもとより覚悟の上であった。

 「太陽王を信じよう。こちらから押し出して、敵の出鼻を挫くのだ」

 シルバは全員に申し渡した。

 拒絶する者はいなかった。この前衛の柵に集まったアサッシンたちには、選り抜きの勇士たちが多かった。シルバが特に武勇を見込んで人選したのだ。

 アジェンタ軍が接近していた。もはや、一刻の猶予もならない。

 シルバたちは出撃した。

何の戦略的な意義もない突撃だった。

 シルバたちは遮蔽物のない場所に出た途端に、激しい斉射を加えられた。

為す術もなく、アサッシンたちは斃されていく。アジェンタ騎兵の馬蹄が、屍を乗り越えて前進する。

 「これは……なんとしたことだ……」

 シルバはうめいた。アジェンタ軍は、明らかに突撃に対して備えていた。読まれていたとしか思えない。

 シルバはたまらず兵を柵に戻した。数は半分以下に減っている。

 「太陽王からの指示はまだか!? サヴォンは!?」

 サヴォンの姿はなかった。戦死したか。

 「このままでは、この前衛はもたぬぞ!」

 シルバは催促の伝令を森に送った。

 アジェンタ軍の猛攻が前衛の柵に対して加えられ始めた。

 「だめだ……」

 兵が次々と減っていく。

 もともと、アサッシンは拠点防衛は苦手としている。シルバにも、陣地防衛の戦術知識はない。だからこそ、先程も無謀な突撃をやってしまった。

 「退く」

 伝令の帰還も待たずして、決断せざるを得なかった。

 シルバは生き残った十名足らずのアサッシンを率いて、前衛の柵を放棄した。

 これでアジェンタ軍は、やすやすと前衛を突破することになろう。

 「しかし、まだ峠の備えがある。あの柵は容易なことでは抜けないはずだ。やつらが火砲を持ち出せば事だが、火砲を設置するなどに時間が食われるだろう。そうすれば、こちらも仕切り直す時間が稼げる」

 だが、シルバの希望は、道を行くうちに打ち砕かれた。

 煙が上がっていた。

 狼煙ではない。そんな小さな煙ではない。

 もうもうと上がっていた。

 「柵が……燃えておる」

 虚脱したような表情をシルバは浮かべた。

 「なにが……なにが起こったというのだ……!」

 後方には、アジェンタ軍が接近していた。

 滑車の歯車が砕け、釣瓶が嫌な音をたてはじめるのを、確かにシルバは脳裏に聞いていた。



   5.燃える海


 「何ごとかっ!?」

 ケインが怒鳴った。

 けたたましい悲鳴とともに、医療所に森の民が飛び込んできた。

 「柵に放火されました! 燃えています! とても消すことはできません!」

 「火か!」

 ケインは歯噛みした。

 「アル・アシッドの仕業であろう。探すのだ!」

 ケインは足音も高く、部屋を飛び出した。

 アジェスも続く。

 「あんたは、何者かね」

 ケインが横目で訊いた。

 「アジェス・ルアー。旅行者だ」

 「わしのことを知っていそうだな」

 「ソフィアから事情は訊いた。おれができることならば何でもやろう」

 「ならば、ルシア……いや、太陽王とソフィアどのを守ってくだされい。わしは、柵へゆく」

 「……わかった」

 アジェスはうなずいた。

 ケインは老人に似合わぬ速さで駆け去った。

 アジェスは医療所に戻った。

 入り口でソフィアが暗い顔でアジェスを出迎えた。

 「太陽王がよくないの。さっき興奮したのが悪かったのかも」

 「ルシアは」

 「太陽王の側を離れないわ……」

 「そうか……」

 アジェスの気持ちも塞がった。本当ならば逃げたほうがいい。この分ではアジェンタ軍の侵攻を止めることは不可能だ。兵が入れば略奪が始まるだろう。それが戦争の常だ。特にアジェンタ兵は過酷な軍事行動を経てきている。溜まっている鬱憤の量は凄まじいはずだ。それが、いっぺんに弾ける。

 恐ろしい蛮行が行われるはずだ。

 そのことをアジェスはソフィアに言った。

 だが、ソフィアはきっぱりと言った。

 「わたしは森の民の代表です。わたしが逃げ隠れるわけにはいきません。もしも戦いに敗れたとしても、アジェンタ軍の代表と交渉し、民の安全を保つ義務があります」

 「そう言うと思った」

 アジェスは嘆息した。

 これから森の民はどうなるのか、そのことに思いを馳せてアジェスは暗澹たる気分になった。大国の恣意に翻弄され、森の富を採集する奴隷としてのみ生存を許される賎民となろう。ソフィアも無事では済むまい。アジェンタの男たちに蹂躙され、貪られる恐れが強い。

 何もかもが厭わしく感じられた。豊かで美しい森すらも、今は人々の命を脅かす魔物のように思える。

 「おれは何のために、この森に来たのだろう……」

 半生を傾けた旅の結末がこれではあまりに無残であった。



 アジェンタ軍が突進していた。

 支える戦力はすでになかった。

 防衛拠点であった柵を失い、アサッシンも森の民もただ逃げ惑った。

 アジェンタ軍は狂いたって森に突入した。

 「これが、森かよ!」

 「木ばっかりだぜ、信じられねえな」

 口々に驚異の叫びを上げていた。

 木一本につき幾ら幾らと計算している兵士がいた。彼の頭の中には、この木をどうやって伐採して運びだすかという視点が欠けている。とはいえ、木製品の凄まじい高価を考えると、かれの目が眩んでしまうのも無理はない。

 だが、兵士たちの多くは、もっとわかりやすい財宝を望んでいた。金銀財宝の類である。それと、生身の女と。

 「攻めよ、攻めよ」

 ロスタムが喚きつづけていた。森を見て、狂喜していた。毛皮を思った。鹿の角を思った。大トカゲのウロコを思った。それらはすべて凄まじい富をロスタムにもたらすはずだった。

 それにも増してロスタムの意識は勝利の確信によって高揚していた。ロスタムの認識では、この勝利はすべてロスタムの個人的な能力の高さに依るものであった。

 不世出の天才将軍ロスタム閣下、いんちき海府将軍ギャラハットを軽く一蹴。

 などというような、号外の見出しが心の中に踊っていた。

 「見たか、ギャラハットめ。わしから見れば貴様など、卵の殻をくっつけた雛も同然なのだ」

 そう高らかに喚いて踊りだしたい気分だった。

 しかし、表面上は落ち着き払ったように振る舞っていた。各隊の長にしかつめらしく言いつけた。

 「アサッシンどもが抵抗すれば、アジェンタ軍の強さを存分に見せてやれい。ただし服従する者は助けてやれ。それが情けじゃ」

 ロスタムも、アシッドとの約束だけは破らなかった。アシッドはロスタムの器の大きさにすっかり服従しているようであったし、また、あの男を敵に回すのは少々おっかない。厳戒を敷いていたロスタムの天幕にすら、やすやすと入り込んでしまうような男だ。この戦いが終わったら、高禄で召し抱える必要があろう。あの男がもしも自分の政敵につくようなことがあったら事だ。なんとしても、自分の手の中に納めておかなくてはなるまい。

 (あの男を所有しておれば、どのような謀略でも成就しよう……そう、たとえばフェリアス王の寝所にでも送り込んで……)

 ロスタムの意識の底に、明瞭な形は取らずして、そのような思考がとどろっていた。

 フェリアス王は、自分の王座を脅かした王兄アレイス・ヴァンドルマンをギャラハットを使って滅ぼした。次に、勢力を持ちすぎたギャラハットを王族のロスタムによって追い落とさせた。ところが今度はそのロスタムがフェリアスの敵になろうとしていた。さても王なる職業は因果なものである。

 ともかくも、アジェンタ軍は森の民の集落に入った。


 人々は悲鳴をあげていた。

 戦うことはもはや放棄せざるを得なかった。

 女子供が大半の集落だ。男たちは、アジェンタ軍の突入に蹴散らされていた。しばらくは反撃できる状態ではなかった。

 兵士たちは歓声とともに家々に踏み込んだ。

 あてが外れた。

 金銀財宝などどこにもない。毛皮や角なども生活必需品として使っているもの以外は存在しなかった。食料すら乏しい。貯えるという観念をほとんど持たない人々であった。

 兵士たちは逆上した。かれらの勝手な思い込みであったが、森には財宝がうなっていなければならなかった。そうでもなければ、辛い思いを噛みつつ、こんな辺境中の辺境までやって来れるわけがない。

 誰もが、この森に入れば金持ちになって故郷に帰れるのだと信じていた。と、いうより、そう信じるよう自ら暗示をかけていた。そうしなければ、とうにアジェンタ軍は瓦解していたはずだ。

 その暗示がいつの間にか兵士たちの精神の中で確固たるものになっていた。

 森の民は金銀財宝を蔵していなければならなかった。

 期待を裏切られた兵士たちは逆上した。発狂したように暴れ狂った。

 女を見つければ有無を言わさずに押し倒し、子供は打擲した。老人に至っては、まったく容赦がなかった。殺した。

 どこからか火の手が上がると、兵たちの狂気はいっそう紅蓮に染め上げられた。

 あちこちで放火を始めた。

 火を消そうと森の民たちは必死で走り回った。そのさまが可笑しいと、兵士たちは腹を抱えた。

 ロスタムはどうしていたか。

 ロスタムは兵士たちの暴走ぶりに恐れを為していた。強いて制止しようとはしなかった。また、ロスタムが何かを言って制止できるものでもなかった。ロスタムはすでに部隊の統率力を失っていた。ロスタムの意志を各隊の指揮官に伝えるための将校を、ロスタムは処分しすぎていた。ロスタムが影響を与えられるのは、ロスタムの側近とその把握する小数の親衛隊だけであった。

 ロスタムは気が気でなかった。ロスタムも森に財宝があると考えていた。その財宝を兵士たちにすべて奪われてしまったらどうしようかと思った。

 だから、ロスタムも直属の兵を略奪に参加させていた。これでは混乱を収めるべくもない。

 火の手が大きくなっていた。じきに手がつけられなくなる。

 その動乱は、村外れの医療所にも波及しようとしていた。



 「集落の方が騒がしいわ」

 ソフィアは耳をそばだてた。

 美しい顔におびえの影が浮かんでいた。

 「見て、来ます」

 「だめだ」

 アジェスはソフィアの行く手を阻んだ。医療所の広間だ。出口は一箇所しかない。

 「なぜ」

 「行けば殺される。敵はしばらくは理性も何もない状態だ。交渉の余地はない」

 「それならばなおのこと、みなが危ないではありませんか」

 ソフィアは小さな身体に力を漲らせた。

 「無理はよせ、ソフィア。おまえは充分に長としての責務は果たした。今は自分が生き延びることを考えろ」

 「そうだよ、ソフィア。死ぬなんてつまらないよ」

 ラナスがソフィアの側に立っていた。

 「おいらたちと一緒に愚者の海に行こうよ。ヴェトルチカへ。小さな村だけど、ソフィアや森の民のみんなが住めるくらいの余裕はあるさ。ねえ、そうしなよ」

必死な声だ。目尻に涙が浮かんでいる。

 「ラナス……」

 ソフィアは少年の顔を見た。

 「ありがとう……でも、わたしたちは、やっぱり森を離れることはできない」

 「禁忌か……過去の呪縛だ」

 アジェスは鋭い口調で言った。

 「人の命と森と、どちらが重い」

 ソフィアは絶句した。

 「森は……今までわたしたちの命を支えてくれていました。森を守ることと生きることとは同義だったのです」

 「もう、そうではない。森と一緒に死ぬか、森を捨てて生きるかのふたつにひとつだ」

 「アジェスさん……」

 「おれは聖域で森の始まりを知った。この森は、この惑星の太古の姿をとどめるために、一人の王によって作り出された広大な庭園だったのだ。ソフィアたち森の民は、その護人としてこの地に残された。この庭園は、外界から完全に遮断されなければならなかった。植物の種を外に漏らすことをすら禁じたのだ。外界が不毛の地ばかりになり、風が種をはらまなくなっても、この地には植物が、生命が溢れかえっている。素晴らしいが、それは不自然だ。壮大だが、作り物の庭であることには変わりがない」

 「この森が自然ではない……と」

 「そうだ。森が自然な生き物であるとしたら、この地に縛られていることを肯ずることはすまい。世界へ散ろうとするだろう。広まろうとするだろう。それが、ほんとうの生き物の姿だ。生き物は、みな旅をする。新しい地平を探す。動かぬ木々ですら、その幼少期には世界を巡る。花粉の状態で、風に乗る」

 アジェスは天井を突き抜けて空を見ていた。まだ、リュウもテルオッグも高い空にいる。その陽光を反射して青い色を返す蒼穹が、網膜に焼き付いていた。

 「森に意志があれば、この地に縛り付けられているわが身の不幸を嘆いているだろう。空を恨めしげに見上げているだろう。ヴェルノンヴルフェンの高峰に遮られ、外の世界に命を伝播することができぬのだから。ソフィア、禁忌を捨てろ。木々に旅する自由はないが、お前たちにはそれがある」

 「……」

 ソフィアはうつむいた。表情には相克がある。アジェスの言葉に心を動かされている。それを批判するもうひとつの心がある。この相克は、自分自身では断ち切りがたい。堂々巡りに陥らざるを得ない。

 「ソフィア、おいらと行こうよ! ねえ!」

 ラナスがソフィアの肩を掴んで、揺さぶった。切ないほどに懸命な瞳だ。

 「ええ」

 そう、答えていた。断ち切りがたいものが断たれていた。

 「行くわ……一緒に」

 ラナスの顔が一瞬縦に伸びたように見える。全身で跳ね上がっていた。

 「やったー!」

 「ならんなあ……それは」

 冷徹な声がした。

 ソフィアの表情が強張った。

 アジェスの血が冷える。

 ラナスは口を軽く開けている。

 聞き覚えがある、嫌な口調だ。

 「ソフィアはおれと一緒にいくのだからな」

 とん、と軽い音がした。

 さっとアジェスは音がした方に首を巡らせる。

 腰を低く落としている。いつでも動けるように足元を整える。無意識の所作だ。

 「よう、アジェス・ルアーさん。元気だったかい」

 アル・アシッドが、思いがけぬ近さに立っていた。いつの間に入ってきたのか。あるいは、侵入したのは今ではなく、しばらく前に忍び入り、今の今まで気配を断っていたのかもしれない。

 「もうすぐ、ここにもアジェンタ兵が乱入してこよう。その前に、ソフィアはもらっていく」

 アル・アシッドは口を開いた。白く鋭い歯並びが見て取れた。肉食獣のような印象を与える。

 「なぜ、そんなにソフィアにこだわるんだよ!?」

 ラナスがソフィアを背後にかばうようにしながら、叫んだ。

 「知れたこと。ソフィアは森の民の長だからだ。兵たちの狂乱が収まれば、次にはいかにして森の富を採集するかということになる。森の民はそのために必要だ。かれらを使役するためには長であるソフィアを手中にせねばならぬ」

 「ソフィアを道具のように言うな!」

 ラナスが顔を真っ赤にして怒鳴った。

 「人間はすべて道具だ。人間の価値は、いかほど有益であるかによって決まる。何の益にもならぬ人間は死するべきだ」

 アル・アシッドは気負うでもなくそう言った。当たり前の事実を述べている口調であった。

 「同じように、森も役立たねば無為である。人間が利用して、収益が上がるからこそ価値があるのだ。自然のままに森を残して何の意味がある」

 アシッドの論旨は単純であり、明白であった。

 「おまえの言うことがすべて間違っているとは思わない」

 アジェスは低く言った。

 「だがな、おまえが考えるようには人は踊らぬ。現に、アサッシンを暗殺と謀略の民として世に立たしめると言いつつ、おまえは同族をアジェンタ軍に殺させるばかりではないか」

 「阿呆が」

 アル・アシッドは吐き捨てた。

 「アサッシンはアサッシンたるべき者だけが生き延びればそれでよい。平和ずれした腰抜けには用はないのだ。極端な話、おれ一人でも充分だ」

 「狂人め……!」

 アジェスは身構えた。

 アシッドは一歩前に踏み出した。

 「ソフィアを渡せ」

 アシッドは蛇のような瞳をぞろり、動かした。

 アジェスとラナスを順繰りに見た。獲物を確認している。

 「おまえみたいなやつに、ソフィアを渡すもんか!」

 ラナスが喚いた。身体は芯から震えている。だが、ソフィアを背後にかばって動かない。

 アシッドはラナスを見据えた。

 傲然と見下している。

 アシッドの伸ばした右腕がかすかに動いた。

しゅらん、と爪が伸びる。

 アシッドは口元に笑いを浮かべた。

 引きつったような、禍禍しい微笑みであった。



      6.瓦解


風が吹き始めていた。

 森に吹く風はまれだ。あったとして勢いもさほどではない。

 めずらしいことに風は強まっていた。

 さほどの悪天候でもない。空は晴れている。しかし、風だけが出始めている。

 炎が煽られた。火勢が強まった。

 ようやくアジェンタ軍に動揺があらわれた。

 すべての家を焼いてしまったら、今夜以降も野営が続くことになる。せっかく、ちゃんとした屋根のあるところで眠れるようになったはずなのに、これではもとの木阿弥だ。

 それまで森の民が消火に奔走するのを笑ってみているばかりだった兵士たちは、のろのろと火を消す側に回り始めた。

 だが、その時には、火は木々に燃え移っていた。

 あいにくと乾燥した季節だった。

木々は、炎を容易に受け入れた。

 大量の煙が放出された。木々の爆ぜる音があちこちから響いた。

 消火、とはいえ、水は泉から汲み置いたものしかない。すぐに底を尽いた。あわてて、泉に水を汲みに走った。

 だが、間に合うものではない。

 砂を集め、それで火を消そうとも試みたが、うまくいかない。

 火勢が強く、しかも風によって次々に飛び火していく。

 アジェンタ軍も事態の容易ならざるを悟り、慄然とした。

 愚者の海には燃えるものなどない。火で町ひとつ焼き払ったとて、周囲になんの累を及ぼすでもない。そういう意味で、かれらは火の本当の恐ろしさを知らなかった。

 火は、生き物と同じように繁殖する。燃え得るものにならば何にでも取り憑き、その科学組成を一変させる。

 森は、炎にとっては極上の獲物だった。食っても食っても終わりがない。炎は増殖しながら、歓喜の声を上げていた。

 「なんと……いうことだ」

 ロスタムは歯噛みした。木が一本燃えるたびに、その金額を考えた。気が狂いそうだった。

 「消さぬか、早く! 馬鹿者が、きさまら下賎の者にはわかるまいが、木というのは貴重品なんだぞ! おまえたちの命一個よりもずっと高価なのだ!」

 喚き散らしていた。鞭をめちゃくちゃに振り回している。

 脅せば兵は動く、という考えが抜けないようだった。

 親衛隊すらロスタムの側を離れた。こういう指揮官のもとではやっていられない、と心底思った。

 その時、矢が降り注いだ。

 何事か、とアジェンタ兵が身構える暇すらなかった。

 ロスタムの悲鳴がつんざいた。

 兵士たちは、ロスタムを見た。

 小太りの身体に、無数の矢が突き立っていた。

 ロスタムの絶叫は続いていた。矢はロスタムを即死させることはなかったようだ。

 ロスタムは踊り始めていた。

 泡を吹いていた。身体が鞠のように跳ねていた。

 死の踊りだ。

 兵士たちの間から笑いが起こった。本来ならば笑うべきではない。自分たちの指揮官が何者かに射られたのだ。まず、ロスタムを助けるべきだろう。そして、ロスタムを射た敵を殲滅するべきだ。しかし。

 笑いは止まなかった。燃えさかる炎のせいもあったろう。長い行軍の疲れも、虐殺の昂ぶりも残っていただろう。精神の平衡をすでに皆が失っていたのだ、といえばそうだ。

 いずれにせよ、瀕死のロスタムは味方に笑われ続けた。

 第二射が来た。

 ロスタムの顔面に矢が突き立った。

 一声、長い絶叫をロスタムは放った。

 ぐらり、と丸い身体が揺らいだ。

 ゆっくりと転がった。死んだらしい。

 ようやく、笑いが収まった。

 兵士たちの間にじわじわと恐怖が広がった。

 無能とはいえ、ロスタムが全軍の意志を代表していた。いわば、頭脳であった。どんなに腐れていても脳は脳であった。

 ロスタムの代わりになれる人間は、すでにロスタム自身の手によって粛正されていた。アジェンタ軍は頭脳を喪失した。

 まず、兵の一部が潰走を始めた。

 その動揺は全軍に伝播しつつあった。

 だが、かろうじて踏みとどまろうとする者もいた。

 彼らは、ロスタムを殺した敵を発見した。

 炎と煙に身を隠すようにしているが、十数人の森の民とアサッシンの混成隊だ。

 「やつらだ! 殲滅しろ!」

 小隊長が号令した。小隊長ははやっていた。ロスタム亡き今、ロスタムの仇を討った者が司令官になるだろう。その上で森を制圧し、アジェンタに戻れば、海府将軍ギャラハットのような栄達が得られるはずであった。

 (後尾についていて、略奪の旨味はなかったが、これを機会に成り上がってくれるわ)

 かれの小隊は飢狼のように突進した。どうせ敵は小数だ。もみこんで、どうにでもなるものと思った。

 しかし、ひとりの老人が行く手に立つことで、その突進は容易に止まった。

 「なにをしおるか!」

 一喝した。

 「ケ……ケイン提督」

 小隊長はうめいた。

 痩せてはいるが骨柄の太い老人が、鋭い怒気を発している。完全に呑まれていた。

 「いや、ケイン……おまえはすでに反逆者だ」

 かろうじて、そう言った。

 ケインの目が細められた。

 「ほうお、偉くなったものだな、チルドン。その姿、奥さんにも見せてやりたいものだな」

 「な……」

 小隊長―――チルドンは身体が固まった。

 チルドンは恐妻家であった。まったく妻に頭が上がらない。月々の小遣いもろくに貰えず、部下にまで借金を作っているほどだ。そのことを当てこすったのだ。

 「しかし、おまえのところの息子は先が楽しみだな。船が好きそうだから、海軍に入れた方がよかろう。いつかは名のある船将になれるやもしれぬ」

 「は……はあ」

 今度は息子を褒められて、チルドンは頭を掻かざるを得ない。完全に毒気を抜かれていた。もはや、闘うどころではない。

 「ロスタムは死んだ。おまえたちはもはや雑軍だ」

 おもむろにケインは言った。

 「軍は瓦解した。これを取りまとめる人間はもはやおるまい」

 「たしかに……」

 自分がその人間になろうと考えたチルドンであったが、その考えは形を失っていた。家族の顔を思い出した。とたんに萎えるものがあった。守りの姿勢に入っていた。家庭を持っている男はこうなると弱い。攻める策が頭に浮かばなくなってしまう。

 「どうする気じゃな、それで。森を蹂躙するは易しかろう。だが、その後は? 兵をどうやって取りまとめていくつもりじゃ?」

 ケインは重ねて訊いた。

 チルドンは返答に窮した。

 「それは……」

 チルドンにも解っている。たとえこのまま退却したとしても、帰路は常にアサッシンと森の民につけ狙われることになろう。それを防ぐためには虐殺を徹底して、かれらの帰路を脅かすものをすべて取り除けばよい。だが、この業火の中で、これ以上の軍事活動は困難であった。

 「ケイン提督! ここはお縋りするより他はありませぬ。わたしたちを率いてくださいませ」

 チルドンはそう叫んでいた。叫んでみると、これは妙案であると思われた。歴戦の勇将ケイン提督ならば、この惑乱した兵たちもまとめられようし、その上、森の民やアサッシンたちとこれ以上の戦闘を行う必要もなくなるであろう。

 持ち帰るべき金銀財宝がない以上、兵たちの望みは生きて故国に帰ることばかりになっている。興奮の嵐が過ぎ去った後は、その懈怠しかない。

 「よかろう。だが、虐殺をした者は、アジェンタ軍の軍律に従って裁くぞ。それでよいか?」

 「結構です。軍規を回復するためには、やむを得ますまい」

 チルドンはケインに服した。頭を下げつつ、略奪に加わらなくて本当によかったと安堵していた。



           7.ルシアの闘い


 「死ぬ覚悟はついたかね」

 アル・アシッドは歌うように言った。

 そういえば、森の民の歌や祭はどんなのだろうな、とアジェスはぼんやりと考えていた。森の民という、古代文明の生ける遺跡ともいうべき人々と時を過ごしながら、そんなことすら知る機会がなかったな、などと、とりとめもなく考えているアジェスはすでに死の先を見据えている。

 敵はアジェスよりも数段強い。まったく勝てる気がしなかった。じたばたしていても殺されるだけだということがわかっている。

 ならば、死ぬさ。

 とアジェスはさらりと考えている。勝とう、生きよう、と考えていても自分よりも強い相手には決して勝てない。ならば、まず死のう、と考える。そうすれば、少なくとも身体に余分な力は入らない。

 「ラナス、ソフィアを連れて逃げろ。ルシアもだぞ」

 ラナスはうなずき、ソフィアの手を引いて、奥に走った。

 「逃がすか!」

 アシッドが跳んだ。

 アジェスは無造作にその行く手を阻んだ。

 「馬鹿め」

 アシッドは爪を一閃させた。

 アジェスは身体を沈めると、アシッドの足首だけを凝視して突っ込んだ。

 アシッドはそれに気付き、膝から先をアジェスの鳩尾に向けて伸ばした。

 爪先がめりこむ。

 ふつうならこれで悶絶する。

 だが、アジェスはアシッドの足を両手で掴んでいた。

 「なに」

 アシッドの身体の均衡が崩れた。

 背中から床に落ちる。その寸前に、受け身を取って衝撃を散らす。

 「離せ!」

 アシッドはもう一方の脚の爪先をアジェスのこめかみに叩き込んだ。

 アジェスが白目を剥いた。

 だが、アシッドの足を依然として掴んでいる。

 「こいつは……」

 すでに失神している。アシッドは床に起き直り、アジェスの指を苦労して剥がさねばならなかった。

 ようやく両足の自由を取り戻したアシッドの顔は怪物のように引き歪んでいた。

 アジェスに毒爪を打ち込もうとして、やめた。無駄な時間は一瞬であろうと取るべきではない。

 アシッドは、奥に走った。



 「姉さん、アシッドが!」

 部屋に飛び込むなり、ソフィアは叫んだ。

 ルシアは背中を見せていた。

 ギャラハットの寝台に、上体をもたせかけるようにしている。

 「姉さん!?」

 ソフィアは急き込んで、ルシアの背後に駆けつけた。

 そして立ちすくんだ。

 「ど……どうしたの?」

 おずおずとラナスが訊く。

 ラナスは、そうっとソフィアの後ろから、寝台を覗きこんだ。

 太陽王の顔が見えた。

 白い顔だった。眠っているように見えた。眠りは深いようだった。ラナスたちの気配にも目覚める様子がない。

 「もう、二度と目を開けないわ……」

 ルシアの声だ。とは思えないほどにしわがれた声だった。まるで老婆のそれだ。

 「ギャラハットは……もう」

 「そんな……」

 ソフィアは絶句した。

 「こんなところで死んでしまうなんて……。ごめんなさい、この場所がどうだというんじゃなくて……この人らしくない死に方でしょ、ベッドの上で死んじゃうなんて。それも、眠るように、安らかに……なんて、柄じゃない」

 ルシアはくつくつと笑っていた。

 「おかしいよ、ギャラ、こんな死に方。もっとギャラハットらしく、華々しく死ねば良かったのに。わたしなんかに看取られて、最後に微笑んで逝くなんて……ひどいよ」

 笑いの中に、裂けるような感情の迸りが混ざっていく。

 「ひどいよ、ギャラ、死ぬところを見せるなんて……こんなじゃ、あなたが生きてるって、たとえ二度と逢えなくてもどこかで元気にしているって、信じ込むこともできないじゃないか!」

 こころが弾けた。

 ルシアは声を放った。物言わぬギャラハットの亡骸に取りすがった。身悶えして、泣いた。ルシアの細い身体がちぎれそうに見えた。

 「姉さん……ルシア姉さん」

 ソフィアがルシアの肩を抱いた。

 ルシアはソフィアに抱きついた。子供のように泣きじゃくった。

 ソフィアも涙を流していた。ルシアの悲しみが、凄まじい喪失感が、激流のように心に流れ込んでくる。

 「急がないと……ソフィア」

 ラナスは気が気ではなかった。

 すぐにでも、部屋の扉が開きそうな気がする。

 そう思いつつ、向けた瞳に、するりと開く扉の映像が映った。



 「愁嘆場だな」

 アル・アシッドが冷たい双眸を向けて、入ってくるのが見えた。

 「アシッド……」

 ラナスは呟いた。アジェスは殺されたのだ。そう思った。

 「アル・アシッド、太陽王は亡くなられたわ。わたしたちに、もはや抵抗する希望はない。これ以上の殺生はお止めなさい」

 ソフィアが凛とする声で言った。

 「わたしが欲しいと言うならば、わたしは一生あなたを主として仕えましょう。これ以上の流血は無益です」

 ルシアとラナスを救うためだ。ソフィアは真っ向からアル・アシッドを見据えてそう言った。

 「だめだよ、ソフィア、そんな!」

 ラナスが絶叫した。

 「ソフィア、あなた……」

 ルシアも泣き濡れた顔を上げて、ソフィアを見詰めた。

 ソフィアの表情は厳しかった。だが、その厳しさの中に、沸騰するような勇気と湖のように澄み切った優しさが同居しているのをルシアは感じていた。

 (父さん……父さんもきっと、こんな表情をしていたに違いない)

 ルシアはなぜだか、ふとそんなことを考えた。

 (この子と同じ血がわたしにも流れている……負けられない)

 ルシアはソフィアの胸から顔を上げ、ちらりとギャラハットの死に顔を見遣った。

 (ギャラハット、あなたも応援してくれるよね。強いルシアが好きだと言ってくれたのだもの)

 次の瞬間、ルシアは立ち上がっていた。

 ギャラハットの形見の山刀を手にしていた。

 「ソフィア、お逃げなさい。こんな男に屈してはいけない。あなたを犠牲にして生き延びたいとはわたしは思わない」

 ルシアは山刀を鞘から抜いた。血が固まって、引っ掛かりがある。が、ようやく抜き放った。

 「この男は敵と通じてギャラハットを死に追いやった。わたしにとっては夫の敵です。どんなことがあっても許せない。女でも闘える。命を賭して闘える、そのことをこの男に思い知らせてやる」

 「威勢のいい女だ。よかろう。おまえもおれの女にしてやろう。ソフィア同様、アサッシンのよい子を産めそうだからな。ギャラハットのごときにはもったいない女だ」

 アル・アシッドは好色な視線をルシアの身体に張り付けた。その視線を、つい、と寝台に向け、ギャラハットの死に顔を面白そうに眺めた。

 へろへろと笑いながら言葉を連ねた。

 「太陽王などと大仰な呼び名を持っていたが、まったく頭の悪い猪武者であったよ、そこの死人は。罠にかけるなど、造作もなかった。こんな疎漏な頭脳では、おれが手を出さなかったとしても、とてものことウッカ・ヤッカ国の建国などは実らなかったろう。列強にいいようにあしらわれて、滅ぶのがおちさ」

 「黙れ!」

 ルシアは鋭い声を出した。

 ソフィアもラナスも、アシッドでさえも、一瞬度肝を抜かれたほどの語勢だった。

 ルシアの眦が赤く腫れていた。涙のせいばかりではない。激怒していた。

「許せない! ギャラハットの夢を笑うことだけは絶対に!」

 ルシアは突進していた。

 ソフィアが止める隙もない。

 「やれやれ、激しいことだ」

 アシッドはため息を尽きながら、余裕をもってルシアの突進をかわした。

 山刀が壁に突き立った。ルシアは勢いあまって壁に激突し、転んだ。

 「ほうら、慣れぬものを持つではないぞ」

 せせら笑おうとしたアシッドの顔が、ひくり、引きつった。

 頬に赤い筋が一本走っていた。

 つつう、と粘い液体が頬を伝い落ちる。

 「やるな、女」

 アシッドは長い舌を伸ばして、血の滴を舐め取った。異常に長く紅い舌だ。

 「望み通り、ギャラハットめのところに送り届けてやろうか」

 殺意を双眸に漲らせた。

 ルシアの背筋が冷えた。血潮は依然沸騰するほどに熱いが、神経は死への恐怖を訴えて叫び声をあげていた。

 アシッドは短剣を袖から取り出した。一本、二本、三本と、まるで魔法のように本数が増えていく。

 「まず、その減らず口を叩く唇を真一文字に裂いてやろう」

 アシッドは白い尖った歯を剥き出しにして、凄い笑顔を作った。

 ルシアに接近する。

 「やめて、アシッド! なんでも言うことをききます、だから、姉さんを殺さないで!」

 ソフィアが悲鳴に近い声を放った。

 「だめだ」

 しわがれた声をアシッドは放った。

 「この女が自ら非を認め、おれに忠誠を誓わぬ限りはな……」

 「だれが、おまえなどに!」

 ルシアは最後の気力を振り絞り、アシッドを睨みつけた。

 「強情なやつだ……父親譲りというわけか、ダン・ラズロの娘どもめ」

 吐き捨てるように、アシッドは呟いた。

 「おまえ、父さんを知っているのか……!?」

 驚愕したルシアは思わず問うていた。

 「黙れ。おまえは殺すことにした。それでも同じだからな!」

 アシッドはそう宣すると、短剣を振り上げた。

 「ルシア!」

 ソフィアが叫んだ。叫びつつ、アシッドに突進した。死なばもろともであった。

 その時、影がソフィアの前を通過した。

 ソフィアの目前に電光が走り、身体は背後に吹き飛んでいた。影がソフィアを力任せに突き飛ばしたのだ。

 「あっ、ソフィア!」

 ソフィアの身体をラナスが受け止めた。

 ソフィアは衝撃で意識が朦朧としていた。

 「しっかり!」

 ラナスはソフィアの身体を抱きしめた。そうしながら、ソフィアを突き飛ばした影を見た。

 影は、アシッドの背後に突進していた。

 アシッドは一瞬早く反応していた。

 だが、不意を突かれたためか、完璧にはかわしきれない。

 アシッドの上体がのめった。

 影の一撃を右腕で防ぎつつ、反対側に跳んでいた。

 そうしながら、左手の短剣を影に向かって投げる。

 一連の流れるような動作でそれだけをやって見せた。

 短剣は、影に吸い込まれた。

 肉をえぐる、鈍い音がした。



           8.死闘の果て


 「死にぞこないめ。止めを刺しておくんだったな」

 アシッドは暗い笑みを浮かべていた。だが、額には汗が浮かんでいる。

 アジェスが荒い息をしながらも、獣じみた双眸を光らせて立ちはだかっていた。

 アジェスは左の二の腕に刺さった短剣を無言で引き抜いた。血が迸った。止血はせずに、放置する。毒を血流で追い出すためだろう。

 「安心しろ。短剣には毒は使っておらぬわ」

 アシッドは右手の爪を再び伸ばした。

 「ただし、こっちには毒がある。それも猛毒だ。入った場所から神経を殺していく。あっという間に心臓と呼吸が止まる。だが、脳には影響を及ぼさない。これがどういうことかわかるか? つまり、この毒にやられた者は、自分の身体が徐々に死んでいく感覚を最期まで味わうことになるのだ」

 「おまえらしい」

 皮肉でもなくアジェスは言った。

 「だろう? こいつは癖になる。死んでいく面を見ているのが面白いからな」

 アシッドは爪を閉じたり開いたりして見せた。楽しんでいる。

 その時、煙が部屋の中に入ってきた。

 「ほう、結構燃え広がったらしいな。ここにまで飛び火したようだぜ」

 「火が? まさか森が……!」

 ソフィアは凍り付いた。

 耳を澄ませば、確かに木々の燃え爆ぜる音が聞こえてくる。心なしか室温も上昇しているようだ。

 「これは早めに決着をつけないと、焼け死んじまうな」

 ゆったりとアシッドは言った。ざっと、身体を開いて寛いだ。

 「さあ、来いよ。殺されにな」

 アシッドは目を見開いた。神経戦でアジェスの優位に立とうとしていた。毒について警告をし、次に炎を持ち出した。普通なら焦って、考えもなく飛び込んでくる。

 だが、アジェスはアシッドの陽動には乗らなかった。

 まともに掛かって勝てる相手ではない。死んだつもりになったとしても、何の工夫もなしでは無駄死にをするだけだろう。さっきの闘いでそのことが身に染みていた。

 アジェスは待っていた。アシッドの仕掛けと、それと……。

炎はどうやら医療所に完全に燃え移ったようだ。木々の爆ぜる音がはっきりと聞こえ、扉の間から煙がもうもうと入り込んでくる。

 「ルシア、それにソフィア……ラナスも、早くここを出ろ」

 アジェスは静かに言った。

 「今を逃せば、脱出できなくなるぞ」

 アシッドの頬が引きつった。

 「すぐに片をつけてやる」

 アシッドは自分の方から仕掛けた。

 アサッシンは暗殺技を得意とする。基本は敵の油断を狙い隙をつく。格闘戦においても、まず初手は相手に与え、その体の崩れにつけこんで勝負を決する。そういう戦い方が主だった。自分から飛び込んでいく戦法はアサッシンにはない。

 それをアジェスはアシッドにやらせようとした。うまく、アシッドは乗ってきた。

 だが、この後アジェスにはひとつしか手だてがない。飛び掛からせて、相打ちに持ち込むのだ。それしか念頭になかった。


 アシッドが一気に間合いを詰めた。

 アジェスは低く腰を沈めた。

 アシッドの爪がひらめく。今度はアジェスはそれをかわそうとはしない。

 左腕で爪を受け止める。

 アシッドの顔が驚愕に引きつった。

 爪は深々とアジェスの掌を貫いた。

 アジェスは左の拳を握った。

 爪を完全に握り締める。

 肉がざくりと裂け、骨がかろうじて爪を受け止める。

 アシッドは左袖を振った。

 短剣が飛礫のように飛び出す。

 そのうちの一本がアジェスの喉に吸い込まれる。アジェスはとっさに顎をしめて、それを防ぐ。短剣はアジェスの右頬の肉を破り、口中に入って舌を傷つけた。

 「こ……こいつ」

 アシッドは初めて恐怖の色を瞳に浮かべた。

 アジェスは右腕を下から突き上げた。

 右掌を広げ、アシッドの喉を掴む。

 「が……はっ!」

 アシッドは潰れた声を出した。苦悶の声だ。

 が、アシッドは反撃に転じる。

 伸び上がりながら、膝をアジェスの股間に突き上げる。

 「ぐっ!」

 アジェスの顔面が蒼白になる。なりながらも、しかし、アシッドの喉を放さない。

 「おれはもう死ぬ。だが、おまえも一緒だ」

 アジェスは、吐く息とともに言った。舌が動かないため、ほとんど言葉になってはいないが、それだけに気迫が伝わった。

 「一緒に焼け死ぬつもりか! それが狙いか!」

 アシッドは目を見開いた。血管が網の目のように走っている。今にも弾けそうなほどに充血している。

 アシッドは右手の自由を取り戻そうともがいた。だが、爪は深くアジェスの左掌に食い込み、容易に抜くことすらできない。

 「くっ……こやつ……」

 アシッドは紫色の顔を歪ませた。

 渾身の力で、左の肘を落とす。

 アジェスの顔面に肘が叩きこまれる。

 短剣が左頬まで突き抜けた。

 続けざま肘はアジェスの右手首に吸い込まれる。

 アジェスの右手首の骨が砕け、掌はアシッドの喉から外れる。

 アシッドは大きく息をした。

 酸素が脳に届く。それと同時に、瞳に残虐な狂気の炎(ほむら)が宿る。

 「殺してやる」

 血をしたたるような声音だ。

 だが、アシッドが動くよりも先に、アジェスは右腕をアシッドに巻き付けた。指の力は使えないので、腕の力ではさみつけるようにしている。

 アジェスは体重をかけながら、足を引っ掛けて倒れこむ。

 堪え切れず、アシッドも倒れた。

 二人は床を転がった。

 「放せ! このっ!」

 アシッドは頭突きを食らわせた。

 アジェスの顔が血まみれになる。だが、力はゆるめない。

 倒れこんだときに脚までも絡めている。

 アシッドは自由がきく左腕を使って、床に転がっている短剣を拾い上げた。

 「これまでだ!」

 必殺の一撃をアジェスの顔面に叩きつける。


 壮絶な絶叫が響いた。

 火が部屋の壁に舐めるように這い上がっていた。赤く伸びる炎が、絡まる二人の男の影を揺らめかせている。

 影は大きく伸び上がり、そして落ちた。

 荒い息を吐いていた。

 かすむ視界に、アシッドの顔があった。舌がだらりと伸びている。凄まじい形相であった。

 アジェスは視線を動かした。

 すぐ側に、ラナスの姿があった。激しく肩を上下させていた。

 手も胸も、血で真っ赤だった。返り血のようであった。

 アシッドの背中に、アシッドの短剣が突き刺さっていた。

 「やった……のか」

 アジェスは呟いた。

 ラナスは蒼白な顔で首肯した。今にも崩れ落ちそうに見える。

 アジェスはアシッドを横に押しのけた。どさり、と物体のようにアシッドは転がった。

 アシッドの右手から毒爪が抜けた。爪はアジェスの左手に刺さったままだ。

痺れが激しくなっていた。出血もだ。

 ただし、左腕の出血のため、毒の回りが遅れているということもあった。それにしても、時間の問題だ。

 アジェスは短剣を頬から抜いた。

 「あまり……痛くないな……毒のせいかもしれん」

 「アジェスさん!」

 ソフィアが駆け寄った。

 「早く、ここから逃げろ。ここも間もなく焼け落ちる。急げ」

 「でも、アジェスさんを……!」

 「おれは捨てていけ。もう助からん」

 炎が床を這い回りつつある。

 ぎしぎしと、構造材がいやな音をたてている。

 もう、建物自体がもちそうにない。

 煙も、部屋全体に広がっていた。

 息が、できない。

 「アジェス!」

 鋭い声がした。

 アジェスは声がした方を見た。

 「我慢して、お願い!」

 ルシアがいた。壁に刺さった山刀を抜き取っていた。

 アジェスは一瞬にして、その意図を悟った。

 必死で上体を起こした。

 「ソフィア、ラナス、おれを支えていてくれ。動かないように」

 「えっ……?」

 「早く! 毒が回らないうちに!」

 「はいっ!」

 ソフィアがアジェスの背中に抱きついた。ラナスは脚を押さえた。

 「やってくれ、ルシア!」

 アジェスは硬直した左腕を、まだ動かせる肩を振って投げ出した。

 ルシアは山刀を振りかぶった。

 振りかぶる瞬間、ルシアは背後にギャラハットの気配を感じた。

 ルシアの腕にギャラハットの力が加わった。柄を握るルシアの手を、ギャラハットの大きな掌が包んでいた。

 低いくぐもった声が漏れ、肉と骨が断たれる音がした。



 医療所は、激しく火柱を衝き上げながら崩壊した。

 ケインは脂汗を額に浮かべていた。

 「間に……合わなかったのか……」

 ケインは、森の民とアサッシン、そして、今はケインの帰属を誓ったアジェンタ兵を連れていた。集落の方は彼らの合力のおかげでようやく鎮火していた。というより、燃えるべきものがなくなったといった方が正しいが。

 「提督さま」

 ケインは、呼び掛けられて、弾かれたように首を巡らせた。

 「ソフィアどの! それに……」

 煙の中から、ラナス、ルシア、そしてその二人に肩を支えられた男が現れた。

 「無事だったか……」

 全身から空気が抜け去ったかのように、ケインは脱力した。




          エピローグ


 五日が過ぎた。

 森は依然として燃えていた。

 森の深部にまで炎は食い入っていた。ますますその勢いは強まっていた。

この五日の間、さまざまのことがあった。

 アジェンタ軍はケインによって掌握された。

 速やかに武装解除され、村の消火活動に協力した。

 森の民、アサッシン、アジェンタ兵士の合同によって、かろうじて村の周辺は全焼を免れたのだ。

だが、家を焼かれ、家族を殺された森の民のアジェンタ兵士たちに対する恨みは深い。アサッシンも仲間の多くを殺されている。

 ケインは臨時に軍事法廷を開いた。

 略奪に参加した者すべてを裁くことはできなかった。あまりに数が多すぎて、彼らが反乱を起こす懸念が大だった。

 指揮した者だけを処刑した。

 それでも、アジェンタ兵士の軍律は引き締まったし、森の民たちの怒りも幾分は和らいだ。

 アジェンタ兵士も、森の民やアサッシンの許しを乞う他に生きて故郷に戻る術はないと悟ったのだ。

 アジェンタ兵士たちは進んで村の再建に助力した。

 携行していた物資も供出した。

 天幕、食料、家畜、医薬品などだ。

 アジェスもアジェンタ軍の軍医の手当を受け、一命をとりとめた。

 毒は左腕の切断によって全身に回ることを免れた。だが、出血によって生命が危険になった。軍医が血管を縫合して、ようやく止血したのだった。

 数日は身動きもできなかった。

 常に側にルシアがついていた。

 献身的な看病だった。

 ギャラハットを目の前で失った彼女は、もう二度と同じことは繰り返すまいと、アジェスの看護に精根を傾けていた。

 その甲斐があって、アジェスは恢復した。

だが、左腕はない。右手首も砕けている。

 両手が使えない。

 一人では食事も着替えもできない。

 すべてをルシアが手伝った。

 女手にはどうしようもない部分だけはラナスに任せたが、日常のほとんどの行動をルシアが介添えした。

 アジェスには言葉がなかった。

 言葉で報いられるものではなかった。

 確かにアジェスはルシア姉妹をアル・アシッドから救った。

 だからといって、ここまで尽さねばならぬという法はあるまい。

 ルシアには気負いがない。ごくごく自然に振る舞っている、ように見える。

 その白い横顔からはどんな激情も垣間見えることはない。

 アジェスも黙ってルシアに助けられるままになっている。感謝の言葉は口にしない。すれば言葉が足りなくなることを男は知っていた。

 七日ほどが過ぎて、アジェスは立てるまでになった。

 アジェスは森を見たい、とルシアに告げた。

 森がどうなっているのか知りたい、と。

 ルシアは反対しなかった。

 アジェスに肩を貸して、臨時の病院となっていた天幕を出た。

二人は無言で歩いた。


 峠にさしかかった。

 激闘の跡がまだ残っていた。

 死体はさすがにすべて埋葬されたが、地面には血のしみがあり、折れた矢なども散乱している。

 峠に辿りついた。

 柵の残骸があった。

 たくさんのアサッシンの男たちがここで命を落とした。

 生き延びたのは一人だけだった。

 その一人も、村の消火作業中に煙に巻かれて行方知れずとなった。

アジェスたちは柵の残骸の前で、しばし黙祷した。

 それから、振り返って森を見た。

 くぐもった低い唸りがアジェスの喉から漏れた。

 緑の海が、おぞましい姿になっていた。

 集落の周辺はなんとか無事だが、森のかなり広範な地域が焼失していた。

 さらに炎は、どんどん奥地へと広がっていた。

まるで貪欲な顎のようだ。

ルシアは悲しげに目を伏せた。

 「今でも人数を出して、火の拡大を止めようとはしているの。でも、人間の力では、あの炎を消すことはできない……」

 季節が移り、雪が降る冬になるまで、打つ手はない。

自然に火が終息するのを待つしかないのだった。

 この海にもたとえられる大森林のすべてが消え去るとは思えないが、それでも広大な面積が灰になるであろう。

「なぜ……なのだろうな」

 ぽつり、アジェスが呟いた。

 ルシアはアジェスを見上げた。もの問いたげな視線である。

 その視線にアジェスは気付き、声を少し高めた。

 「火は集落を焼くためにアジェンタ兵が放ったものだ。なのに、集落の周辺の森はおおむね健在だ。みんなで消火に務めたということもあるだろうが、発火点よりもその周辺があんなにも広い範囲に渡って燃えているのはおかしいとは思わないか。それに、いくら火の勢いが凄まじかったとはいえ、ほんの七日ほどの間にあんなにも燃え広がれるものなのだろうか」

 「そういえば……まるで、炎は森のあちこちから吹き出したようだった、と森の民が話していた。だから燃え広がるのも異様に早かったんですって」

 ルシアが考え込むようにして言った。

「なぜだろう……」

アジェスは沈思していた。

 森を見詰めていた。

 森には確かに人知を超えた生命力がある。

 その森が、たやすく燃え果ててしまうとは思えなかった。

 何か、意味があるのではないのか。

 その思考を、ルシアの小さな呟きが破った。

「あっ……」

 ルシアの視線が宙を射ていた。遠い上空を見ていた。

 「どうした、ルシア」

 アジェスもその視線を追った。

 壮大な炎が天空に黒い柱を衝き上げていた。

 膨大な炎熱が発生しているために起こった上昇気流だ。

 上昇気流は、森の上空に巨大な雲を形成しつつあった。

 その黒い雲に、きらきらと光る粒が吸い込まれていく。

 光る粒は、森のまだ健常な部位から放出されているようだ。

 それらが、上昇気流に吸い上げられて、高空へと駆け昇っていく。

「あれは……種子」

 ルシアが呟いていた。

 アジェスも目を凝らした。

驚愕の声を出した。

 「開花したのか……一斉に」

 森は、黄金色の粒を盛んに吐き出していた。

 それは木々の花粉であった。

 また、名もなき草たちの放つ種子も含まれていた。

 あらゆる種類の植物が、時を合わせて結実し、種を放出しているのだった。

その種を上昇気流が吸い上げて、より高い空の対流に渡していく。

 対流は惑星を巡っている。その空気の流れはいつか、各所に種をはらむ風を吹き下ろすことだろう。

「このことを……森は知っていたのか……」

 アジェスは茫然としていた。

 すべて、森の意志の為せる技であったのか。愚かしい人間たちの争いですら、巨大な森から見れば生まれ変わりのための試練であったのかもしれない。

 (生まれ変わり……そうか……)

 森は老いていた。密生し、安定していたけれども、密林の底には太陽の光は届かない。日陰に生きる植物しか繁茂できない。

 また、若木も育ち得ない。巨木に囲まれて発芽することすらできず、かといって、ヴェルノンヴルフェンの高峰に囲まれて、他の大地に根付くことも叶わない。

 だから、炎を受け入れたのではないのか。

 森は灰になり、大地は有機物に満ちる。

 そこには新しい芽吹きが見られよう。

 どのくらいの時間がかかるかはわからないが、いつかは新しい森が生まれるはずである。

 そして、風。

 惑星を巡る対流に種を運ぶためには強力な上昇気流が必要だった。

 そのためにも炎を呼び寄せたのではないのか。

アジェスには、大量の種子を孕んだ風がアルカルルンから吹き降ろすさまが、はっきりと浮かんだ。

 心に暖かいものが満ち溢れるのを感じていた。

 気がつくと、頬を涙が濡らしていた。

 ルシアがアジェスを見上げていた。

 ルシアの瞳にも涙が浮かんでいた。

 「いま、ギャラハットの声が聞こえた……あの風に乗って」

 ルシアは目に見えぬ風を指差した。

 アジェスの頬を風がなぶった。

 吹き抜けていく。

 熱気のこもった風が、峠道を舐めて、高空へと駆け昇っていく。

 「また、聞こえた……がんばれって、言ってくれた」

 アジェスは振り返った。

 風を目で追った。

 きらきらと光る風は、ヴェルノンヴルフェンの青い空を楽しげに駆け回っているようだ。

 生まれたばかりの命をどう使ってやろうかと、てぐすね引いているように見える。

 「あの風はどこへ行くのだろう」

 アジェスの瞳が少年の輝きを灯していた。

 「おれは、あの風のゆくえを知りたい……すぐにでも旅立ちたい」

「わたしも」

 ルシアが言った。アジェスの身体を支えている、その華奢な身体を精一杯に伸ばし、風を見た。

 風は、アジェスとルシアの身体を突き抜けて、吹いている。

 「この風を……もっと知りたい……」


 賢者の森は燃えていた。

 燃えて、灰になって、そして、新しい命の苗床になろうとしていた。

 そして―――


 風は種を孕み、世界を巡る長い長い旅路にその一歩を踏み出した。



                    <風のアジェス 完>


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風のアジェス 琴鳴 @kotonarix

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