第4章 アサッシン

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 ヴィネルタ――連合政体アジェンタの第二の都市であり、《愚者の海》随一の工房都市である。そこに、ギャラハットはいた。今や、海府将軍にしてヴィネルタの統治権を持つ、押しも押されぬ大貴族である。

 アジェンタの王であるフェリアスの「風雅王」に対して、ギャラハットはほぼ同格の存在として認識されており、「太陽王」と呼ばれていた。ギャラハットが海府将軍という、王族の名誉職とされている高位にあることもその理由のひとつだったが、何よりも彼が艦隊の実権を握っていることが大きかった。

 愚者の海最強といって間違いないヴィネルタ艦隊をギャラハットが握っている限り、フェリアス王といえど、ギャラハットを粗略には扱えない。実際、フェリアスとギャラハットとの関係は、主従という感じではなかった。

 フェリアスはギャラハットの行動を苦々しく思いつつも国民の人気を慮ってそれを黙認していたし、ギャラハットはギャラハットでフェリアスを半ばおちょくるような言動を続けていた。

といって、ギャラハットに謀反の意志があるというわけではない。フェリアス王がベルンで内政を行い国情を安定させていることは、ギャラハットにとってありがたいことだった。おかげで彼はヴィネルタで、何の憂いもなく新しい船を造り、乗員の訓練に没頭することができるからだ。

 ギャラハットは、いま艦隊というおもちゃを手に入れて夢中になっている子供と同じだった。遊んでいるうちには、おもちゃを実用に供しようとは考えない。ただひたすらにいじくるだけだ。

 だが、いつかはそれを有効に活用したくなるときが来るだろう。そのことをギャラハットも感じていた。そのときにはフェリアスの存在が邪魔になる。しかし、それまでは事を構えたくない。フェリアスの前では、極力、野心を持たない道化を演じていた。

 だが、ギャラハットの道化ぶりに惑わされない者もいた。

 ケイン提督だ。

 ギャラハットの異例な出世は、ケインがギャラハットを艦隊指揮官に任命したことに起因する。いわば、ギャラハットをこの世に引き出した張本人こそが彼だ。つまり、ギャラハットの立身に従って、いくらでも官位を進めることができた。現にギャラハットはケインをして大臣の位を与えようとした。だが、ケインはそれを辞退した。

 「わしはアジェンタの国の危機を救うために最善の人選をしただけだ。その選んだ人間に引き立ててもらうなど、できることか」

 そう言って、むしろ憤然とした。

だが、フェリアス王は疑心をもってケインを見た。アジェンタ王宮は好むと好まざるとに関らず、フェリアス王派とギャラハット将軍派とに分裂していた。ケインも自らの旗幟を鮮明にしなければならなくなった。

 ケインはやむを得ず、ギャラハットについた。ルシアのためであった。ケインはルシアを正式に自分の養女にしていたのだ。早くに妻を亡くし、子供を持つことのなかったケインにとって、ルシアは実の娘同然になっていたのだ。そのルシアとギャラハットの関わりを考えると、ギャラハットの敵にまわることはできなかった。

しかし、官位はすべて断った。一人の私人として、ルシアの養父としてギャラハット側につく、という意志表示だった。

 ケイン一家は―――といってもケインとルシア、そして数人の雇い人だけだが―――は長年起居していたベルンの屋敷を引き払ってヴィネルタに移った。

 ギャラハットは豪奢な屋敷を彼らのために準備していた。ケインはそれさえ謝絶した。空屋になっていた手頃な館を買って、そこに住んだ。

 老提督の態度は徹底していた。ギャラハットの風下に立つことはしない。必ず対等か、それ以上の態度でもって臨んだ。ギャラハットを叱りつけることさえあった。フェリアス王さえ、ギャラハットが握っている艦隊の勢威を恐れて遠慮していたのにだ。

 この態度によってケインはかえって人々から畏敬された。無位無官とはいえ、海府将軍ギャラハットにただ一人異見できる人物であったからだ。

 若く奔放なギャラハットは気まぐれで、人の好き嫌いも激しかった。そのギャラハットの機嫌を取り結ぼうと考える者は、まずケインの心を獲ろうと試みた。

 ケインの自宅は、ギャラハットに取り継いでもらおうと企む人々の日参の場所となった。ケインにしてみれば、せっかく隠棲して家族と静かに暮らそうとしているのに、いい迷惑であった。



 朝、ケイン提督は来客を告げられてあからさまに不機嫌になった。

 その日は、午前中からルシアと一緒に町に出掛ける計画だった。ふだんのルシアは一日じゅう家庭教師に付いて勉強している。今日は久しぶりに骨休みさせるつもりだったのだ。

 当初、ルシアは無知だった。科目ごとの家庭教師たちもあきれるほどだった。だが、ルシアは熱心に学ぶ態度を見せ、教師たちもじきに了解した。この娘はばかなのではない。ただ、今の今まで教育を受ける機会を与えられなかっただけなのだ、と。

 ルシアは素晴らしい進歩をみせた。ケインは愛娘の上達ぶりに目を細めた。日に日に輝きを増す宝石を掌中にしているような気がした。

 そのルシアとせっかく一日ゆっくり過ごそうとしていたのに、その大事なひとときを奪おうとする来客をケインは憎悪した。

 「会わぬぞ、わしは。とっと帰るがよい。ギャラハットに会いたいのならば、直接あやつの元に行け、と申し伝えよ」

 激しい口調でケインは言った。取り次ぎに来た執事は困った。執事はこのヴィネルタで新たに奉公に上がった新参だけに、気難しいケインの機嫌をうまく統御することができない。執事の困りようが可哀想になったルシアは助け船を出した。

 「提督さま、せっかく訪ねていらっしゃったのですから、お話だけでも聞いてあげたらどうでしょう? わたし、その間、待ってます」

 提督さま、とケインを呼ぶのはルシアの癖だ。ケインとしては「父さま」と呼ばれたいのだが、おしつけがましくなるのがいやで、ルシアの好きにさせている。

 「ルシアは優しいな」

 ケインの口元がほころんだ。たまに、どうしてこんなに他愛なくなってしまったか、と自分が不思議に思えることがある。それだけ歳をとったのであろう、と漠然と感じている。だが、不快ではない。

 「ルシアがああ言っておる。さっさとその来客とやらを通せ」

 執事はほっとしたような表情を浮かべ、部屋を辞しようとした。それを、ケインは呼び止めた。

 「そうだ、客の名前を聞いていなかった。名前と、用向きは聞いてあるだろうな」

 執事はうなずき、すばやく申し立てた。

 「お客様のお名前はクランベイルさま。シフォンから来られた商人の方だそうでございます」

 そこまで執事は言って、先を続けようとした。

 「どうした、ルシア」

 いぶかしげにケインはルシアを見やった。ルシアの顔から血の気が引いている。ただごとではない様子だ。

 「ク……クランベイル……」

 ルシアの唇がわなないた。

 「知っているのか、ルシア? シフォンから来た商人だといったな、確かルシアは……」

 ケインもルシアの生い立ちは本人の口から聞き知っている。そういえば、クランベイルという名にも聞き覚えがある。

 思い出した。

 「クランベイル……ルシアの家族を破滅させた男だな」

 ケインの表情が険しくなった。

 「わしのところへ来るとはなんとも愚か者よ。ルシア、安心せよ。そやつめには、存分に思い知らせてやる」

 ケインは執事に、人の手配を命じた。ケインとてアジェンタ海軍の顕官の一人であった。今は一線を退いているとはいえ、屈強の若者を集めることはたやすい。

 「待ってください、提督さま。手荒なことはしないで」

 ルシアはケインを制止した。

 「わたしはもう以前のルシアではありません。提督さまや母さまのおかげで、まったく新しく生まれ変わっているのです。もう、自分の過去を恐れてもいません。それに、クランベイルさんに聞きたいこともあるのです」

 「聞きたいこと……?」

 「わたしの父のことと、そして……」

 ルシアは一瞬躊躇した。アジェスの面影が視野をよぎったような気がした。胸がきりきりと疼く。

 「行方を知りたい人がいるんです。きっとその人のこともクランベイルさんは知っているはず」

 ルシアは消え入るような声でそう言った。ケインはしばらくルシアを見つめていた。それから、執事に顔を向けた。

 「応接室に通してくれ。すぐに会おう」



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 貧相な男であった。

 肥ってはいたが、思いのほか小柄で顔色も悪い。それに、常の尊大な表情は影をひそめ、卑屈な薄ら笑いを頬のあたりに浮かべていた。まったく、御用聞きに来た、さえない商人づらであった。

 「おまえがクランベイルか」

 上座に座ったままでケインは声をかけた。へえ、とクランベイルはお辞儀をする。その姿もいかにも哀れっぽい。

ケインは、クランベイルに「座れ」とは言わなかった。クランベイルは、この家の主人から腰掛けてもよいという許しを受けられぬ以上、ただぼうぜんと立っていなければならなかった。

 「提督さまにあらせられましては、ご機嫌麗しゅう」

 しかたなくクランベイルは挨拶を述べ始めた。その口調はいかにも世なれた商人らしく如才ない様子であったが、ケインは苦虫を噛みつぶしたような顔になった

 「よせ。わしは王侯貴族ではないぞ。そんな阿呆みたいな長々しい挨拶を受ける筋合いはない」

 ケインは不機嫌そうに手を振って、それを中断させた。

「それよりも用件とやらをさっさと済ますがよい」

クランベイルは腹をくくったらしい。立ったまま、ぺらぺらと話し始めた。自分はアサッシンに命を狙われる身であると、のっけから言った。なぜ、命を狙われることになったのか、そのことを語り始めた。

 二十年も昔のことだ。当時、クランベイルは、ルヴィアン王宮出入りの商人と多少の取り引きがあった。ルヴィアンの勢いが盛んであった頃だ。ルヴィアン王宮と直接取り引きができれば、凄まじい巨利が得られる。クランベイルはそれを夢見て、取り引きのある商人を通じて王宮に働きかけていた。

 数年がかりの交渉の末、ようやくルヴィアンの役人との会見の約束をとりつけた。

役人が自国の商船に便乗し、各地を巡検する。そこで、自国の商品がどのように捌かれているか、また、どんな品物が一般には売れているのか、取り引きのやり方に不正はないか、そのようなことを調べるのだが、実際のところは地方役人の役得というべき性格の小旅行であった。

 どこの商人も大国の王宮との直取り引きを望んでいる。そのための口利きをしてもらいたがっている。役人に対し、さかんに贈り物をし、下にも置かぬ豪勢なもてなしをする。役人の懐はこれで富む。

 だが、クランベイルの元にやって来た役人は異常であった。黒ずくめで人相すらわからない男であった。賄賂も饗応も拒絶した。ただ、仕事を受けるかどうかだけを答えよ、と迫った。どのような仕事かを問うたが返事はなかった。ただ、条件だけが提示された。

 船を一隻、乗組員ごと借り切りたい。行き先、積み荷は明らかにしない。また、乗組員は厳選すること。素性の不確かな者は絶対に乗せてはならない。

 条件は異例ずくめだったが、報酬は桁違いだった。一航海で、船が一隻買えるだけの金になった。

 クランベイルは仕事を請けた。このことから、クランベイルの身代は大きくなった。シフォンの町でも最有力の商人となった。船は、彼の手持ちの船将の中でも最も信頼できるダン・ラズロに任せた。

船には毎回異装の客が乗った。積荷には馬車が必ず含まれていた。ダンに聞くと、彼らは常に甲板に出て、ダンたち船員の動きを凝視しているという。どうやら船のあしらい方を学ぼうとしているらしかった。だが、一切口はきかない。完璧に船員たちと接触を絶っていた。

 積荷についても、船長であるダンにすらその中身ははっきりとしなかった。恐らくは衣料などの生活雑貨、また食料、酒、塩なども含まれているようだが、梱包が厳重な上に、乗客が四六時中監視して、船員を容易に荷に近づけない。積み下ろし作業も彼らでやってしまう。とにかく徹底していた。

不思議なのは目的地であった。辺境の隊商でさえ行き来しない地の果てまで船をやり、集落も何もないところで船を降りてしまう。そこからは馬車と徒歩で行くらしい。彼らが戻ってくるまで船は待ちつづけなければいけない。

 彼らが向かう地はヴェルノンヴルフェンと呼ばれていた。冥界とさえ呼ばれている人外境である。なんのためにそんな処へ行くのかわからない。ただ、彼らが戻ってくるときには荷は減っておらず、まれにかえって増えていることがあった。荷の中身はわからないが、いずれにせよヴェルノンヴルフェンから持ち帰った品物らしいことだけはわかる。

 彼ら乗客がアサッシンであることは、じきにわかった。

 クランベイルは恐怖した。とんでもない仕事に手を染めてしまったのでないかというおびえがあった。だが、その仕事から上がる巨利の魅力には抗しがたく、ずるずると不定期便を続けた。

 そして、とうとう事故が起こった。

 難破したのだ。いや、正確には船員が一人残らず行方不明になっただけで、船は無事であった。船はアサッシンたちの手によって戻ってきたのであった。

 何が起こったのか、クランベイルはおずおずと問い合わせた。返答はなかった。黙殺された。だけではなく、条件の変更が告げられた。今後は船だけを借りる。船員の提供は無用。ただし、航海に関る事務一切はそちらで手配のこと。

 報酬の額は減じたが、それでもやはり魅力的な仕事であった。また、船を貸すだけでは旨味が少なかろうと考えてくれたのか、ごく少量であればクランベイルの荷を積んでもよいことになった。それを彼らの方で、現地の物産と交換してくれるという。

クランベイルはおかげで、他の商人が逆立ちしても手に入れられない天然の毛皮や角、珍しい果実などを入手できるようになり、ますます栄えた。

 だが、滅びはあっさりと来た。

 アサッシンはクランベイルを亡きものにしようと活動を始めた。おそらくは口封じのためであろう。クランベイルは何かと知りすぎたというのだ。アサッシンの刺客の襲来を察知した。その程度の情報網はクランベイルも持っていた。危ういところでシフォンから逃げ出し、アジェンタの海府将軍の武威を頼ってやって来た。つまるところは、かくまってほしいということであった。

ケインは興味深そうに話を聞いていた。

 「ほうお、船は無事で、船員は全員行方不明とな。なんとも不思議なこともあるものよな。ところで、その船員の家族はどうなったのだ」

 「むろん、このわたしが全員面倒をみています。ですが、わたしがアサッシンに追われる身となってしまったために、彼らの行く末も心配です」

 「ダン・ラズロとかいったな……ヴェルノンヴルフェン航路の船将だった男の家族はどうなのだ。達者なのか」

 クランベイルは悲しげに首を振った。

 「ダンには女房と娘がいましたが、今は二人ともおりません。彼らには特に目をかけていたつもりなのですが、女房は病死、娘の方は男を作って出奔してしまいました。流れ者の船乗りとできてしまったようで。まったく、今時の若い娘というのは、はすっぱでいけません」

 「ふうむ。歳ごろの娘を持つ者としては聞き捨てにはできぬな」

 「提督のお嬢さまであればそのような不始末は起こしますまい。ルシアはふしだらな娘でありましたので……ルシアというのがダンの娘の名前なのですが……」

 計算通りではあったのだが、ケインは半ば本気で逆上した。

 「ふしだらな娘だと!? うちのルシアを侮辱するか!」

 いきなり立ち上がって、怒鳴りつけた。クランベイルは慌てた。

 「いえいえ、滅相もない。提督のお嬢さまのことではなく、ダン・ラズロの娘の……」

 「ルシア、もうよい、出てきなさい。クランベイルさんに顔を見せてやるがよい」

 ケインは部屋の奥の方に向かって呼びかけた。

扉が開き、ルシアが部屋に入ってきた。

 クランベイルは口をあんぐりと開けていた。茫然自失の態だ。そのクランベイルに対してルシアは優雅にお辞儀をしてみせた。

「クランベイルさん……わたし、ルシアです。ご無沙汰しておりました」

 「な……」

 信じられない、という表情をクランベイルは浮かべた。

 「ルシア、おまえなぜ、いやあなたさまは、いやや、なんでまた、おおう」

 クランベイルの舌がもつれた。ほとんど錯乱寸前の様子だ。

「驚いたかね。ルシアは、今ではわしの大切な娘だ。シフォン時代はいろいろと世話をしてくれたようだね。ルシアから、いろいろ聞いておるよ」

ケインはクランベイルを睨みつけた。いたぶっているのだ。クランベイルのこめかみからはだらだらと汗が噴き出していた。

 「それでは、だ。話の続きを聞こうかな―――いつまで口を開けておるのかね?」

意地悪く笑いながら、ケインは言った。



 クランベイルはすっかり落ち着きを失ってしまっていた。

 時折、ちらりちらりとルシアを盗み見る。視線を合わせるのを恐れているようだった。

 「ルシアよ、クランベイルに聞きたいことがあったのだったな。聞くがよいぞ。必ずクランベイルは答えてくれよう」

 なあ、というようにケインはクランベイルに顔を向けた。クランベイルは顔をひきつらせていた。

 「先程のお話を隣の部屋で聞かせていただいておりました。知りたいのは父のことです。なぜ、父や他の船員の方々だけが消えてしまったのでしょうか。船は無事だったのでしょう?」

 ルシアは質問した。瞳には必死の色が浮かんでいる。ケインはそれを見つめ、ルシアをいじらしく思った。やはり実の父には勝てないのかもしれない、と少し寂しくもある。

 クランベイルは黙っていた。額に血管が浮いている。ぴくぴく動いている。

 「どうした、クランベイル、答えよ。それとも、アサッシンたちと自力で渡りあう自信が出てきたのかな?」

 クランベイルの顔色がますます悪くなった。ヴィネルタの保護を受けられれば、ルヴィアンの宮廷暗殺者の襲撃も防げると、この男は踏んでいた。ルヴィアンの武威に対抗できる国は愚者の海にもそうざらにはない。

 クランベイルは顔を上げた。決心したらしい。

 「申し上げましょう。ただし、これはここだけの話にしていただきたい。よろしいか」

 「話せ」

 ケインが促した。

 「ヴェルノンヴルフェンには森があるのです」

 クランベイルは話し始めた。

 「天然の森です。広さは国ひとつ分は軽くあるでしょう。見渡す限り植物であふれているというのです」

 「待て、いきなりわけがわからんぞ。何を言っておるのか」

 ケインが口を挟むのを、クランベイルは無視して続けた。時々、クランベイルはこういうしゃべり方をする。さすが長年商売をしてきただけあって、話し方はうまい。

 「ダン・ラズロからの報告でわしはそれを知りました。ダンにアサッシンの後をつけさせたのです。森は信じられないほどの宝を蔵していました。森の木を伐り出して運ぶことができれば、すさまじい値で売れます。また、獣の皮や角なども宝石と変わらぬ価値があります。まさに宝物庫です。商いをする者として、これを見過ごすことはできますまい」

 「アサッシンに内緒で船を出したのだな」

 ケインが指摘した。クランベイルはうなずいた。悪びれていない、開き直った態度だ。

 「さよう、船を出しました。まずは小手調べにヴェルノンヴルフェンの原住民と親しみ、通商を始めるきっかけを作ろうと考えました。酒、煙草類を与え、その味に慣れさせることができれば、あとは向こうから通商を望むようになると考えたのです」

 「酒で未開の者たちを腑抜けにするつもりであったのか。卑劣じゃな」

あきれたようにケインはつぶやいた。クランベイルは初めて笑った。凄味のある笑いだった。

 「商いの道というものはそれは厳しいものでございますゆえ。卑劣である、ないは思慮の外でございます」

 「だが、アサッシンは気付いていたのだな」

 「でしょうな。船員はアサッシンの手にかかって……」

 「いうな」

 こわい顔をケインはした。ルシアの肩の震えを横目で捉えていた。

 ルシアとて父の死は覚悟している。だが、言葉にされると、傷口がさらに広がる。そういうものだろう。

 「で、おまえは、その宝物倉への道筋を教える代わりに何を望むのか」

 ケインはクランベイルの核心をついた。つまるところ、クランベイルはこの情報を種に我が身の安全を手に入れようとしているのであろう。

 だが、確かに興味を引く話ではある。もはや誰の記憶にも残っていない森という風景を、一度なりとも見てみたいと思わぬ者はいないだろう。いわんや、その森が莫大な富をもたらすとあっては尚のことだ。

 「ひとつ、お聞きしてもよいでしょうか」

 と、その時、ルシアが口を挟んだ。

 ぎょっとして表情でクランベイルはルシアを見た。すぐに眼をそらしてしまう。ルシアを正視できないらしい。かつて、傲岸にルシアを手持ちの駒のように扱っていたのがうそのようだ。もしかすると、手のひとつを取らせるだけで、あがって赤面してしまうかもしれない。まったく立場が逆転していた。だが、ルシアはクランベイルが自分の変化をどう感じているかについて、気にもとめていないようで、かわらぬ口調で質問をつづける。

 「わたしがリクスヴァ号でシフォンの町を去った後、アジェスがあなたのところを訪ねたはずです。アジェスがそれからどこへ行ったかはわかりませんか?」

 ケインは軽い驚きとともにルシアを見た。長い人生経験を積んできたケインだ。ルシアの口調や表情から、アジェスという男に対してルシアがなみなみならぬ気持ちを抱いていることが察せられた。

 (これはギャラハットの小僧、ふられるな)

 ケインは内心おかしかった。と同時に、ギャラハットが少し可哀想にも思える。

 だが、ギャラハットも自分の屋敷に気の利いた女を数名置いており、自分の身の回りの世話をさせていたから、さほど同情することもないのかもしれない。

 「アジェスは……あの男は……」

 クランベイルは口ごもった。屈辱の記憶がよみがえったのか、まぶたが赤くなった。

「言わぬか。もはや隠し立てする意味などなかろうが」

 ケインが促した。この養父は、ルシアの心を伸びやかにするためならば、どんなことでもしようという肚であった。

 「あの男も、ヴェルノンヴルフェンに向かったはずです。わしから、先程話したような内容を力づくでに聞き出しましたからな。だが、独力でヴェルノンヴルフェンへの入り口をみつけることはできますまい。なにしろ、ダン・ラズロが作った詳細な地図はけっしてあやつには渡しませんでしたからな」

 クランベイルは、いびつな笑みを浮かべた。クランベイルはそっと胸元に触れた。どうやらそこに彼の切り札ともいうべき地図がしまわれているらしい。

 「この地図があれば、馬車に乗ったまま鼻歌まじりで天嶮アルカルルンの峰々を越えることができましょう」

だが、ルシアはクランベイルの多少誇張された台詞など、聞いてはいなかった。

 「アジェスが、ヴェルノンヴルフェンに……」

 そっとつぶやいた。頬が、知らずに上気している。



        3.森の民


 いい香りがした。

 女の髪の匂いだ、と思った。

 森の匂いに似ている。柔らかくて、それでいてすがすがしい。

 誰だろうか、とアジェスは漠然と考えた。

 アジェスは旅の中で、何人もの女と関りを持った。互いに惚れ合ったと思える女もいたし、朝の訪れとともに何の波紋もなく別れた女もいた。そのそれぞれを思い浮かべたが、その匂いに該当する女はいなかった。

 いや、一人いた。だが、それはまだ女ではなかった。

 可憐な少女であった。自分の人生をこれから切り開こうとしていた。アジェスは、その少女の無垢な人生の門出に自分の靴跡を残すことを恐れた。

 逃げた、といっていい。

 逃げたが、忘れ去ったわけではなかった。いつも、どこか面影が残っていた。ふと思い出すと胸につかえるものを感じた。

 もしかしたら惚れていたのかもしれない、とも思う。思うたびに苦笑する。歳を考えろと心の中で自らを嗤う。自分のような、得体の知れない何かにとり憑かれた男が、どうしてあの娘と一緒に生きられるだろうか。

 それよりも、森だ。森を知りたい。行ってみたい。この目で見て、この手で触って、この足で森の大地を踏みしめたい。

 もり……懐かしい響きだ……。

 アジェスは目を覚ました。

 ゆっくりと頭の中の霧が晴れていく。

 と、鼻先に漂う芳香に気付いた。この匂いは夢ではなく、現実のものだったのだ。

 首を巡らせると、柔らかいものに顔が当たった。

 黒髪が流れていた。

 アジェスは寝台に横たわり、柔らかな布団にくるまっていた。布団は、木の皮の繊維をほぐして作った糸で織られた布袋に、恐らくは鳥の羽を入れたものだった。保温がよく、すばらしく快適だ。

 その寝台に上半身をもたせかけて、一人の少女が寝入っている。様子から見るに、ずっと付ききりで看病してくれていたのが、つい眠りこんでしまったものらしい。

 アジェスはその少女の顔を見た。

 まだ稚なさが目立つ顔立ちだ。十二、三歳といったところではないのか。

 ヴェルノンヴルフェンの原住民の特徴らしい、やや黄味を帯びたなめらかな肌につややかな黒髪を持つ、凄いような美形であった。あと数年すれば、どんな男をも魅了する美女に育つに違いない。

 だが、今は憔悴の色が濃い。この分では、一日や二日の徹夜ではなかったようだ。

(以前、どこかで会ったような……この匂いも……)

 ぼんやりとした考えが頭の隅に残っていたが、すぐに現実に戻った。まず、自分がどこにいるのか、どのような立場にあるのかを確認しなければならない。また、ラナスの居場所も調べたい。

 アジェスは少女を起こさないように気を使いながら、寝台の上で身体をずらせた。

 頭がぐらついた。吐き気がこみあげた。まだ完全に回復したわけではなさそうだ。だが、いつまでもこうしてはいられない。

 無理矢理に起きた。

 「だめです、まだ起き上がっては」

 アジェスの動きに目を覚ましたのだろう、少女が上体をしゃんと伸ばしてきつい声を出した。さっきまで寝こけていたとはとても思えない。

 少女―――ソフィアは毅然とした表情で言った。

 「あなたに当たった矢には毒が塗ってありました。死に至ることがないよう、注意して量を減らしたのですが、この毒にまったく耐性のない人には多すぎたようです。あの矢は、本来ならばアル・アシッドたち、アサッシンたちを狙うはずのものでした」

 ソフィアはそう言い、深々と頭を下げた。

 「ごめんなさい、と言っても許してはいただけないでしょうけれど。ただ、わたしたちにあなたがたに対する敵意はないことを知っていただきたいのです」

 「おれの看病は、きみが?」

 ソフィアは小さくうなずいた。

 「それと、あなたの連れのひと……ラナスも。ずっと、あなたについていたのだけれど、今は隣の部屋で休んでいます」

 ラナスのことを言うとき、少女はほのかに微笑んだ。

 アジェスはラナスがとりあえず無事と知って、ほっとした。

この建物は、森の住民が病になったときに使うものだという。病や怪我の手当に長じた人々が交代で病人の世話をする。要するに、病院だ。愚者の海の町でも、まともな病院があるところは多くない。あっても金持ち専用だ。それなのに、この辺境の集落にはちゃんとした病院があるのだ。

 「何日おれはここでこうしていた」

 「今朝で四日目です」

 「そんなにか」

 アジェスは驚いて声を上げた。とすると、この少女はそのあいだ不眠不休に近い状態でいたのであろうか。だとすれば、誠意は本物だ。

 「情けないな。自分がこんなにひ弱とは知らなかった」

 「いいえ。そんなことはありません」

 ソフィアは首を横に振った。優しく微笑んでいる。アジェスのような男でも、思わず目を逸らした。少女の笑顔に引きこまれそうな気がしたからだ。

 「あいつらはどうした。アサッシンは」

 気を取り直し、アジェスは肝心なことを問うた。と、ソフィアの表情が沈んだ。

 「彼らはまだ村に残っています。いつもなら、村に貯えてある毛皮や角、羽毛などを手に入れるとさほど時をおかずに引き上げるのですが、今回は様子が違うようです」

 「すまんが、初めから説明してもらえないだろうか。いや、まずおれのことから話したほうがいいだろう」

 アジェスは、自分の旅の目的をソフィアに話した。緑の海、賢者の森と呼ばれる大森林を一目見たい、ただその一心でアルカルルンまで来たこと。そして、偶然見つけたアサッシンの後を追い、逆に捕らえられてしまったこと。

 「そうですか。平原にも、森を懐かしいと思う人がいるものなのですね」

 ソフィアは嬉しそうに言った。

「で、きみは?」

 「わたしは……」

 ソフィアは自分の名前を告げた。

 ソフィアの祖父は、この森の民の長老であったという。

 「祖父は昨年亡くなりました」

 「ご両親は」

 とアジェスは訊こうとして口をつぐんだ。少女の肩の線が震えたように思えた。

 だが、少女は微笑みを浮かべると、意外に屈託のない声で答えた。

 「母は死にました。わたしがまだほんの子供だった頃にです。顔も、あまり覚えていません。でも、父は生きています。今は不在ですが……森の最奥部へ旅に出ているのです。しばらくは戻ってこないでしょう」

 族長であった祖父が死に、その跡を襲うべき父も不在とあれば、掟により部落の長はソフィアということになる、らしい。事実、現在かれらの集落はソフィアとその補佐をする大人たちによって統べられているという。

 掟であるとはいえ、たいしたものであった。よほどこの少女はしっかりしており、まわりの人々もそれを認めているのであろう。

 ソフィアは自分の集落について教えてくれた。

 集落はひとつ所に固まってはおらず、そこかしこに点在しているという。森全体での人口はおおよそ千人。この広大な森に、たったそれだけしか住んでいないというのである。

 「この森の資源は豊かなはずだ。なのに、どうしてそれだけしか住んでいないんだ?」

 アジェスの問いに少女の眉が少し曇った。

 「この森は、世界にたった一箇所残った原生林なのです」

 「原生林?」

 「自然のままの、人の手によるものではない森のことです。ここでは、すべてが循環しています。わたしたち人間すら、その大きな循環の一部なのです」

 森の木が落とす葉や枝が土中の微生物の働きによって分解され、土を肥やし、下草が繁茂する。それを餌とする草食性の生き物が繁殖するにともない、肉食性の生き物が段階的に存在する。人間もその段階の中に組みこまれている。生き物は死ぬと土に返り、また植物の生育を助けることになる。

 「森は微妙な均衡の上に成り立っています。わたしたちが獣を狩るのは、年老いたり傷ついた獣に限られます。また、狩るとしても必要最低な数に制限しています。わたしたちがもしも限度を越えた狩りをすれば均衡は崩れ、森は衰えていくでしょう。森は広大ですが、わたしたちのような多くの食料や衣服、住む家を必要とする生き物を大量に住まわせるほどには豊かではないのです。わたしたちは森に生かされている存在です。そのわたしたちが、どうして森の幸を資源などという言葉で捉えることができるでしょうか」

 「そうか」

 わかるような気がした。この沙漠ばかりの世界に、たった一箇所奇跡のように残った森なのだ。ちょっとしたきっかけで、ここも愚者の海のようになってしまうかもしれない。

 「で、アサッシンたちはどういう存在だ? どうして、この森を故郷と呼んでいる?」

 「彼らは、遠い昔にこの森を捨てたひとびとの子孫なのです」

 悲しそうな表情をソフィアは浮かべた。

 「かつては同族でした。ですが、今の彼らは暗殺者集団になり果ててしまいました。平原で生き延びるために、彼らは人殺しを生業とするようになったのです」

 むかし、この森に住まう人々は外界のことを何も知らなかった。この森だけが天地のすべてであった。

 それではいかぬ、世界にはもっといろいろな人々が暮らし、多くの知識があるはずであると考えた人々が現れた。

 彼らは、家族を引き連れて森から外へ出ていった。彼らは愚者の海を縦横に渡り、多くの遺跡を見つけ、そこから失われた神の時代の技術のいくつかを再興した。

 斥力発生機もそのひとつだ。これのおかげで、砂の上を行く船が手に入ったのだ。

 彼らは陸船を駆って、愚者の海を往き、いくつものオアシスを開いて人々を愚者の海にいざなった。

 彼らは沙漠の民と呼ばれ、愚者の海のよき導き手とされた。

 だが、歴史が進み、人々が愚者の海に根を張ると、沙漠の民は疎まれ始めた。そのうちに彼らは大国に雇われて、諜報謀略の担い手となった。沙漠の国の諜報戦に彼らほどうってつけの存在はなかった。

 彼ら自身も生き延びるために暗殺の技を磨き、精神を練った。長い時が過ぎるうちに彼らはいびつな殺人機械に変貌していった。

 一方で、森での生活は何も変わらなかった。いや、変えなかった。

 森の人々は自分たちが世界から忘れられた存在であることを幸いとした。だが、彼らはまったく孤立して外界を忘れていた、というわけではなかった。

 外の世界をもある程度は知っておこうとしていた。平原の情勢の変化によって、彼らがこのヴェルノンヴルフェンに目をつけることはないかどうかを恐れた。

 「ですから、今から十数年前にアサッシンたちが森にやって来た時はたいへんな騒ぎで

あったということです。森の侵略の斥候ではないのかとおびえたのです。ですが、彼らは通商を望んでいるのだ、と言いました。木から作った布、紙、獣の毛皮や角、時に生きた獣などを彼らは要求しました。それらが、平原ではすこぶる高値で売れるというのです」

森の人々はそれを拒まなかった。

 アサッシンの恫喝に抗がう術がなかったからではなかった。

 現在のありようがどうであれ、アサッシンも確かに先祖を同じくする同族であると認めたためであった。であれば、森の恵みは等しく彼らにももたらされなければならない。それが森の人々の思考方法であった。

 森の人々は多く獲りすぎることを自ら厳しく戒めていた。そのため、アサッシンに物産を提供してしまうことは、とりもなおさず自分たちの生活物資の窮乏を意味した。

 だが、森の人々はアサッシンの立場に同情していた。彼らは故郷を離れ流浪の民となり、果ては謀略と暗殺を生業とする闇の民として屈従を強いられるに至った。その立場を少しでも向上させるためには、森の特産物をルヴィアンの支配者に献上し、その寵を引き寄せる必要があろう。だからこそ、森の人々は自分のたちの生活を圧迫しながも、アサッシンたちに物産を提供し続けたのだ。

 「そういう状態がわたしが生まれた頃からずっと続いていました。ですが、数年前から、状況は変わっていきました」

アサッシンの存在意義がなくなっていった。ルヴィアンが愚者の海第一の富国として最盛を誇った時代は過ぎ、代わって、アジェンタを初めとする新興国が振るうようになった。ルヴィアンの王宮も長い怠惰な時代に慣れ、以前のような覇気を失った。機能的なものは捨てられ、装飾的なものが何にせよ尊ばれた。となると、アサッシンは王宮にとって危険でなおかつ無用な存在となった。

 アサッシンを他の賎民と同一とする融和策が持ちだされた。アサッシンの牙を抜き、爪を削って、単なる隷属民のひとつとする。そのための政策が次々と打ち出された。アサッシンは固有の文化、習俗を奪われる危機に直面した。今までは、暗殺者集団として他の隷属民とは一線を画していた。その、いわば特権が失われようとしていた。

 「彼らは自分たちの文化を失うくらいならば、とルヴィアンから離れることを決意しました。そして、祖先が住んでいたこの森へ戻ろうと」

 「だが、きみたちは森でアサッシンたちを襲った。つまり、アサッシンの移住を拒んだわけか」

 「それは違います」

 ソフィアが泣きそうな表情をした。

 「彼らがここに住みたいというだけでしたら、わたしたちは歓迎したでしょう。確かに、森の均衡を壊すことなく新たに人間を受け入れるのは困難なことです。でも、行くところがない人々を拒んだりはしません」

「アサッシンには、別の狙いがあるというのか」

 「ええ」

 「それは、何だ」

 アジェスは重ねて、問うた。

 少し逡巡の後、ソフィアは思い切ったように言った。

 「彼らは、この森を戦場にしようとしているのです」

「戦場……?」

 「ええ」

 うなずいて、ソフィアは言葉を続けようとした。

 その時、部屋の扉が音を立てて開いた。

 「ソフィアよ、そこから先はおれから話そう」

 ソフィアは、強い瞳を闖入者に向けた。

 「アル・アシッド!」

 悲鳴に近い声をソフィアは出した。



   4.アシッドの声


 「よう、ソフィア。しばらく家に戻っていないと思ったら、こんなところに隠れていたのか」

 アサッシンの頭目の若者だ。

 刃を思わせる鋭い風貌をしている。

「アシッド、どうしてここへ!?」

 ソフィアが難詰するように言った。だが、肩が小刻みに震えている。アル・アシッドに恐怖を感じているらしい。

 「おまえの顔を見に来たのさ、ソフィア。そうしたら、おまえがおれたちのことを好き勝手にしゃべっている。ま、嘘は言っていなかったけれどもな。だが、おれの口から説明せねばならないことも多かろう、と気を利かせたのさ」

 「ご親切、痛み入るね、アル・アシッド」

 アジェスは言った。アル・アシッドとの応対をソフィアから奪うために、わざと挑発的な言葉遣いを選んだ。

 アシッドの吊り上がった目がアジェスを捉えた。

 「死んでいなかったか、よそもの」

 アシッドは冷笑を口元に浮かべていた。一緒に行動していたときには決して見せなかった感情を、今はふんだんに露出していた。といっても、その感情はアジェスに対して否定的なものばかりであった。敵意、軽蔑、そしてかすかな憐憫。しかも、その憐憫は人が虫けらに向けるそれに等しい。この男ならば、アジェスの命など眉ひとつ動かさずに断つであろう。

 「そこの死にぞこないも聞け」

 アシッドは口を開いた。

「われらアサッシンは偉大な存在だ」

かつてのアサッシンは、ソフィアが語ったような哀れな隷属民ではなかった。

 その優れた諜報能力と強い民族的な団結により、あまねく愚者の海にちらばり、各国の政変を演出し、かつ要人の命を奪った。

 ある時期からはルヴィアンの庇護を受け、その勢力伸長を助けた。

 ルヴィアン王すら、アサッシンには一目を置いた。敵に回せばこれほど恐ろしい存在はなかったからだ。

 だが、時代が変わったのは確かだ。愚者の海に人が行き渡り、安定した状態になると、暗殺と謀略の専門家は不要となった。ルヴィアン自体、創業時の若々しさを失い、安逸をむさぼるようになった。

 「人はかつて海岸線にへばりつくようにして暮らしていた。それを、われらアサッシンの祖先がいざない、愚者の海へと生活の場を広げ、多くの人口を養わせた。愚者の海に生きる者たちにとって、われらアサッシンはいわば導きの神だ」

 アル・アシッドは憑かれたようにしゃべっている。瞳は狂信者のそれだ。

 「今度は、彼ら愚かな人間どもに、森の存在を教えてやる。木があり、氷河を源流とする川があり、無数の獣が生きている、そんな場所が世界にたった一箇所残っているとしたら、やつらはどうするだろうか?」

 「森を餌に、戦争を起こすつもりか!?」

 アシッドの考えをアジェスは悟り、思わず叫んでいた。

「おまえがヴェルノンヴルフェンに来れたのも、われらがクランベイルから情報がもれるように仕向けたからだ。あの阿呆な商人は今頃、泡を食ってそこいら中の国に同じことを触れ回っているだろう。自分が握っている情報を高く売って、自分の身の安全を買おうとしていよう。それがわれらの狙いとも知らずにな」

 アシッドは、にやりと唇を歪めた。

 「世界中の馬鹿どもが騒ぎ立つさまが見えるようだ。やつらはそれこそ競うようにして、森を目指すだろう。そうすれば必然として戦いが起こる。たとえ一度は決着がついても、森ある限り戦いは続く。森の所有者は次々と変わろう。他の大陸の国も黙ってはいまい。水のある海を渡り、ウルム大陸へと殺到しよう。いくつかの国は滅び、また興るであろう。再び戦乱の世が戻るのだ。そうなれば、またわれらアサッシンが闇の世界を支配する」

 「狂っているわ!」

 ソフィアは叫んだ。

 アル・アシッドはソフィアの肩をつかんだ。

「いたっ!」

 アル・アシッドはソフィアを強引に抱き寄せていた。

 「狂ってなぞはいない。こんな辺境に引っ込んでいる方がよほどおかしい。ソフィア、おまえはおれが平原に連れていってやろう。おまえもアサッシンの女として生きるのだ」

 「いやっ! 離して!」

 ソフィアは身もだえた。

 「よせ!」

 アジェスは寝台からはね起きた。

 足元がふらつくのにもかまわず、アル・アシッドに突進した。

 「馬鹿が」

 アル・アシッドは鼻で笑った。

 ソフィアを左腕に抱えこみ、半身になった。

 右腕を一閃した。

 猛烈な平手打ちだ。速すぎて見えない。

 アジェスは真横に吹き飛んだ。アサッシンの前ではまるで赤子同然だ。

 アジェスは頭から床にたたきつけられ、それきり動かなくなった。

 「弱すぎるぞ、アジェス・ルアー」

 アル・アシッドは笑い、ソフィアの顔をのぞきこんだ。

 ソフィアは心配そうな視線をアジェスに向けている。

 「安心しろ、毒爪は使っておらぬ。使っておれば、即死だがな」

 アル・アシッドは、ソフィアに自分の右手を見せた。どういう仕掛けか、爪がにゅうっと伸び出す。金属性の仕込み爪だ。恐らく先端には毒が塗ってあるのだろう。暗殺用の武器だ。

 「やはり、平原の男が気になるようだな。自分の父親がそうだからか?」

 アシッドはソフィアの顔をむりやり上に向かせた。

 ソフィアはアシッドを睨みつけている。

 憎悪が双眸に浮かんでいる。

 普段のソフィアからは想像できない激しいひかりだ。

 「いい顔だ。アサッシンの妻にはふさわしい。それに去年よりも女の顔になったようだ。おれのおかげか?」

 ソフィアの瞳にさっと恐怖が浮かんだ。

 アシッドはそのソフィアの唇を自分のそれで覆った。

 「んっ、ぐっ!」

 ソフィアはもがいた。だが、アシッドは少女の抵抗を楽しんでいる。

 「やめろ!」

 高い声が響いた。

 「おや」

 アシッドはソフィアから顔を離し、声がした方を見やった。

 「ガキ、どうした」

 からかうように言う。ラナスが扉の前で、憤然として立っている。

 「ラナス!」

 ソフィアが叫んでいた。

 「こっちへ来ないで! 危ないわ!」

 「そうは、いかないよ!」

 ラナスは叫んだ。

 「やい、アル・アシッド! 見損なったぞ、おまえ! いやがる女の子になんてことをするんだ!」

 「ガキは引っ込んでいろ」

 「何言ってやがる! ソフィアだって子供じゃないか。その子供に何してるんだよ!?」

 「子供か……去年までは、確かにそうだったかもしれんなあ」

 アル・アシッドはせせら笑うように言った。

 「やめて、アシッド!」

悲痛な叫びをソフィアはあげた。

 アシッドの頬が緩んだ。楽しそうな笑みだ。

 「わかった、やめよう。おれも忙しい身でな。今日あたり、シルバからの伝令が到着するはずなのさ。どこの国が餌に食いついたのかを知らせにな。ということで、おれはもう行くぜ。今夜は部屋にいろよ、ソフィア」

 言い置くと、アシッドはソフィアを離し、扉へと向かった。

 ラナスの前でふと歩調を緩めた。

ラナスは両足を開き加減にしてふんばっている。だが、その表情にはおびえと不安が渦巻いているようだ。

「ソフィアに惚れたのか? あいにくだったな」

 アシッドはラナスの頭をくしゃくしゃにかき混ぜて、部屋を出て行った。

ソフィアはアジェスの側に膝をついていた。抱き起こそうとしている。

 ラナスは気がついて、あわてて走り寄った。

 「だ、大丈夫かい?」

 「ええ、呼吸も正常だし、軽い脳震盪だと思うわ」

 ソフィアはアジェスの容態のことを言っているらしい。ラナスはもどかしい気がした。

(ソフィア、きみは大丈夫なの? それに、アシッドが言っていたことって……)

 そう聞きたかったが、口をついて出たのは別の言葉だった。

 「アジェスなら平気だよ。なにせ頑丈なひとだもの。でも、アジェスがこんなに喧嘩に弱いとは知らなかったなあ」

「まあ」

 ソフィアはラナスに非難がましい目を向けた。

 「アシッドはアサッシンの頭目なのよ。たとえ負けても恥ではないわ。それに、わたしを助けるために傷ついたのに」

 「わ、わかっているよ。そんなに怖い顔しなくてもいいだろ」

 ラナスはあわてて言った。

 ソフィアはなおもラナスをにらみつけていたが、ふっと表情を緩めた。

 「いいわ。許してあげる。ラナスもわたしのこと、助けてくれたものね」

 「えっ? いや、そんな、当り前だろ!」

 ラナスはしどろもどろになった。

 そんなラナスをソフィアはしばらく見つめていたが、気を取り直すように言った。

 「さあ、お願い。アジェスさんを寝台に戻すのを手伝って」

 ふだんは大人びているソフィアも、ラナスを前にしていると年相応の幼さを見せるようだった。



             5.夜がくれば


 ギャラハットはケイン提督の訪問を受けた。

 クランベイルを連れて来ていた。

 クランベイルはケインにしたのと同じ話をギャラハットに対してもしゃべくった。

「ふぅん」

ギャラハットにはぴんと来ないようだった。

 だからなんだ、と聞き返してきそうである。

 「事の重大さがわかっておらんようだな」

 ケイン提督だけはギャラハットに対等以上の口のきき方をする。ケインは公的にはどんな役職にも就いていないから、その非礼さをとがめだてられることはなかった。

 「わかんねえな、木がいっぱいあるからといって、どうなるもんでもあるまい。船を横付けできて、すぐに伐り出せるようになっているならいざしらず、そんな十日近くも山越え谷越えせにゃならん辺境がなんだというんだ、とっつぁん」

「とっつぁんと呼ぶのだけはよしてくれ、海府将軍」

 ケインは押しつぶしたような声で文句を言った。

 「それに、だ。十日の行程など、きちんとした駅伝施設を作ればどうということはないわい。つまり、荷駄を受け渡しする機構を作ればよいということになる。そうすれば、途中に村もでき、ヴェルノンヴルフェンはすぐにでも辺境ではなくなろう」

 「なるほど、国ができるというわけか。しかも、緑も水もある。愚者の海の国々が競って買いたがる物産に満ちた国が」

 ようやく、ギャラハットにも明確なイメージが形作られてきたようだ。

 「そうだ。木々を伐採すれば、良質な耕地も手に入るだろう。食料も自達できるわけだ」

 「乗り気だな、とっつぁん……いや、ケイン提督」

 「あたりまえだろう。誰でも欲しくなる土地だ。その地を押さえた国が愚者の海を……いや、この惑星を統一できるかもしれんのだぞ」

 「それほどのものかね。おれは、あまり乗らないな。だいいち、そのクランベイルとかいうおっさんの顔が気に入らん」

 クランベイルは脅えたような視線をケインに向けた。ケインは仕方なくうなずいて見せた。安心せい、かばってやる、という意味らしい。クランベイルはすがるような目をケインに向けた。

 ケインは言った。

 「この際、顔はどうでもよかろう。むろん、わしもこの男は気に食わんが、こやつのもたらした情報は確かに貴重なものだ。わしは、他の国がこのことに気付く前に機先を制するべきであろうと思う」

 「あまいな、提督。この男がわれわれにだけこの話を持ってきたと思っているのか。当然、各国ともこの情報を買っているとも。このクランベイルたらいう男、とんでもない狸だぞ」

 ギャラハットの言葉にケインは飛び上がった。

 「なんと、それはまことか!?」

 「おうとも。おれが気乗りしないわけはな、この数日間、各国がそれぞれの艦隊を慌ただしく動かし始めたという情報を持っているからだ。それも、どうやら行き先は北方らしい。今の話を聞くと、どうやら会合地点はヴェルノンヴルフェンらしいな」

 「き、きさま、クランベイル……!」

 ケインは恐ろしい目をクランベイルに向けた。

 クランベイルは震え上がった。

 「いえ、まさか、まさか。どこにもこの話を漏らすなどとは……ほんとうですぞ、信じてくだされ!」

 悲鳴を上げて、後退った。ケインが今にも飛びかかって首でも絞めそうな様子を示したからだ。

ギャラハットは笑った。

 「血の気が多いな、とっつぁん。だが、クランベイルを殺すのはやめにしておけ。とっつぁんがさっき言ったとおり、その男が持っている情報は貴重なものだ、と各国が思っている限り、利用価値はあるさ。いずれにせよ、各国が動きだしている限り、こちらも傍観しているわけにはいくまいな。それに、大国の中でわが国がもっとも北方に位置している。となれば、各国の艦隊はわれわれの通商路を侵すことになる。放ってもおけまい」

 「では……」

 「やむをえまい、その話に乗ろう。ルシアの訳ありの男というのも、正直気になるしな」

 ギャラハットは軽くため息をつきながら、そう言った。



 即日、ギャラハットは艦隊に指示を出した。小型艦からなる艦隊による巡視を強化し、かつ主力艦隊の出撃準備を始めさせた。

 また、陸戦になる可能性を考慮し、正規陸軍の動員の手配を始めた。それには、陸軍統帥であるフェリアス王の裁可が要る。ギャラハットは上奏文を書き上げ、急ぎベルンへ送るよう命じた。上奏文だけではフェリアスは納得すまい。ギャラハットが反逆を企てているのではないかと疑うであろう。したがって、その結果にはギャラハットはあまり期待していなかった。

 「もっとも、噂はフェリアスの耳にも遠からず入るだろう。そうすれば、向こうから出撃をせっついてくるさ」

 そう観測している。

 ギャラハットが執務室を出ると、そこにルシアが待っていた。

 ルシアは思いつめたような表情をしている。

 ギャラハットは足を止めた。

 「めずらしいな。普段は呼んでも来ないくせに。何か用か?」

 最近、あまり顔を合わせることがなくなったせいか、合うたびにルシアがどんどん美しさを増しているような気がする。息苦しさをさえ覚えるときがある。ルシアはどうなのだろうか。執務に追われ、めったに会えなくなったギャラハットに対して、同じような感覚を持ってくれているのだろうか。

 (どうもそうではないらしい)

 クランベイルの話にあったアジェスという男のことを考える限り、そう結論づけざるを得ない。出会った時から比べると、ルシアが自分に心を開いてくれているという自信はあった。だが、ルシアの心を一人占めできているとは、自信過剰のギャラハットとても思えない。

 「ギャラ……」

 ルシアはおずおずと声を掛けてきた。

 「お願いがあるの」

 「願い? 何でも言ってくれ。そういや、せっかく自由に金が使える身分になったのに、しばらく何も買ってやっていないな。そうだ、いつかの服屋にでも行って、今度は店中の品物を買い占めようか」

 ギャラハットの軽口にも、ルシアは笑わない。

 「ちがうの。ヴェルノンヴルフェンに連れていって欲しいの」

 ギャラハットの表情が凍った。かすかだが、予測はしていた。考えたくもない最悪の予測だった。だが、それが的中した。

 ギャラハットは黙った。

 「提督さまから聞いたの。提督さまも一緒に行くんだってはりきっていたわ。ヴェルノンヴルフェン、賢者の森、そこへ行くんでしょう?」

「遊びに行くんじゃないぞ。戦だ」

努めて冷徹に言った。

 「知っています。大きな戦になるかもしれないと提督さまもおっしゃっていました。だからこそ、ついて行きたいんです」

 「なぜだ? そこに何があるというんだ? おれにはわからんね。どうして森などにこだわる? この世界がそんなに嫌いか!? おれは好きだぞ。何もない荒野だがな、おれの夢はその荒野にこそ広がっていたんだ!」

 ギャラハットは口をつぐんだ。後悔していた。意味もない戯言を吐き散らしてしまったことに気付いた。森が気に食わないのではないのだ。ルシアが森へ行きたいと思う心、その心に触れるのがたまらなくいやなのだ。

 「ギャラハット聞いて……わたし……」

 「もういい。連れていって欲しいならば、おれの言うことをきけ」

 ルシアの顔がぱっと輝いた。ギャラハットの心がその笑顔に切り裂かれていた。鮮血があふれだしている。

 残虐な思いが吐寫物のようにこみ上げてきていた。

ギャラハットは冷たい声で言った。

 「今夜、おれの館に来い。伽をしろ」

 今度はルシアが凍りつく番だった。

 無言で目を伏せた。小刻みに身体が震えている。

 ギャラハットはルシアに背を向けた。返事を待つ必要はなかった。これであきらめるであろうと思っていた。嫌われるであろうがやむを得ないことだ。ルシアを手放すことになるよりはずっとましだ。

 ギャラハットは廊下の角を曲がった。その時だ。

 「わかりました」

 ギャラハットの耳に、そうルシアが答えるのが聞こえた。

 「約束を忘れないで」

 あわてて振り向いた。ルシアの姿はなかった。

 幻聴か、そう思った。



 夜になった。

 ギャラハットはずっと執務室に篭っていた。いざ出撃となると、仕事が山積みになった。

 留守にする間の仕事の手配りもある。海府将軍も何かと忙しい。

 「ちぃっ! ケインのとっつぁんめ、うまく逃げやがって」

 ケインはその夕方の船でベルンに発っていた。ギャラハットの上奏文を携えてだ。

 「おまえの自儘ではないことをちゃんとわしが説明してきてやろう。だから、手配はちゃんとやっておけよ」

 髭をぴくぴくさせながら、そう言ったものだ。ケインも久しぶりに実戦に参加するということで、かなり気が昂ぶっていたようだ。ギャラハットは、分厚い書類の束に署名を書き入れながら、ふっと笑いをこぼした。

 「とっつぁんも若い若い」

 書類の山へ、その束を上乗せする。今にも崩れそうだ。

 書類は薄い樹脂で作られている。樹脂は簡単に再生できる。昔の書物のように、紙で作られてはいない。木で作った紙はとてつもなく高価だ。しかも、痛みやすく、一度使ったら再生するのは難しい。

 「森を押さえたら、公文書は全部紙にしてやろう。そうすりゃあ、この机の上の束だけで、家が四、五軒建つだろう」

 ギャラハットは残りの書類を手早く片付けた。明日は朝早くから艦隊演習の検分をする予定であった。実戦が近いだけに、将兵に気合を入れる必要があった。

 ギャラハットはヴィネルタのかつての宮殿―――現在ではギャラハットが公務を行うための建物になっている―――を出た。用意させておいた馬車に乗りこみ、官邸に向かわせた。

 海府将軍の官邸は、むかし、アレイス・ヴァンドルマンが自分の愛妾を住まわせていた典雅な屋敷であった。ギャラハットは諸事堅苦しい宮殿暮らしよりも、この私邸を好んだのだ。

 屋敷では執事が待ちかねていた。

 「お客様がいらしております」

 「客?」

 「はい」

 ギャラハットは着替えを手伝ってもらいながら、首をひねった。今夜は何の約束もないはずだった。それに、夜分海府将軍ギャラハットの家を訪ねてくる人間はヴィネルタにはそうはいない。

 「だれだ」

 「お会いになればわかることです」

 執事は含み笑いをした。

 (まさか)

 ギャラハットの胸が高鳴った。

 ギャラハットは酒の支度を命じ、応接室に向かった。

 中に入った。

 (やはり)

 ルシアが所在なげに立っていた。部屋の中に飾ってある絵などをぼんやりと見ていたようだ。ギャラハットに気付くと、さっと身体を固くした。

 「こんばんは」

 「どうした、こんな夜分に」

 わざと不機嫌にギャラハットは言った。

 「約束を、果たしに来ました」

 声がかすかにおののいている。

 「ばかな。あんな戯言を真に受けたのか」

 酒が来た。運んできたのはジェシカ。ギャラハットのお気に入りの侍女の一人だ。侍女は意味ありげな表情を浮かべていた。

 侍女は一礼をして部屋を辞した。口元には好色な笑みが浮かんでいる。

 ギャラハットは不快だった。この女はクビだ。自分を何様だと思っていやがる。

 「まあ、飲め。せっかく訪ねてきてくれたんだ」

 ギャラハットは言い、自分のぶんと合わせてふたつのグラスに酒を注いだ。

 ルシアはグラスを受け取り、しばらくためらっていたが、ひと思いに飲み干した。飲み干したかと思った瞬間、激しく咳込んでいる。

 「何をしている?」

 あきれて、ギャラハットは訊いた。

「そんなに多くは飲めないくせに、無理をするからだ」

 「どうすればいいんですか」

 むせすぎて目尻に涙を浮かべながら、ルシアが逆に問い返した。

 「言って。わたし、どうすればいいのか」

 ギャラハットは顔をそむけた。

 「もう遅い。家へ帰るんだな。なんなら馬車の用意をさせよう」

 「いやです。約束したはずよ。ヴェルノンヴルフェンへ、わたしどうしても行きたいの」

 「ケインが知ったら泣くぞ。ケインの奥さんもな」

 ルシアは一瞬ひるんだ。だが、唇をきつく噛みしめて、動揺を振り払った。

 「かあさまには正直に話すつもりです。わたしがそう選んだのだと」

 ギャラハットはグラスの酒を呷った。強い酒精が胸を焼く。

 ルシアを見た。よほど狂暴な顔をしていたのだろう、ルシアが脅えるのがわかった。

 「そうまで言うなら抱いてやろう」

 ギャラハットは言い、ルシアに近づいた。

 ルシアは逃げない。身体を固くして、立ち尽くしている。

 ギャラハットは小柄なルシアの身体を抱き取った。

 折れそうに、しなる。

 やせているのに、弾けるような弾力がある。

 トクトクと鼓動が鳴っているのがわかる。ルシアのか、それとも自分自身のか。たぶん両方だ。

 「ここで……?」

 ルシアが訊いた。不安そうな表情だ。

 ギャラハットはものも言わず、ルシアの身体をまさぐった。

 ルシアは目を閉じている。歯を食い縛っている。

 逃げ出したいのに必死で耐えている、そのように思えた。

 (そうまでして、行きたいのか)

 絶望にも似た想いがギャラハットの胸に満ちた。

 ギャラハットはルシアを離した。

 ルシアはもの問いたげにギャラハットを見つめた。

 「帰れよ」

 短くそう言った。

 「え……?」

 「そのツラをおれの前に出すんじゃねえ! とっとと帰れって言ってるんだ!」

 「ギャラ……」

 「閣下と呼べ。もう、その呼び方は許さん」

 ルシアの瞳に涙がわき上がった。

 「どうして……?」

 「うるせえ!」

 ギャラハットはグラスを投げつけた。

 グラスはルシアの脇を通過し、壁にぶつかって砕けた。

 ギャラハットは激しく鈴を鳴らした。

 執事が飛んできた。

 「どうなさいました」

 「そちらのご令嬢がお帰りだ。送って差し上げるよう、手配しろ」

 「はい」

 ギャラハットは応接室を大股で出た。戸口にジェシカがいた。何が起こったのかを窺いに来たのであろう。若い娘らしく、好奇心が強い。

 そのジェシカをギャラハットはひょいと担ぎ上げた。

 「ご主人さま! お戯れを」

 ジェシカはうろたえながらも、嬌声を張り上げた。

 「今夜は眠らせんぞ」

 ギャラハットは聞こえよがしに言うと、高笑いをしつつ寝室に消えた。むろん、ジェシカを伴っている。

 ルシアは茫然と立ち尽くしていた。



 夜中、ギャラハットは控え目に鳴らされるノックの音で目を覚ました。

 「なんだ……いったい」

 ギャラハットは身を起こした。傍らではジェシカが健康な寝息を立てている。起きそうな気配はない。

 「たく……」

 ギャラハットは頭を押さえた。あの後、立てつづけに強い酒を呷って、そのまま寝てしまったらしい。酒精が頭の底にまだ残っている。

 ギャラハットは扉に向かって訊いた。思いっきり不機嫌な声だ。

 「何事だ」

 「巡視艦隊からの報告です。急ぎお知らせしたいことがあると」

 執事の声であった。

 やむを得まい、重要な報告は時間を問わないとギャラハット自身が指示したのだ。

 ギャラハットは服を身体に巻き付けると、寝室を出た。

 謁見室に入った。巡視艦隊の将校が既にギャラハットを待っていた。

 「ご苦労」

 ギャラハットは将校をねぎらった。将校はまだ若い。緊張のためか、頬を赤くしていた。

 「始めてくれ」

 「はっ!」

 将校は報告を始めた。

 「たった今入手した情報によれば、ルヴィアンにおいて反乱が起こったようです」

 「なに」

 ギャラハットの目が見開かれた。

 「詳しく頼む」

 「一週間前、ルヴィアン王宮の一部に火が発し、軍船十数隻が奪われたとのことです。おそらくは、アサッシンどもが反乱を起こしたものと思われます」

 将校は、巡検に立ち寄った町の商人や船乗りからその情報を入手したようであった。

 「反乱を起こしたのはアサッシンたちです。彼らはルヴィアン王宮に火を放ち、十数隻の船を奪って逃走したとのことです」

 アサッシンが、得意の謀略戦の技術を、雇い主であるルヴィアン王宮に対して振ったものらしい。しかも、アサッシンは一族挙げて脱出していた。女子供も含めて一族千五百名が流浪の旅に出たのだ。

その艦隊を追捕する艦隊も既に進発しているという。

 「そして、アサッシンたちの艦隊は、一路北上し、各港においては略奪の限りを尽くしているとのこと。今に、このアジェンタにもやってくる恐れがあります」

「ほう? やつらも北へ向かっているか。どうやら役者がそろったみたいだな」

 ギャラハットは楽しそうに目を細めた。

 「急ぎベルンに連絡せねばな。ケイン提督が戻り次第、アサッシンの艦隊との会合地点へ向かうぞ」

 新しい遊びを発明した子供のようにギャラハットは笑った。

  

 

           6.人質


 アサッシンの略奪艦隊は、アジェンタ領内に突入した。

 アジェンタ領内の小さなオアシスを襲い、食料、水、その他物資を強略した。

 武器を持って抵抗した者は容赦なく殺した。だが、抵抗しない限りは殺さなかった。また、女を強姦するアサッシンは一人もいなかった。

 普通の軍隊よりははるかに統制が取れていた。

 各軍艦には数十家族が乗り込んでいた。甲板にまで、人があふれている状態であった。船に乗り切れず、略奪した馬や牛、驢馬に乗って移動する家族もあった。

 まさに流浪の民であった。

 その彼らの前に、アジェンタ艦隊が現れた。

 不戦を示す旗を掲げた使者が、旗艦から飛びだした。

 使者は二騎いた。

 うち一騎は金髪の青年だった。

 アサッシンの族長は、シルバといった。

 シルバはアジェンタの使者を出迎えた。

 「あんたが、海府将軍どのじゃな」

 二騎のうち金髪の青年を指さしてシルバは言った。

 「さても豪胆な男じゃ。大将御自らやって来るとはの」

 「おれの顔を知っているのか?」

 意外そうにギャラハットは訊いた。

 「当然じゃろう。わしらはアサッシンと呼ばれておる。諜報、隠密はわれらの生業じゃ。各国の首脳の顔、性格、趣味嗜好、女癖に至るまで、わしらの知らぬことはない」

 「であったな」

 ギャラハットは笑った。

 そのギャラハットの背後に、数人のアサッシンがさりげなく回りこんでいる。

 シルバはギャラハットに言った。

 「迂闊であったと思わんか、アジェンタの海府将軍よ。もはやお前の命はわれらの手の中にあるのだぞ」

 「いいや、べつに。おれが帰らなければ、艦隊はあんたたちの船をすべて沈める。おれの命とあんたたち一族の命は同じ重さということになる。あんたたちのような誇り高い一族が、そんな滅び方を選ぶとは思わんがね」

 シルバは笑った。

 「参ったよ、海府将軍どの。その若さでアジェンタ第二の実力者にのし上がったのも道理じゃな。話を聞こうか」

 シルバは自分が乗っている軍艦にギャラハットを招いた。

 ギャラハットは艦の中に入ることを選ばず、見通しのよい台地を会談場所に指定した。密殺される危険を避けるためであった。

 「降伏勧告ならば受けぬよ」

 シルバはにこにこと笑いながら、凄味のある台詞を吐いた。

 「われらアサッシンは戦いを運命づけられた一族であるらしい。ならば、その運命の通り、戦い続けて死ぬるのもまたよしじゃと思うとる」

 「降伏せよとはいわぬ。聞きたいことがある」

 「ほう」

 「北へ向かっているな。どこが最終目的地なのだ?」

 「わしらの故郷じゃ」

 「ヴェルノンヴルフェンか」

 「知っているのか?」

 シルバは少し驚いたようだった。だが、すぐに事態を理解した。

 「ははあ、クランベイルめはアジェンタに身を寄せたのか」

 「そうだ。おれの船に乗っているよ」

 ギャラハットは軽く答えた。シルバは、にやりと笑った。ふつうなら、ここは自分の手の内を見せまいと気張るところだ。それを見越してシルバはかまをかけた、つもりだった。それを、ギャラハットはひっかかるどころか、あっさりと自分の手札をさらしている。

 腹芸は通じない相手であるとシルバは見た。

「わかった。そこまでおぬしが腹を割って話そうとする限り、わしとてもその礼に応えたい。なんなりと訊くがよい」

 「それは話が早い」

 ギャラハットはにっこりとした。

 「これを見よ」

 シルバに手書きの地図を見せた。

 「なんじゃ、これは」

 「あんたたちの故郷への道のはずだ」

 クランベイルが持っていたヴェルノンヴルフェンへの地図だった。

 「くだらぬ落書きじゃの」

 シルバは、ろくすっぽ図面を見ずにそう吐き捨てた。

 「そんなもので、われらの故郷へ辿りつけるものかよ。山の中で迷うて餓死するのが落ちであろうよ」

 「そうか」

 ギャラハットは図面をポケットにしまった。

 「改めて頼みがあるのだが」

 「いうてみよ」

 シルバは鷹揚にうなずいた。

 「実は、アジェンタ領内は通らずに迂回してもらいたい」

 「なぜじゃ? ご自慢の無敵艦隊でわれらを迎え討てばよいのではないか?」

 シルバとて、ギャラハットの艦隊と正面きって戦って勝てるとは思ってはいない。だが、弱みは見せられない。自信に満ちあふれているように見せねばならぬだろう。

 「あんたたちを叩くのは簡単だ。だが、それでは面白くない」

 ギャラハットは顎をなでながら言った。

 「ルヴィアンの王宮を喜ばせる義理はわれらにはない」

 そうであろう。ここでアジェンタ艦隊がアサッシンの略奪艦隊を殲滅しても、得をするのはルヴィアンの王宮であるということになる。自分の手をわずらわせることなく、反乱者を撃滅したことになるからだ。

 「といって、あんたたちを見逃したとあっては、他国の手前、面目がない。また、ルヴィアンに痛くない腹を探られるのも癪だ。となれば、あんたたちから、アジェンタ艦隊を避けて北上したという形にしてもらいたい」

 「それで、われらに何の得がある?」

 「ここで終わるはずだった生命がヴェルノンヴルフェンまでもつ。それに、ヴェルノンヴルフェン手前でルヴィアンの追撃艦隊が追いついたとき、頼もしい援軍が来ることが保証される」

 面白そうにシルバは笑った。

 「助太刀をしてくれるというのか?」

 「ヴェルノンヴルフェンの手前となれば、とてつもない辺境だ。何が起こっても、それを中央に伝える者はおらんさ。となれば、われらも動きやすい。ルヴィアンとの関係を悪化させずに、彼らの国力を大きく減じさせることができる」

 「わしらをだしにして、愚者の海の勢力地図を塗り変えるつもりか。驚いた仁じゃな」

正直、シルバは舌を巻いた。

 「だが、信じるわけにはいかんな。わしらが進路を変えて北上した背後を突くつもりかもしれぬ」

 今度はギャラハットが苦笑する番だった。

 「いつでもあんたたちを殲滅する戦力をわれらは持っている。そんなせせこましい手を使わねばならぬほど劣勢ではない。だが、どうしても心配だというのなら、人質を出そう。われわれの船が不穏な動きを見せたら、そいつを殺す、としたらどうだ? それならばよかろう」

 「で、人質とは?」

 「おれでもかまわんよ」

 シルバは叫びだしそうになった。なんという胆力であろうか。正直なところ、この男が自分の後継者として一族を率いてくれたらならば、どんなによいかと思った。

 「わかった。その条件でアジェンタ領内を迂回しよう。われらは半刻の後に出発する。それまでに準備されて、われらの船に来られるがよい」



            7.ふたり


 「絶対に反対だ」

 ケイン提督が言い張った。他の将校も同様だった。当然だろう。何を好きこのんで、大将が敵の人質になりに行く話があろう。しかも、戦力的にはこちらがはるかに有利なので

ある。

「だいたい、おまえは大将というものを何と心得おる。雑兵のように使者として敵のまん前に飛びだすようなことを為出かすだけでもけしからんというのに!」

 ケインの口調は、明らかに部下を叱りつけるそれであった。

 今回の作戦では、ケインはギャラハットの副官であった。キャリアからいっても、立場からいってもまず妥当なところだ。だが今回に限っては、ケイン自ら志願しての参加であった。腰の重いこの老人としては希有なことだといえた。

今回の作戦は、二段構えの形を取っていた。

 フェリアス王に対しては、あくまでもアサッシン艦隊の掃討を理由に全艦隊を動かしつつ、その実はヴェルノンヴルフェンの探索を主任務としていた。その所在地と、通商相手とての価値を見極め、状況によっては武力で占拠し、その富を手中にする、というものだった。

 それだけに、ケインはギャラハットの暴走を許すわけにはいかない。作戦の最終的な目標は、ケインも一緒に、かつ安全にヴェルノンヴルフェンに行くことであった。

 だが、ギャラハットはせせら笑ってケインの説教を無視した。

 「あいつらにはヴェルノンヴルフェンに行ってもらわねばならんのだ。しかも、アジェンタ領内を通らずに、な。となれば、少々の無理もしかたないであろうが。大丈夫、おれは殺されぬよ。第一、他の者ではたとえ人質になっても、簡単にアサッシンどもの自家薬籠中のものにされてしまうだろう。おれならば、逆にやつらを丸めこむこともできるのさ」

 そのように、ギャラハットは言い放った。絶対的に自分の能力を信じている男なのだ。

 「おれはやつらを使ってヴェルノンヴルフェンに行く。クランベイルの地図が使いものにはならないことがわかった以上、それ以外に道はないのさ」

 「うむう」

 ケインも黙らざるを得ない。

 クランベイルは現在、船室に軟禁状態であった。ダンが残した、とされた地図がほとんどでたらめであったことが、シルバの言によって判明したからだ。クランベイル自身はダンがわざと間違った地図を残したのだと弁明しているが、ケインの判断するところ、誰もヴェルノンヴルフェンの正確な位置を知らないのをいいことに、われこそが宝の山のありかを知る唯一の人間であると吹聴してギャラハットたちを翻弄しようとしていたのだと見た。ギャラハットの考えもそうだ。

「阿呆なおっさんだな。商人とは、自分の嘘はけっしてばれないと考える生き物であるようだな」

 「商いをする者には二種類あるのだよ。一種類は他人の信頼の上に自分の生活を成り立たせようとする者。もう一種類は、自分の才覚の上に成り立たせようとする者だ。クランベイルとは後者の典型じゃな―――言っておくが、ギャラハット、お前さんもクランベイルと似たくちじゃぞ」

 「そうかもしれんが、おれの才覚はクランベイル程度の才覚とはものが違う。クランベイルのそれはたかだか町ひとつを牛耳る程度のものだが、おれの才覚は、この世界全体を動かせる。そこが違う」

 いけしゃあしゃあとギャラハットは言う。確かに、今のギャラハットには、愚者の海の大局的な情勢を一人でかき回してしまうだけの実力がある。

 「であれば、なおのこと、敵の船に乗りこむような愚はやめなされ」

 「そうもいかん。約束をした。それに、おれも賢者の森とやらを見てみたいのだ」

 ギャラハットは楽しそうに言った。

 「わたしも、連れていってください」

 と、声がした。

 弾かれたように、一同の視線がその声の主に集中した。

 「ルシア! どうしてここへ!?」

 叫んだのはケインであった。

 防砂服に身を包んだルシアがブリッジに入ってきていた。

 防砂服は、砂嵐の中で甲板作業をする時の船乗りの装束だ。大きなフードがついていて、それをかぶれば、双眸だけがのぞく仕掛けになっている。

 艦隊が出港する時、確か激しい嵐であった。出港作業は難航を極め、何度か日を延ばすことも検討したほどだった。だが、アジェンタ領内深くにアサッシンたちを入れないためには、どうしてもその日のうちに出発する必要があった。砂嵐を押して出港したのであった。

 「その時に乗り込んだか」

 ケインは嘆息した。

「ごめんなさい。でも、ヴェルノンヴルフェンへ行くかもしれないと聞いて、どうしてもじっとしていられなくて。提督さまの名前を出して、船員頭の人に無理に乗せてもらったの」

 ルシアは素直に詫びた。養父をたばかったことを反省しているようだった。

「そうまでして、ヴェルノンヴルフェンに行きたいか」

 ケインは困じ果てたように言った。

 「父の消息のためか、それとも……」

 アジェスという男のためか、とは言わない。ギャラハットに対して、ケインなりに気を使っていた。

 ギャラハットは黙りこくっていた。

 アジェスという男のことは詳しくは知らない。クランベイルからわずかに聞き知っているに過ぎない。だが、ルシアの心の中にその男が棲んでいるらしいことは間違いないと思っている。

 「おれと一緒に人質になりたいというのか」

 ルシアはうなずいた。

 ケインはギャラハットを見つめた。期待をこめていた。ギャラハットは拒むであろう、そう考えていた。男として、惚れた女をそんな危険な場所へやれるはずがない。しかも、その女は、自分以外の男に会うために危険を冒そうとしているのだ。

 「よかろう」

 と、ギャラハットは言った。

 ケインは目を剥いた。

 怒鳴ろうとしたケインをギャラハットは制した。

 「静まれ。ルシアの身柄はおれが守る。それに、ルシアには、おれ以上にヴェルノンヴルフェンに行かねばならない理由がある、のだろう」

 異様な迫力がギャラハットにはあった。ケインもそれ以上何も言うことができず、沈黙した。

 すまなさそうに、ルシアは目は伏せていた。



 ギャラハットはルシアを先に馬に乗せた。その後から、自分も鞍に飛び乗った。

 手綱をとって、歩かせ始めた。

 行く手に、アサッシンの船が見えていた。

 帆を半ば上げ、いつでも動ける様子を保っている。アグノーランを始めとする、有力なアジェンタ艦隊の火力を警戒しているのであろう。

 おそらく、現在は斥力発生機の出力をぎりぎりに絞っているのだろう。ほとんど接地しながらも、風によって、わずかずつ流されている。

 帆を上げれば、たちまち風を受けてアジェンタ艦隊から距離をおくことができる体勢にある。

 「やっこさんたち、臨戦体制だな。おれたちが本当に人質になるつもりがあるのか、信じあぐねているようだ」

 「ギャラハット」

 ルシアが久しぶりに口を開いた。馬に乗っている間じゅう、黙りこくっていたのだ。

 「なんだ」

 「アジェスのことだけど」

 「いうな」

 「今まで話さなかったのには理由があったの。アジェスは、あのひとは……」

 「よせ」

 ぶっきらぼうにギャラハットは言った。

 「理由ならわざわざ教えてもらわなくてもわかっている。おまえはおれに身を投げ出そうとした。それほどまでその男に会いたいというわけだ」

 「ちがう!」

 ルシアは馬上、振り返った。

 「聞いてギャラハット、あの夜わたしは……」

冷め切ったギャラハットの表情を見て、ルシアの身体が強張った。言葉を飲んだ。

 「ちがうかどうかは、おまえがアジェスとやらに再会した時にわかる」

 淡々とした口調でギャラハットは言った。

 「安心しろ、それまでは何があってもおまえを守ってやる。だが、アジェスとやらに会うまでだぞ。それから先はよろしくやるがよい」

ルシアは黙ってギャラハットの顔を見上げていた。

 ルシアの表情が引き締まった。真摯な面持ちだ。

 「わかりました」

 ギャラハットは内心唇を噛みしめていた。

 この強さが好きだったはずだが、今は何故かルシアに泣きだしてほしかった。泣いて、すがってほしかった。許してくれと、かき口説いてくれたなら、どんなに嬉しいだろう。

 だが、それを望めば自分の情けなさを自ら認めることになる。

 ギャラハットは自分の心を殺した。体温すら感じる間近の女の存在を忘れようとした。

 馬上ふたり、肌をすり合わせながらも心は遠く離れていた。

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