第5章 大海嘯


              1.謀略



 各国の軍隊が動いていた。

 行動は時を同じくして始まり、ひとつの点に向かって収束していた。

 その一点とは、愚者の海最北の町ヴェトルチカであった。

南からはルヴィアン艦隊三十五隻。

 西からはタルタニア艦隊十八隻。

 愚者の海東部からはディーバーン艦隊二十七隻。

 それらにやや先行する形でゼオファー艦隊十五隻が進んでいる。

 ゼオファー艦隊の前方にはアジェンタ艦隊四十九隻が位置し、最大の勢力を誇る。

 愚者の海を代表する国々の主力艦隊が一堂に会しているといえた。

 彼らは標的は共通していた。十四隻の小規模な艦隊だ。

 アサッシンたちが強奪したルヴィアン海軍の軍船の群れである。

辺境の地で、何が起ころうとしているのか、それぞれの国の軍船に乗り込んでいる船員たちにすら判然としなかった。ただ、とてつもない戦いが近いらしいことだけはわかる。

 それも、愚者の海の歴史を塗り変えてしまうほどの、だ。



 「早馬、だと」

 ケインは耳を疑った。ここは愚者の海のど真ん中だ。早馬といえば、何頭もの馬を乗り潰したことだろう。容易ならぬ事態が出来したのか。

 「ここへ早く通せ」

 <アグノーラン>の艦長室にケインはいた。ギャラハット不在の今、艦隊司令の位置にはケイン提督が就いていた。ギャラハットもそう指名したし、本人もそのつもりだった。ケインは無官の、いわば一般人だから、本来ならばアジェンタ艦隊の艦隊司令という公職には就けないはずだが、ギャラハットとの関係から自然とそういうことになっていた。

 早馬の使者は意外に大物だった。

 キール・ロスタム公、風雅王フェリアスのまたいとこに当たり、アジェンタ陸戦隊の名誉司令長官の任にある。王族には似合わぬ武勇の持ち主で、実戦経験もある。

 ただし、血の気が多く、幾度か王宮で刃傷沙汰を起こしてしまい、しばらく謹慎していたといういわく付きの人物だ。

 「ようこそいらっしゃいました、ロスタム公」

 ケインは艦長室の上座をロスタム公に譲り、深々とお辞儀をした。本来ならば、艦長の立場にある者は、自分の船の中においては目上の相手に対しても、対等かそれ以上の立場で応接してよいとされている。だが、ケインはそうしなかった。あくまで代理の艦長である立場を守ったのだ。

 「うむ」

 横柄にロスタムはうなずき、どっかりと椅子に腰を落とした。三十代後半の壮年であり、体格もよい。どちらかといえば、フェリアスよりもアレイス・ヴァンドルマンに似たタイプの男だった。だが、アレイスほどの野心家ではなく、フェリアスの前では猫のようにおとなしい。その代わり、部下には冷酷で残虐であるという。なんとも、応接するのが気詰まりな人物であることだった。

 「此度は、どのようなご用向きでいらっしゃったのです?」

 ケインは自分の息子のような年齢のロスタムに慇懃に訊いた。

 ロスタムはケインをくそ面白くもなさげに睨んでいる。

 「ギャラハットはどうした。この艦隊はギャラハットが指揮しているはずではなかったのか」

 「はあ、それは……」

 ケインは困惑した。その件については、定期の伝令でフェリアス王に伝達済みであった。もっとも、報告ではギャラハットは人質ではなく、賢者の森までの道案内を買って出たアサッシンの艦に親善訪問もかねて乗りこんでいる、となっている。

 その説明を繰り返した。

 「妙ではないか。親善訪問などと。アサッシンはわが領国において強略を行った犯罪者であろう。速やかに殲滅し、ルヴィアンへ引き渡すべきではないのか」

 ロスタムは厳しい口調でそう言った。

 なるほど、確かにそうであった。だが、この事件に関する全権は海府将軍ギャラハットに一任されているはずである。ギャラハットの権限はフェリアス王ですら口を挟むことを許さない。フェリアス王にできるのは、ギャラハットの任免だけだ。

 そのことを控え目にケインは指摘した。ロスタムが笑った。にゅう、というような感じの不快な笑顔だ。

 ロスタムは胸元から封書を取りだして、ひらひらさせた。

 「フェリアス王直筆の公文書だ。三日前の時点でギャラハットの海府将軍職は解かれた。同時に、ギャラハットめは国を裏切った反逆者として処刑命令が出ておる」

 ケインは公文書を一瞥して茫然となった。公文書は本物だった。こんな瞬間を見計らって、フェリアスが反撃に転じてくるとは。おそらく、機会をじっと待っていたのだろう。ギャラハットが軽挙を過ごすのを、虎視眈眈と狙っていたのだ。

 公文書によればギャラハットは、犯罪者集団であるアサッシンと与し国家の危機を助長した大悪人であり、直ちに捕縛、処刑すべきである、となっている。

 「ケイン提督、おまえも同罪だぞ。だいたいにして、アジェンタ海軍から籍を抜いたおまえが我が艦隊の指揮を代行するなどということが許されるものか!」

 ロスタムが一喝すると、申し合わせていたのだろう、艦長室の扉が開き、陸戦隊の武装兵士が数名入ってきた。

 (ルシア……ギャラハット……)

 ケインはロスタムのにやにや笑いを視界の端に捉えながら、暗い絶望を見ていた。

 太陽がこの時、陰ったような気がした。

 ふたつもあるのに。



 口をきいていない。

 ルシアとギャラハットだ。

 ルシアはできる限り話しかけようとしていた。だが、ギャラハットが拒んでいた。拒む、とはいえ、ルシアに対して冷淡なのではない。ルシアがアサッシンたちと接触しないで済むように、常に気を配っていた。

 「やつらは謀略の専門家だからな。気を張っていないと危ないぞ」

 催眠術をかけられる危険性がある。催眠術を使って人間を傀儡にし、思うままに操る技をアサッシンは体得しているという。そんなものをルシアに使われたのでは、ギャラハットの行動の自由が奪われてしまう。ルシアの命を盾にされたら、手も足も出なくなる。

 食べもの、飲みものにも注意を払っていた。毒物、麻薬、眠り薬の類が混入している恐れがあった。ルシアの口に入れる前に、必ずギャラハットが毒見をした。

 ルシアは自分がギャラハットの大きな負担になっていることを知り、激しく後悔した。あんなわがままを言うのではなかった、と思った。

 だが、ルシアが心から詫びても、ギャラハットの冷淡さは変わらなかった。

 「あやまる必要はない。おまえを守るのも仕事のうちだ。それに、アサッシンたちのおれを見る目も変わってきたようだしな」

 ギャラハットはルシアを守ることで、自分がいかに注意深く振る舞っているかをアサッシンたちに伝えていたのだった。よく言えば豪胆、悪く言えば向こう見ず、だが、ただそれだけの男ではない、というところを見せているのだった。

 現に、族長のシルバなどはギャラハットに惚れこんでいるようだ。

 「われわれアサッシンは有能であるがゆえに人々から疎まれた。民族に能力の優劣はないというのは嘘だ。同じ条件を与えても栄える民族は栄えるし、駄目な民族はいつまでたっても駄目だ。これは歴史が証明している」

 シルバはギャラハットの顔を見かけるたびにそう言ったものだ。

 「われわれは商才においても物造りにおいても希有の才能を持っていた。だからこそ、古代の遺跡から発掘された斥力発生機を用いて陸船を造り、各地のオアシスを中継する交易路を開き得たのだ。だが、運がなかった。というより、優れた指導者に恵まれなかったのだ」

 アサッシンをひとつにまとめあげられる強力な指導力を持った人間がついに現れなかった。歴史の転換期において、愚物が民族の運命を歪めた。

 他国の支配者に躍らされ、民族内でいがみあい、自らの勢力を減じていった。

 そしてついには、他国の庇護を受けねばどうしようもないところにまで追いこまれてしまった。

 アサッシンはアサッシン(暗殺者)として生きるより他に選択枝がなくなった。民族として、歴史の表舞台から消え去らねばならなくなったのだ。

 「もしも、愚者の海の歴史の黎明期に偉大な長がいたならば、愚者の海は間違いなくわれらの支配下にあったろうに」

 もはや最後は繰り言になる。

 シルバが言いたいことは、どうやらギャラハットにアサッシンの運命を委ねたい、ということであるらしい。

 ギャラハットもまんざらではない。アサッシンを自分の手足とできたら、いかようにでも使い道があろう。だが、色気は出すまいと心に言い聞かせていた。これが罠でないという保証はないのだ。それに、シルバが現在のアサッシンのリーダーであるとしても、ギャラハットを総帥に仰ぎたいというのはシルバ一人の思い込みであって、民族の総意ではないとギャラハットは見ていた。こういう点において、ギャラハットという男はのぼせにくい性質を持っていた。

 「シルバ、あんたにも後継者はいるんだろう?」

 「いる」

 シルバは苦い顔をして点頭した。シルバにとって、その若者は兄の息子に当たるらしい。

 「だが、あやつは血の気が多すぎる。もっともアサッシンらしい男だが、アサッシンにも女子供がおり、彼らは平穏な生活こそを至上としていることに気がつかない。暗殺と謀略の中にこそ人生があると勘違いをしておる。われらにとって人を殺める業とは、民族が生き延びるためにやむにやまれず選択した悲しき道であったことを知らぬ」

 「おれも血の気の多い男だ。代わりにゃならんさ」

 ギャラハットは軽く笑って話を打ち切ってしまう。

 それよりも、来るべき戦闘のことを考えていた。



 予兆はあった。その日<アグノーラン>からやって来た偵察の騎馬兵の顔ぶれがいつもと違っていた。いつもなら、顔見知りの兵士が訪れ、舷側に立つギャラハットとルシアの無事を確認した上で、ケインからの伝言を伝えていくのが日課になっていたのだが、この日に限って、遠目にギャラハットたちを一瞥しただけで風を巻いて去ってしまった。

 「どうしたのかしら」

 不安そうにルシアが言った。彼女にとっては、ケインからの思いの篭った伝言を受け取れるこの時間が、一日のうちでもっとも心慰められるときだったのだ。

 「もしかしたら、敵艦隊が近いのかもしれんな。おれたちがアサッシンの船に乗っていることが列強に知られれば厄介なことになるからな」

 ギャラハットはそうは言ってみたが、自分でもその説明に満足しているわけではなかった。もしも、戦いが近いのであれば、敵と接触する前に最後の確認をするものだろう。ひとまとまりになって行動し、斥候部隊を四方に放つ余力がないアサッシン艦隊は、この広い愚者の海では目が見えないようなものだ。どこから襲いかかられても防ぎようがない。それを補うためのアジェンタ艦隊の随行であった。危険が近ければ、当然ギャラハットにも伝えようとするであろう。その上で、アサッシン艦隊とアジェンタ艦隊が一番よい連係をとれるような算段を考えようとするであろう。ケインとはそういう男であるはずだった。

 (最悪の場合は、ケインのとっつぁんの身に何かあったと見るべきだな)

 そのように、内心では考えている。もしも、その想像が当たっているとしたら、ギャラハットはアジェンタ艦隊をも喪失したことになろう。

 シルバも不安になったと見え、使者を後続のアジェンタ艦隊に出した。

 使者は不調のまま戻ってきた。

 ギャラハットの名代であるケイン提督はおらず、代わりの艦隊司令はロスタム公であるということであった。そのロスタム公は下賎な存在であるアサッシンなどとは会えぬとして、代理の武官数名が横柄な態度でアサッシンの使者を接見した。

 「お前たちなどに何も伝えることはない。われらアジェンタ艦隊はフェリアス王の命により、お前たち悪辣な犯罪者の群れを殲滅するのみである。本来ならば、お前も生きてはこの艦を降りられぬところだが、使者を斬らぬは戦場の習いゆえ許してつかわす」

 使者の周囲は完全武装の兵士たちによって完全に封じられていた。よほどアサッシンを油断ならぬ存在と見ているようで、少しでも不穏な動きをすればたちまち串刺しにされかねない張り詰めようであったという。

 その使者は、ともかくも報告を、と考えて、おとなしく振る舞い、無事放免された。

「そうか……」

 話を聞いてシルバは沈鬱な顔をした。

 ふと顔を上げてギャラハットを見た。

 「お前さんを殺さねばならぬようじゃな」

 「見捨てられた人質であるなら、そうだな」

 ギャラハットは苦笑した。

 シルバも馬鹿ではない。ギャラハットが風雅王フェリアスとうまくいっていないことを知っている。それどころか、フェリアスはギャラハットから艦隊の実権を奪い取るためならばどんなことでもやりかねないということも。ロスタム公といえば、フェリアスの貧弱な手駒の中では唯一戦場で働ける男であった。その男をケインの代わりに艦隊司令に就けた意図は明白であった。

 「お前さんはどんなことがあっても艦隊から離れるべきではなかった。もしくは、もっと確かな腹心を育てておくべきであったな」

 シルバの口調は、しかし、同志に話しかけるような穏やかなものであった。

 「もともと拾ったようなものだ。失っても何ということはない」

 ギャラハットは本気でそう思っているようだった。

 「ただ、おれの手下どもがこの先どうなるかは気になるがな」

 ギャラハットは海府将軍になるにともない、野盗時代の部下を士官待遇に引き上げた。貴族、とまでいかないが、常識的に考えて破格の出世であった。ギャラハットは、昔からの約束を果たしたのだ。

 だが、それに対しては、フェリアスを初めとしてほとんどすべての貴族たちから非難の声が上がった。新任士官の素行の悪さを口々になじった。軍の規律が乱れる、と古参の将軍などは息巻いたものだ。そのような反対は海府将軍の権威でもって封じはしたが、まだまだ不満はくすぶっていた。

 ギャラハットが艦隊指揮権を喪失したとしたら、彼らはてきめん放逐されるであろう。悪くすれば、反乱の芽を摘むという目的で殺されるかもしれない。

 それを考えると心が塞いだ。確かに短慮であったか、とも思う。

 「あんたたちにも悪いことをしたな。アジェンタ艦隊とことを構えなくてはならなくなったかもしれんぞ」

 「あんたの首を持っていけば、アジェンタはわれらを受け入れてくれるかもしれんぞ」

シルバは底光のする瞳をギャラハットに向けていた。ギャラハットも内心どきりとするほどの鋭さだ。だが、ギャラハットはうろたえたそぶりは見せない。

 「なにも慌ててアジェンタの軍門に降りる必要はあるまい」

 大局的な状況は変わってはいない、とギャラハットは言いたいらしい。

 各国の艦隊は集結しつつあるし、そうなれば数カ国入り乱れての戦いになる。その中で、うまく立ち回ればアサッシンにも浮かぶ瀬があろうというものだ。それが初めからのアサッシンの狙いだったはずだ。

 「なるほど、振り出しに戻ったというわけじゃな」

 シルバは得心したように大きくうなずいた。芝居がかった所作だが、これには理由がある。人質であるギャラハットとルシアの命を奪わないことについて、周りのアサッシンたちを納得させる必要があったのだ。当初の予定通りだったということになれば、何も急いで人質を殺さなくてはならないということはない。持っていてこそ、駒としての使い道も出てこようというものだ。

面白いもので、族長のシルバが合点がいった様子を見せたことにより、自然とそういう雰囲気がアサッシンたちの間に漂っていた。

 そのような、心の機微に立ち入った狂言を、シルバとギャラハットは事前の打ち合わせなしで見事にやってのけた。というよりも、互いにぎりぎりのところで騙しあいはぐらかしあいしているうちに、微妙な接点を見出してきっちりとまとめ上げたというべきだろう。

 いずれにせよ、敵味方紙一重のところで、お互いを信じ合っているからこそ可能な芸であった。

 だが、本質的な危機はシルバからもギャラハットからも去ってはいない。

 戦いは―――しかも彼らの存在をめぐっての―――これから確かに始まろうとしていたのだ。



 2.深奥部への旅立ち


 森を往く時がきた。

 行く手に道がないことに不安と期待を感じながら、アジェスはぼんやりと考えている。

 来たくて見たくてたまらなかった森にようやく来れたのに、今までその想いが遂げられなかった。

 森はアサッシンどもがわがもの顔でのし歩き、森の人たちは小さくなっている。自然、アジェスも外へ出られず、ソフィアのもとで居候の身分に落ち着いてしまった。

 もっとも、これにはソフィアのガードをするという意味もあった。アル・アシッドが頻繁にソフィアを訪ねていた。アル・アシッドに無謀な振る舞いを許さないためには、微力ながらアジェスが側にいる必要があるようだった。

 「だが、喧嘩ではとてもかなわないぞ」

 ある時、アジェスは自虐的に言ったことがある。

 だが、ソフィアは首を横に振った。必死の色が瞳に浮かんでいた。

 「アジェスさんがいてくださらなければ、アシッドは何をするかわかりません。アシッドは内心アジェスさんを恐れているのです」

 「なぜだ? おれはやつに二度ものされたぞ。次やっても、間違いなく負けるだろう」

 謙遜でもなんでもなく、アジェスはそう思っている。アジェスにはアシッドの動きが見えなかった。こちらの攻撃を当てる以前の問題だ。

 「でも、アシッドはアジェスさんを恐れているのです。本人は認めないにしても……」

 「どうして言い切れる?」

 「アシッドは一度だけ負けを認めたことがあるのです。十三年前、アシッドが十四歳の時に……。あなたはその時の相手とよく似ているのだと思います」

 ソフィアは少しだけ誇らしげな表情を浮かべた。

 「その人は平原びとでした。アサッシンが使っていた船に乗っていて、彼らのあとをつけてこの森に辿りついたのです。ちょうど、アジェスさんのように。それを知ったアシッドはその人を殺そうとしました。それも、人々の目の前でなぶり殺しにして、アサッシンの恐ろしさをわたしたちの記憶に刻みつけようとしたのです」

 アシッドは当時からアサッシン随一の使い手であると自他ともに認めていた。少年ながら、アシッドの暗殺技は群を抜いていた。特に毒爪を使っての接近戦ではしくじることがなかった。

 「平原びとはひと振りの山刀を与えられました。平原びとはアシッドを傷つけようとはしなかったということです。その頃のアシッドは天使のような顔をしていたといいます。きっと、平原びとはアシッドの心が悪魔よりも歪んでいたことを知らなかったのでしょう。アシッドは平原びとを死の淵にまで追い込みました。ですが、勝負は平原びとの勝利に終わりました。アシッドは敗北を認め、平原びとは森に受け入れられたのです」

 「もしかすると、それはきみの父親という人のことか」

 アジェスはソフィアの可憐な顔立ちを見つめつつ、訊いた。

 こっくりとうなずくソフィアの顔は誰かに似ていた。

 可愛い。

 いとおしい。

 忘れられない、誰か。

 たった一人で頑張って生きていた少女―――ダン・ラズロの娘。

 「ルシア……!」

 「どうしたの?」

 ソフィアは目を丸くしてアジェスを見ていた。

 「でも、その名前は……以前に父から聞いたことがあります」

 「きみの父親は、ダン・ラズロなのか!?」

 アジェスの声が一段と高くなった。思わず少女に詰め寄っていた。

 ソフィアは圧倒された。小さな胸が切なく上下している。

 無言でうなずいた。

 アジェスは我に返った。夢中でソフィアの肩を掴んだために、服の胸ぐりが大きく開く格好になっていた。細く、肉の薄い胸だ。だが、そのなめらかな曲線は少女らしいおおらかさの兆しを感じさせた。

 「すまない」

 アジェスはソフィアの肩から手を放した。ソフィアはかすかに頬を染め、だが怒った様子は見せずに服の襟元を直した。

 「だが、きみがダンの娘だったとは……」

 アジェスはつくづくと少女を見つめた。確かにどこかしらルシアに近いところがある。ルシアは母親似であるということだったが、父親の面影もやはり継いでいたのだろう。その部分がソフィアと重なり、アジェスの記憶を刺激したに違いない。

 「父を……そして姉をご存じなのですね」

 ソフィアは一瞬の動揺ののちに、湖のような静かさを取り戻していた。この沈着さはダンの性質ではあるまい。おそらくは母方の家系から得たものであろう。もしくは、族長代理としての振る舞いが要求される現在の環境が、少女をそうしつらえたのかもしれない。

むしろアジェスの方が茫然としていた。

 「そうだ。偶然とは恐ろしい……いや偶然などではないのだろう。すべてはこの森が引き合わせたのだ」

 としか思えない。アジェスはダンとの出会いによって辺境ヴェルノンヴルフェンの存在を知り、その足跡を辿ることによってルシアとも知り合った。そして、ヴェルノンヴルフェンへ行き着いたからには、ソフィアと巡りあうのも当然の帰結であった。

 「ダンは、今どこにいる?」

 「以前お話したかと思いますが、森の深奥部……聖域に出掛けています」

 「そうだった。だが、その時はあまり詳しくは聞かなかったが、聖域とはなんだ? また、ダンはなぜ、そんなところへ行ったきり、戻ってこないのだろう」

 アジェスの言葉の後半は、半ばつぶやきと化していた。半ば無意識のうちに聖域という場所を頭の中でイメージとして形づくろうとしていた。

 「聖域は、この森でももっとも樹齢の高い巨木の群生している場所です。おそらく、森はその場所を中心にして周辺部に拡大していったと思われるのです」

 ソフィアの声音には楽器のような響きがあった。凛としていた。

 「聖域は、この大盆地の中央部を走る峡谷の底にあります。わたしたちの祖先はかつてその峡谷に棲んでいたといいます。谷には巨大な縦穴があり、その内部にはわたしたちの祖先が祭っていた神殿があると言い伝えられています」

 その地に近づくことは禁忌とされていた。その禁忌がいつから始まったものか、それはわからない。ただ、ソフィアの祖父のその祖父の代から、その地に足を踏み入れた者は皆無であった。

 「父は、森の深奥部を見たいとずっと言い続けていました。それを、祖父が禁じていたのです。禁忌を破るということは、せっかく森の民として認められた父の立場を台無しにしてしまうと。でも、父はそれが狙いでもあったようです」

 「というと?」

 「祖父は、父をして部族の長にするつもりだったのです。でも、父は、異邦人である自分が部族の長になることで、森の民の結束が乱れることを怖れたのだと思います。祖父が亡くなってすぐに、聖域に旅だってしまったのです。当然、ひとびとは父を非難し、連れ戻そうともしました。でも、その頃からアサッシンたちの動きが活発になり、内部のごたごたにかかずらっている暇がなくなったのです。結局、祖父の遺言を尊重して父を次の族長に就けることとし、その父が帰着するまでの間、娘のわたしが名代としてみなを代表することとなったのです」

 「その大変な時に、ダンはどうして戻ってこないんだ? 誰も呼びに行ってないのか」

 アジェスの質問にソフィアはうつむき、そっと首を横に振った。

 「何人もが聖域に向かいました。ですが、みな禁忌を怖れ、聖域の内部―――つまり、峡谷の底にまで降りていく者はいなかったのです。誰も彼もが、聖域の手前で大声で父の名を呼んで、算段尽きて引き返してきてしまったのです」

 アジェスはあきれた。ソフィアが聞けば気を悪くするかもしれないな、と思いつつもつぶやいていた。

 「森の民の純朴さもそこまでいくと善し悪しだな」

 「わたしたちにとって、祖先が設けた禁忌は絶対です。彼らの行動はわたしたちの倫理の中では正しいのです」

同族の大人たちを弁護しつつも、少女は歯がゆそうだった。

 「せめて、わたしが行ければよいのですが、今ここを離れるわけにもいきません」

 「おれが行こう」

 アジェスは申し出た。え、というようにソフィアはアジェスを見上げた。

 「おれならば禁忌にかかるまい。所詮は部外者だからな」

 「でも……」

 「ダン・ラズロに会いたいのだ。話したいこと、聞きたいことがたくさんある。それに、森の始まりの地も一目見てみたい」

 結局は、自分のわがままなのだ、とアジェスは強調しようとした。

 ソフィアは心細そうな目をした。

 「ここを離れてしまうのですか」

 アル・アシッドの狼藉を心配しているのであろう、とアジェスは思った。

「ちがいます。心配なのはあなたのことです」

 アジェスの心を読んだのか、ソフィアは怒った表情を作り、声を尖らせた。

 「父といい、あなたといい、どうして平原の男は聖域に入りたがるのでしょう。アジェス、あなたは鳥の巣に卵を盗りに行って雛の仮親になるつもりではないでしょうね」

 アジェスが聖域に入ってしまったら村に帰ってくる気をなくすのではないかとソフィアは疑っているらしい。それにしても、雛の仮親になる、という例えはこの地以外では成り立たないのではないか。

 「必ずダンを連れて戻るよ」

 アジェスは苦笑する以外にない。

ソフィアも根負けしたらしく、聖域への行き方を詳しく説明してくれ、荷作りから何からの手配も行った。

 アジェスは、ソフィアのことを含めて後事のすべてをラナスに委ねた。つれていってくれと、ごねるかと思いきや、ラナスはあっさりと村に残ることを承知した。ソフィアをアシッドから守ってやれ、の一言が効いたらしい。

その話が出た日の翌朝早くアジェスは出発した。アル・アシッドたちアサッシンに対しては、アジェスはふたたび寝込んでしまった、と偽ることにした。それで、数日はアジェスがいないことをごまかせるのではないか。

 聖域までの行程は、アジェスが覚悟したほどではなく、片道3日程度であるということだった。

 アジェスは森の奥に入った。



            3.ヴェトルチカ会戦


 「撃て」

 ロスタム公が無造作に放った一言が戦いの幕開きであった。

 愚者の海最強とされるアジェンタ艦隊はすでに展開を終え、アサッシン艦隊を捉えようとしていた。

 「追いつかれたか」

 言いつつ、ギャラハットの口調はけっこうのんびりしている。ここで船将―――ギャラハットは艦隊指揮をシルバから委ねられていた―――が、おろおろうろたえても船員は不安になるだけである。しかも、アサッシン艦隊は正しくは軍事組織ではなく、難民の形態を有している。すなわち、構成員の半分以上が女・子供・老人などの非戦闘員であった。

 へたをすれば恐慌に陥る危険性があった。

 あまつさえ、アジェンタ艦隊から砲弾が発射され、後方に砂煙がたつようになると、アサッシンの間に動揺が走った。

 もっとも、動揺の波は小さかった。アサッシンは非戦闘員であっても、度胸は据わっているようだった。

 「大丈夫だ。おれが指揮しているのならともかく、ロスタムごときではまともな艦隊運動はできんよ。所詮、やつは陸戦屋だからな」

 ギャラハットは呑気に言い、周囲を安堵させた。

 そう言いつつも、ギャラハットは自ら甲板に立って敵情を監視し、周囲の地図と照らし合わせ、彼我の動きのからみを頭の中に叩きこんでいた。

 まずいな。

 ギャラハットは内心で舌打ちしていた。意外に理にかなった艦隊運動を敵は行っていた。もともと、大型艦の多いアジェンタ艦隊の方が船足は速い。中型・小型艦が多いアサッシン艦隊とは運動力が違う。

 その速力の差をもって包囲されてはことだ。まともに射ち合う羽目になっては、火力が違いすぎるため戦いにすらならないだろう。

 ここは、敵を一列縦隊のまま追わせ、狭隘な地域に誘いこんで、乾坤一擲の大勝負を挑むしかあるまい。

 それゆえに、ギャラハットは、ヴェトルチカ丘陵の北に位置するバルゲンウーム山麓を予定戦場としていた。そこならば、アサッシン艦隊もある程度は戦えるに違いない。

 だが、アジェンタ艦隊は、アサッシン艦隊をそこまで逃がすつもりはないようだった。ヴェトルチカ周辺で勝負をつけようとしていた。

 (ロスタムの知恵ではあるまい。おれの部下がやつに協力しているのだろう)

 ギャラハットは肚の底で苦い思いを嘗めていた。やむを得ないことだとは理解しているが、それでも腹立たしさはぬぐえない。

 「しんがりの一隻が至近弾を受けている!」

 アサッシンの一人が色をなしてギャラハットに詰め寄った。

 「引き返して、仲間を救わねばならぬ!」

 ギャラハットは後方を見やった。確かに、しんがりの艦の周囲に砂煙が立ち始めている。つまり、敵艦隊の射程距離に入ったのだといえる。

 「追いつかれたか」

 ギャラハットは肚を決めた。ここまで来てはもはや逃げても仕方がない。

「全艦に回頭を命じろ。回頭次第、陣形を整える」

 

 「かかったな。やつらはこれでおしまいだ」

 ロスタムは<アグノーラン>の甲板室で笑っていた。

 「ギャラハットが鍛えた艦隊はよう動いてくれるわ。のう、ケイン」

 どっかりと腰掛けているロスタムの隣にはケインが無表情に立っている。

 「お前も、よく艦隊指揮をとってくれておる。王にはよしなに伝えてやるぞ」

 ケインは表情を動かさなかった。この数日で完全に面変わりしていた。凄愴さを感じさせる風貌になっている。

 「ロスタム公、ギャラハットを緒戦で破った暁には、確かに停戦の交渉を行うのでありましょうな。そして、その使者としては、このわしを」

 ケインの声には研ぎ澄まされた響きがあった。

 ロスタムは、にやにや笑いを引っ込めない。

 「案ずるな。森を狙っているのはわれらだけではない。アサッシンが道案内として必要だという考えもある。やつらを滅ぼすのは容易だが、そのあたりを考えれば、適当なところで矛を収めるのが戦略というものだろうて」

 「あとひとつ」

 ケインは重ねて言った。

 「わが娘は無論のこと、ギャラハットも命を奪うことはありますまいな」

 「くどいな、おまえも。王のご命令は、海府将軍の任を解き、無期限の謹慎をしおれ、というばかりだ。やつの命まで取るいわれはないのだ」

 ロスタムは余裕ある態度を崩さなかった。

 ケインは信じていなかった。だが、いくらロスタムが艦隊戦に長じていなくても、この戦力差をもってすれば、いつかは勝つだろうと見ていた。それに、アサッシンがギャラハットとルシアをそのままにしておくはずもないだろう。

 人質であるゆえには、すぐにも血祭りにあげるか、あるいは、最後の交渉のための切り札として残しておくかのどちらかだ。ケインは後者であることを祈っていた。一戦して、アサッシン艦隊から戦闘力を奪えば、交渉の余地はあるはずであった。

 それに賭けるしかない、としてケインはロスタムの下知を受ける肚を固めたのであった。

 「では、頼むぞ。わしはここで、われらが勝つさまを見物させてもらうことにしよう」

 ロスタムは酒を飲み始めていた。



 アサッシン艦隊は各自回頭を終え、ギャラハットの指揮の元、戦闘体形を取り始めた。

 「なかなかいい動きだ。意外に鍛えられているな」

 ギャラハットは驚いた。

 シルバがうなずいた。

 「であろう。わしらは船の扱いを永く忘れていた。だが、もとはといえば、わしらの祖先はこの海を渡ることを生業にしていたのだ。そのことを思いだし、一隊を任せるべき人間には船将としての技術は備えさせるようにしたのだ」

 「だが、うちの艦隊……いや敵の艦隊の方がやっぱり上手だな」

 ギャラハットは遠い目をしながらつぶやいた。

 敵に対し、斜め縦隊を取りつつあるアサッシン艦隊を、三方向から圧殺しようとしている。そのみっつの勢力には軽重がなく、どの方向に戦力を集中しても、すぐに側面から別の勢力が襲いかかれるようになっているようだ。

 数の上での優位さを絶対的に活用している。

 「で、あれば、旗艦を叩くしかあるまい。一戦して旗艦に弾を当てることができれば、敵も浮き足だつ。陣形も崩れるだろう。その崩れを突けば、数の上での劣勢ははね返せる」

 「全艦に伝えよ。狙いは正面の一番でかい船だ!」

 ギャラハットは大声で叫んだ。

 と同時に、斜め縦隊を一列横隊に変化させつつ、各自砲撃を命じた。

 轟然と、砲音が空気を裂いた。

 <アグノーラン>を始めとするアジェンタ艦隊も応射した。

 猛烈な砲撃戦が始まった。



 いきなり、アサッシン艦隊の一列が乱れ始めた。

 数隻に直撃弾が命中したのだ。

 鋭い悲鳴が甲板のギャラハットにまで届く。

 子供や女は極力戦列艦から降ろし、後方に置いたのだが、元来が避難船団であり、女子供も操船を手伝わなければ数が足りない。そのため、各艦にはかなりの数の非戦闘員が乗っていた。

 女、子供が死んでいく。

 アサッシンたちの表情に鬼気が宿った。

 殺意が渦巻いた。

 これで命中率が高まった。

 <アグノーラン>に弾が当たり始めた。

 だが、装甲の厚さが違う。特に、斜め上から落ちてくる砲弾に対する防御力は高い。

 とはいえ、命中弾があれば、士気は高まる。

 逆に、旗艦が危機に陥ることにより、アジェンタ艦隊の運動にぶれが発生し始めた。

 「よし、全艦、射ちまくれ!」

 こうなれば、押せ押せしかない。

 ほんのわずかなほころびであっても、それにつけ入らないことには、戦力的に圧倒的に劣勢のアサッシン艦隊に勝ち目はない。

 アサッシン艦隊は死に物狂いの砲撃を開始した。

 徐々にだが、アジェンタ艦隊にも傷つく艦が出始めた。

 ギャラハットは、旗艦のマストに太陽王の旗を高々と掲げさせた。これは、<アグノーラン>からギャラハットが持ちこんだものだ。ルヴィアン艦隊と見えた時に、アサッシンの後ろにアジェンタがいることを示すために用意したのだが、皮肉なことに、それをアジェンタと戦かう際に用いることになった。

 しかし、効果はあった。

 アジェンタ艦隊がかつて、ヴィネルタの統治者・王兄アレイス・ヴァンドルマンに率いられていた頃、この太陽王の旗のもとに指揮されたベルン傭兵艦隊によって敗北し、旗艦<アグノーラン>をはじめとする自慢の巨艦を乗っ取られた。

 最初で最後の敗北であった。

 太陽王、あるいは海府将軍ギャラハットの存在は、アジェンタ艦隊の古参船将たちにとっては魔王のような威圧感あるものだったのだ。また、船将たちの中には、まだギャラハットへの忠誠心を捨て切れぬ者もおり、自然、艦隊運動から緊密性が薄れていった。

 「今だ、全艦、中央を切り崩せ! 勝てるぞ!」

 ギャラハットの声は旗旒信号となって、アサッシン艦隊にあまねく伝わり、一気に艦隊はアジェンタ艦隊中枢に向かって距離を詰めた。

 「やりよるわい」

 <アグノーラン>艦上で嬉しそうにつぶやいたのはケインであった。

 「この分だと、ギャラハットのやつが指揮をとっておるのは間違いないな。アサッシンどもが人質をすぐに殺すというのは、わしの杞憂であったかもしれんな」

 「な、なんとか、なんとか、せよ!」

 うろたえつつ、わめいているのはロスタムであった。ケインに食ってかかった。

 「馬鹿たれの無能者が! これほど戦力的に勝っておるというのに、このざまはなんだ!ほ、報告してやるからな、王に!」

 「うろたえなさるな。わが方は着実に勝ちつつある。わが方には、まだ物理的な被害はほとんどない。あるとすれば将兵の動揺だけだが、それも今に収まる」

 ケインは落ち着き払っていた。と、同時に、ギャラハットを破ることにためらいをも感じていた。先程までは、一戦してアサッシン艦隊を叩き、人質解放の交渉に持ちこむことがルシアやギャラハットにとって一番よいことであると考えていた。だが、ギャラハット自身がアサッシン艦隊を率いて、なおかつアジェンタ艦隊の追撃を阻むことができれば、それこそルシアもギャラハットも安泰ということになりはしないか。

 (早まったのかもしれん)

 ケインはかすかに悔いた。だが、艦隊の指揮を任されている以上は、将兵の生命に対してケインが責任を負うことになる。わざと負けることはできなかった。

 そればかりではなく、ケインはギャラハットと戦場で見えることで、将としての血がどうしようもなく騒ぐのを感じていた。

 ギャラハットは、ケインが見つけだした将器であった。その才能をケインは深く愛した。だが、ギャラハットは立身しすぎた。それがゆえに、王から憎まれる存在になってしまった。その責任の一端はケインにあるといえなくもない。不敗の海府将軍に敗北を与えるのは自分以外にはないとケインは信じていた。ケインはギャラハットを破ることで、再びギャラハットを自分の掌の上に戻せるのではないかと、半ば祈るような気持ちでいた。なんとかしてフェリアスの許しを得て、一船将としてのささやかな生涯を送ることが可能なのではないか、と、一縷の望みにすがっていたといってもいい。

 だからこそ、ケインは、ギャラハットを鮮やかに破らなければならないのだ、と自らを警めた。

 ケインは時を待っていた。

 アサッシン艦隊の凄まじい砲勢に陣形が崩れたと見せかけ、三つの艦隊をバラバラに位置させた。そして、旗艦<アグノーラン>を餌として、中央部分にアサッシン艦隊の注意を集中させ、その隙にふたつの艦隊でアサッシン艦隊を挟撃する。

 一斉射で、勝負はつくはずであった。

 「くぬるううう! 貴様の肚が読めたぞ、ケイン! 貴様はわざと<アグノーラン>を沈め、わしを殺し、ギャラハットめを勝たせるつもりじゃな!」

 ロスタムのだみ声がケインの黙想を中断させた。

 ロスタムは青い顔に憎悪をみなぎらせていた。

 ケインの顔に人差し指をつきつけた。

 「反逆罪で貴様を捕縛する!」

 ロスタムの怒声に、ロスタムの部下である陸戦隊の兵士たちが反応した。

 ケインをはがいじめにした。もがくことも忘れ、ケインは叫んだ。

 「ロスタム公! わたしが立案した作戦をあなたも知っているはず! 現在の劣勢は、故意に作りだしたもの。われらの勝利の布石であることをお忘れか!」

 「騙されはせんぞ。なにゆえにわざわざ艦隊を分散し、戦力を弱体化させる必要があるというのだ? それこそ、貴様がアサッシンに通じている何よりの証左であろう」

 「ばかな……!」

 艦隊を分散させたのは、アサッシン艦隊が逃げの一手で逃走にかかるのを防ぐため、その逃げ口を押さえるための既定の作戦であった。そのことも事前に説明したのだ。もっとも、ロスタムは酒を食らって、よく理解していないようではあったが。

 「これより、わしが全艦隊の指揮をとる。よいか、旗艦<アグノーラン>は直ちに後退し、艦隊後方に位置せよ。何も身をもって敵を引きつけいでもよいわ。そして、別動の二艦隊に狼煙を上げよ。直ちにアサッシン艦隊を挟撃せよ、と」

 「ロスタム公!」

 死を賭して、ケインは諌めるつもりであった。ケインは必勝の作戦を立てていた。総攻撃のタイミングもすべて想定していた。自分の言うとおりにすれば勝てるのだ、と叫ぼうとした。この時、ケインは一個の男になっていた。ルシアのことも忘れていた。自分の戦いを奪われ逆上した一人の戦士になっていた。

 「黙れ、裏切り者。この戦力差があれば、誰が指揮しても勝てるのだ」

 ロスタムはケインを拳で殴った。

 ケインは老人だ。一撃でへたばった。ロスタムは冷酷な声で命じた。

 「その裏切り者のじじいをマストに縛りつけよ。よい見せしめになる」



     4.決死行


 「<アグノーラン>が妙だ」

 今まで、中央艦隊を引っ張っていた<アグノーラン>の挙動が変わっていた。艦隊の後方に移動を開始しているようだ。

 それにともない、アジェンタ艦隊の動きが一層慌ただしくなっていた。

 狼煙も上がった。何かを始めようとする気配が濃厚だ。

 「やつら、来るぞ! 物見を強化せよ! 四方に注意を怠るな!」

 ギャラハットはてきぱきと指示を出した。

 「にしても仕掛けが早いな」

 ギャラハットは独りごちた。もしも、敵がアサッシン艦隊を挟撃するつもりならば、ぎりぎりまでその気配を隠すはずだった。それとも、もはや完璧な包囲陣を敷いているのか、それならば事態は最悪だ。巨大な網に絡め取られたも同然ということだ。

 「東南東に、アジェンタ艦隊の別動隊がいます!」

 「ほぼ真西にもう一隊います!」

 矢継ぎ早に報告が届いた。ギャラハットは舌打ちした。

 「挟み撃ちか。そろそろ来る頃だとは思っていたぜ」

 だが、包囲陣は甘い、そう見ていた。すぐさま中央艦隊への攻撃をやめ、北へ移動すれば、左右からの挟撃は回避できる。

 「早まったな、ケインのとっつぁん」

 アジェンタ艦隊の指揮をケインが取っていることをギャラハットは疑っていなかった。ケインは大掛かりな艦隊運動を得意としていた。その点、ギャラハットと気脈が通じるところがある。ギャラハットも傭兵艦隊を率いたときには、あえて劣弱な艦隊をみっつに分けて、見事ヴィネルタ艦隊を出し抜いたものだ。あの作戦を立案するに当たっても、ケインの艦隊運動の理論が大きく影響していたといえる。

 「だが、今度ばかりはちいとあせったようだぜ」

 この艦隊運動は失敗だ、とギャラハットは判断している。罠にかけるべき敵に、その艦隊運動の原理を見抜かれては作戦の意味は消失する。あまつさえ、戦力を分散しているだけに各個撃破される危険性もある。もっとも、今回のギャラハット側の戦力は、敵を各個撃破するどころではなく、できるとすれば、かろうじてその包囲網から逃れ出るだけであったが。

 「太陽王、<アグノーラン>のメインマストに何か見えます」

伝令役のアサッシンが鋭い声を出した。

 物見役からの報告だという。

 ギャラハットは目を凝らした。ギャラハットも遠目が利くことに関しては自信があったが、アサッシンにはとてもかなわない。ギャラハットは遠眼鏡を目に当てた。

 「な……」

 絶句した。

 マストの上部に一人、男が縛りつけられている。それだけでも異様な光景だ。しかも、その男はギャラハットの見知る人間であった。

 「とっつぁん、なぜ……!?」

 ギャラハットは呷いた。

 遠眼鏡の中のケインはぐったりとしていた。顔色は土色で、すでに死んでいるようにも見える。口髭が茶色く見えるのは、血が固まっているのかもしれない。

 「あの男が、ケイン提督なのか。しかし、やつらはなぜ、あんな真似を……?」

 シルバが頭をひねった。アジェンタ艦隊という愚者の海を代表する大軍事勢力が、ロスタムという、艦隊戦について何の知識も持たないヒステリックな男の独断によって動かされているということを知らない限り、この事態は理解できるものではなかった。

 「提督さま!」

 鋭い叫びがギャラハットの耳を撃った。

 振り返ると、そこに取り乱したルシアがいた。手には、誰が渡したか遠眼鏡がある。

 「出てくるな、ルシア!」

 ギャラハットは怒鳴った。

 「船室に降りていろ!」

 「だって、ギャラハット、提督さまが……!」

 「誰だ!? ルシアをここにつれて来たのは!」

 ギャラハットはルシアを見ず、あたりの人間に対して怒鳴り散らした。

 一人の若いアサッシンが首を垂れた。

 「すまない、太陽王。この娘が戦いの状況をしきりに知りたがるものだから。それに、戦いは味方が勝っていたし、大丈夫だと思ったのだ」

 「馬鹿たれが! わざわざ遠眼鏡まで渡しやがって!」

 ギャラハットは、なおも毒づいた。その肩をシルバが叩いた。

 「そこまでにせよ、太陽王。その娘が戦いの帰趨を知りたがるのは無理もない。それに、自分の養父の危機を知ったのならば、矢も盾もたまらなくなるのも道理だ」

 「けっ!」

 ギャラハットは吐き捨てた。

 「ギャラハット、提督さまを助けて、お願い!」

 ルシアがギャラハットに訴えた。

 「馬鹿な、敵がおれたちが接近するのを手をこまねいて見ていると思うか。ただでさえ、残りの二艦隊が接近しているんだ。やつらの射程内に入る前に逃げなけりゃあ、おれたちは全滅だ」

 ギャラハットは顔を歪ませながら言った。この作戦を立案したのはケインであるならば、たった今、決断に迷い、逃げる好機を逃せば、ケインの仕掛けた網に完全に捉えられることになるだろう。

 「ギャラハット」

 ルシアは泣いてはいなかった。取り乱していたのは一瞬だった。ある意味ではギャラハット以上に肚が据わっているのではないのか。

 「あなたの言うことはもっともなのだと思います。わたしには戦いのことはわかりません。ただ、わたしはケイン提督に大恩を受けた身です。その恩人の危機に何もしていないではいられないのです。ですから、馬を貸してください」

 「馬だと? 何をどうするつもりだ」

 「提督を助けたいのです」

 「不可能だ」

 ギャラハットは断言した。

 「今、この状況がわかって言っているのか? こんな砲弾が飛び交う中を、無事に敵の旗艦まで辿りつけるものか」

「やってみなければ、わからないわ。今、平原は砂煙で視界が利きにくいし、艦隊の中に入りこめば、かえって砲は撃てなくなる。それに、敵艦隊は陣形を忙しく変えている最中だから、そこに隙があるかもしれない」

 ルシアは譲らなかった。

 ギャラハットは黙りこみ、シルバは笑った。

 「たいしたものだ。それなりに筋が通った作戦ではないか。さすがはケイン提督の養女……といいたいが、ルシアどの、おまえさま一人ではどうにもなるまい。馬には乗れたとしても、舷側を越え、マストの上までよじ登る荒技はできまいが」

 ルシアはキッとシルバを睨み、

 「できます。やってみせます」

 「不可能だ」

 再び、ギャラハットが断言した。

 「だが、おれならばできるかもしれん」

 え、というようルシアはギャラハットを見上げた。

 「そして、わしらアサッシンならば、な」

 シルバも続けた。

 ギャラハットはにやりと笑った。シルバも顔を歪める。

 「話が決まったら、人と馬を準備しな」

 「おまえさんこそ、わしにちゃんと艦隊の動かし方を引き継いでおくのだぞ」

 引き締められていたルシアの眉が開いた。目尻に光るものが浮かんだ。

 

 

 アサッシン艦隊の動きが変わった。砲撃の激しさはそのままに、北に移動し始めた。

 「ギャラハットめ……見破りよったな」

 それに一番最初に気付いたのは、マストに縛りつけられていたケインであった。痛快だったので笑おうとしたら、前歯の大半が折れてしまっていることを思いだした。

 「まったく、わしの自慢の歯をへし折りよって……!」

 腹だたしく心の中で呟いた。これまで、入れ歯に頼らずに来れたことをこよなく誇りにしていたケインであった。

 (もっとも、もうこの歯で何かを食べるという必要もないだろうが)

 この一戦限りの命であることは覚悟していた。

 ロスタムとても、かつてはアジェンタ艦隊の要職にあったケインにこのような辱めを与えたのだ。生かしてベルンに戻るはずがない。恐らく、戦いの決着がついた後に正式な死刑を宣告するであろう。

 それに、ケインも、このような恥辱を胸にしたまま、おめおめ生き延びるつもりはなかった。もしも、ベルンまで生きたまま護送されるとなれば、その途上で自害して果てるつもりだった。

 (それにしても、かえすがえすも業腹なのは、あんな男に一時とはいえ協力してしまったことじゃ)

 ケインの胸を苦汁が満たすようだった。ルシアの面影が去来する。こうなれば、心残りは、あの少女の行く末だけであった。

 (ギャラハットがもう少し穏便な男であったらな……。とてものこと、あいつは長生きできそうもないわい)

 ため息をついて、閉じていた瞳を開いた。

 「なんじゃ、あれは」

 思わず声を上げていた。



 疾走していた。

 先頭の一頭を二頭の騎馬兵が追い回している。

 先頭の馬に乗っているのは、長い金髪を振り乱した若い男だ。

 それを、アサッシンたちが追っている。

 着弾による砂煙の中を、かいくぐるようにして飛びこんできた。

 アジェンタ艦隊のど真ん中に突っ込んできたのだ。

 「おおい、助けてくれい!」

 ギャラハットは声を限りに叫んでいた。

 アサッシンたちは無言でギャラハットを追っている。

 「やっとの思いで逃げてきたんだ! 頼む、助けてくれい!」

 ギャラハットの顔はみな見知っている。当然だ。海府将軍ギャラハットはアジェンタが誇る英雄なのだ。ロスタムは全軍に対し、ギャラハットが海府将軍を解任された反逆者であることを布告していたが、船員の中にはそのことを知らない者も多かった。

 「閣下! 早く、こちらへ!」

 縄梯子を垂らして、必死で叫ぶ船員もいた。

 ギャラハットはそれに感謝しつつも、

 「おうい、それより、<アグノーラン>の位置を教えてくれ」

 などと呑気な質問をした。

 船員も動転しているから、それを奇とはせず、

 「この艦のちょうど真後ろに位置しているはずです」

 と、馬鹿正直に教えてくれたりした。

 「かたじけない!」

 ギャラハットは礼を言い、それを追っかけているはずのアサッシンたちも船員に目礼した。船員は茫然と一行を見送った。



 「ギャラハットが逃げてきたと!?」

 ロスタムは目を丸くした。

 「アサッシンの船からか? まことか?」

 信じられないようであった。

 「はあ、ですが、どうも報告が要領を得ませんで、現在急ぎ確認中ですが」

 と、ロスタムの側近の陸戦隊士官も歯切れが悪い。

 「騎馬でか……念のため、陸戦隊の一個中隊を動かせ。不審な騎馬兵は鏖にしろ」

 この点、ロスタムの勘はけっして鈍くはないといえた。だが、それでも、ギャラハットたちの狙いがケインにあるとは気付いていない。したがって、悠長な指示を出していた。

この時、すでにギャラハットたちは<アグノーラン>に取り付いていたのである。

 「海府将軍閣下!」

 <アグノーラン>の士官たちは、さすがにギャラハットをすんなり艦上に引き上げることはためらった。

 「本当に、逃げてこられたのですか?」

 「たりめーだろ! さっさと縄梯子を下ろせよ!」

 ギャラハットは船足と馬の速度を合わせつつ、怒鳴り上げた。

 「お待ちください、今、指示を仰ぎますので」

 「指示って誰のだ!?」

 「それは……艦隊司令ロスタム公のです。勝手な行動はできないのです」

 「ふーん、そう」

 ギャラハットは呟いた。これは強行突破しかなさそうだ。

 「ジェイリス! アズマ!」

 ギャラハットはシルバがつけてくれた若いアサッシンたちの名を呼んだ。

返事はなく、その代わりに砂煙の中から黒い影がふたつ飛びだしてきた。

 影はすばやく、何かを舷側に投げつけた。

 それは、頑丈な綱であった。先端に鋭い返しのある金属片がついている。

 金属片は、しかし、セラミック装甲は貫くことが出来ない。だが、ジェイリスもアズマもそんなものを狙ってはいない。

 職務熱心な士官の柔らかい身体を金属片は貫いていた。

 「ぐがっ!」

 悲鳴を上げつつ士官は舷側の手すりにぶつかった。下に引っ張られている。

 訳もわからず、周りの船員が士官の身体を押さえた。

 と、次の瞬間。

 ジェイリスとアズマはそれぞれ縄を掴んで、舷側に飛び移っていた。

 彼ら二人分の重さをまともに受けていたら、士官の身体は引き裂かれていただろう。

 だが、アサッシンたちはどういう身のこなしか、ふんわりと宙に浮き上がると、一度だけ切り立った舷側を蹴り上げて、次の一歩で甲板の上に立っていたのだ。

 「ア……アサッシンだあああ!」

 船員たちは恐怖の声を上げて逃げ惑った。

 「上は頼むぞ」

 ジェイリスが低くアズマに言い、彼は船員たちの頭上に飛んだ。

 死をもたらす跳躍であった。

 船員の一人の首が跳ねた。

 濃密な血の匂いが甲板に撒き散らされる。

 ジェイリスは変幻自在に跳び回って、人々の注意を一身に集めなければならない。そのためには、殺生もやむを得ない。

 その間、アズマはするするとマストにとりついていた。

 猿を思わせる身軽さで、上に登っていく。

 だが、そのマストにはケインはいない。ちょうど、もうひとつ向こうのマストに縛りつけられている。そのマストの根元にはさすがに見張りがいた。

 見張りは、甲板で繰り広げられている白昼夢のような殺戮に注意を奪われていた。そのため、頭上をましらのような影が通過したことに気がつかなかった。

 「あ……あんたらは」

 ケインは肝を潰して驚いた。

 突然、下が騒がしくなったと思ったら、黒ずくめの若い男が跳び移ってきたのだ。

 「太陽王の命令であなたを助けに来た。身体は動くか」

 アズマは、ケインの戒めを短刀で断ち切ると、無感情な声でそう訊いた。

 「なんと……」

 ケインは絶句せざるを得ない。



 「アサッシンが暴れているだとう!?」

 ロスタムは絶叫していた。

 「ななな、なにをしておるのか、おまえたちは! こここ、この部屋の守りをとにかく固めよ!」

明らかにうろたえていた。アサッシンの狙いは自分にあると信じていた。自分の生命の危機には特に過敏な男だった。

 「陸戦隊をすべて投入せよ! アサッシンを鏖にするのだ! ギャラハットもだぞ! 死体すらこの世に残すでないぞ! 斬り刻んで燃やしてしまええ!」

 恐怖のあまりに錯乱している。

 もはやこの狂気に一緒に染め上がるしか、この上司とうまくやっていく方法はないのではないか、と士官は思った。

 アジェンタ陸戦隊が各艦から吐き出された。<アグノーラン>を目指していた。<アグノーラン>に乗りこんでいた陸戦隊は、艦長室の周囲に固まった。

 大混乱の極みであった。

 

 

 アズマはケインを抱きかかえ、マストをすべり降りた。

 二人いる見張りは、まだ頭上に気付いていなかった。

 アズマは空いている右手に短刀を持っていた。

 「おぬし、アジェンタの民を殺す気か!?」

 ケインがそれを見とがめ、怒声を張り上げた。

 見張りがその声に気付き、頭上を見やった。

 「逃げよ! アサッシンじゃぞ!」

 ケインが警告した。

 見張りは熱湯を浴びせられたかのように、悲鳴をあげつつ跳びすさった。

 着地したアズマは短刀をケインの喉元に当てた。

 「これからはその口に気をつけることだ。今、おれの仲間はあんたの命を救うために、自分の命を敵にさらしている。その仕事を邪魔することは許さん」

 恐ろしい目だった。まだ十代と見える年頃だが、ケインもひやりとするほどの凄愴さがあった。

 「だがな、わしとてアジェンタ軍人としての誇りがある。今は捕縛された身とはいえ、わが部下がみすみす殺されるのを看過はできん」

 「勝手にするがいい。だが、あんたが死ねば、ルシアとかいう娘が泣くだろう」

 「むむう」

 痛いところを突かれた。ケインは黙った。

 「行くぞ」

 アズマの言葉に、うなずかざるを得なかった。

 


「まだかよ」

 ギャラハットは、<アグノーラン>の横を並走しながら、気が気でなかった。

 と、ギャラハットに数騎の兵が接近している。数は三騎ほどだ。

 近くの艦から派遣されてきた陸戦部隊の斥候だろう。<アグノーラン>の様子がおかしいことに気付き、やって来たのだろう。

 「何者だ、きさま!」

 騎馬兵が怒鳴っている。陸戦隊の兵士はギャラハットを熟知はしていない。むろん、ギャラハットであることを確認できれば有無を言わさずに殺すよう命令を受けている。

 「ちょっとね」

 ギャラハットは相好を崩した。

 笑いながら、小銃を構えた。殺気を感じさせない自然なそぶりだ。

 引き金を引いた。轟音が響く。先頭の一騎が跳ね飛んだ。

 「おわあ!」

 ギャラハットは猛然と馬を走らせた。剣をすらりと抜いている。

 後続の二騎は慌てて銃を構えようとした。それを読んでの急接近だった。

 撃った。だが、狙いが定まっていない。ギャラハットは頬に鋭い風を感じた。だが、それだけだ。

 すれ違いざまに、最小限の動きで剣を使った。

 二人の兵士が悲鳴を上げた。

 腹が裂け、喉から血しぶきが飛んでいた。

 まさに野盗の働きだ。

 「急げええ!」

 怒鳴っていた。斥候が戻らねば、すぐさま大軍が襲ってくるだろう。そうなっては元も子もない。

「太陽王!」

 声が降った。

 「おお、アズマか!」

 「馬鹿な真似をさらしよって!」

 ケインのだみ声だ。

 「とっつあん、ここへ跳べ!」

 ギャラハットは叫んだ。

 「けっ」

 ケインは吐き捨てた。

 「行け」

 アズマが、ケインを放り投げた。

 「うわう」

 ケインのやせた身体が宙を裂き、ギャラハットの腕の中に収まった。

 「生きているな、よかった」

 ギャラハットは笑った。

 ケインは悔しそうに歯を食い縛ろうとしたが、歯がなかった。

 「感謝などはせぬぞ」

 「べつに、助けたからといって、この先どうなるかはわからん。やっぱり死ぬことになるだろうな」

 ギャラハットはケインの不機嫌にかかずらってはいない。

 「アズマ、ジェイリスは!?」

 声を振り上げた。

 だが、アズマはもはや頭上にはおらず、馬をギャラハットと並ばせていた。

 「ジェイリスは死んだ。蜂の巣だ」

 感情を押さえた口調だった。アサッシンは死んだ仲間を悼まない、という。ジェイリスの死については、もはや済んだこととして理解しているようだった。

 これからもっとたくさんの仲間が死ぬことになるだろう、とギャラハットは思った。その中で、こうしてケインを救いだせたことがどういう意味を持つのだろうか。

 だが、ギャラハットはベストを尽くしたのだ。それだけは間違いない。

 

 

              5.血戦


 アジェンタ艦隊はしばらく混乱していた。

その混乱に乗じて、ギャラハットたちは逃げ延びることができた。

 だが、その混乱もじきに収まった。

 収まった途端、恐るべき攻撃が始まった。

 アジェンタ艦隊の包囲網はほぼ完成していた。

 アジェンタ艦隊は三方向から同時に砲撃を受け始めた。

 たちまち、火を吹く艦が続出した。

 「馬鹿な! わしの作戦を見破っていたのなら、どうしてもっと早く逃げなんだのだ!」

 旗艦の甲板室に入ったケインは絶叫するように言った。

 「提督さま」

 ルシアが哀しそうな顔をした。

 「アサッシンの人たちを責めないでください。みんな、わたしとギャラハットのことを仲間だと思っていてくれるのです」

 「そうだ。わしらは生きている仲間は見捨てない」

 シルバは落ち着いた声で言った。そのケインを救うために、また、救ったために、数多くのアサッシンが死に、傷ついているのだった。

 そのことが痛いほど理解できるほど、ケインは言葉を失わざるを得ない。

 「とっつぁん、暗くなっている場合じゃないぞ。敵艦隊の動きを教えてくれ。突破口を探す!」

 ギャラハットは一人明るい。ケインの手を引いて、甲板に出ていった。

 シルバはうなずいた。そのうなずきを、ルシアはなんだろうかと思った。

 シルバは物問いたげなルシアの表情に気付いたのだろう、笑いながら説明した。

 「太陽王のことだよ。彼も迷っていたようだが、さっきの活劇でふっ切ってくれたようだ。どうやら太陽王をわが部族の王にすることはうまくいきそうだな」

 「ギャラハットを……?」

 「そうだ。太陽王として、部族の長に迎えるつもりでいる。この戦いを切り抜ければ、部族の者たちも誰もが納得してくれるだろう」

 「ギャラハットがアサッシンの王に……」

 ギャラハットには悪いが、アジェンタの海府将軍よりは似合っているかもしれない。



 砲撃は烈しさを増していた。

 一隻、また一隻と直撃を受け、擱挫してゆく。乗組員ならびに非戦闘員を近くの船が拾い上げていく。その船に砲弾が当たると悲惨な状況になる。甲板に満載している人間の四肢が引き裂かれ、血と内臓が散乱する。

 もはや、ヴェトルチカの野は血の匂いのたちこめる地獄と化していた。

 「だめだ、もう。全滅する前に降伏しよう」

 とは、しかし、誰も口にしなかった。

 仲間が死んでいくのに、家族が傷ついていくのに、アサッシンは決して参ったとは言わないのだ。

 「わしらの部族は常にこうだ。死と隣り合わせに生きてきた。ずっと影の世界にいなければならなかった。その闇から脱出するための戦いだ。わしらは絶対に屈伏しない」

 そう、シルバは言い切った。

 だが、ギャラハットには内心のあせりがある。

 アジェンタ艦隊の包囲は完全ではない。ではないが、彼我の間の速力の差をこのまま許していると、ついには包囲陣は完成する。そうなれば、なぶり殺しだ。

 (なんとか方法はないのか、なにかいい手は!)

 ギャラハットは艦を巧みに動かし、忙しく砲撃の指示を出しながらも、そう反芻し続けていた。

 「とっつぁん、狼煙の暗号は変わっていないか」

 突然、傍らのケインに訊いた。

 ケインはヴェトルチカ周辺の地図を作図していたが、ギャラハットの問いに、ぐい、とうなずいた。

 「同然じゃ。ロスタムのアホが陸戦隊ふうの狼煙をいくつかつけ加えたようだが、大筋は変えられぬ。新しい信号を全艦に伝達するのは骨が折れるからのう」

 「なら、やってみっか」

 「なにをじゃ」

 「炉にふいごで空気を吹きこんでやるのさ」

 「なに」

 ケインはぎょっとした表情になった。



 ヴェトルチカ東部に広がる平原。

 そこに、ディーバーン艦隊が停泊していた。

 風待ちと称して、ここに停止していた。だが、幾度となく、周囲に斥候を送り続けていた。何かをしきりと待っている。

 「戦いが始まったのか」

 ディーバーン艦隊を率いるロッシュ提督は、しわだらけの顔をかすかに引き締めた。

 だが、報告の内容は明らかに不満足なものだったらしい。

 「ルヴィアン艦隊とアジェンタ艦隊の戦いではないのか。アサッシンの艦隊をアジェンタがどうしようとわしらの知るところではない」

 愚者の海第三の海軍力を持つディーバーンとしては、ルヴィアンとアジェンタが正面衝突して、できれば共倒れになってほしい。よしんば、そうならないとしても、どちらか有利な方に加勢して、一国を滅ぼし、残り一国に対しても恩を売りたいと、虫のよいことを考えていた。

 「ですが、気になることがあります」

「なんだ」

 「アジェンタ艦隊の使う狼煙で、しきりと援軍を求める信号が出ているようなのです」

 「ほう」

 ロッシュの目が光った。

 「アジェンタ艦隊はどこかと同盟を結んでいたようだな。それがどこの国かはわからんのか?」

 「それは不明です。この周辺にはルヴィアン、タルタニア、ゼオファーなど各国の艦隊が集結しています。どこの艦隊に向けたものやら」

 「ルヴィアンではないと思うが……しかし、アサッシンはルヴィアンから脱走してきた犯罪者であるはずだ。そいつらとわざわざ砲火を交えるアジェンタの本心も気になる……」

 しばらくロッシュは沈考していた。

 と、顔を上げた。肚が決まったようだ。

 「全艦に伝えよ、直ちに出発する、と。この戦い、最後まで傍観していたのではおそらく将来に渡って禍根を残す」



 ルヴィアン艦隊はすでに狼煙を確認していた。

 この艦隊の指揮官はオーズ将軍だ。アサッシン追捕の厳命を受けている。そのアサッシンがどうやらアジェンタ艦隊と戦っているという報告を聞いて、オーズは首を傾げた。

 そして、援軍を求めるアジェンタ艦隊の狼煙を見た。

 「読めたぞ。これはディーバーン艦隊を呼んでいるのだ。小賢しい真似をしよるわい。恐らくは、アサッシンを形ばかりいたぶっておいて、われらに恩を売り、その裏でディーバーンと手を組んで、腹背からわれらを討つつもりに違いあるまい」

 その判断を支持する連絡も入った。どうやら、ディーバーン艦隊が動きだしたようだ、という斥候からの急報であった。

 オーズの額に血管が浮かんだ。

 「急げ! 全速力で戦場に向かうのだ! ディーバーンとアジェンタの両艦隊を合流させてはならぬ!」

 周囲に唾が飛んだ。



 この事態に、ゼオファー、タルタニアといった中小の艦隊も巻きこまれずにはいられなかった。

 アジェンタが発した(と彼らが考えた)狼煙の意味するところを様々に思いあぐね、とりあえずは戦場に近づいて様子を見よう、と考えた。そして、各国の艦隊が動き始めたことを情報としてつかむと、それ自体が狼煙の意味を雄弁に語っているように各艦隊の指揮官たちには映ったのだ。

とにかく、愚者の海の全戦艦のほとんどすべてが、この限られた地域に集中したのである。

 その密集が呼び寄せる混乱こそが、この事態を演出したギャラハットの狙いであったろう。

 だが、その間にも刻々として、アサッシン艦隊は滅びつつあった。

 アジェンタ艦隊は、アサッシン艦隊が放った狼煙の意味を斟酌しなかった。艦隊司令が狼煙の意味を解しないロスタムであったということもあったが、いずれにせよ苦しまぎれの無意味な行動と判断して、その狼煙を無視したのだ。各国の政治・軍事・経済それぞれの局面における力関係を頭に入れている人間がアジェンタ艦隊には存在しなかったと断じることは可能だ。

 とはいえ、アジェンタ艦隊は勝っていた。間違いなく勝利しつつあった。狼煙のことなど無視してもよいと考えても無理はなかった。

 アサッシン艦隊のすべてが何らかの被害を受けていた。撃沈された艦は三割に達していた。合計の死傷者は二百名を数えただろう。



 砲弾が続けざまに落下していた。

 砂をかぶるのは慣れっこになっているが、呼吸が厄介だ。

 ギャラハットは布のマスクで鼻と口を覆っていた。ケインも同じようにしている。

 「全力で逃げつづけろ! 撃つのも休むな! ここが正念場だぞ!」

 ずっと同じことを号令し続けているような気がする。もう何度も「駄目か」と思いたくなる瞬間があった。

 もう、どれだけの僚艦が健在なのか、はっきりわからなくなっていた。

 相当の被害が出ていることは間違いない。

 もはや、三方向からの砲撃に抗する術はなかった。

 「左舷、敵艦接近しています!」

 悲鳴のような報告があった。

 いつの間にか敵艦が肉薄していた。完全に追いつかれていた。だが、相手もこちらに気付くのが遅れたらしい。甲板で、あわただしく兵が動くのが見て取れた。

 「射角0度、うてぇ!」

 ギャラハットはわめいていた。

 射手は半ばやけくそでその命令を実行した。

 敵艦のどてっ腹に弾は命中した。

 至近距離だ。装甲もへったくれもない。バラバラに砕け散った。

 轟沈だ。だが、それに快哉を叫ぶ間もなく、後方から新手が現れる。

 「撃ちまくれ!」

 ギャラハットは絶叫した。

 手が届きそうな距離を、砲弾が交錯した。



艦が大きく傾いだ。

甲板上のアサッシンが数名跳ね飛ばされて船から落ちた。

 砲弾は艦首に直撃していた。何人かのアサッシンがけし飛んでいた。

 艦首が地面に落ちた。艦前半部を支えていた斥力発生機が失われたためだ。

 敵艦は完全に沈黙していた。甲板上で砲弾が炸裂したために、操船をしていた人間が一掃されてしまったのだ。

 「とどめを刺せ!」

 ギャラハットが命じるまでもなく、第二射でもって、その艦はマストが折れ、行動不能になった。

 「この船も長くはもたんぞ」

 ケインが警告した。

 「頭をこすっておる。船足が落ちておるし、うまく舵もきかん」

 なんとか今のところは動いているが、風が落ちたらそれまでかもしれない。

 「やばいかな」

 ギャラハットは空を仰いだ。

 せめて日が落ちれば何とか逃げ果せるかもしれないが、太陽はふたつある。リュウはもうすぐ没するが、テルオッグはまだ高い位置にある。完全な夜が来るまでは、まだ数刻ありそうだ。

 「船を捨てて、行くか」

 最悪はそれしかない。だが、それでは反撃する砲をも捨てることになり、敵艦にいいようになぶり殺されるのは間違いない。

 しかし、決断をギャラハットは迫られていた。



と、その時だ。アサッシン艦隊への砲撃が不意にやんだ。

 「なんだ!?」

 ケインは目をしばたたかせた。

 ひっきりなしだった至近弾がなくなると、砂煙がようやく収まった。

 視界が開けた。

 アジェンタ艦隊がやや遠くなっていた。

 いつの間にか距離が開いていた。と、いうより、敵艦隊が回れ右をしていた。

 「どうしたことだ?」

 「どうやら、ルヴィアン艦隊が到着したようだな」

 ギャラハットが愁眉を開いた。

 「おそらく、アジェンタ艦隊の背後を襲っているはずだ。後方に下がっていた<アグノーラン>も砲撃にさらされたのだろう。ロスタムが慌てて、主力を呼び返したに違いない」

「ほう、こちらの思惑通りに踊ってくれよったかい」

 「ということは、ディーバーンもそろそろ着いている頃だぞ」

 アサッシン艦隊を東から襲っていたアジェンタ艦隊にも乱れが見えた。東に砲火が遠望できるようになっていた。どうやら、ディーバーン艦隊が食いついたようだ。

 「タルタニアとゼオファーは様子を見てくるだろう。だが、アジェンタ艦隊の動きは大いに不自由になるに違いない」

 誰が味方で誰が敵なのかが錯綜しはじめている。この混乱をこそ、ギャラハットは待っていたのだ。

 「この機を逃すな! 全艦、全速力で戦闘区域から脱出せよ!」

 ギャラハットは大声で命じた。

 砲撃が収まったおかげで、各艦への連絡も復旧した。

 アサッシン艦隊は秩序を取り戻し、猛然と逃走に移っていた。なりふりかまわない逃げっぷりだ。

 包囲のなされていない北方を差して移動し続けた。

 その動きを察知し、逃がすまいとアジェンタ艦隊も反応したが、各方面から様々な国の艦隊が集結し、あちらこちらで砲撃戦が始まってしまっている。もはや、アサッシン艦隊に全力を傾注しているわけにはいかなくなった。

 かくして、アジェンタ艦隊のアサッシン包囲陣形は崩れ去った。

 アサッシン艦隊はかろうじて全滅を免れ、ヴェトルチカの北方に逃れ得たのだった。



   6.逃れゆく人々


戦いがすべて終わった訳ではなかった。

怪我人の手当も戦いと同様の激しさで、しかも際限がなかった。

 砲弾の破片で多数のアサッシンが傷ついていた。

 ルシアは他のアサッシンの女たちと一緒に彼らの手当に従事した。

 手当といっても、ろくな医療品もない。負傷者の傷を切り開いて、切片を除去するだけである。麻酔もへったくれもない、だが、立派な手術だ。

 アサッシンの男たちが凄いのは、激痛に無言で耐えていることだ。手術中も弱音を吐くことはない。それにも増して凄いのは、その手術を顔色ひとつ変えないでやってのけるアサッシンの女たちだった。

 ルシアは何度か失神しかけた。大量の血を見た。弾けた筋肉、露出した内臓も見ざるを得なかった。

 それでも、アサッシンの女たちは、男たちを励ましつつ、母のように暖かく振る舞い、いずれにせよ自分たちの弱さを見せなかった。

 強いのだ、とルシアは実感せざるを得なかった。それに引き換えて、自分がどんなにかひ弱で、かつ、まわりの人々の重荷になっているかを痛感した。

 ギャラハットに対しても、ケインに対しても、そしてアサッシンの人々に対しても、自分はいつも守ってもらう立場であった。さかのぼって考えてみても、リクスヴァ号に乗っていた時、アムゼイやルードに世話になるばかりだった。アジェスに対してもそうだ。わがまましか言わなかった。

 自分が彼らのために何かを為していたとは考えられない。いつも、負担をかけていた。

 情けないと思った。恥ずかしいと感じた。

 だが、自己弁護をあえてするとしたら、それは今までの自分が一人で生きるだけで精一杯だったからだ、といえる。誰かのために役に立とうと考える以前の状態だったのだ。いや、生きてさえいなかった。シフォンの町にいた頃の自分は死んでいたとルシアは思う。

 木偶人形のように、無為に日々を過ごしていたルシアはアジェスと出会い、以来多くの人々と関り合うようになって、ようやく自分というものを手に入れることができたのだ。

 その過程においてルシアは多くのことを学んだ。そして今も学びつつある。

 ルシアは今、自分という人間を虚心に見つめることができるようになった。自分が何をしたいのか、何をしなければならないのかが言葉にできるようになった。

 誰かのために何かをしたいとはっきりわかるようになった。

 (ギャラ……)

 想いがあふれだしそうになるのを堪え、ルシアはかいがいしく働き続けた。



 「いちおう危機は脱したが、これからが問題じゃの」

 アサッシン艦隊はバルゲンウーム山麓に逃げこみ、岩石地帯に身を隠していた。

 日が落ち、あたりは闇に覆われているので、しばらくは発見されることはない。だが、それも朝までの話だろう。すでに各国の艦隊が四方に斥候を放っているはずだ。明るくなり次第見つかってしまうのはわかりきっている。

 方針策定のため、アサッシン艦隊の首脳と目される人々が旗艦の甲板室に集合していた。

 アサッシン族の首長シルバ。

 その補佐役ともいうべき、エントゥータ。

 若頭的な立場であるアズマ。

 アサッシン艦隊の指揮官である太陽王ギャラハット。

 ギャラハットの片腕ともいうべきケイン提督。

 以上の五名である。

「これより先は陸船は使えません。騎馬、しからずんば馬車、徒歩などで行かねばなりません」

 口火を切ったシルバから言を引き継いでエントゥータが言った。

 「難所、切所が続き、なまなかなことでは越えることはできぬといいます」

ギャラハットが聞きとがめて言いだした。

 「その口ぶりからすると、あんたは行ったことがないようだな、その……」

 「賢者の森、もしくはヴェルノンヴルフェン」

 とはケイン提督。

 「そうそれ」

 「さよう。わしらのうちでヴェルノンヴルフェンの父祖の地に入った者はわずかしかいない。この中ではアズマだけだ」

 「行ったのか、おまえ」

 ギャラハットは無口なアサッシンの若者の顔を覗きこんだ。

 アズマはかすかに首肯した。

 「どういうところだ? どれくらい人が住んでいる? 国があるのか、どういう統治がなされていて、兵はいるのか?」

 たたみかけて訊くギャラハットを、うるさそうにアズマは見た。

 「森だ。人は千人もいないだろう。国とはいえぬが、一人の首長がよく治めている。暮らしぶりは質素だ。兵はいない」

 ちゃんと、質問には答えている。

 「わかったような、わからんような」

 ギャラハットがつぶやいた。

 「森の民は必ずしもわれらを歓迎していない。われわれは同族だが、彼らの考えによると、われらアサッシンの祖先が森を捨てて平原に出た以上、同族ではあり得ないとしている。だが、彼らには軍事力がないので、占領は容易だ」

 エントゥータが言った。

「今はアル・アシッドが入っているはずだ。アシッドについては、軽く話したな」

 シルバが付け加えた。ギャラハットはうなずいた。本来ならば、シルバの跡を襲うべき人物だ。だが、アサッシン一族の未来を託せる人物ではないとしている。

 「アシッドは優れた人だ」

 アズマは違うことを言った。

 「おれなどは足元にも及ばない。真のアサッシンだ」

 皮肉ではないらしい。皮肉を言えるような精神の贅肉はアズマにはなかった。

 「偉い男なのか」

 なんとなく対抗心を感じてギャラハットは訊いた。さしあたってはアサッシンに投じるより他に身の振り方がない。となると、まだ見ぬアサッシンの実力者の力のほどは気になる。

 アズマはしばらく答えなかった。ギャラハットの質問の意味を考えているらしい。

 ようやく答えた。

「偉いかどうかは知らないが、強い」

 アズマの判断基準は、戦闘者としての技量に限られているようだった。

 やはり、兵法だけの男らしい、とギャラハットは考え、それ以上深くは聞かなかった。

 ギャラハットとて、自分の運命は読めない。

 アル・アシッドをアズマのような武辺者とみた。アズマのような男ならば、頼もしい部下になるであろうとすら考えていた。

 合議はすぐにまとまった。採れるべき道はさほどなかった。

 ヴィネルタから脱走し、アジェンタと砲火を交えた以上は、あと頼るべき大国はディーバーンしかない。だが、ディーバーンに降って民族の安寧が得られるとは思えない。今までと同じく闇に潜らねばならなくなろう。

 とすれば、森に入り、森の民と同化するしかない。幸いにも森には無限に近い交易資源がある。平原のひとびとは争って森の物産を買うであろう。経済的に自立することができる。あとは天嶮であるヴェルノンヴルフェンに依り、各国の軍を防ぎ止めることができれば、豊かな独立国として立ちゆけるはずであった。

 「アサッシンの国ができるのだ」

 シルバは感に堪えない様子で言ったものだ。

 「国名も考えてある。ウッカ・ヤッカというのだ」

 その不思議な響きある言葉は、彼らの祖先が森を去るよりもずっと以前に使われていた古語で、ヴェルノンヴルフェンに住む人々を指すという。

 「古代、ヴェルノンヴルフェンに依って大陸の覇権を競ったという祖先の栄えにちなむのだ」

 シルバは上機嫌であった。ギャラハットをアサッシンの指導者として得ることが出来たことを心から喜んでいた。

 「われらは森に入る。明朝、明けきらぬうちに出発する。このこと、よろしいな」

 結論として、そうなった。

 「太陽王とケイン提督は出発まで休まれるがよろしい。あなたたちのおかげでアジェンタ艦隊から逃げ果せた。出発の準備はわれらにて進めるので、安心されよ」

 エントゥータがそう言って結び、合議は終わった。



 ケインは他の艦の艦長室を寝室として与えられることになった。

 平気そうな様子をケインは装っていたが、老人だけにかなり疲労がたまっているようだった。身体の傷の手当もろくにせずに、ずっと動いていたのだ。

 「ゆっくり休めよ、とっつぁん」

 ギャラハットは声をかけた。

 ケインは不機嫌そうに言う。

 「提督とよべ、提督と」

 「ほいほい」

 ギャラハットは取り合わない。

 と、ケインは足を止めた。

 「ルシアのことだがな」

 「ん」

 「いや、なんでもない。おやすみ」

 ケインはそのまま、旗艦を降りてしまった。

 「なんだ、いったい」

 ギャラハットは首をひねった。

 そういえば、合議に入る前に、ルシアがケインに何か耳打ちしていたような気がする。その時、ケインは叫びだしそうな表情になった、ように思えた。

 それと先程のケインの態度とは何か関りがあるのだろうか。



    7.ふたりの心


 ギャラハットは艦長室に入った。

 空気が流れている。見上げると、天井に穴が開いている。星空が見えた。

 穴は砲撃で開いたものだ。調度類も目茶苦茶になっている。だが、寝台だけは無事だった。ギャラハットは闇の中で苦笑した。ベッドで眠れるということだけが、今のギャラハットに許された特権であった。たとえ天井に穴があいていようが、床に器物が散乱していようが、今は横になれるだけで幸いとしなければならなかった。

 もっともアサッシンたちは、ギャラハットとケインに対し天幕の供与を申し出た。

それを謝絶したことには理由がある。

彼らはやはり愚者の海を往く船乗りなのだ。

 どんなに快適な天幕であっても、彼らにとっては艦の狭い個室の方が落ち着ける。

 なにごとからも束縛されない自由さを信条としているギャラハットでさえ、この船乗りの習癖からは逃れられなかったのだった。



 入って、すぐに気がついた。

 自分のものではない匂いがある。

 常人では関知できないほどにかすかな匂い、だが、それは確かに血の匂いだ。

 「だれだ」

 ギャラハットは闇に向かって訊いた。

 手が腰に伸びていた。

 闇が動いた。

 部屋を照らすのは星明かりだけ。そのおぼろな光の中で、人影が浮かび上がっていた。

 「ルシア?」

 ギャラハットは幻覚ではないかと思った。

 「ギャラハット」

 その声は、確かにルシアだ。

 「お帰りなさい」

「どうしたんだ、いったい」

 ギャラハットは突っ立ったままだ。まだ、自分の感覚が信じられない。

 「どうしても話したいことがあったの。それで」

 「話したいこと?」

 「この前の夜のこと」

ルシアの声が低くなった。ギャラハットは顔をそむけた。

 「出発前夜のことを言ってるのか? もういい。済んだことだ」

 ギャラハットは極力声を感情から追い出した。あの時のことは思い出したくもない。人生最悪の夜だったような気がする。

 「こっちへ来て、そしてわたしの話を聞いて」

 「安心しろ。明日未明にわれわれはヴェルノンヴルフェンへ出発する。それに同行すれば、アジェスとやらにも逢えるはずだ。アジェスとやらがちゃんと森に着いていれば、の話だが」

ギャラハットはこれで会話を打ち切るつもりで言い放った。だが、ルシアは口調を変えずに言った。

 「話というのは、アジェスのことなの」

 「……そうまで言うなら、聞こう」

 「じゃあ、ここへ」

 闇の中にルシアはいざなった。

 ルシアは寝台の側の椅子に腰掛けていた。ギャラハットはその前に座った。

 「話せ」

 ギャラハットは冷たく言った。氷のように徹しなければ、何を口走るかわからないおびえがあった。少年の頃に心だけ戻ってしまったのではないかと思うほどに、今のギャラハットは動揺しやすくなっている。

 「わたし、今まであなたには自分のことをそんなには話さなかった。でも、提督さまにはほとんど話したし、何も隠し事はしていません。でも」

 ルシアは話し始めた。ギャラハットは明かりをつけようとして、やめた。たとえ船の中とはいえ、不用意な燈火は謹むべきだったし、それに、ルシアがこの場所を選んだのもの光を嫌ったからではないのか、という気がした。

 「自分でも言葉にできない感情がどこかにわだかまっていて、そのことは誰にも話すことができなかった。それが、アジェスのことなの」

 かすかな痛みがギャラハットの胸を刺したが、むろんおくびにも出さない。無言でルシアの言葉を促した。

 「わたし、普通の意味でいえば、アジェスに恋をしていたのだと思います。一緒に旅をすることを望み、それがかなえば何も要らないとさえ思いました。でも、アジェスはわたしを必要とはしていなかった。アジェスがわたしを置いて、賢者の森を探す旅に出たと知ったとき、わたしは泣こうと思いました」

 ギャラハットは虚空を見ていた。虚空は闇だった。もしも部屋が明るければ、ギャラハットは自分が今どういう表情を浮かべているかということについて、今ほど無関心でいられなかったろう。そのことに気がとらわれて、ルシアの言葉を虚心に聞くこともできなくなっていたに違いない。もしかしたら途中で打ち切らせて、中座したかもしれない。あの夜とおなじように。

 闇が、ギャラハットを救っていた。

「わたし、泣きませんでした。泣きたくなかったのではなくて、泣けば気が晴れる、ただそれだけだと悟ったから。アジェスに捨てられた、そんなふうに自分をおとしめて、泣いて、それでお終いにしようなんて、自分勝手すぎる。アジェスにとって不要な自分が嫌ならば、そうでない自分になろうと考えたの。だったら、泣いてなんかいられない」

 ルシアが手を突き出した。ギャラハットの鼻先にだ。

 血の匂いがする。

 「血がついているの。怪我をした人たちの血。服にもついたわ。でも、洗っている時間も、水もない。次から次へと怪我人が運ばれてくる。たくさんの人が死んだわ」

 「辛い思いをさせたな」

 指揮官としては、そう言わざるを得ない。

 「ちがうの。言いたいことはそんなじゃない。手当が早くて助かった人もたくさんいるのよ」

 ルシアは弾けるように言い出した。

 「アサッシンの女は偉大だわ。ちょっとした怪我ならあっという間に縫合してしまうの。痛みに泣き出す男の人には母親のように振る舞うの。我慢しなさい、今にすべてよくなるからっていうのよ。そうしたら、みんな安らかな顔になって、痛みに耐えることができるようになる」

ルシアは言葉を続けた。ギャラハットは聞くしかない。

 「わたし、それを見ていて、そして自分でも手伝ってみてわかったの。だれかのために役立つということは、素晴らしいことだって。そうして思った。自分が今、いちばん好きな人のために役立てたらどんなにいいかって」

 「ルシア、もういい」

 ギャラハットは会話を打ち切らなければ、と考えた。これ以上は自分の心が耐えられないような気がした。だが、ルシアはやめなかった。いっそう、声を高くした。

 「ギャラハット、わたし、まだ大切なことを言っていない。わたしがあの夜、あなたの家に行ったのは、あの時の気持ちは……アジェスに逢いたかったこともある、アジェスが探し求めていた賢者の森をこの目で見てみたいという気持ちもあったわ。父さんがもしかしたら生きているかもしれない、とも思うと矢も盾もたまらなくなった。でも、それだけじゃない」

ルシアは昂ぶっていた。ギャラハットは少女の感情のうねりに鈍感だった。今まで静かな口調で喋っていたときから、この激情のもとになる波はたゆたっていた。いま、その波が波長はそのままに振幅を大きくしただけにすぎない。だが、ギャラハットは、その波が自分の膝元を濡らすまで、潮が満ちたことに気がつかなかった。

 「話したかったことはこのこと。あの夜も、伝えたかったのはこのこと。アサッシンの艦隊に人質として向かったとき、馬にゆられながら何度も言い出しそうになったのはこのこと。このこと、だけなの」

 ルシアの声が耳元で聞こえた。

 「ギャラハット……あなたがすき」

 ギャラハットの脳が爆発した。闇の中に、確かに電光が走るのが見えた。その電光の中にルシアがいた。

 ギャラハットは無言でルシアを抱き寄せた。

 「ギャラハット……わたし……」

 「もう何も言うな」

 ギャラハットは強くルシアを抱きしめた。

 「悪かった。おれが馬鹿だった。一人勝手におまえの気持ちを量って、ほんとうのおまえを遠ざけていた。おれを許せ、ルシア」

 「いいの、わたしももっと早く素直になっていれば……ほんとうはわたし前から……」

 「言うな、ルシア」

 ギャラハットはルシアの唇を塞いだ。

 ルシアはギャラハットの唇から逃れた。

「待って、ギャラ……わたし、汚れているわ」

 「おれも血まみれだ。おれと同じ匂いのする、今のおまえが欲しい」

 ふたり、影がからまった。

 睦みあうふたつの心が、星空の下で溶けあってゆく。

朝までの短い時をむさぼるようにしながら。

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