第6章 辺境の激闘

           1.原生林の夜


 森は巨大な生き物に思えた。

 アジェスは森の内奥部に向かいながら、その感を強くした。

 森の民が暮らしているのは、森の外縁部周辺にすぎない。むろん、食料採集のために彼らも森の奥に分け入る。だが、本当の奥地は聖域として自ら入ることを戒めた。そこが森の内臓であり、中枢であるからであろう。いわば人間は、森の生命が損壊を受けることがない領域に限って繁殖している寄生生物だった。

 森は広く生命に満ちあふれていた。

 アジェスは、途上、様々な動植物とまみえた。

 柔らかそうな毛皮に包まれ走る獣がいた。瑠璃色の羽を持つ鳥が頬をかすめたこともある。地面を見れば虫たちがうごめき、せっせと命をつないでいることがわかる。

 実のなる木々、花をつけた野草。人の靴跡のない叢。数百、数千の齢を経ていると思える巨木。

 昼でさえ暗い鬱蒼とした原生林には、ほかのどの地域にもない種類の生命が詰まっていた。

 (こんな世界があったのか)

 アジェスは改めて驚異を感じた。アジェスはこの惑星エリーゴンのかなりの地域を旅して回った。愚者の海ほどではないにしても、惑星はどこも不毛に近い状態だった。湿潤な気候帯においてさえ植物は人間が管理し育てるもので、自然のままの手付かずの森などありはしなかった。森というのは、金持ちが自らの威福を見せつけるために金にあかせて作り上げる芸術品であった。

 ソフィアの言葉によれば、賢者の森と同じような原生林はかつては惑星上の至るところにあったのだという。それを、人間が伐採し開拓して、森の生命を弱めていった。そして、第二の太陽テルオッグが活動を始めて以来、激変した気候によって衰えていた森はあっという間に姿を消したのだと。

それが事実だとすれば、森は人間を憎んでいるのかもしれない。



 進路は、ソフィアに教わったとおりにした。聖域に至る要所には目印があった。その目印は石碑の形で刻まれていた。石碑は礼拝の対象なのであろう。生活区域に近い石碑には例外なく供え物があった。人々が祭祀を行わなくなったあたりから、よりいっそう緑が濃くなる。つまり、人域を出たということになるようであった。

 一日目は平穏に過ぎた。幸福、といえばこれほど幸福な道のりはなかった。

 たった一日で、これまでの人生分の驚きがあり、発見があり、理解があったように思えた。植物にくるまれて生きることの快適さを知った。

 森の中はほのかに暖かく、湿り気があって、呼吸するたびに木々の発する香気が鼻孔をくすぐった。乾燥しきった愚者の海の空気とはまったく違っていた。

 愚者の海を貫く激しい風もアジェスは好きだ。だが、あの風は壮年の男にはともかく、女や子供、老人には厳しすぎる。この環境でなら、人々は健やかに生きていけるのではないのか。

 森こそ、人間の生きるべき場所ではないか、そのようにアジェスは思った。

 歩き続けて陽が翳った。

 森にいると太陽の高さがつかめず、どのくらいの刻限なのかがわかりにくい。ソフィアからは、夜の森の危険は耳が痛くなるほどくり返し聞かされていた。

 「夜の森を歩くことは、どんなに森に慣れている人間でも避けます。まず間違いなく方角を見失って迷ってしまうからです。ただでさえ、道らしい道のない森です。順路を見失えば確実に死ぬことになります。このこと、ゆめ忘れないでください」

 アジェスの体感では、十時間も歩いていない。森の中にも起伏はかなりあり、それを考えるとはかどったとは言いづらかった。こんなことで、明日の夜までの聖域に入れるのか、不安に感じた。

 だが、ともかくもアジェスはソフィアの訓戒を守って、野営の準備を始めた。



 平坦な場所を探し、そこに薪になる枯れ枝を集めた。今の季節、さほど寒いということはなかったが、夜行性の肉食獣を寄せ付けないためには火は不可欠だ。

 アジェスは森の民が狩りに使う弓矢を持ってきていた。鏃に強い麻痺性の毒が塗られているものだ。これならば、皮膚を傷つけるだけで、大型の獣でも動きを封じることができる。

 アジェスは火を起こした。生に近い枯れ枝は燃えにくい。また、煙がひどく出る。

 石炭や石油、獣油を燃やし、暖を取る愚者の海のやり方とはまったく違う。木を燃やしてしまうのだ。

 ばかな話だが、アジェスは木がこんなにたやすく燃えるものだとは知らなかった。

 それに、木を燃やして作った炎はとても奇麗であるように思えた。もっとも、煙が目にしみるのには閉口したが。

 傍らには水と、かき集めた砂を置いておいた。消火用である。

 アジェスは炎を使って、携行して来た肉とパンを暖めて食べた。

 パンは、木の実と穀物を挽き合わせて作った粉をこねて焼いたものだ。穀物もセルシュという背の低い野生種で、これだけではパンを作るには十分でないので木の実の粉を混ぜるのだという。味は香ばしくてなかなかうまい。

 セルシュをちゃんと栽培すれば、食料供給はもっと楽になるのではないかとアジェスは思ったが、ソフィアたちは違う考えを持っているようだった。

 「畑を作るためには、木々を今以上に伐らねばなりません。畑には水を引かねばならないでしょう。また、肥料となるものを採集する必要もでてきます。森は外側からだんだんと死んでいくことになります。農業は、森にとっては致命的な攻撃です。今、わたしたちは豊富とはいえませんが十分な量の食物を森から得ています。ですから、畑を作る必要はないのです」

 森の民の考えははっきりしていた。

 森とともに生き、森を守る。

 アジェスはそんな森の民を尊敬できると思ったが、同時にアル・アシッドの言い分もわずかにわかる気もした。アル・アシッドは、森にしがみついて生きている人々を鼻で笑った。人間にはもっと違う生き方があるというのだ。

 「きさまたちはこの森以外を知らず、他の食い物の味も酒の味も何も知らずに老いさらばえていく。馬鹿者だよ。平原と交わり、交易をすれば、どんなものでも手に入る。こんな小屋みたいな家ではなく、宮殿のような館に住み、山海の珍味に舌鼓をうち、おもしろおかしく暮らせるものを。女たちもそうだ。木の皮から作ったボロのような服ではなく、金銀の刺繍入りのきらびやかなドレス、琺瑯塗りの靴、宝石をちりばめた装身具、そのようなもので身を飾ることもできるのに。だいたいにして、人間の一生てな何だ? 死ぬまでこんな辺境にくすぶって過ごすことなのか? おれたちと一緒に動乱の世の中で成り上がることを考えろ。戦乱が世を覆えば、戦いに長けた者が浮かび上がっていくのだ。おれたちアサッシンは、戦いとこの森をこやしにどんどん大きくなれるだろう。人間ならば、そのようにして生きるべきだ」

 それが、アル・アシッドの人生哲学であるらしい。それを暴力をもって他人に無理強いすることなければ、それなりに傾聴に値する意見であるようにも思える。

 アジェスも、一度ソフィアに平原ふうの豪華なドレスを着せて見てみたかった。ルヴィアンの貴族の姫君にも劣らない美しさであることだろう。

 そのようなことを考えながら、アジェスは眠りに落ちた。



 何事もなくその夜は明けた。二日目も問題なく距離を稼いだ。

 快適な旅だ。森を恐れることはないのではないか、という気がしていた。

 三日目には楽観していた。聖域は近い。うまくいけば、陽のあるうちに聖域に入れるはずだ。

 森はいっそうが深い。足元まで陽の光が届かず暗いうえに、木の根が地面を走り、その表面を苔が覆っているためにひどく滑りやすくなっていた。

 露出している木の根は縦横に走っており、ぐねぐね曲がりながら進路を遮った。

 それを乗り越える苦労が増し、行程はますますはかどらなかった。

 頭上をばさばさと音を立てる獣の動きも気になった。

 どうやら、猿の大型のものらしいが、アジェスを樹上から監視しているようだ。

 かれらのテリトリーをアジェスが侵したものらしい。

 アジェスは攻撃に備えて弓と矢を準備しておいた。

 まれに、鋭い声を猿は出した。それがアジェスへの威嚇なのか、仲間を呼び寄せようとしているのか判別できなかった。

 アジェスは全身に汗をかきつつ、先を急いだ。

 この頃になると、目印を見つけるのが困難になっていた。

 草に隠れていたり、侵食によって磨耗して自然石との区別がつきづらくなっていた。

 その目印を確認するために多くの時間を割かれるようになっていた。

 「このままでは、また夜が来てしまうな」

 アジェスはあせりを覚えた。森に嘲弄されているような気がしてきた。

 森の木々が意地悪をして惑わしているのではないか、とばかなことを考えた。

 聖域は谷の底にあるという。その入り口を陽のあるうちに発見できなければ、今日中にダンの篭っている場所まで辿り着くことはできないだろう。

 アジェスは歩きながら昼飯を食い、休むことなく森をかき分けた。

 それでも谷の入り口に届かず森が暗くなった。

 「まだ陽はあるはずだ」

 時間的にいえばそうだった。森が深いために、実際の日没よりもはるかに早く森には夜が来る。アジェスはその森の夜に従って行動しなければならなかった。ところが、先を急ぐあまり、アジェスは体感時計に従って行動した。

 目印を見失ってしまった。

 アジェスはやむなく今日中に聖域に入ることは断念した。しかし、目印を発見してからでないと、野営もできないではないか。アジェスは周囲を探索した。

 この行動が裏目に出た。場所がわからなくなった場所に留まっておくべきだった。この探索行によってまったく位置がわからなくなった。

 アジェスが森歩きに慣れていれば、これ以上の行動は自分の首を絞めるだけだということに気付いたはずである。だが、アジェスは愚者の海の人間だった。自分の方向感覚に絶対の信頼を置いていた。聖域の大まかな方角は頭に入っていた。アジェスは道に迷ったことを自覚した瞬間、目印探しをやめ、自分の勘に従って行動することを選んだ。

 アジェスは森の奥へ奥へと進んだ。

 周囲は完全に闇に飲まれつつあった。

 少しずつ不安が首をもたげてきていた。

 方角は間違っていないという自信があった。だが、闇が這いのぼってくるに従い、周りの雰囲気が一変し始めていた。

 空気が冷えていた。

 霊気、とでもいうのだろうか。アジェスは肌に粟立つものを感じた。

 音があちこちから聞こえていた。

 鳥の鳴く高い声、枝が揺れる音、茂みをかき分けて走る気配。

 どこかしらから水音が聞こえ、激しく羽ばたく音が聞こえもする。

 森は夜になってかえって活動し始めたようだ。

 明るかった時とは一変していた。

 アジェスは慎重に歩を進めていた。

 と、周囲の気配が変わった。

 ことり、とも音がしない。

 静寂があたりを覆っていた。

 なにごとか、と思った。

 アジェスは闇の中に光るものを見た。

 アジェスの頭の高さの枝のあたりだ。

 それはふたつあった。双眸であった。爛々と燃えている。

 低く唸る声が聞こえた。

 アジェスの血が冷えた。

 それは豹と呼ばれる大型の猫であった。人を襲って殺すこともあるという。

 アジェスは弓に矢を番えた。

 唇をすぼめ、鋭い擦過音を立てて威嚇した。

 豹は怯んだ様子は見せなかった。枝の上でじっとしていた。だが、その静止は次の瞬間には跳躍に変わっているかもしれない。まったく隙のない静止であった。

 アジェスは照準を双眸の真中に合わせた。

 双眸が闇の中でぶれた。いや、動いているのは双眸ではなく、アジェスの方だ。

 脅えているわけではない。闇の中に射込むことは容易ではない。小刻みに照準がぶれるのは仕方がない。

 アジェスは息を詰めて豹を見据えた。

 豹もそうだ。底光りする双眸をじっとアジェスに向けている。

 無言で両者は対峙していた。どちらかが動けば、もう一方も相手を斃すために動く。そういう呼吸になっていた。

 アジェスが矢を放てば、豹はアジェスの喉笛めがけ跳躍する。

 豹が先に跳べば、アジェスも大きな的めがけ射る。

 どちらが勝つかはまったくわからない。強いていえば、飛び道具を持つぶんアジェスが有利だが、第一射をかわし得れば豹の爪がアジェスに致命傷を与えるだろう。

 両者は睨み合っていた。

 どれくらい経ったろうか。

 不意に頭上の枝から大型の猛禽が飛び立った。枝がしなり、音を立てた。

 それをきっかけにして、豹が跳ねた。

 アジェスは矢を放った。

 矢は虚空を走り、幹に当たった。

 アジェスは頭を沈めていた。豹の柔らかく重量感ある肉体が、頭の上をかすめたような気がした。

 豹はアジェスの方に跳んだのではなかった。あらぬ方に跳んだ。というよりも、逃げた。

 それが、アジェスには見えなかった。豹が闇に消えると恐慌に襲われた。

 見えれば闘える。が、闇に潜まれてしまっては闘いようがない。

 アジェスは全力で走った。後先を考えない死に物狂いの疾走だった。

 何度か転びそうになったが、転ぶと背中に豹の爪が食い入ってくるような恐怖が襲い、必死でこらえた。

 どこをどう走っているという配慮も今はなかった。ただめちゃくちゃに走っていた。

 気がつくと、風景が一変していた。

 森の中なのだが、今までよりは木々の密度が下がっている。

 木と木の間がややまばらであるように思える。それに、空気に流れがある。密林の中にはそよとも風がなかった。だが、ここでは確かに吹き抜ける風を感じた。

 「ここは……」

 アジェスは充分に闇に慣れた目をこらした。

 峡谷だ、と思った。必死で走っているうちに坂を下っていたのだ。知らず、谷への入り口を見つけたのだ。

 谷ならば風が吹きおろす。風を感じるのも当然だった。

 「この底が、聖域なのか」

 アジェスは呟いた。確かに、今まで以上の霊気がたちこめているような感覚が肌に迫ってくる。

 アジェスは一歩一歩進み始めた。

 闇が体に絡み付くような濃密さで広がっている。

 一本一本、巨木の幹を掌で確かめつつ、奥へと進んでいった。

 

 

    2.ダンとアジェス



 行く手に光が見えた。

 アジェスは目を擦った。擦ると、視界がなおのことおぼろになった。

 光が環状に見えた。

 目くらましか、とアジェスは思った。森にたぶらかされているのではないのか。

 一歩進むごとに光は強く明らかになっていく。

 アジェスはなおも進んだ。何も考えられない。ただ、光の正体を確かめようと思った。

 そこは、木のない空間だった。

 ちょうど円状に平地が広がっており、その中央に火が焚かれていた。

 木のはぜる音が聞こえた。

 焚き火の側には男が一人いた。

 男は背中を向けていた。何かを読んでいるのか、そのように見えた。

 アジェスは立ち止まった。

 その後ろ姿をじっと見つめていた。

 男は視線に気がついたのか、ふいと後ろを向いた。

 髭だらけの初老の男だ。肩幅は広く、屈強そうな体格だ。老けてみえるのは、顔の下半分を覆っている髭に白髪がたいぶん混じっているためらしい。

 「村の者ではないな。だれかね」

 静かな声だった。

 聞き覚えのある声だ。

 「ダン・ラズロ……お久しぶりです」

 アジェスはダンの顔を凝視しながら言った。

 「お忘れだとは思いますが、十四年前に一度お会いしたことがあります。アジェス・ルアーです」

 「アジェス……覚えている。あの若い船乗りか」

 ダンは微笑んだ。

 アジェスは意外に思った。たったあれだけの関りで覚えていようとは思わなかったのだ。

 だが、ダンは言った。

 「ユナンの街だったな。あの頃はわたしも船に乗っていた……」

 「ダン・ラズロ……」

ダンはアジェスを柔らかく見つめながら言う。

 「おまえさん、用がなくてこんなところには来まい。話があるんだろう?」

 「ええ」

 「ならば、ここに来て座れ。ここならば聖域の霊気も悪さはせんだろうて」

 アジェスは勧められるまま、ダンの隣に腰を下ろした。

 赤い炎に照らされるダン・ラズロは意外に老けていないのに驚いた。頬も若々しく張っているし、両眼にも精気がみなぎっている。それでいて不思議と枯れた印象を与えているのはなぜだろう。

 「不思議なところで再会したものだな。これが森の霊気の悪戯でないとすれば、今夜は一杯やってもいいかもしれない。奇跡的な出会いだからな」

 ダン・ラズロは傍らの容器を取り上げた。

 土をこねて焼いた素朴な徳利だ。

 「木の実を発酵させて作った酒だ。猿酒ともいうがな」

 アジェスに徳利を渡した。

 「飲め。平原の酒とは違うが、それなりに味わい深いものだ」

 アジェスは徳利に口をつけ、飲んでみた。

 蜜のように濃厚な甘味が広がった。酒精はそれほど含まれてはいないようだ。

 「これはダンが?」

 「酒も徳利もな。ここに来てしばらく経つからな。自分が使うものは何でも作ってしまったよ」

 ダンはアジェスから徳利を受け取ると、自分も徳利から酒を飲んだ。

 「聞いていいでしょうか」

 「なにかね」

 「なぜ、この森に残ったのですか? シフォンに戻らなかったことには何か理由が」

 アジェスはダンの横顔に見入った。ダンはただ炎を見つめていた。

 「理由は幾つかある。まず、自力では帰れなくなったためだ」

 アジェスはダンの足元を見た。左足の先端がなかった。

 アジェスの視線に気付き、ダンは左足を撫でた。

 「杖がなくてはまともに歩けんのだよ。これでは、とてもアルカルルン越えはできまい。ここまでの道のりは平坦だったから、やって来れたがな」

 「でも、馬車を使うなりすれば」

 「今のは理由の一部に過ぎない。と、いうより言い訳だな」

 ダンは徳利をアジェスに再び押しつけながら微笑んだ。

 「本当のところはな、惚れたんだよ」

 悪戯っぽい笑みだ。

 「ソフィアの母親にですか?」

 ソフィアの母親はソフィアを産み落として間もなく亡くなったという。族長にはこの娘一人しかおらず、その孫もソフィア一人だけということになる。

 「それもあるが、そればかりじゃない。森に、だよ」

 ダンはアジェスの顔を見つめていた。

 「おまえさんも同じだろう、アジェス・ルアー。おまえさんも、この森を夢見て今まで生きてきたのではなかったのかね?」

 「なぜ、それを……?」

 「こんなところにやって来たんだ。他に理由を探すまでもなかろう。それに、おまえさんはシフォンの町でおれの女房と娘にも会ったんだろう?」

 アジェスはうなずいた。

 「元気にしていたか?」

 「奥さんは亡くなっていました。ルシアには会いました。とても素晴らしい娘さんでした」

 アジェスはシフォンの町でルシアに出会い、クランベイルを絞め上げた話をした。ルシアがリクスヴァ号で旅立ったこともつけ加えた。

 「そうか」

 ダンは呟くように言った。

 「あいつは死んだか。おれよりも先に」

 それきり何も言わなくなった。

 「ダン・ラズロ。戻りましょう。今、森の民には危機が迫っています。アサッシンが、森を戦場にしようとしているのです」

 ダンは無言だった。

 アジェスはかまわず事態を説明した。

 すべてを話したつもりだった。

 ダンは沈黙したままだった。

 「ダン・ラズロ、夜が明け次第、村に戻りましょう。わたしが肩を貸します。ソフィアはこの事態を背負わせるには幼すぎます。精一杯やっていますが、見ていて辛くなります。ダン・ラズロ、あなたが戻らなければ森の民はこの森を失うことになるでしょう」

 「アジェス・ルアー」

 ダンがようやく口を開いた。

 「わたしは戻れない。この聖域を離れることはできない」

 「なぜです!?」

 「ここは森の始まりだ。そして同時に、この惑星エリーゴンの神域でもある。その意味がわかるか?」

 「何を言っているんです、ダン」

 アジェスはダンを凝視した。狂気がその瞳に宿っているのではないのか。しかし、ダンの表情には異常なところはまったくない。

 「来たまえ、アジェス・ルアー。森の民……古くはウッカ・ヤッカと呼ばれた……彼らの神殿に案内しよう」

 ダン・ラズロは杖を手に立ち上がった。

 意外にすばやい動作で歩いていく。アジェスはその後を追った。



 ダンは、峡谷の底へ下りていった。

 峡谷の底は、まばらな潅木が見えるだけであった。

 「ここが森の始まりだ。日中でさえここにはまともに光は届かない。だから、木も大きくならない。だが、始まりは始まりだ。森にこれ以上深いところはない。ここが、最奥部だ。そして」

 ダンは峡谷の奥を指し示した。

 そこは、岩が剥き出しの絶壁になっており、その側面には無数の洞窟が口を開いていた。

 「この奥に、神殿がある」

 ダンは先に立って洞窟に入っていった。アジェスも後を追わないではいられない。

 洞窟には松明が焚かれていた。ふだん、ダンはこの中で起居しているのだろう。調理の跡や寝床らしい場所が見て取れた。

 「足元に気をつけろよ」

 ダンの言葉が反響した。

 しばらく、無言で歩きつづけた。凄まじく深い洞窟だった。

 かなり急に下っていた。ということは、目的地は地下に当たる。

 出し抜けに広い空間に出た。

 アジェスは天井を見上げた。

 天井に当たる部分はなかった。

 暗すぎてわかりにくいが、天井は吹き抜けになっているようだった。それもはるかな頭上に開口部があるらしい。ちょうど、深い竪穴の底にいる格好になる。

 「ここが、神殿だ」

 ダンの声が響いた。

 ダンの手にはいつの間にか松明が握られており、その松明が高々と差し上げられていた。

 その光に照らしだされてあるものが見えた。

 それは。

 巨大な神像であった。

 白い金属で作られているらしい、松明の光に照り輝いて、その神像は立ち尽くしていた。

優美な曲線で全体が形作られている。鎧を身に着けた武人像の形をとっているが、女性的な雰囲気が漂っている。巨大な像だ。ダンの背丈では、その像のくるぶしの高さまでにしか達しないほどだ。

 「これが、ウッカ・ヤッカの神だ。その名はガラテイア。大地母神だ」

 「大地母神……」

 「アジェス、賢者の森は、実は人の手で作られたものだ、と言えば驚くか?」

松明で照らしだされるダンの横顔はガラテイアを見上げていた。アジェスはダンを凝視した。

 「作られた……? この広大な森が人の手で……? まさか……」

 「言ったであろう。ここには歴史のすべてが目にみえる形で残されている、と。わたしもここに来て初めて知ったのだ。この森の意味を、そして森の民と自らを呼ぶ人々の存在する意味を」

今はダンの視線はアジェスに向けられていた。

 「アジェス・ルアー。平原びとにしてこの森に魅せられ、果てしない距離をわたってやってきた旅人よ。おまえにはこの森を知る資格がある」

 ダンはゆっくりと語り始めた。

 声がおんおんと反響した。その残響はじきに甘美な音楽へと変じていく。

 

 

           3.アングロイア

 

 むかし、宇宙に三つの星があった。

 もっとも豊かな自然の惑星エリーゴン。

 惑星の長兄テルオッグの衛星であるシャオペ。

 そして、冷たく凍てつく酷寒の惑星ベイヤーン。

 そのそれぞれに人間が住み、互いに行き来しあえた時代があった。

 神の御代、大ハーディール王国の時代である。

 シャオペに王国の中枢があり、星々を巡る船「星船」がにぎやかに往来していたという。

 神の文明はとてつもなく高まったが、じきに問題が起きた。文明を支える資源が枯渇し始めたのだ。文明は後退を余儀なくされようとしていた。

 だが、ベイヤーンには手付かずの鉱脈が残されていた。凍てついた惑星ベイヤーンの表面は、永久に溶けることのない厚い氷河に覆われており、人間の開発の手を拒絶していたのだ。

 ベイヤーンを温暖化して氷河を溶かし、その無尽蔵の資源を活用しようとする人々が現れた。彼らは最大の惑星テルオッグをもうひとつの太陽とし、ベイヤーンを快適な惑星にしようと考えた。しかしそれは同時に惑星エリーゴンが灼熱の惑星になることをも意味していた。テルオッグが恒星になることにより、エリーゴンの生態系は破壊され、自然は変わり果てるであろう。

 テルオッグの恒星化をめぐって、推進派と反対派との間で凄まじい争いが起こった。

 その争いは、幾度かの大争乱と幾度かの終息期を繰り返しつつ、数百年もの永きにわたった。その時期をアングロイア(浄化の時代)と呼ぶ。

 そして、戦いは最終的には推進派の勝利に傾いた。テルオッグは小型の太陽となったのだ。だが皮肉なことには、あまりの戦いの永さのために文明はどうしようもなく後退してしまい、大ハーディール王国も滅亡してしまっていた。

 エリーゴンも群雄が割拠する戦乱時代にまで退化してしまっていた。

 その中でも強勢を誇っていたのは森の民の祖先に当たる人々―――ウッカ・ヤッカ―――であった。

 この時期、テルオッグの発する熱量はさほどでもなく、大地には緑があふれかえっていたという。しかし、ウッカ・ヤッカの王セトは、エリーゴンの生態系が未来において破壊されることを予見していた。彼は、ウッカ・ヤッカの本拠ヴェルノンヴルフェンにおいて、エリーゴンの生態系をそっくり保存することを企図した。

 高山帯によって周囲から隔絶されたヴェルノンヴルフェンの広大な盆地帯に、考えられうる限りの植物、動物、昆虫、魚などを集め、厳密な環境管理のもとにそれらを育成したのだ。

 その事業は、単なる道楽であったかも知れず、あるいは未来を見通した叡智に根差すものであったかも知れず、真相は明らかではないが、セト王が平原において挫折しウッカ・ヤッカと呼ばれる民族が地上から消え去ってもなお、ヴェルノンヴルフェンの奥地において森は残った。

 セト王は賢者の森の管理をさせるために、王族のうち数家系をヴェルノンヴルフェンに残した。名目は、父祖の地であるヴェルノンヴルフェンの神殿を異民族の侵略から守るため、であった。神殿は大地母神ガラテイアを祭ったもので、その起源は大ハーディール時代にまで遡る。

 ヴェルノンヴルフェンに置き捨てられた人々は、宗教上の堅固な禁忌によって移動の自由を失い、自分たちが森を守らねばならない理由を知ることさえも禁じられた。

 すべての事情を記した書物は聖域・神殿に保管され、厳重に封印された。森の民は聖域に近づくことを恐れ、森の周辺部で細々と生きることを自らの分際としたのであった。

 「ウッカ・ヤッカとは呪われた民族であったかの知れぬ。かれらは世界を制覇できるほどの能力に恵まれながら、自らに課せられた宿命に抗することをせず、この辺境で朽ち果てていった。セト王はその運命に抗ったただ一人の王だったが、その彼の宿望も平原に散ったのだ」

 ダンの言葉には膨大な歴史が凝縮されていた。ダンが今聞かせたのは、そのごくごく限られた一部であるに過ぎないようであった。

 「平原に散ったウッカ・ヤッカの子孫は時の果てにアサッシンとなり、屈従の時を過ごしてきた。森に残るよう義務付けられたウッカ・ヤッカは森の保全と自らの生存とがせめぎあう矛盾に常に苦しめられてきた。そのアサッシンと森の民がふたたび交わろうとしているとすれば、すべて歴史は循環するものだと言わざるを得まい」

 ダンはさびしそうな笑みをこぼした。

 「おれも、その歴史に飲み込まれてしまった人間だ。この聖域にやって来たのは、異国人の身で森の民の長となるためには、この森のすべてを知らねばならないと考えたからだったが、知ってしまった時には森の民を率いる意味を喪失していた」

笑いつつ、声は悲痛であった。

 「賢者の森は、墓だ。いうならば、ウッカ・ヤッカの王セトが建立した、惑星エリーゴンの墓なのだ。この森は世界から隔絶されてしまっている。花粉も種も、このヴェルノンヴルフェンを取り囲む高山帯を越えてはゆかない。ここに溢れ返っている命は、しかし、決して広がることはない。その墓にとらわれた森の民は、歴史の流れの上から見れば、哀れな墓守だ」

 「でも、ダン・ラズロ!」

 種を、花粉を、外界に持ち出すことがたとえできなくとも、この森は守るべき価値があるのではないか。そして、同じように、たとえ哀れな墓守であったとしても、ソフィアは

けなげに生きている。森を愛している。アジェスは、たどたどしくしか表現できぬ自分をもどかしく思いながらも訴えた。

 「あなたがそれを見限るのはおかしい。あなたは森の民のもとに戻るべきだ。そして、この森を戦乱から守るべきだ。それが、歴史の意味を知った者の務めではないのか!?」

声が知らず激していた。ダンの言葉が痛いほど理解できるような気がしていながら、そのもう一方で猛烈に血が沸騰している自分がいる。

 視界にはダンの姿はもはや映っていない。ソフィアの姿があった。子供の身でありながら、森に迫る危機に敢然と立ち向かおうとしている。

 その姿に重なるようにしてルシアの面影が浮かび上がる。悲惨な運命に弄ばれていながらも、自らの命のおおらかさ、強さに少しずつ目覚めていった娘。

 いずれもが、このダン・ラズロの血を受け継いでいる。その血を受け継いでいることに娘たちは限りない誇りを抱いているというのに。

 「恥ずかしくはないのか、ダン!」

 込み上げる想いが絶叫になった。

 「あなたこそ歴史にとらわれた亡者だ! 墓守よりもみじめな存在だ!」

 ダンは沈黙していた。

 ガラテイアを見ているようであった。

 しばらくして、ぽつりと言葉を漏らした。

 「おまえの言うことは正しい。アジェス・ルアー。そのことに、わたしももう少し早く気付けていたら……だが、もはや遅い……」

 声が闇に呑まれていた。先程までは残響があったのに、今は声がどんどん闇に吸い込まれていくように聞き取りにくい。

 「アジェス……今夜おまえと飲めて良かった。おまえになら娘たちを任せられる……」

 「ダン! どこに行く?」

 アジェスは慌てて呼び掛けた。

 ダンの姿が闇に溶けるように見えた。

 松明の炎が頼りなげに揺らめいている。

 アジェスの頬を風が撫でた。

 その風が松明の最後のほめきを吹き消した。

 闇が降りた。

意識が遮断された。

 朦朧とした。



 ひやりとして目が覚めた。

 首筋にしずくが垂れたらしい。

 アジェスは身体を意識した。膝を抱えてうずくまるようにしている自分に気がついた。

 周囲は既に明るかった。

 靄が一面立ち篭めていた。

 深い森の中だ。

 アジェスは巨木の幹にもたれ掛かっていたらしい。葉にたまった朝露がアジェスの目を覚まさせたのだ。

 アジェスは立ち上がった。

 見覚えのない風景だった。だが、少し歩いてみるとおぼろに思い出した。谷への入口のようだった。昨夜は闇夜、豹に追われているように思って必死に駆けていたので、明確な記憶はないが、どうやらそうらしい。そうこうするうちに、聖域への道を指し示す石碑が見つかった。

 どうして聖域の外に出てしまったのか不思議に思いながらもアジェスは石碑の示す方角に急いだ。なんとしても、ダンを連れ出さねばならない。

 出し抜けに平地に出た。谷に入ったのだ。

 昨夜、焚き火をしていたらしい場所に入った。

 焚き火の跡はなかった。木の実酒入りの徳利もない。

 下生えの草が夜露に濡れてそよいでいるだけだ。

 首を捻りながら、奥に進んだ。

 洞窟があった。たくさんあった。どれがダンの住む洞窟なのかは容易に思い出せない。

 「ダン! ダン・ラズロ!」

 洞窟という洞窟に呼びかけてみたが返事はない。

 やむなく、正面の一番大きい洞窟を選んで入ってみた。

 かつて人が住んでいたらしい洞窟だ。入口付近には毛皮の敷布など生活用品が散乱している。かなり長い間放置されていたらしく生活臭がない。

 闇にへきえきしながらも、奥に進んだ。奥で神殿につながっているとしたら、そこにダン・ラズロがいるのではないかと思ったのだ。

 しばらく進むと、神殿に出た。

 神殿の中は薄明るかった。天井を見上げると、空が丸く小さく見えた。そこから光と新鮮な空気が入ってきていた。

 見渡してみた。

 ガラテイアが奥まった一角にそびえ立っていた。

 昨夜はわからなかったが、やはり神殿らしく、祭壇もちゃんとしつえられている。

 アジェスは祭壇に近づいた。

 愕然として足を止めた。

 目を見開いていた。信じられないものをそこに見ていた。

 祭壇の側に敷布があった。古びて、ぼろぼろになっている。何冊かの書物がその敷布の上に散らばっている。そして、粘土をこねて作られた徳利がひびわれて転がっている。

 敷布の上に、白骨があった。横たわっている姿勢だ。

 さほど古いものではないように思える。骨には干からびた筋や皮膚の残滓がこびりついている。

 その白骨には左足首から先がなかった。



 アジェスは森を歩いていた。

 頭がぼんやりとしていた。

 ただ、使命が終わったことはわかっていた。

 ダン・ラズロは聖域から離れられなくなったのだということは確かだった。

 昨夜、ダンと交わした会話を反芻していた。その会話が現実になされたものだ、という確信が失せていた。夢だったのかもしれないとも思える。

 大体にして、闇夜の森を夢中で走って期せずして聖域に辿りつけるという偶然が起こり得るだろうか。

 すべて森の闇が見せた幻夢だったのかもしれない。

 ダンは聖域で病を得たのだろう。村に戻る体力を失ったダンは神殿に篭り、聖域に保存されていた歴史書を読みながら最期の時を迎えたらしい。

 もしかしたら、森の民はこのことを知っていたのかもしれない。彼らは聖域に入ることができず、すごすごと引き返したということになっているが、本当はダンの死を確認したのではないのか。それをソフィアに伝えることをせず、聖域には入らなかったと偽っていたのではないのか。

 ソフィアを悲しませたくないという配慮とともに、平原びとでありながら族長となるはずであったダン・ラズロという英雄を聖域でずっと「生かしておく」ことによって、アサッシンたちを牽制しようとしていたのでないか、とも勘繰れる。

 いずれにせよ、父の健在を信じて疑っていないソフィアが哀れであった。

 アジェスは足を早めた。夜通し歩いてでもソフィアの元に戻ってやりたい。もはや一刻の猶予もないはずであった。

 


           4.行軍


 アサッシンの流民軍は船を捨ててアルカルルン越えにかかっていた。

 当初よりこの行程を予定していただけあって馬車などの備えは万全であった。だが、食料や水の類の荷も多いため、みんながみんな馬車に乗れるわけではなく、やはり大半の人間が徒歩によらなければならなかった。

 ギャラハットは騎馬で道をとった。ルシアを前に乗せていた。

 といって、べたべたしているわけではなかった。一頭でも多く馬を荷運びにまわすための配慮だった。

 ルシアの態度は今までと変わることなく、毅然としていた。ギャラハットに甘えるふうはなかった。ギャラハットも、ルシアを一人の貴婦人として取り扱っていた。

 だが、昨日までの二人をよく観察していた者が今の二人を見れば、さては、と気付く部分があるであろう。

 たとえば会話にしても、昨日までの二人は言葉を掛け合っていても視線は絡んでいなかった。ところが今は言葉数は以前よりも少ないくらいだが、お互いを自然に見交わしている。

 言葉がなくとも心は通じているかのようだ。

 そんな二人の変化は、周囲のアサッシンたちもなんとなく気付いているようだった。

 ケインは朝から無言だった。機嫌はよくなかった。苦虫を噛み潰したような表情のままであった。

 ケインも騎馬だが、ギャラハットたちとは常に距離をおいて進んでいる。

 「ルシア、おまえゆうべ、ケインに何か耳打ちしていたろう。そのせいだな」

 ギャラハットはルシアの耳元に囁いた。

 ルシアはうなずいた。

 「提督さまにあの時言ったわ。わたし、これからギャラハットの寝室に行きますって。ふしだらな娘だと見限られても仕方がありません。わたしはそうしたいからそうするのです、と」

 「とっつぁんが死にそうな顔をするはずだ。愛娘からそんな台詞を聞かされてはな」

 「わたし、提督さまをだましたくなかったの。わたしは提督さまの娘にはふさわしくない。生まれもよくないし、行儀もいい方じゃない。提督さまがそんなわたしを可愛がってくださることはとても嬉しくてありがたくて、どんなに感謝してもしきれないくらいだけど、でもいつまでも提督さまをだましつづけるわけにはいかない」

 ルシアは唇を噛みしめていた。

 「とっつぁんも解っているさ。だまされた、なんて思っているはずがない。今のとっつぁんは実の娘を嫁に出した父親そのままだよ。おまえは今でもケイン提督の娘だ」

 ギャラハットは声を励ました。と、同時にルシアの腰を軽く片手で抱きしめた。

 「と、同時におれの妻でもある」

 ルシアは顔中真っ赤になった。

 「ギャラハット……悪ふざけはよして。妻だなんて……」

 「妻で悪けりゃ女房だ。それとも后と呼んでやろうか」

 「ばか」

 ルシアはギャラハットの膝をはたいた。

 そんな二人のやりとりを、周囲のアサッシンたちは柔らかな笑顔を浮かべつつ聞いている。普段は無表情なアサッシンたちも、ギャラハットたちはすっかり自分たちの仲間であると認識しているようだった。やはり、あの激戦を一緒にくぐり抜けたという共通体験がものを言っている。しかも、愚者の海最強のアサッシン艦隊に包囲されながらも脱出できたのは、太陽王ギャラハットの指図があったからこそだ、という意識が浸透している。そのようにシルバが仕向けたということもあるが、ギャラハットとルシアの飾りけのない睦まじさがアサッシンたちの胸襟を開くのに大いに役立っていることも見逃せない。

 「アズマ、全員の具合はどうだ。行軍に遅れは出ていないか?」

 ギャラハットは傍らに目をやった。寡黙なアサッシンの若者が騎馬で随行している。

 このアズマは、ギャラハットの秘書官としての役割を果たすようになっていた。

 アズマの顔は浅黒く引き締まっている。目が細くやや釣り上がりかげんなのは典型的なアサッシンの顔だが、それにしても目尻の切れ方がアズマは際立っている。研ぎ澄まされた刃を思わせる目だ。同様に声も鋭く、言葉を短く切る。

 「道が狭いために若干の遅れは出ている。カーラの関門の前で一度隊列を整えたほうがよいだろう」

 「カーラの関門というと、ヴェルノンヴルフェンに至るまでの最大の難所だな」

 カーラの関門とはアルカルルン山脈を越えるためには必ず通らなければならない場所であった。馬車一台がかろうじて通れる細い道が絶壁についている。ここを避けては、あとは岩壁に取り付いて蟻のように這い登るしかない。

 「いかに機動力のある軍隊でも、この道を通らねば賢者の森のあるヴェルノンヴルフェン内域へは入れない」

 アズマは断言した。

 「そこを通ってしまえば、戦略的にも優位に立てるな」

 ギャラハットは呟いた。

 カーラの関門を通過してそこに陣取れば、どんな大軍でも迎え撃つことができるだろう。敵は一騎か二騎ずつでしか攻めてこれないからだ。それならば寡兵でも押し返すことがで。きよう。

 「カーラの関門を全員が渡り終えるまでにまる一日は要するだろう。そこから賢者の森までは三日行程。だが、さほどの難所はない」

 とはいえ、ヴェルノンヴルフェンにはまともな道はない。優れた道案内役がいなければたちまち遭難するであろう。

 「ともかくも、先を急ぐことだ」

 行軍は縦に伸びきっている。女・子供・老人、そして負傷者を先発させ、しんがりを精強なアサッシンの男たちで固めている。敵の追撃に備えてのことだが、それでも後方から優勢な敵に攻撃されれば壊乱する恐れが強い。もともとアサッシンは個々の戦闘力はすこぶる高いが、集団戦には慣れていない。武器も暗殺用の刀槍類には長けているが、銃器はさほど得手とはしていない。

 ギャラハットたちはほぼ中央に位置していた。アズマが適宜先頭へ行って進路を指示したり、後方に駆け戻って状況を確認するのには、ギャハットがこの位置にいるのがいちばん都合がよかった。

 「賢者の森のアル・アシッドには連絡を取っているのか?」

 ギャラハットはアズマに訊いた。

アズマは一瞬言葉を発しなかった。ややあってから、いつもの口調で答えた。

 「一昨日、シルバが使いを出している。一騎で駆けるだけ駆けて、もはや森に入っているだろう」

 ギャラハットはうなずいた。だが、なぜアズマが一瞬言いよどんだのかが解らなかった。

 しばらくアズマを見つめていた。

 アズマは視線を外した。言いづらそうにぽつりと言う。

 「シルバは、太陽王を族長にすることをアル・アシッドに告げるために使者を出した。アル・アシッドは平原びとを憎んでいる。彼は怒るだろう」

 「ふん」

 ギャラハットは鼻を鳴らした。

 「てめえが族長になれないとへそを曲げる男か、やつは」

 「そうかもしれない。アル・アシッドは腕が立つ。頭もいい。だが、人の心をつかむことができない。そこが、太陽王とは違う」

 アズマは真面目に言った。

 「アズマに褒められるとはな。滅多にないことだ」

 ギャラハットは嬉しそうに笑った。この男は他人に持ち上げられても照れないし、逆に糞味噌に言われても腹をたてない。自分に絶対の自信を抱いているからだ。他人が何を言っても、おれはおれだ、と思える性格らしい。



 翌日、先頭がカーラの関門にかかった。

道幅が狭く傾斜もきついため、行列が滞った。順番を待つ人々は、関門近くの斜面で休息した。

 ギャラハットたちも関門前に辿り着いた。

 ギャラハットは馬を降りて地面に座った。

 ルシアは糧食を受け取りに行って、ここにはいない。

と、ケインが近づいていた。

 無言でギャラハットの隣に腰を下ろした。

 「元気かい、とっつぁん」

 ギャラハットは明るく声をかけた。

 「ギャラハット、おまえに話があってな」

 ケインは押し潰したような声を出した。

 「なんでえ」

 「真面目な話だ」

 ケインは真剣そのものだ。仕方なく、ギャラハットも笑いを納め、辞儀を正した。

 「わしは、アジェンタに降ろうと考えておる」

 「なんだって?」

 「わし一騎でアジェンタ軍に戻り、アサッシンの追撃をやめるよう説得したい」

 「馬鹿な。ロスタムがそれを受け入れると思うか? 殺されるだけだ」

 「ギャラハット、わしはな」

 ケインは凄まじい目つきでギャラハットを見た。ギャラハットも黙らざるを得ない迫力だ。

 「わしは、アジェンタの人間だ。アサッシンに溶けこむことはできん。それに、アサッシンの中で生きる甲斐もない」

 「ルシアがいるじゃねえか」

ギャラハットは何気なく言った。

 くわ、とケインの眦が裂けた。

 「ルシアは……おまえが奪ったではないか」

 そう言って、ケインは絶句した。言ったことを恥じているらしい。

 ギャラハットは、はっと気がついた。

 「とっつぁん、もしかしたら、ルシアのことを……」

 「言うな! 断じて違うぞ!」

 ケインは噛みつかんばかりの剣幕で怒鳴った。それから、やや語勢を弱めた。

 「だが、あの子はわしの手を離れてしまった。わしはあの子の父親にはなりきれなかった。わしはアジェンタに戻りたいのだ」

 「生きて戻れると思うのか」

 「死体として戻るだけでよい。ギャラハット、わしはおまえとは違う。歳老いて、もはや別の天地に自らを置くことができない。わしも若い頃は放浪もした。だが、この五十年というもの、アジェンタ海軍の創世期から働きつづけてきたのだ。賊として、そのアジェンタの兵に討たれねばならないというのは辛い。いわんや、わしの部下であった兵士たちをこの手にかけることはできはせん。わしには、あの兵士たちの家族の顔が見えてしまうのだ」

 ケインは一息に喋り切った。そして、大きく息をついた。

 「わかってはもらえんだろうの」

 「わからんな。おれは、国のため、正義のためなどというお題目とは無縁の人間だからな。だけど、たったひとつ、今のとっつぁんの話で理解できたことがある」

 ギャラハットは空を見上げながら言った。

 「とっつぁんをアジェンタ軍に戻せば、とっつぁんが殺されてしまうということだ。悪いが、おれは自分が好きなやつは絶対に殺させねえと決めているんでね」

 ギャラハットは立ち上がった。尻をはたいて埃を払った。

 「ルシアは今でも提督さまを尊敬しているし慕っているぜ。今にルシアの赤ん坊の顔を拝ませてやるからよ。おれの生まれた村では、赤ん坊の名前は父方のじいさんがつけるしきたりになっているんだ。おれには親はないから、とっつぁんに名付け親になってもらうぜ」

 な、というようにギャラハットはケインに片目をつむってみせた。ケインは困惑して、返答に窮した。赤ん坊をおぼつかなげに抱いている自分の姿がふと脳裏に浮かぶ。

 と、その時だ。

 アズマが騎馬のまま駆けつけてきた。

 ギャラハットに対して鋭い声で報じた。

 「太陽王、アジェンタ軍の攻撃だ! 現在しんがりの部隊が防戦しているが、敵は千名を越える大部隊だ」

 「来たか……!」

 ギャラハットは唇を噛んだ。

 「関門越えを急がせろ。同時に、関門前に戦闘部隊を集結させる。ここで防がねば、女子供が死ぬ」

 慌ただしく人々が動き始めていた。

 霊峰アルカルルンを背景に、凄まじい血戦が始まろうとしている。



   5.死への序曲


 「太陽王、だと」

 アル・アシッドの声は静かだった。シルバが差し向けた使者を目前にしている。

 「妙な仕儀になっているようだな。よそ者が族長になるのを、皆も受け入れたというのか」

 「太陽王はわれわれを全滅の危機から救ってくれました。だれもが感謝しています。それに、その若さにも関らず度量大きく、気さくな人柄です。確かに太陽王と呼ばれるにふさわしく、アジェンタの海府将軍として勇名を馳せたのもむべなるかな、と」

 「いいかげんにしろ」

 アル・アシッドは使者の長舌を途中で止めた。

「つまらないぞ」

 凍るような声で言った。

 使者は背筋が寒くなるのを感じた。アル・アシッドの殺人技は凄まじい。同じアサッシンの中でも、その一撃をかわせる者はいないのではないか。使者はアシッドの右手から目を離せなくなった。これが一閃する前に身をかわさなければならない。

 「で、おれにどうせよというのだ」

 「シルバさまの伝言は、よく森の民を慰撫し、われらの受け入れ準備をさせよ、と。また、アシッドどのにはカーラの関門まで応援に来ていただきたい、と」

 警戒しつつ、使者は言った。アシッドがどうでるか、油断はならなかった。

 「わかった。行こう」

 アシッドはあっさりと言った。

 使者は拍子抜けした。



 潰走が始まっていた。アサッシンのしんがりが崩れ始めていた。

 猛烈な射撃が加えられていた。

 アジェンタ軍だ。

 アサッシンへの追撃が遅れていたのは、ヴェトルチカでルヴィアン軍と一戦交えたためだ。

 ディーバーン軍は陸戦部隊を随行させていなかったために、後方に下がり、その他の国々も日和見に戻った。

 アサッシン追撃の番手争いに残ったのは、結局この二国だけだった。

 ロスタム公はさすがに陸戦には長けていた。

 艦隊戦では思わぬ痛手を被ったが、全艦隊をひとつにまとめて、なんとか難局を乗り切った。しかし、貴重な艦隊を減力させたことは失態だった。その汚名を陸戦においてはらそうと考えた。

 ルヴィアン軍がアサッシンを追うために投入した陸戦隊七百を大いに破った。

 もともと、アジェンタは千を超える兵力を用意していた。ギャラハットの準備が周到だったことの証左であったが、ロスタムはそうは考えなかった。自分の指揮能力の高さが遺憾なく発揮されたのだと考えた。

 調子にのって、アサッシン追撃の兵をアルカルルンに入れ、ヴェルノンヴルフェンにまでなだれこませようとしていた。

 ロスタムは得意の絶頂にあった。

 アサッシンの殿を発見するとすぐさま攻撃を命じた。

 兵士たちも、緒戦でルヴィアンを軍に勝っているだけに士気が上がっていた。

 猛烈な攻撃を開始した。



 アサッシンたちは逃げの一手だった。険阻な山道で、身を隠すところもなく、ただ逃げるしかなかった。

 もともとアサッシンたちは奇襲をかけることには慣れているが、守りながら戦うのは苦手だった。それに退却は命令でもあった。ギャラハットは、カーラの関門を背にして戦う肚を固めていた。関門を守りつつ、徐々に人々を渡らせる。非戦闘員をすべて渡らせたら、死に物狂いの突撃をかけて敵を後退させ、その隙に全軍を関門の向こうに渡す。渡り終えれば関門の出口を封じてしまう。

 そうすれば、ヴェルノンヴルフェン自体が巨大な天然の要塞となってくれるだろう。

 相手がロスタムであれば、その作戦は成功するだろう、とギャラハットは見ていた。ロスタムに戦術眼はない。また、ロスタムの周りに多少ものが見える人間がいたとしても、ロスタム自身、他人の意見に耳を貸す男ではない。うまく煽ってやれば、勝手に暴発してギャラハットが望むままに踊ってくれるはずだった。

 アサッシンたちはカーラの関門前に、陣を整えつつあった。

 傾斜地に張り付き、自然の遮蔽物を利用して、身をひそめた。

 殿軍が逃げてくるのを受け入れ、アジェンタ軍が無策に突っ込んでくるところに痛撃を食わせた。

 一斉に銃口が火を吹いた。

 次の瞬間、単騎突進してきたアジェンタ兵がもんどりうって転げ落ちた。

 何騎かが同じ運命を辿った。

 それを見て、アジェンタ軍も無謀な突撃はやめた。

 陣を形成しようとし始めた。だが、充分な広さがなく、混乱した。それこそがギャラハットの狙いだった。地形が明らかでない辺境では、先に充分な陣を敷いたほうが絶対的に有利になる。ギャラハットは敵の混乱を長引かせるための小規模な攻撃を断続的に行った。

 時間をそれで稼ごうとしていた。

ギャラハットは斜面上の隆起に陣取っていた。ここならば、前線の戦況が一望できる。敵の動きを見ながら的確に指示が出せる。アサッシン側が先にこの斜面に陣取ったことが戦況を大いに有利にしていた。

「関門通過の現状は?」

 ギャラハットは逐次状況を知りたがった。非戦闘員が関門を通過さえすれば、総攻撃がかけられる。敵の体勢が整う前ならば、数が少なくとも互角以上に戦えるはずだ。だが、敵もいつまでも混乱してはいないだろう。いかに阿呆とはいえ、ロスタムが擁する主力部隊が到着すれば、逆襲を開始するだろう。

「まだ、大多数が残っている。どんどん先に進ませようとはしているのだが、途中に道が崩れかけているところがあって、そこで馬車が立ち往生している」

 アズマは忙しく前線と後方を行ったり来たりしている。だが、この若者はまったく疲れというものを見せない。

 「そうか……」

 ギャラハットは傍らを見た。当然のようにルシアがいた。先行させようとしたギャラハットの指示を無視して居残っていた。

 ケインもいた。ケインとルシアは和解―――別に喧嘩をしていたわけではないが―――をしたようだった。ケインは慈愛に満ちた視線をルシアに送っていた。ルシアもかいがいしくケインのために立ち働いた。

 「ルシア、とっつぁん、そろそろ関門を渡るんだ」

 ギャラハットはその二人に声をかけた。

 ルシアは弾かれたようにギャラハットを見た。それから、そっとケインに視線を向けた。

 ケインは不機嫌そうに言った。

 「なんと言った? ギャラハット」

 「先に賢者の森へ行け、と言ったのさ」

 「なぜじゃ」

 「危険だからだ。非戦闘員を戦いに巻き込むわけににゃいかんだろが」

 「わしが? 非戦闘員? なーにを寝ぼけておる」

 ケインは馬鹿にしたような口調で言った。

 ギャラハットは辛抱強く言葉を続ける。

 「あんたは年寄りで、海戦屋だ。若い者には負けないつもりでいても、この戦いでは働けまい」

 「ふん、言いたいことを言いよるわい」

 ケインはぷいと横を向いた。

 「ルシアもだぞ。おとなしくケインと一緒に先行するんだ」

 ギャラハットはケインをアジェンタ兵と戦わせることは何としても避けようとしていた。と、同時にルシアを安全な場所に置きたい。

 今まで、戦いに望んで守るべきものは自分の命だけだった。どんな捨て身の博打でもうてた。その博打に勝ち続けたからこそ今のギャラハットがある。

 だが今は違う。失いたくないものが生まれていた。それは良いことなのか悪いことなのか、ギャラハットには何ともいえない。ただ、昔の自分なら今の自分をせせら笑うに違いない。

 ルシアは無言でギャラハットを見詰めていた。一緒にいたいという懸命の意志表示だ。だが、ギャラハットはルシアの視線を外した。

 ケインに言った。

 「ルシアを連れて行ってくれ。とっつぁん、頼んだぜ」

 「……わかった。太陽王」

 ケインは初めてその呼称でギャラハットを呼んだ。ケインにとって、今まで「王」とはフェリアス王のことであった。いかにフェリアスから冷遇されても、ギャラハットを王と呼ぶことはしなかった。だが、たった今その慣例を破った。

 「命令通りにしよう」

 臣従したことをわずかな言葉遣いの変化で示していた。

 「ルシアも言うとおりにするのだ。ここではわれわれは太陽王の足手まといになろう」

 ケインに説得されて、ルシアもうなずかざるを得なかった。



           6.強襲


 アジェンタ陸戦隊とアサッシン部隊との間で凄まじい血戦が繰り広げられていた。

 火力では数の上で圧倒しているアジェンタ陸戦隊が勝る。

 機動力では地の利を活かしきったアサッシン側に分があろう。

 アジェンタ陸戦隊は得意とする騎馬による突撃を封じられ、苦戦していた。岩を利用した小部隊によるアサッシンの奇襲によって、各所で壊乱が始まっていた。

 アジェンタ軍は千名を数える大部隊だが、この部隊をよく遮蔽するものがアジェンタが陣取った地域にはないのが不運だった。というより、ギャラハットがそうなるように考えて布陣したのが正解だったのだが、いずれにせよアジェンタ陸戦隊はじりじりと敗れつつあった。

 一方アサッシン側は三百名足らずの寡兵だったが、それが今は充分な効果を上げていた。

 斜面の起伏を利用し、そっと敵に接近して痛撃を与え、すぐさま後退する。この断続的な奇襲攻撃によって、アジェンタ陸戦隊は自由な軍事行動が疎外されていた。

 ギャラハットの辛さは、ここで総攻撃を命じられないことだ。ここで陣を解いて一斉に攻めかかればアジェンタ陸戦隊は潰走するであろう。だが、その後が続かない。追撃するだけの戦力がないし、後方には非戦闘員か無防備な状態で断崖の道を渡りつつある。

 じっと我慢するしかなかったのだ。

 だが、その忍耐が情勢を悪化させつつあった。

 アジェンタ陸戦隊の本隊が戦線に到着したのだ。

 ロスタムは豪奢な鞍を乗せた栗毛の馬に乗り、颯爽と登場した。

 アジェンタ軍の士気が目にみえて上がった。もっとも、それはロスタムの姿を見てのことではなく、馬車に乗せた大砲を見たためだった。戦艦の火砲を外して、持ってきたのだ。そのような荷物があったために、先発隊から大きく遅れたわけだ。

 「ほほう、アサッシンのカスどもめ、斜面に張り付いておるわ」

 ロスタムはたまらない笑みを浮かべた。

 「穴だらけにしてやれい」

 大砲が設置された。弾を詰める。弾の種類はいくつかあって、代表的なものは戦艦の装甲を破るために硬質の金属で作られている徹甲弾と、船の甲板を焼き払うための焼炎弾だ。彼らが準備していたのは焼炎弾の方だ。これは、炸裂すると猛烈な火炎を生じる。この方が、徹甲弾よりも殺傷力が高い。

 轟然と撃ち始めた。

 戦況が一変した。

 斜面の土が吹き飛び、遮蔽物が削ぎ落とされるようになくなっていく。

 アサッシンたちが姿を晒した。

 弾体が炸裂する。人間の肉体が引き裂かれて宙に舞った。

 「動くな! 動くと的にされるぞ!」

 ギャラハットが指示を出した。動かなければ、敵は闇雲に撃たざるを得なくなる。弾数にも限りがあろう。馬車の積載力を考えれば、そう潤沢ではないはずだ。

 だが、いつ頭の上に弾が降ってくるか、という恐怖感には、いかなアサッシンといえども耐えられるものではない。遮蔽物から飛び出し、逃げようと動いた。

 砲が吠えた。

 一小隊が地上から消えた。

 「太陽王、敵が動くぞ」

 アズマが目ざとく言った。

 「突撃をかけてくる」

 「こちらの陣内に引き入れるんだ。そうすれば、砲は撃てない」

 だが、陣形はかき乱されてしまうだろう。今までの優位性は吹き飛ぶことになる。乱戦になる。となれば、数で勝る側が絶対的に有利だ。

 アジェンタ騎馬隊が小銃を乱射しながら突入してきた。

 それをアサッシンは小数の防衛拠点で防ぐ。だが防ぎ切れるものではなかった。

 「支えろ! 突破されてはならん!」

 ギャラハットも自ら小銃を振り上げた。

 アズマも撃った。アズマの射撃の腕は素晴らしかった。撃てば一人を必ず斃す。

 ギャラハットも負けてはいない。小隊長を見つけると逃さなかった。これによって、アジェンタ陸戦隊の先鋒は鈍らざるを得ない。

 だが、数の上での劣勢は覆いがたい。アサッシンは次々と討ち取られていく。



 眼下の情勢はルシアにも見えた。

 轟音とともに、斜面に火柱が立つ。

 ギャラハットたちに危機が迫っていることがわかる。

 「ギャラハット!」

 ルシアは乗せられていた馬車から飛び降りた。

 狭い絶壁の道には非戦闘員がひしめいていた。

 「通して! お願い!」

 ルシアは絶叫した。

 アサッシンの女たちはルシアを通そうとはしなかった。

 険しい顔でルシアを睨んだ。

 「戻れば死ぬことになるよ、ルシア」

 女たちのうちの一人が思い切ったように言った。

 「言っておくけど、わたしの息子も下で戦っている。ここにいるみんながそうなんだよ。息子たちがわたしたちを逃がすために必死で時間を稼いでいるのに、その邪魔をするつもりなのかい?」

 「でも……」

 「安心おし。太陽王は魔神さながらに強いじゃないか。あの方がそんなたやすくやられるものかね」

 「そうだ、ルシア」

 ルシアの背後から声が降った。ケインだ。

 「今、行列の流れは滞っている。このようにして、われわれがカーラの関門を通過するのに手間取れば手間取るほど、ギャラハットたちは苦しくなるはずだ。彼らもこの関門を通って逃げたいのをぐっと堪えているのだ。先を急ごう、ルシア」

 ルシアは黙ってうつむいた。ケインの言葉には理があった。だが、不吉な予感が胸を苛んでいた。身体の内奥部から込み上げてくる悪寒がある。

 だが、これ以上わがままで隊列を乱すわけにはいかない。ルシアは皆に詫び、進み始めた。だが、もう馬車には乗らない。自分の足で歩きたかった。これがせめてものルシアの戦いであった。



 「まだ、やつらの陣を突破できんのか」

 ロスタムは苛立っていた。

 充分に砲撃を加えた後に自信をもって繰り出した騎馬突撃はどうやら不発に終わったらしい。

 「ええい、隊を引き揚げよ! 再度火砲を集中してくれるわ!」

 癇走った声をあげた。

 それを受けて慌ただしく後退のラッパが鳴った。

 敵の動きの変化にギャラハットは逸早く気付いた。

 ふてぶてしい笑みが浮かんだ。

 「敵が退く。また、砲撃が来るぞ」

 「太陽王、どうする!?」

 アズマが訊いた。個々の戦闘の場では逡巡することのない若者だが、さすがに大局的な場面ではギャラハットに頼らざるを得ない。

 「いちかばちか、突撃をかける」

 「太陽王」

 「ただし、一撃を加えたらすぐさま逃げにかかる。カーラの関門に入り、非戦闘員の尻につく。敵を充分に撹乱できれば、関門を抜ける時間は稼げるだろう」

 「時は満ちたわけだな」

 「ああよ。命を賭けるときが来たぞ」

 ギャラハットの物言いにアズマは笑った。初めて見せた笑顔だった。ひどく稚ない印象を与えた。


アジェンタ陸戦隊が後退にかかった次の瞬間、息をひそめていたアサッシンたちが湧き上がった。アサッシン独自の伝達方法によって迅速に意志統一が図られていた。このあたりが謀略戦に長けたアサッシンの凄味であった。

 アジェンタ陸戦隊は慌てた。慌てたが、後退はやめなかった。なぜならば、後退命令は砲撃の再開を意味していたからだ。ぐずぐずしていれば砲撃に巻き込まれてしまう。そのあたり、陸戦隊の兵士はロスタムの性格を知り抜いている。

 だが、それはアサッシンに絶好の的を与えた格好になった。

 アジェンタ陸戦隊は前方からの味方の砲撃に脅え、かつ後方からはアサッシンの猛追を受ける格好になった。

 砲撃が始まった。

 射角を小さくして、近距離を狙っていた。

 アジェンタ陸戦隊の騎馬兵の頭上すれすれに砲弾が飛んだ。

 空気が裂ける音に馬が脅えた。隊列がいっそう乱れる。

 追うアサッシンたちも必死だった。

 背後に次々と砲弾が落ちていた。爆風と炎熱、そして細かな金属片が背中から襲いかかった。悲鳴を上げて倒れる者が続出した。少しでも足をゆるめれば、すぐに同じ目にあうことになる。

 アサッシンは鞭を励まし、馬と一体になって走った。

 そして、撃ちまくった。砲撃から逃れるためには、敵に追いつかねばならなかった。

 奇妙な情景だった。

 敵味方が一緒になって、砲撃から逃れようと同じ方向に向けて走っているのだ。

 そして、より後方から一団になって駆け下りるアサッシンたちの方が速度に乗っていた。

 ほとんど追いついた。

 そして、追い抜いてしまったのだ。

 アジェンタ陸戦隊は恐慌に陥っていて、まさか敵が自分たちを追い抜いているとは考えなかった。

 砲撃陣地が前方に見えた。えぐられた谷の一方の高台に陣地はあった。せまい谷にはアジェンタ陸戦隊の後衛がひしめいていた。

 「かかれ!」

 ギャラハットが号令した。

 黒い疾風が谷を襲った。

 後衛はのんびりしていた。騎馬隊が前方に出ているうちは、いつ出撃するかも知れずと緊張していたが、再び砲撃が始まったことで安心して、弁当をつかい始めていた。

 そこにこの襲撃である。

 防戦するどころではなかった。

 しかも、谷は狭く、混乱するとどうしようもない。味方同士でぶつかりあい、とても戦える状態ではなかった。

 それにアサッシンたちは乗じ、人混みに向けて銃を乱射した。

 悲鳴、絶叫がつんざき、兵士ならざる群集と化した人々は、谷の奥めがけて闇雲に逃げ出し始めた。

 「斉射!」

 ギャラハットがわめき、轟音が谷を揺るがした。

 混乱が頂点に達した。わずか二百騎あまりの兵に、その三倍に及ぶ部隊が潰走したのであった。

 「退くぞ!」

 深追いはせず、ギャラハットは馬首をめぐらせた。

 たちまち、黒い疾風はもと来た方角に突き進んだ。

 ちょうど前方に、アジェンタの騎馬部隊がいる。ようやくここまで逃げて来たのだ。谷での戦闘は三分にも満たない短時間だった。その神速こそが寡兵の利点であった。

 「突破せよ!」

 先頭に立って、ギャラハットは突進した。

 アジェンタ騎馬隊はさらなる混乱に陥っていた。背後にいるはずのアサッシンが前方に現れたのだ。

 対抗するどころではなかった。軍隊が組織的に振る舞うために必要な指揮官が、この雑軍にはいなかった。ギャラハットが小隊長級の人間を狙って射撃した効果がここになって大きく現れていた。

 アジェンタ騎馬隊は、アサッシンの突進を受け止められず、左右に引き裂かれた。ここでアサッシン部隊が反転して、もう一撃加えていたら、アジェンタ騎馬隊は修復不能なダメージを受けていただろう。だが、弾薬も底を尽きかけており、アサッシンにはそれだけの余力がなかった。

 後も見ずに駆け去った。

 谷の上の砲撃陣地では、このめまぐるしい情勢の変化をつかみ切れていなかった。砲撃を担当しているのは、戦艦から引き抜かれてきた甲板士官たちであった。彼らは陸戦には素人で、どんなささいなことでさえ、ロスタムの指示を必要とした。そして、ロスタムにはきめ細やかな情勢判断力は皆無に等しかった。

 ために、砲撃陣地は部隊が沈静化するまで、手をこまねいているしかなかった。

 アサッシンはカーラの関門入り口へと逃げ延びた。



   7.王国の幻想


 ロスタムは激怒した。騎馬隊の指揮を行った士官を呼びつけ、その場で鞭打った。壊乱した後衛の指揮官も同罪とした。二人は全身が腫れ上がって身動きができなくなった。

 こういう行動により、どんどん士官の実働数が減り、ロスタムが実際に管轄せねばならない領域が増えていた。その増えた職域をカバーできるだけの能力がロスタムにあればともかく、ロスタムにそんなものはなかった。

 アジェンタ陸戦隊の綱紀はぼろぼろになりつつあった。

 兵士は口々に身の不幸を嘆いていた。

 「こんな辺境に連れてこられ、相手は魔物のようなアサッシンだ。しかも、あの太陽王が指揮をしている。おれたちに勝ち目はあるのか?」

 「とはいえロスタム公はああいうお人だ。退却しようなどと進言したら、そいつの命はそれまでだな。あのケイン提督をさえ磔にしたくらいだ。どんな残虐な刑に処されることやら」

 「こうまでしてロスタム公が行きたがる賢者の森とやらには、きっととてつもないお宝があるのに違いない」

 「こうなりゃ何とかヴェルノンヴルフェンとやらに入って、金目のものを分捕ろう。そうでもしなけりゃ、とてもじゃないが割に合わねえ」

 もはや軍隊ではなく、暴徒の群れと化しつつあった。

 だが、士気が消沈せず、かえって盛り上がったのは、ロスタムの愚昧が生んだ思わぬ副産物であった。

ロスタムは曲がりなりにも軍容を整え、カーラの関門に殺到した。

 


 カーラの関門の出口は、すなわちヴェルノンヴルフェンへの入口を意味していた。

ルシアたちはそこに留まっていた。

 もしも、次にやって来るのがギャラハットたちではなくアジェンタ軍であったら、この関門を閉じねばならない。関門を閉じる、とは、炸薬を使って岩壁にかろうじて張り付いた道を破壊することだった。これによって、ヴェルノンヴルフェンへの既知の道程は永久に失われることになる。また別の入口を見つけ、そこから軍隊を入れられるようにするためには膨大な地形調査と土木工事が必要となるだろう。

 日が暮れようとしていた。物見によれば、戦闘はすでに終結し、アジェンタ軍も関門に入っているということだ。アサッシンの男たちは、それにやや先んじて進んでいるらしいが、かなり傷ついていることは予想できる。

 と、人々の間から歓声が上がった。

 ルシアは首を巡らせた。

 馬に乗った黒ずくめの男が数名現れていた。

 アサッシンだ。

 「あれが賢者の森に入っていたというアル・アシッドたちだな」

 ケインが小声で囁いた。ルシアはアル・アシッドの人相に凶悪なものをなぜかしら感じた。少し前まではアサッシンの顔はどれも同じように思えたものだが、今は違う。アサッシンの人々に溶けこみ、その一見無表情な顔からもいろいろなことが読み取れるようになっていた。

 そのルシアの目から見て、アル・アシッドには嫌な臭気があった。思い過ごしだろうと思いたかった。たとえ小数でも、戦えるアサッシンは心強い味方だったからだ。

 シルバが歩み出た。

 「ご苦労であった、アル・アシッド」

 ほっとしたような声だった。

 「へそを曲げて、来てくれぬのではないかとも思ったよ」

 アル・アシッドはするりと馬から降りた。なんとも隙のない身のこなしだ。

 「族長シルバよ。おれもアサッシンの端くれであることを忘れてもらっては困る」

 軽く目を細めてアシッドは言った。

 シルバは嬉しそうにうなずいた。

 「ところで、森の民はどうだ。われらを平穏に受け入れてくれそうか」

 「当然だ。今、森では受け入れの準備を行っている。ここの守りはわれわれに任せればよい。族長たちは今すぐ森に向かわれよ」

 「すまん。だが、太陽王をはじめとする戦闘部隊が戻るまではここを動くことはできん。彼らは皆を先に逃がして最後まで戦場に留まっていたのだ」

 「ほう、太陽王」

 愉快そうにアシッドは笑った。

 「ということは、使者の言っていたことはまことか。叔父貴はほんとうに平原びとに一族を委ねようとされるか」

 「すでに委ねておる。太陽王の武略なくば、とうにわが一族は絶え果てておるわ」

 シルバは表情を引き締めて言った。

 「おまえも太陽王に会えばわかる。かの人こそ、われらアサッシンを救うてくださるお方じゃと。太陽王であれば、森の民も心和もう。よいか、アシッド。われらアサッシンはもはや地上に依るべき国を持たぬ。といって、忌み嫌われておるわれらを今更受け入れてくれる国もない。かろうじて、かつて同族であった森の民を頼るのみじゃ。その森の民にはこの十数年というもの恫喝をもって対してきた。そのために森の民の心はわれらに対して閉ざされておる。それを」

 溶かさねばならぬ、とシルバは言うのだった。

 「そのためには太陽王という無色の象徴が必要なのだ。名もない野盗から身を起こし、アジェンタの海府将軍として名を立て、にも関らず顕職をなげうってまでもわれらアサッシンを救おうとする義侠の人。その英雄によって率いられたアサッシンはもはや歴史の裏舞台を跳梁していた顔のないアサッシンではない。生き延びる価値ある民族だ。われらが生まれ変わるために、太陽王はどうしても必要な存在なのだ」

 「もういい」

 アル・アシッドはうるさそうにシルバの話を打ち切らせた。

 「で、その太陽王とやらはどこにいる。死んでしまっているのでは、英雄も何もなかろうが」

 シルバは黙り込んだ。

 確かに、生きていてこそ、不敗であってこその太陽王であった。



 「おれが英雄か。出世したもんだな」

 不意に声がした。

 ルシアは慌てて振り返った。

 信じられないものをルシアは見ていた。

 漆黒の馬に乗ったギャラハットがてくてくと登ってきている。

 傍らにはアズマも馬に乗っている。

 見れば、ずらずらと一列縦隊でアサッシンの戦闘員たちがこちらに向かっている。

 闇に溶けるようにしている。隠密行としてはこれ以上の進み方はないのではないか。

 ルシアは間近に来るまで気がつかなかった。

 「ギャラハット!」

 ルシアは駆け寄った。

 ギャラハットは馬を降りた。ルシアを抱きとめた。

 ルシアの瞳が涙で濡れた。どんどん溢れだしてくる。心の中にとどろっていた澱が爽快なほどに洗い流される気がした。こんなに嬉しい涙があるのか、と思った。泣くのを今まで我慢していてよかった。辛いときに堪えた涙が、今こうして温かい奔流になって頬を濡らしている。

 「泣くな。おれは生きている」

 ギャラハットはうろたえていた。泣くのは悲しいからだ、と単純なこの男は頭から決め込んでしまっている。

 「笑え、ルシア。おれはその方が嬉しいぞ」

 そう言われてはルシアも泣いていられない。ギャラハットを見上げた。自然と微笑みが立ち上る。

 

 

 アジェンタ軍は夜になると行軍できず、その場で留まって野営に入らざるを得ない。

 その夜は平穏だった。

 アサッシンたちは天幕を張った。念のため、見張りを関門の出口に置いた。ロスタム程度の能力では、この闇に乗じて夜襲をかけるなどということはできないだろう。だが、用心は怠らなかった。

 翌日、シルバたちは進発することになっていた。後はアル・アシッドに任せて、アサッシンたちのほとんどを疲れを癒すために森に入れることにした。アサッシンたちは限界に近かった。ルヴィアン脱出以来、激戦に続く激戦で、心身の休まる暇がなかった。カーラの関門の防衛には、百程度の戦力があれば多すぎるくらいだった。

 だが、ギャラハットはルシアに告げた。

二人、天幕の外で並んで星をみている時にだ。

 「おれはしばらく残る」

 「どうして」

 とはルシアは訊かない。ギャラハットの言葉を待った。

 「ここに砦を作ろうと思う。とりあえずは簡単な陣地でもいい。と、同時に、カーラの関門も整備したい。この道は、アサッシンの国が安定すれば、大事な隊商路となるからな。そして、将来的にはヴェトルチカを併合し、その港に物産を集めれば、各国からわんさと陸船がやってくる。そうすれば、アサッシンの国ウッカ・ヤッカもアジェンタやルヴィアンと肩を並べられるようになろうさ」

 その第一歩として、砦を建築しなくてはならない、そのためにここの地勢をもっと詳しく知っておきたいというのだ。

 「ウッカ・ヤッカ……」

 その国の名をルシアは発音した。

 ギャラハットはさらりと国家の青写真を作り上げていた。

 むろん、困難な問題も多い。まず、人口が少なすぎるであろう。アサッシンと森の民をすべて合わせても人口は千数百名しかない。アジェンタやルヴィアンの数十分の一だ。

 だが、豊かな森からもたらされる物産は、莫大な富をもたらすであろう。富のあるところには人も集まる。

 「平原びとだの何だのと言わないようになれば、民も増えるさ。何せ、愚者の海は住みにくい処だからな。いい国を作れば、向こうから国民になりたがる」

 ギャラハットはすこぶる機嫌がよい。うきうきしている、といっていい。

 艦隊に変わる玩具を手に入れたのだ。しかも今度は国を一から作るという事業だ。何十年がかりという大事業であろう。

 「やり甲斐があるぜ。じじいになるまで退屈できそうにねえな、こりゃあ」

 ルシアに笑いかけながら、ギャラハットはおどけた。

 ギャラハットは王になろうとしていた。正真正銘の王だ。

 国民が彼の元にはあった。そして、領土も、その住民すべての同意を得たわけではなかったが、既に存在していた。充分とはいえないが、精強な軍隊も所有し、シルバ、ケイン、アズマといった部下も掌握していた。

 野盗あがりの太陽王は、ついに一国の主となろうとしていた。

 ルシアはギャラハットの表情のきらめきを一瞬たりとも見逃すまいと思った。ギャラハットの言葉のひとつひとつから、みずみずしい新王国の萌芽が生まれ出ずるのだ。

 「しばらくは貧乏国家だな。ものを売って、金をつくって、国を整備しなければならない。駅伝制度も必要だ。畑を作ることも、家を建てることも……軍隊も強くしなければいけねえな。艦隊を作るのはすぐには難しいが、なに、十年でも二十年でもかけて、愚者の海最強の艦隊を作ってやるさ……いつか話したように、な」

 「わたし、畑を作るわ。布も織りたい。家畜も飼いたい。ずっと、そういう暮らしに憧れていたの」

 「あきれたな。ケインのもとで貴族の娘の生活をしていたっていうのに……」

 「わたし、動いていたほうが性にあっているもの。そういうふうに生まれついているんだわ」

 「まあ、しばらくはその方が都合がいい。だが、今に楽をさせてやるからな。ルヴィアンの女王よりもずっとずっときらびやかな格好をさせてやる。宝石で全身を飾りたててだな……」

ギャラハットの言葉をルシアは遮った。笑っている。

 「いやよ、そんなの」

 ギャラハットの肩に頭を押し付けた。

 「それよりも、わたしは、あなたの子供をせわしなく育てている普通のおばさんになりたい」

 「ばかなやつだ! 女王よりもおばさんがいいのか?」

 ギャラハットは爆笑した。ルシアとしては心からの言葉のつもりだったので、笑われて少しカチンと来た。

 「なによ、わたしがせっかく……!」

ギャラハットは笑いを収めていた。

「ルシア」

 ギャラハットの顔が近づいていた。

 「おまえはおれの生きる糧だ」

 そう言った唇で、ルシアを覆った。



   8.死神ふたり


 この夜、運命は動いている。

 アル・アシッドは天幕の中で手紙を書いていた。

 羊皮紙ではない。樹脂製のプレートでもない。木から作った本物の紙だ。

 ロスタム公宛になっている。

 書き上げて、振り返った。アズマが無言で立っている。

 「これをアジェンタ軍の宿営まで持って行け。渡す相手は知っているな」

 アズマは頬の筋肉をみくり、と動かした。

 「アル・アシッド、おれは気が進まない」

 アシッドは意地悪そうにアズマを見上げた。

 「おまえもあの平原びとにたぶらかされているのか。以前から語らっているように、おれたちアサッシンは戦いの中に生きるしかないのだ。考えても見ろ、こんな辺境に閉じこもっていては、大昔の祖先と同じことの繰り返しだ。いつかは平原から忘れ去られ、同族の中で小さくまとまり、野心も何もかも捨てざるを得なくなる。それならば、アジェンタに森を渡し、おれたちの技術をアジェンタに売りつければよいではないか。アサッシンの恐ろしさはやつらも骨身に染みてわかったはずだ。ロスタムという男なら、この話に乗るぜ、間違いなくな」

 アズマは答えない。その沈黙はアシッドの意見に反論する材料がないことを示していた。

アシッドは続けた。

 「アジェンタが森を手に入れたら、ルヴィアンは黙ってはいない。もとを辿れば、ルヴィアンの富の源泉だった森だ。直接支配していたわけではなかったが、おれたちアサッシンを通じて、独占的にその物産を入手できていたのだ。どんなことをしてでもその権益を取り返そうとするはずだ。しかも、今度の戦いでアジェンタに苦杯を舐めさせられている。こうなれば、国を挙げて軍備の増大に務めるだろう。ディーバーンも黙ってはいまい。陸戦兵力の増強にも力を入れるはずだ。となれば、アジェンタはわれらを手放せなくなる。謀略、暗殺で世界をひっかきまわすことができるのだ」

 「だが……太陽王は独力でヴェルノンヴルフェンに王国を造ろうとしている。われわれの王国を、だ。他国のために戦うよりも、自分たちの国のために戦う方がよいのではないか」

 アズマはおずおずと言った。

 アシッドはせせら笑った。

 「何年、いや、何十年かかるというんだ? しかもだ、まず間違いなく列強に攻め滅ぼされるぞ。馬鹿げた幻想だ」

 「確かに今は幻想だ。だが、太陽王ならば実現できるかもしれぬ」

アシッドは声を低めた。凄絶な響きがある。

 「それが本心か、アズマ。義兄弟のおれとは違う道を行こうというのか」

 「そんなことは……ない」

 アズマは苦しげに言った。

 そのアズマにアシッドは手紙を手渡した。

 「これを頼む。なんだったら、ギャラハットのもとに駆け込んでもよい。その代わり、おれは死なねばならなくなる。おれの命をおまえに託そう」

 アズマは引きつった顔で手紙を丸め、小さな筒に入れて封じた。

 「中身は読まなくてもいいのか?」

 いたぶるようにアシッドは訊いた。

 「読めば……アル・アシッドを裏切るかもしれぬ」

 血を吐くような声であった。

 その声の残響をわずかに残し、アズマの姿は闇に消えた。

 天幕を音もなくすり抜けたアズマは、足音もたてずに闇に自らを溶かした。

 味方の見張りさえも、アズマの姿に気付かなかった。

 アズマはカーラの関門に走った。



 翌日、シルバたちは進発した。女・子供・老人たちの大部分と、負傷者たちを引き連れていた。

 残ったアサッシンはアル・アシッドとその部下、そしてアズマをはじめとするギャラハットの親衛隊的な数名だけであった。

 ルシアは残った。ただし、条件つきだ。ケインがまず森に入る。そして、ギャラハットとルシアが暮らすべき家を手配する。しばらくは間借りせざるを得まい。だが、それなりの準備は必要だ。目鼻がつき次第、ケインが迎えに戻る。そして、森でギャラハットの帰りを待つ、となった。

 「まあ、よかろう。この関門ならば守るのは易しい」

 現に、アサッシンの女たちも小数だが残っていた。ギャラハットとルシアの世話と、常駐する兵士たちの食事を作るためだ。

 その日の午前中、アジェンタ軍は来なかった。

通常行程ならばそろそろ見えなければおかしい。

 念のため、数箇所に伏兵を伏せさせてもある。彼らからの報告もないとなれば、ロスタムは軍を動かしていないということになる。

 引き返したという観測も有力だった。アジェンタ軍は敗れつづけている。士気が下がっても仕方がない。ロスタムには、下がった士気を盛り上げる人望はない。

 だが、といって、砦といった防衛拠点がない以上、兵を返すわけにもいかない。いつ敵が攻め上ってくるかもわからない。

 「偵察を行うべきです」

 アル・アシッドが言った。

 「それも、小数の方がよいでしょう。わたしが単騎行きましょう」

 ギャラハットに否やはなかった。敵の動きはどうしても知らねばならなかった。ギャラハットはアズマに命じてアシッドに同行させた。アシッド一人の報告では心許なかったためだが、アズマは命令に従うことをめずらしく渋った。

 「関門の守りが心配だ」

 「おれがいるだろうが。心配せんと、偵察に行ってこい」

 ギャラハットはアズマの尻を叩いて出発させた。

 アシッドが妙に笑っている。それが気になったが、すぐに忘れた。今は、砦の位置や構造を考えるのに夢中になっていたのだ。

 

 そして、夜が訪れた。アシッドとアズマはまだ戻らない。

 ギャラハットは狼煙や発光信号に注意するよう物見役に命じた。もしかしたら、敵に見つかりそうになって、身動きがとれないのかもしれない。その場合に備え、騎馬隊を常に準備させておいた。だが、闇が下りれば、問題なく戻って来るだろうとも思っていた。

 と、ようやくアシッドが戻ってきた。

 アズマはいない。

 「どうだった、アシッド」

 ギャラハットはさっそく天幕にアシッドを招いて訊いた。

 ルシアが茶をたてた。アシッドはルシアの顔をじっと見詰めた。気味が悪くなるほどの執拗さだ。

 「アシッド、報告しろ」

 業を煮やしてギャラハットが催促するくらいだった。

 アル・アシッドはギャラハットに視線を戻した。

 「敵の姿は見えませんでした。どうやら、山麓へ戻ったようですな」

 あっさりと結論を言った。

 「確かか?」

 「それを確かめるためにアズマは関門を降りて行きました。明日の朝までに必ず敵の位置を調べて戻るでしょう。どうされます。敵の背後を衝きますか?」

 「その必要はないだろう。アサッシンたちも疲れ果てている。これ以上の緊張を強いるのは酷だ。だが、一応アズマが戻るまでは警戒体勢はそのままとしよう」

 「それがよろしいでしょう」

 アシッドはうなずいた。細い目がいっそう細くなったような気がした。



 断崖。

 小さな影がぶら下がっていた。

 左の手をかろうじて絶壁のくぼみにひっかけていた。

 風で身体が揺れていた。今にも落ちそうだ。

 アズマであった。

 全身血みどろになっている。右腕はだらりとぶらさがっている。

 アズマの頭上の道を、重々しい音を立てながら完全武装の騎馬兵が行軍していた。馬車もいる。馬車には火砲が積まれている。

 アズマは行軍が終わるのをじっと待っているのだ。

 今は動けない。

 だが、行軍はいつ果てるともなく続いた。

アズマはじっと耐えつづけていた。



 夜半過ぎ、ギャラハットは目を覚ました。

 虫の知らせかもしれない。

 傍らのルシアの寝顔をぼんやりと見詰めていた。

 何かが起ころうとしていることが感じられた。危機を知らせる勘だ。この勘で今までギャラハットは生き残ってきた。この時もギャラハットは自分の勘を信じた。

 「ルシア、起きろ」

 そっと揺り起こした。

 と、同時に脱ぎ捨てた服に手を伸ばしている。

 ギャラハットの顔に空気の波が当たった。

その波動が殺気だと解った瞬間、ギャラハットはルシアを抱きかかえて、横に転がっていた。

 奇妙に折れ曲がった短剣が、さっきまでギャラハットの喉があった場所に突き立っている。

 ギャラハットは闇の中で目を凝らした。

 ルシアも目覚めている。何が起こったのかわからず、それでもただならぬ状況であることは悟って、じっとしている。

 「たいしたものだ。さすがは太陽王」

 闇の中から声がした。だが、位置がわからない。巧みに反響を利用して、居場所をわかりづらくしているらしい。

 「きさま……その声は、アシッドか……!?」

 「その通り。今宵、太陽王の命をいただく」

 「なんだと!?」

 ギャラハットは叫びつつ、ルシアの腕に文字を書いた。逃げろ、そして、皆を起こせ、

と。ルシアはうなずいた。身体を沈め、天幕の下を潜り抜けようとした。

 「外へ出てもいいが、外も危険だよ。もう、彼らが到着する頃だからね」

 アル・アシッドの声が嘲弄するように響いた。

 その声が届いたかのように、鬨の声が湧き起こった。と同時に、銃声と馬蹄の響きが猛然と響きわたる。

 と同時に、周囲で炸裂音が響いた。腹の底を揺さぶるような鈍い音だ。火砲……ではない。だが、まがまがしい音には違いない。

 「敵襲……はかったな、アシッド!」

 ギャラハットは声を絞り出した。闇を凝視した。おぼろに人影が浮かび上がってみえた。

 ギャラハットは人影向かって突進した。

 影が動いた。右腕を一閃させた。その指先に何かが光っている。

 ギャラハットは間一髪その一撃を避けた。避けつつ、左腕をハンマーのようにぶんまわして、人影に叩きつけた。

 手応えがあった、のは一瞬だけだった。次の瞬間、相手の重さがなくなって、ギャラハットは前につんのめった。

 背筋に恐怖を感じ、ギャラハットは地面で一回転し、次の瞬間横に跳ねた。

 地面には、とんとん、とリズムカルに短剣が刺さっていく。ギャラハットが一瞬でも遅れていたらそれまでというタイミングでだ。

 「これは驚いた。本当にあなたは平原の人間かね?」

 アル・アシッドの声は実際に感じ入っているようだった。だが、声音の底には嘲笑が潜んでいる。ギャラハットも、短剣はギャラハットが避けてからその場に打ち込まれたに違いないと確信していた。いつでも殺せるのだ、という意志表示であるように思えた。

 ギャラハットは床に刺さった短剣を見た。これを抜いて相手に投げることを考えた。

 「おうっと、短剣に触るのはやめた方がいい。その握りには鋭い針が植え込まれていてね、先に毒が塗ってあるんだよ」

 けらけら笑いながらアシッドは注意した。ギャラハットは歯噛みしながら手を引っ込めた。本当かどうかはわからない。こんなに暗い中では確かめる術がない。握りに毒針のある短剣を投げられるはずがないという推論も成り立つが、特殊な鞘があれば、その鞘を持って投げるということも可能だ。

 「アル・アシッド、どういうつもりだ! なぜ、こんなことをする?」

 「簡単な理由だ。わがアサッシンの世の中にするためだ。戦乱の中にこそわれらアサッシンの生きる道がある。森を列強を釣る餌とし世界に有益な争いを起こす。その上でわれらアサッシンは謀略と暗殺を司り、闇の世界に君臨する」

 「あほか、てめえ!」

 ギャラハットは喚いた。

 「そんなことのために、アサッシンをアジェンタに売ったのか!?」

 「安心なされよ。彼らは高く買ってくれた。ついでに、あなたの首も高く買い上げてくれるそうだ」

 アシッドの声はおんおんと響いた。再び姿を闇に飲み込ませた。声では位置がわからない。そんなに広い天幕ではないのに、どこにいるかわからない。

近くに人の気配があった。

 (ルシアか)

 小声で呼び掛けた。

 ルシアの体臭が香った。ギャラハットはルシアを背中にかばおうとした。

 「愚か者」

 くすくす笑いが耳元に聞こえた。

 ギャラハットの血が凍った。

 偽臭に惑わされたのだ、と気付いたときにはもはや遅かった。ルシアはとうに天幕から出て、人々に急を告げに走り回っていたのだ。

 思う間もなく、首筋に痛感が走った。

 「くそっ!」

 ギャラハットは肘を後方に振るった。

 急激に力が抜けていく。

 「森の民が狩りに使う毒を使わせてもらった。筋肉が弛緩するだろう。毒に耐性がないやつだと、ショック死することもあるようだが、あなたは大丈夫なようだな」

 ギャラハットは膝をついた。意識ははっきりとしているが、身体が言うことをきかない。

「ちくしょう……」

 「いいざまだな」

 アシッドはせせら笑った。

 「今度は猛毒だ。一瞬であの世に行けるぞ」

 短剣を振り上げた。普通に握りを持っている。どうやら騙され通しだったようだ、とギャラハットは自嘲した。

 「死ね!」

 短剣は鋭い気合とともに振り下ろされた。

 だが、短剣はギャラハットまで届かなかった。

 天幕が裂けていた。夜の風がごうっと吹き込んだ。天幕が激しい音を立ててはためいた。

 天幕を裂いて飛び込んだ槍が、アシッドの短剣を跳ね飛ばしていた。

 アシッドはゆっくりと顔をそちらに向けた。

 月が光っている。

 アシッドの顔が月に照らしだされた。

 その視線の先には、もう一人のアサッシンがいた。

 「ア……ズマ」

 ギャラハットはうめいた。

 乾いた血で全身黒く染まっているアズマが、月光を静かに吸収していた。

 

 

     9.敗北者

 

 アジェンタ騎馬隊が猛然と襲いかかっていた。

 守備兵は不意を衝かれていた。しかも、アシッドからの報告によって脅威は去ったという肚があった。突然現れた敵への対応が遅れた。

 通常なら、敵は一騎ずつでしかやってこれない。一点を守っていればよいのだが、闇ということでそういうわけにはいかなかった。

 アシッドが仕掛けた炸薬が彼らの背後で炸裂すると、すでに背後に敵が回りこんでいるような錯覚に陥った。混乱は極みに達した。

 即席の防御柵はあっさりと破られ、アジェンタ騎馬隊が群がるようにして関門を抜けた。

 一方的な虐殺が始まった。

 「恭順すれば命は助けろ! 逆らう者は殺し尽くせ!」

 ロスタムはそのように騎兵に命じていた。

 ロスタム自身は後方で朗報を待っている。だが、あのアサッシンが昨夜手紙を持ってきた時点で勝利は確定していた。

 文面は簡潔だった。

 「夜襲の手引きをする代わりに、アサッシンの民族としての存続をアジェンタは後援せよ。そうすれば、アジェンタは、豊かな原生林からもたらされる富と、優れた戦闘者集団を手に入れることができるだろう。

 この書状の赤心なることを示すために、太陽王を自称するギャラハットの命を絶ってみせよう。ギャラハットが防衛陣の先頭に立たなければ、当方の言葉の偽りなきことが明らかになるであろう」

 最初は信じられなかった。これこそギャラハットの謀略であろうと疑った。

 だが、深夜、アル・アシッドなる男がロスタムの枕許に現われてからは信じるようになった。アシッドはいつでもロスタムを殺せる状態にあった。ロスタムを殺せば、確実にアジェンタ陸戦隊は分裂し、我先に国に逃げ帰るであろう。それをしないということは取りも直さずアジェンタに帰順の意志があるためだ、というアシッドの説明をころっと信じたのである。

 自分を高く評価してくれる者は正直である、という信条を持っているようであった。

 だが、軍を動かすに最低限の用心は怠らなかった。本隊とともに自分は関門の中程の広場に留まり、先発隊のみを動かした。

 先発隊の報告は満足すべきものだった。ロスタムは本隊の出発を命じた。



 「生きていたのか、アズマ」

 針のような目をアシッドはアズマに向けていた。重い殺意がこもっている。

 「ああ。あんたの思い通りにはさせん」

 アズマは右腕を不自然にぶら下げていた。膝を軽く曲げて、いつでも動ける体勢を保っている。アシッドに比べて、明らかに余裕がなかった。

 「アズマ、大丈夫か!?」

 ギャラハットは叫んだ。

 アズマはギャラハットに視線を移した。

いたたまれないような目をした。

 「申しわけない、太陽王。おれはあんたをロスタムに売った」

 「なに?」

 ギャラハットは思わず立ち上がろうとした。身体が言うことをきかない。

 「おれは、アル・アシッドとアサッシンの将来について語らっていた。このままでは駄目だという結論になった。アサッシンは単なる奴隷に堕す。われわれが未来にわたって民族としての自立を得るためには、暗殺技をもって大国の間を渡り歩くしかないとなった。であれば、今の大国間の安定は崩さねばならない。再び戦乱の世を現出せしめねばならない。そのために、賢者の森を餌としてもやむを得ぬ。そう決めていた」

 アズマは淡々と語った。いつものアズマのようだが、悲痛なものが切るような語調に現れていた。

 「シルバは知っていたのか」

 「まさか。あの老いぼれにそんな度量があるものか」

 吐き捨てるように言ったのはアシッドだ。

 「あいつはアサッシンではない。アサッシンとしての誇りもない。われわれにとっては無価値な人間だ。ただ族長の血筋だからああして指導者面をしているがな」

 「このことはおれとアシッドの間だけで決めたことだ」

 アズマは呟くように言った。

 「このやり方が間違っているとは思わなかった。太陽王、あんたに会うまでは」

 なに、というようにギャラハットはアズマを見上げた。

 「その通り。この男も堕落をした。このおれを裏切って、ロスタムが軍を動かしたことをおまえに告げようとした。自らが密使となって出兵を依頼しながらな。だから、このおれが罰した」

 アル・アシッドは鉄爪をたたんだり伸ばしたりしながらあざ笑うようにいった。

 「腕を折り、崖下に蹴落とした。よくも生きていたものだ」

 「あんたに仕込まれた技だ。すべてな」

 「それで、今度はおれを倒そうというのか」

 ギャラハットは二人の会話を聞いているしかない。動こうにも身体が思うままにならなかった。

 「やる」

 「そうか」

 短く言葉が交錯した。

 次の瞬間、風が起こっていた。両者がすばやく位置を入れ替えたのだ。

 手練のアサッシン同士の一騎打ちだ。暗闇の中でも、まったくためらいというものがない。

 だが、この闘いはアズマには分が悪い。アズマは傷ついている。アシッドとまともにはやりあえないのではないか。

 ギャラハットは全身の筋肉に力を送った。毒はさほどの量ではなかったようだ。少しずつ身体の自由が戻ってきている。ギャラハットは長年戦いに明け暮れてきたおかげで、毒にも常人以上の耐性が備わっているようだった。

 ギャラハットはタイミングを計った。ギャラハットも並外れた格闘術を持っていたが、アサッシンとまともにやりあえるとは思っていなかった。やるならば、アシッドが隙を見せた瞬間だ。そのためには、まだ麻痺から回復していないふりをして、相手を油断させる必要があろう。

 アズマは跳躍していた。膝から下が閃光のようにはしる。

 アシッドはかすかに身をよじり、間一髪でその蹴りをかわす。

 アズマのくぐもった声が響く。

 アシッドはアズマの右腕を後ろ手に掴んでいた。折れた方の腕だ。

 ねじりあげる。

 「がっ……!」

 アズマの表情が歪んだ。脂汗が額に浮かんでいるのが夜目にもわかるほどだ。

 「いたいか? だろうな」

 アシッドは一層強く絞り上げた。

 アズマの身体が伸び上がった。

 ギャラハットは下肢の筋肉にありったけの力を注いだ。

 猛烈な突進をかけた。

 アシッドは気配だけでそれを掴んだようだ。

 「ばかめ」

 アシッドは毒爪をアズマの首筋に叩き込んだ。その次の瞬間、跳んでいた。

 ギャラハットの突進は目標を失って虚しいものになった。

 「もうロスタムの隊は関門を突破した。おまえの首はロスタムにくれてやることにする。いずれにせよ、アジェンタ軍はもはやおれの手駒も同然」

 アシッドは弾けるように笑った。笑いの尾を引きつつ、闇に消えた。

 「アズマ!」

 ギャラハットはよろめきながら、倒れたアズマを抱き起こした。

 アズマは蒼白な顔をしていた。即効性の毒だ。みるみる生気が失せていく。

 「しっかりしろ! アズマ!」

 「太陽王……すまん。おれも見たかった……ウッカ・ヤッカの……くに……」

 唇は閉じなかった。目は見開いたままだ。毒の作用か、涙が溜まっている。

 アズマは死んでいた。

 「アズマ……」

 あっけなく死んでいた。

 アジェンタ兵の鬨の声が轟き始めていた。うろたえた守備兵が後退してきていた。

 「太陽王、敵が……!」

 引き裂くような悲鳴だった。

 ギャラハットはゆっくりと立ち上がった。まだ、全身が他人のもののように重かった。

だが、まだ戦える。ギャラハットは逃げることは考えなかった。

 終末をギャラハットは悟っていた。

 「ルシアは……どこだ」

 アサッシンの守備兵たちに訊いた。

 「ルシアさまならば、皆に急を告げ、女子供を先導して安全な場所に避難されようとしています」

 「頼みがある」

 「はい」

 アサッシンの兵が顔を上げた。ギャラハットを信頼し切った表情だ。こんな状態になっても、不敗の太陽王ならば何とかしてくれると思っているらしい。けなげなほどに真摯な人々であった。その真摯さゆえに、今まで大国の道具とされていたのかもしれない。

 「ルシアや他の非戦闘員を無事に森まで届けてくれ。そして、現在の情勢を伝えるんだ。アジェンタの軍を止めることは難しい。皆が生き延びるために一番いい方法を選んでくれるようシルバに伝えてくれ」

 「太陽王、あなたは!?」

 「おれはここで時間を稼ぐ。やつらの狙いはおれの首だ。朝までつきあってやることにする」

 「太陽王、それは!」

 「これは命令だ。王として最初で最後の、な」

 言い置いて、その場にいた兵士をすべて招集した。これから最後の一戦を行う、と告げた。強制は一切しない。戦う者は自主的に申し出ろ、と。

 全員が留まって戦うことを希望した。だが、非戦闘員を守る役目は必要だ。ギャラハットはその人員を選定し、念入りに指示を出した。

 「いいか、ルシアにはおれが後から出発すると伝えるんだ。残ろうとしたら、縛り上げろ。どんなことがあっても連れ帰るんだ。いいな」

 アサッシン兵士はうなずくしかなかった。

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