第3章 賢者の森

1.ヴェノンヴルフェンへ


 山が見えた。

 偉容であった。

 まるで大地が立ち上がったかのような、そそり立つ壁であった。

アルカルルン山脈の峰々だ。

 それは、広大なる空白地帯ヴェルノンヴルフェンへのとばぐちでもある。

 ヴェトルチカの村は、そのアルカルルンを望む丘陵地帯にある。

 地下水が湧き出ることだけが取柄で、後は何もない。牧畜と畑作だけが産業といえる貧しい村であった。

 愚者の海最北の村であると言われていた。

 ここより北は、人の住めぬ土地であると言われていた。

 冥界―――ヴェルノンヴルフェン―――に最も近い、人の住む村がヴェトルチカであった。

 しかし、実際にはヴェルノンヴルフェンはおろか、アルカルルンの山裾へ辿り着くことすらできない。

 便船がないからだ。

 行きたければ、金を使って命知らずの案内人を雇うよりほかない。

むろん、水、食料を積む馬、毛長牛、駱駝は欠かせない。

 往復にかかる日数を考えれば、それだけでも莫大な費用がかかってしまう。

誰もそんなことはしない。

 世界の果てには何もない。あるのはただ土と空気だけであろう。

 好きこのんで、無為を求めて命と財産を危険に晒す者はいない。

 だから、老いた差配人は、男の依頼に目を丸くしたのだ。

 「本気かね、あんた」

 と、半ば相手の正気を疑ったのも無理はない。

 静かに諾いた男の顔を、差配人はじっと見つめた。

狂人ではなさそうだ、とは見て取った。無謀な冒険に身を焦がすという年頃でもない。世間並なら、もう子供の一人や二人いてもよい年頃である。歳相応の落ち着きもあった。

 しかし、まともではあるまい。

 なぜならば、ヴェルノンヴルフェンに行きたいと言ったからだ。

 「ヴェルノンヴルフェンへの便船はないよ。あんな地の果てに行ってどうしようってのかい?」

差配人は最初そう言って男を追い払いにかかった。

だが、男は静かな態度を崩さなかった。

 「便船がないのはわかっている。この土地の地理、伝承に詳しい案内人を一人世話して欲しい。あと、馬を三頭だ」

 「酔狂なお人じゃな」

 差配人は軽くため息をついた。

 差配人というのは、文字通り人や物の手配りをする。だが、ヴェトルチカのような小さな村では、差配人もそれだけで食えるというわけではない。この老人も家畜と畑を持っていた。むしろ、その方が本職であった。差配の仕事は、ごく稀に村に寄港する船や隊商を相手に小遣い稼ぎをしているようなものであった。

しかし、それにしても、ヴェルノンヴルフェンに行きたがる人間などは初めて見た。

差配人も、この土地で生まれ育ちながらもヴェルノンヴルフェンへ行ったことはなかったし、その必要も認めなかった。

 禁忌の土地であった。立ち入る者には神罰が下ると言われていた。滅びた神々と死者の霊が住まうところであるとされていた。

 だが、差配人はそんなものは迷信であろうと考えていた。ただ、そこには山があるだけだ、と思っていた。それも、雲を突き抜ける高い山だ。何もありはしない。愚か者の海よりもはるかに過酷な気候があるだけに違いない。

 「残念だが、あんたを案内できる者などおらんよ。わしとても、アルカルルンの山裾へまれに行くことがあるくらいだ。その奥となっては、もう誰も知るまい」

「ならば、馬だけでもいい。馬がなければ驢馬でも構わない」

 「売るのはいいともさ。だが、悪いことは言わん。引き返した方がよい」

辛抱強く、差配人は言った。アルカルルンの峰を越えることなどできるはずもない。とてつもない絶壁に、激変する天候。とても人間の赴くところではない。

 「おれはヴェルノンヴルフェンに行かねばならない。どんなことがあっても、だ」

 男は強靭な意志を漲らせていた。といって、気負っている風はない。

 差配人は、折れた。

「わしの孫を連れて行くがよい。わしと一緒に何度かアルカルルンまでは行っておる。まだ子供だが、気候を読むことと眼の良さは折り紙つきだ。ま、わしよりかはあんたの役に立つだろう」

 と言って、孫を呼んだ。

 孫はラナスといった。伝承にある預言者ラナスから取ったものだという。十二、三歳の利発そうな少年であった。

男はその日のうちに、食料と水、馬の飼料を手に入れ、差配人から購った驢馬にそれらを積み込んだ。

 夜、出発した。

月が出ていた。その月を頼りに、夜通し進もうというのである。

 男とラナスはそれぞれ驢馬に乗っていた。あとの一頭には荷を満載している。

長い旅に備えての旅装であった。



ラナスは、客である男が最初は怖かった。

 滅多にしゃべらない。笑うこともない。

 しばらくは、名前すら知らなかった。

 旅だってから十日余りが経ち、ようやく男がアジェスという名前であることを知った。

 アジェスは根っからの旅人のようであった。

 隊商にいたこともあるのではないか、と思った。

 夕方に出発し、夜通し歩き、明け切ってから休む。

 日中の暑熱の中は行こうとしない。驢馬と人の体力を極力温存させようとしていた。

 それが、愚者の海を船を使わずに渡る際の常法であることをラナスは知った。

 「お客さんは、海のことに詳しいんだね」

 夕刻、地平線に沈むパーセルニオを左面に受けながら、ラナスは訊いた。

 ふたり、驢馬を並べて歩いている。

 「お客さんはよせ。アジェスと呼べ」

アジェスは前を真っ直ぐに向いたまま、訂正した。

 「隊商にいたことがあるの? アジェス」

 このあたり、物怖じしないラナスである。

 アジェスは薄く笑みを浮かばせながら、ああ、と諾いた。

 「隊商にもいたし、船にも乗っていた。だが、それはみな昔のことだ」

 「でも、アジェスはまだ若いんでしょ? おれの親父よりもずっと」

 「当然だ。おれにお前くらいの子供いて、どうする」

 「アジェスは結婚していないんだろ?」

 どんどんラナスの言葉がぞんざいになっている。馴染み始めた証拠であった。

 アジェスにはラナスをとがめるような様子はまったくない。

ただ、苦笑していた。

 ラナスは、そんなアジェスを面白そうに見ている。

 「やっぱり独りか。そんな感じがしていたんだ」

 「そんな感じって、どんなのだ」

 「そりゃあさ……なんてのか……かっこいいんだよ」

 ラナスくらいの歳頃の少年から見て、結婚している大人の男というのはつまらない。父親と同じように見えてしまうのだ。

 その点、独身の大人の男は違って見える。自由に、己の心の赴くままに生きているように見える。

 「別に、好きで独りでいるわけではないぞ。ただな、おれはどうやらひとつところに落ち着いてはいられない性分らしい」

 「ヴェルノンヴルフェンに行きたがるくらいだもんな」

 「そうだな」

 アジェスは仕方なく笑った。

 「ところで、ラナスはヴェルノンヴルフェンを見たことはないのか」

 「ないよ」

 あっさりと少年は答えた。

 「だけど、伝承は知っている。ばあちゃんが昔話が好きでさ。おれにラナスっていう名前をつけたのも、おれを吟遊詩人にしたかったからなんだって。もっとも、二年前に死んじまったけど」

 「預言者ラナスか……吟遊詩人の神様だものな」

 「うん、だから、ヴェルノンヴルフェンの話もよく聞かされたよ。アングロイア―――清浄の七日間―――の話も」

 「ひとつ聞かせてもらおうか。預言者ラナス殿の名調子を」

 「いいよ。そのかわり、お代はいただくぜ」

「始めてくれ」

ラナスは驢馬の背に揺られながら、語り始めた。

 むかしむかし、この惑星が緑豊かであった頃の物語を。



2.白虎王


 かつて、リュウがいまだテルオッグの軛に繋がれていた頃、惑星エリーゴンは緑に溢れ、大地には豊かに水が流れ、日差しは柔らかだった。

 エリーゴンは七人の王によって統べられていた。

といって、治世が安定していたわけではなく、七人の王は互いに争い、その版図の拡大を競いあっていた。

 だが、その争いのさなかに、神界より女神が降ってきた。女神は七人の王に告げた。

 恐るべき魔王が現れ、神界を侵し、神々の血で祭壇を濡らしたと。

 そして魔王は、次にはこのエリーゴンを襲うであろうと。

 今すぐ戦いをやめ、魔王の襲来に備えねばならぬと。

 七人の王は女神の言葉を聞き入れ、互いに同盟を組んだ。この時より、この七人の王は七賢王と呼ばれるようになった。

 女神の予言の通り、魔王は魔神像を引き連れ、エリーゴンを襲った。

 魔王の軍勢は強く、エリーゴン同盟軍をさんざんに打ち破った。

 エリーゴンは魔王軍に蹂躙されるかに思われた。

 そこに、幾人かの英雄が現われた。

 不敗の英雄王ルーサン・アルト。

 二つ名を持つ勇将アシュビン・マーダ。

 そして、眉やさし白虎将軍シャラール・アリアラード。

 彼らは女神の助力を受けつつ、魔王軍を押し返した。

 ついには、魔王軍を撃退したのであった。

 だが、魔王は断末魔の苦しみの中でリュウの封印を解き、惑星エリーゴンを不毛の大地にしてしまった。

 この恐るべき戦いがアングロイア―――清浄の七日間―――と呼ばれる聖戦であった。

 「白虎将軍シャラールは白虎王となり、この地を治めた。この愚者の海の北半分は、昔はラーディゴストと呼ばれていたんだって。そのすべてを白虎王は征服したというよ。そして、白虎王を祝福した女神が初めて降り立ったのが、ヴェルノンヴルフェンさ。そこには、今でも女神の末裔たちが暮らしているというんだ」

 「たいしたものだ。これで飯が食えるな」

 とアジェスは褒めた。

 嬉しそうにラナスは鼻の辺りを手の甲で擦った。

「ときにラナス、緑の海……あるいは賢者の森の話を知らないか」

 さりげなく、アジェスは切り出した。

 「緑の海? 賢者? なんだい、それ」

 怪訝そうにラナスは聞いた。

 「知らないなら、いい」

 アジェスはそれきり、その話題を避けた。

 ヴェルノンヴルフェンに近い、この土地でも、やはり誰も緑の海のことを知らないようであった。

だが、緑の海が実在するとしたら、それはヴェルノンヴルフェンにあるに違いない。

 他の土地は、まがりなりにも陸船が走り、隊商が往きもする。苛烈ではあったが、既知の大地であった。

明らかになっていないのは、この大陸ではヴェルノンヴルフェンだけなのだ。

 ダン・ラズロの航海のこともある。

 シフォンの町でクランベイルから聞き出した情報が、アジェスをヴェトルチカに向かわせたのだ。

 あの時―――ルシアをリクスヴァ号に委ね、アジェスはクランベイルの元に直接乗り込んだ。

 あまりに堂々とした態度に、かえってクランベイルは気圧されたのか、意外に紳士的に応対した。

 ルシアがリクスヴァ号に乗ってシフォンを脱出したことはクランベイルも悟っていた。

 「追うつもりはない。安心するがよい」

 クランベイルはそう言った。不思議と安堵したような表情であった。

 「あの娘のことについては、もうなかったことにしたい。正直言って、ダンの娘の世話をすることはわしにとっては昔の罪の償いをさせられているようで、心穏やかではなかったのだ。自分が咎人のように思われてな。だが、これで肩の荷も下りた気がする」

 「罪……か。ダンはいったい、どこへ行き、そして何を運んでいたんだ?」

 アジェスの問いに、クランベイルは、かすかに首を振った。

「正直にいうと、わしもよくはわからんのだ。わしも単に船を貸していたに過ぎないのだから。ただ、若干の商いはした。あんたが見抜いたとおり、煙草の葉や干し果、工芸品を買っていた。かわりに、織物やら食器、雑貨を持って行った。やつらは通貨を持っていないからな」

 「やつらとは、何者だ?」

 「原住民だ。ヴェルノンヴルフェンに住んでいる」

 「やはり、そうか……」

 呟くなりアジェスは絶句した。半ば予想はしていたとはいえ、やはり事実と知れば衝撃はある。

 「ほとんど誰にも知られていない。わしとて、この仕事を始めるまでは知らなかった。やつらは、ほんの時たま、山を下りる。そして、わしらの船と物々交換をしてまた山に戻るらしい」

アジェスは、つ、と顔を上げ、どうしても聞きたかった質問をクランベイルにぶつけた。

 「ダン・ラズロの船が戻らなかったのは、なぜだ」

 クランベイルの顔が恐怖に歪んだ。

 「わからん。わしは知らん」

 「なぜだ。船を失うということは、おまえにとっても痛手であったはずだ。調査はしたはずだ」

 「雇主がすべてを処理したのだ。船の弁償もしてもらった。もう済んだ話だ」

 「済んだ話だと……?」

 アジェスの声が珍しく怒気を帯びた。

 「じゃあ、ダンの家族にした仕打ちはなんだ! それも済んだ話だと言うつもりか!?」

 「……」

 クランベイルは黙った。息が荒い。

 「雇主とは、何者なんだ」

 アジェスは質問を変えた。眼の前の貧相な男が、すべての元凶であるとは思えなかった。もっと大きな力が働いているとしか思えない。

 「それは……言えぬ」

 苦しそうにクランベイルは言った。

 「なぜだ」

 「あんた、ヴィネルタの無敵艦隊を知っているかね」

 突然にクランベイルは話題を転じた。

 「ヴィネルタの艦隊は強い強いと言われておる。だが、実際のところはどうであろう。愚者の海最強の国家はヴィネルタ……すなわち連合国家アジェンタであろうか」

 「何の話をしている」

 「聞け。愚者の海に三つの強者ありき、と吟遊詩人も歌うではないか。一にルヴィアン、二にディーバーン、そして新興のアジェンタ、と。愚者の海では土地を取り合って戦争をする馬鹿者はいない。土地など、ほら、腐るほど余っているのだからな。重要なのは航路の確保だ。航路を押さえれば、富は向こうから転がり込んでくるのだ」

 クランベイルは憑かれたように喋っている。まるで、恐怖に衝き動かされているかのようだ。目が血走っている。

 「最近の船乗りの風説にあるであろう、ルヴィアンの凋落ぶりが。かつては殷賑を極め、不夜城と呼ばれた砂上の王宮が、今や衰え果てようとしている。これは、愚者の海の交易が北部中心に移ったためだ。それは、アジェンタの隆盛による部分が大きい。ルヴィアンとしては面白かろうはずもない。だが、今更大艦隊を作ろうにも、セラミック成形の技術は失われ、金属では斥力発生機でも持ち上がらないほどに重くなってしまう。いずれにせよ、衰えた国威を盛り返すに足りる船を造る材料がない。あせっているのであろうよな」

 アジェスの頬が締まった。

 「ルヴィアンが動いているというのか……しかし、なぜ」

はっ、とアジェスは首を巡らせた。

 幽鬼のような顔貌が空に浮いていた。

 ディンゴのどす黒い顔であった。

 いつの間にか、アジェスの背後に潜んでいたのだ。

 手には、ナイフが握られている。

 先ほどの屈辱を忘れられないらしい。

 ルシアを手込めにしようとしていた現場に踏み込まれ、犬を追い払うようにして一蹴されたのだ。情けなくも下半身を露出した状態で、味方が乱入して来るまで惚けていた。その無様な姿を仲間に見られていた。渡世人の端くれであるディンゴとしては死活問題であった。アジェスを殺さなければ、面子が立たない。

 必殺の一撃をディンゴは出した。

 間合いが近すぎた。よけるのに充分な空間もなかった。

 ナイフは深々とアジェスの背中に突き立った。

 が、瞬間、身を捩っていた。

 それが、辛うじてナイフの侵入を逸せた。

 ナイフは斜めに刺さって、肋骨に当たった。

 「ディンゴ、よせ!」

 クランベイルが叫んでいた。

 ディンゴの顔に動揺が走った。なぜ、止められたのかがわからない。

 大きく崩折れたアジェスにとどめを刺そうとしたディンゴの動きが止まった。

 「わしの部屋で人死にを出す気か!?」

よそで殺せ、と言いたいのであろう。

 アジェスは猛然と立ち上がった。

 拳をディンゴの顔面に叩き込んだ。

 黒い血を鼻孔から噴出させながら、ディンゴは吹っ飛んだ。

 壁に背中から激突する。

その拍子にナイフが背中から抜け、猛烈に出血し始めた。

 「クランベイル!」

 振り返った形相は凄まじい。

 クランベイルは椅子にしがみついた。

 「わ、わしが命じたことではない。ディンゴのやつめが勝手に……」

 「ヴェルノンヴルフェンへの航路を教えろ。原住民との交合地点もだ」

 「わ……わかった」

 「早くしろ!」

 アジェスは、クランベイルの胸ぐらを掴んで立たせた。

 クランベイルの足は弱い。辛うじて立ち上がった。

ディンゴは、血の泡を吹いていた。痩せた頬がひくひくと痙攣している。完全に失神していた。



 アジェスはクランベイルからヴェルノンヴルフェンへの航路図を手にいれた。

 航路図とは言っても、ダン・ラズロの手書きのスケッチに過ぎない。アルカルルンの峰の形を描きとめ、それに方角やら細かな地形に関する注意事項を書付けた程度のものだ。だが、さすがに腕利きの船乗りが書いたものらしく、アジェスが見ると、その光景がありありと目の前に浮かぶほどの写実性を帯びていた。

 クランベイルの手元には、その程度の資料しか残っていなかった。細かな航海図や航海日誌はすべて雇い主が押収していた。積荷の内容さえ、クランベイルは知らされていなかった。荷にはすべて厳重な梱包がなされ、非常に重いものであったとしかわからない。

 雇主はやはりルヴィアン王宮であった。なぜに名だたる海商国ルヴィアンが自国の船を使わず、こんな辺境の船主に仕事を依頼したのかは判然としない。おそらくは、ルヴィアン本国においても機密扱いの交易だったからではないのか、とクランベイルは言った。

 その仕事は年に一度と決まっており、つい最近まで続いていたというが、前回の仕事で契約が切れた、ということであった。

 もう、ヴェルノンヴルフェンへの船は出せない。ヴェルノンヴルフェンとの私的な交易は厳重に釘を刺されている。もしも、ルヴィアンに無断でヴェルノンヴルフェンに船を出したことがばれれば、ルヴィアン王宮の暗殺者(アサッシン)につけ狙われることになってしまう。

 ルヴィアンは、南方の富国であり、その歴史は長い。ルヴィアンの貴族はいつの頃からか殺人術に優れた者たちを飼い慣らし、その政敵を屠るのに利用していた。ルヴィアンのアサッシンの標的になって、半月生き延びられる者はいない、と言われていた。

 おそらくはクランベイルも、アサッシンにつけ狙われているのではないか、という恐怖感に常に苛まれていたのであろう。ダン・ラズロの遭難も、事によるとアサッシンの暗躍と関わりがあるのかもしれない。

 だが、その確証はなく、調べるにしてもルヴィアンの貴族とアサッシンたちを相手に戦いを挑めるほどの力はアジェスにはなかった。

 アジェスは緑の海を捜す旅を再開するしかなかった。

 シフォンの町を出発した。



  3.アルカルルン


 いま、アジェスはアルカルルンを仰ぎ見れる場所まで来た。

 愚者の海の最北端である。

 道は、アルカルルンの峰々に続く山地にかかっていた。

 山地はなだらかに見える。だが、それは前方のアルカルルンと比較した時の印象であって、傾斜はなかなかに厳しい。

 「今日はこの辺りで休もう」

 アジェスは言った。

 「どうして? 今日はまだあまりすすんでいないよ」

 ラナスは空を仰いだ。パーセルニオは沈み、今はリュウだけが空にある。かなり薄暗いが、進むことはできる。だいたい、それまでは、まったくの闇夜の中を旅してきたのだ。身体もそのリズムに慣れてしまっていた。

 「見も知らぬ山を夜行くわけにはいかんさ」

 アジェスは軽く笑った。

 「今日は早めに休んで、明日に備えよう。これからは辛いぞ。暑さと傾斜に耐えねばならないからな」

 「じゃあ、おれ、場所を捜すね」

 ラナスは言い、天幕を張るに向いた地形を捜し始めた。

 


陽が完全に落ちた。

 日射がなくなると、突然に気温が下がる。

 アジェスたちは地面がやや落ち窪んだ場所を見つけ、そこに天幕を立てた。驢馬はそのすぐ側で休ませた。

油を染み込ませた芯に火をつけ、それをわずかに空気が通る函に入れたものをそれぞれが抱いて横たわった。

 このようなもので暖を取らなければ、とてもではないが夜を越せない。

 ラナスはすぐに寝息を立て始めた。アジェスに身を寄せるようにしている。

 アジェスは眼を開いていた。

ヴェルノンヴルフェンの近くに居る。そのことが、アジェスの血を騒がせていた。

 まだ、ヴェルノンヴルフェンは遠い。まず、アルカルルンまでの山地を通らねばならず、その後にはアルカルルン山脈越えにかからねばならない。この山脈越えは非常に厳しい旅になるであろう。アジェスは以前に山登りの経験もあったが、しかし、アルカルルン級の登攀となるとほとんど素人に近い。

 そのアルカルルン越えが成功したとしても、それから先はまったく見えない。ヴェルノンヴルフェンの地形、気候はまったく知られておらず、そこに住むらしい人々のこともまったく謎に包まれている。

 だが、ヴェルノンヴルフェンに入れば道は開けるはずだ、という確信がアジェスにはあった。

 もっとも、緑の海の手がかりを見つけた、と思った時にはいつもそう感じるのだが。



 風の鳴る音が聞こえていた。

 その音を聞きながら、アジェスはまどろみはじめていた。

 と。

重い音が混じった。

アジェスの意識が冴えた。

 構造材の軋み。

 舵の地面を削る音。

 向い風に対して間切りつつ、すなわち、斜めに風を受けながら頻繁に方向を転換することで向い風の中を遡る航法をとっている船がある。

 そのことがわかった。

 アジェスはそっと身を起こした。

 天幕から身体を出した。頭は出し過ぎないように気を配っている。アジェスは闇の中に眼を凝らした。月は辛うじて雲間から光を漏らしている。

 動いている。

マストは二本、そう大型の船ではない。

 よくある型の商船であるように見える。

 だが、こんな辺境に商業航路はない。

 アジェスの鼓動が速まった。

 クランベイルの話を思いだしていた。

 「アジェス……?」

 ラナスが天幕を這い出してきた。眠そうな声で訊く。

 「頭を出すなよ」

 低く、アジェスは言った。

 ラナスは訝しそうにアジェスを見上げた。そのラナスにアジェスは数百メートル先を進む陸船を指さした。

 「おれたちはついているぞ。格好の道案内だ」

 「道案内?」

 「見えないか、船が走っているだろう。あれは、ヴェルノンヴルフェンの原住民と交易するための船だ」

 言いつつも、アジェスは出発の支度を始めた。

 「天幕は捨てて置け、片づける間はない」

 「うん」

 ラナスは弾かれたように立ち上がり、驢馬の綱を杭から外す作業を始めた。

 「見失わないよう、追うぞ」

 陸船は既にアジェスたちの前を通過し、アルカルルンに向けて進んでいた。

アジェスは驢馬に飛び乗った。

 ラナスも驢馬の背によじのぼる。

 陸船を追った。



 船は、アルカルルンから吹き降ろす風をうまく捕らえては風の中を上り続けていた。

 逆風であるから、帆と舵をうまく操作してジグザグに進まねば、風に押し流されてしまう。

 その船の操船手は上手に立ち回っていた。

 船は時に大きく傾ぎながらもアルカルルンの黒い峰々に向かっていた。

 それにしても、その船。

 声がなかった。

 ふつう、船の甲板上とは怒号が飛び交うものだ。船将の指示を航海士が受け、その指示を帆や舵を扱う下級水夫たちに伝えるために、多くは肉声を使う。むろん、高度な内容を含む言葉は避け、わかりやすい符丁を使うようになっているが、それにしても、全体行動を統御するためには音声による通信は不可欠であった。

 だが、この船については声がない。

 甲板には通常の船と同様、七、八人の乗組員が出ている。そのそれぞれが沈黙しているのだ。

 指示は出ている。

 船橋には一人、長身の影がある。

 この男が船将、もしくはそれに準じる者であることはわかる。

 風の向きを感知しながら、帆と舵の操作を統御している。

 その指示の出し方が尋常ではない。

 指をわずかに動かすだけなのだ。

 それだけで充分意が伝わるらしく、男が指を動かす度に船の進路が変わり、帆の向きが微妙に変化する。

甲板の上は闇に近い。わずかに獣脂ランプが要所にともっているだけだ。

 普通なら、歩くのも難儀な暗さだ。

 そんな状態で、わずかな指の動きがわかるというのは。

 全員、すさまじい夜目の持ち主であるらしい。



それにしてもこの船将らしき男の操船は鮮やかであった。

 異様な服装をしていた。

 灰色のマントにフードで全身をすっぽりと隠している。その下の身体の動きはまったく見えない。

 ただ、時折そのマントが割れ、細い手首が現れ、小さな、しかし複雑な動きを見せる。それが指示なのだ。

 容貌も奇異であった。

船橋の柱にともる獣脂ランプの弱々しい光に時折垣間見える顔は、完璧に無表情だ。頬骨が高く、尖った顎を持っている。眼は細くまぶたは一重だ。唇が薄いのが酷薄な印象を与えている。

 年齢がわかりにくい。若いようでもあるし、もう中年に差し掛かっているようにも思えなくもない。

 それにしても整った顔であった。眼、鼻、口の配置に寸分の歪みもなかった。まるで人形造りの匠の手になったものかとも見粉う。

 そして、甲板を見回してみると、その船将に似た顔立ちの者が多いことに驚く。

 ほとんど瓜二つといっていい者もいる。

 そして例外なく、彼らの顔立ちは整っている。

 人間の顔の造作にはふつう、多少の不揃いや歪みがある。それが人の個性となり、魅力ともなるのだが、彼らの場合はその狂いがない。精緻すぎる顔の造作であった。



 船は帆を降ろした。目的地に着いたようだ。

 斥力発生機を切り、ゆっくりと船を地面に落とす。

 舷側の扉を開き、荷下ろしが始まった。

 次々と驢馬、毛長牛などが船から降ろされ、荷を積まれていく。

 馬車もあった。

 かなり大きな規模のキャラバンが船に乗っていたのだ。

そのキャラバンの構成員も、見るところアサッシンばかりらしい。

 アジェスとラナスは息をひそめ、地面の隆起の影に身を隠して、そのさまを凝視していた。

 「アジェス、あれは……?」

 好奇心にかられて、ラナスは訊いた。

 アジェスはラナスの口を軽く手で覆い、不用意に声を出すことを戒めた。

 そして、耳元で聞こえるかどうかというような囁き声で答えた。

 「あれは、ルヴィアンのアサッシンだ。夜目も利くし、耳も獣並みに聡いぞ」

 「ええっ!?」

 ラナスは驚きの声を上げそうになった。そこは、アジェスの手がしっかりとラナスの口を押さえ、音を漏らさない。

ラナスの驚きも無理はあるまい。

 アサッシンといえば、ルヴィアン王宮の奥深くに潜み、各国の要人の命を数多く奪ってきた殺人者たちとして周知の存在であった。その恐ろしさは半ば伝説化されており、ラナスのような最果ての辺境に生まれ育った少年でさえ、その名前は知っている。

 「本当に?」

 「ああ、やつらの装束は昔見たことがある。それにしても、こんなところにアサッシンが現れるとはな」

 正直、アジェスは魂消ていた。

 ルヴィアンが密かにヴェルノンヴルフェンに船を出していることはわかっていた。自国の船は使わず、あえて辺境の港町シフォンの船を使っていたこともクランベイルからの情報で知っている。だが、クランベイルとの契約を切った後にもヴェルノンヴルフェンへの航海を継続しており、しかもアサッシンばかりの隊商を組織していたというのは、正直いって予想もしていなかった。

 アサッシンとは何者なのか、と思う。



 彼らは、古い一族であった。

 平原を渡る民であった。

 一番古くから愚者の海を往く航路を知っていたとされる。

 オアシスの位置、大地の地形、風の向き、天候の変わり目などを見事にそらんじていた。まさに愚者の海に生きる人々であった。

 愚者の海は最初、人々を容易には受け入れなかった。

 人々は不毛の地を避け、まだしも実りをもたらしてくれる海沿いの狭い土地にしがみついていた。ために、地上には土地を求めての争いが尽きなかった。

 その時代には、愚者の海にはアサッシンの先祖たちしか住んでいなかったのではないか。

 アサッシンの先祖たち―――彼らに歴史家はどういう一次名詞をも与えていない。なぜなら彼らは忘れられた民だからだ―――彼らは陸船を用い、愚者の海を突っ切ることによって、沿岸航海による通商を無意味にした。なにしろ半分以下の日数で荷を届けてしまうのだ。勝負にならない。

彼らは海運(陸の海だが)を握った。

 しかし、陸船と陸船による通商のうまみをアサッシンの先祖だけに独占させるほど、沿岸の商人も甘くはなかった。

 それに、アサッシンの先祖たちは陸船の造船術を隠さなかった。あまつさえ、その重要な材料をさえ、人々に提供したのだ。

 セラミックス・プラスティックスなどの古代の素材、帆を作るのに必要な紡績機械・機織機などの機械、そして何よりも重要な斥力発生機もだ。

 それらの多くは、彼らが「墳墓」と呼ぶ、古代の都市の遺跡から発掘されたものだった。

 アサッシンの先祖たちはこの「墳墓」を沿岸の人々に開放した。なんとも無邪気な民であった。

 その無邪気さが、結局彼らを没落させた。

 愚者の海に新しい時代が訪れた。

 沿岸の町が次々と商船隊を組織し、愚者の海に乗り出したのだ。

 帰港地となるオアシスには大規模な入植が行われた。沿岸の狭い土地に収まり切れなくなった人々は、一気に内陸の海に向かって拡散していった。

一方で、本来の愚者の海の住民であったアサッシンの先祖たちは自分の土地を失い、かつ海運の独占権をも喪失した。

 アサッシンの祖先たちは没落した。

彼らは船を失い、オアシスを追われて、流浪の民になった。

 その彼らを愚者の海の交易によって栄えたルヴィアンが抱え込んだ。まずは彼らを愚者の海の開拓者とした。彼らを抱え込んだことによってルヴィアンは他の競合国に先んじて主要航路の大半を手中にしたのであった。

 かくて、ルヴィアンは絢爛たる砂上の宝石となった。

 いつの頃からかアサッシンたちの役割が変わった。

 自由な愚者の海の民から恐怖の暗殺集団になった。

 もはや、彼らは歴史の表舞台には立ち得なくなった。

 アサッシンの名を冠せられ、忌むべき存在となったのだ。



 そのような歴史を、アジェスは体系的な知識として持っていたわけではなかった。

 だが、船乗りの風説や、各地を巡るうちに知り合った土地の古老たちから聞いた話でほぼそのようなイメージを持っていた。

 「動きだしたよ」

 ラナスが囁いた。

 アサッシンの隊商がどうやら支度を終え、動き始めたものらしい。

 船は出発の準備を続けている。こちらもほどなく帆を上げるであろう。

 「隊商のあとをつけるぞ」

 アジェスはラナスの肩を掴んでそう言った。

 彼らを追えば、ヴェルノンヴルフェンへの道が開ける、その確信があった。



           4.切所越え


 道は険阻であった。

 そして、隊商に見つからず、さりとてその姿を見失うことなく進まねばならない、という苦労もあった。

 隊商は声もなく進んでいた。

 あまりにも静かなので、後を追うには苦労が要った。

 彼らは夜目が利く。

 だが、馬や毛長牛はそうはいかない。獣のために灯火を掲げていた。

 それを頼りにして追う。

隊商に見つからないために、アジェスたちは常に隊商よりも過酷な道をとらねばならない。

 驢馬たちはよく応えてくれていた。

 それも、ラナスの馴らしかたがよかったためだろう。

 ラナスは実際、家畜の御しかたには天性のものがあった。

 「おまえはよい牛使いになれるぞ」

 感心してアジェスが褒めたほどだ。

 褒められてもラナスは喜ばなかった。

 「別に。おいらは牛使いよりもアジェスのように色々な所に行ってみたいよ」

牛使いは家業だ。畑を耕すのと変わらない、日常の労働だ。それに長けているからといって、少年は嬉しくないらしい。

 わからないでもない、自分もかつてはそうだったのだから。アジェスは複雑ながらもラナスという少年に好意の笑顔を漏らした。

だが、大半は無言での追跡行だった。

 隊商は夜通し行動した。

 慣れ切っている。

 夜の山道は、夜目がたとえ利いたとしても安全ではない。

 この地域について完璧な地理観がないと、とても道を稼げるものではない。

 同じ所をぐるぐる回って時間を浪費するのが落ちだ。

 だが、彼らは違う。横道、間道、獣道に至るまで知り尽くしている。

 だいたいにして、人里離れたこんな辺境の山奥にちゃんとした道が残っている。定期的にここを往復する者たちがいることは明白だ。

 そして、それがアサッシンの隊商であるということも。

いい加減、驢馬が息を切らした。

 やむなく、驢馬から降り、アジェスたちは小走りに隊商の明かりを追う。

 驢馬が一歩も動かなくなったら、それまでだ。

 驢馬に積んでいる水・食料、そして登山行に用いる道具の類、これらのものなしにアルカルルン踏破はできない。

 といって、アサッシンの隊商という絶好の道案内を逃す気にもなれない。

 アジェスはあせった。

 「待ってよ、アジェス。少し、休ませないと、こいつら死んでしまうよ」

 ラナスが悲鳴を上げた。

 驢馬たちはいずれも息を切らし、足がふらついている。ラナスが叱咤しないと先に進みたがらない。もう限界だ。

 「ここに残っていろ。驢馬たちと一緒にだ」

 アジェスは足を止めずに言った。

 「ここから先はおれ一人で行く」

 ラナスは驚いた。

 「そんな、荷物はどうやって運ぶのさ!? アルカルルンは凄まじい高峰なんだよ、死んじまうよ!」

 「やつらの後を追う。アルカルルンを馬で越えようというのだ、きっと決まった登攀口があるはずだ。そこならば、特に装備がなくとも越えられよう」

 アジェスの返事は簡単だった。

 ラナスはまだ納得がいかない。

 「アジェス! おいらを置いていく気かい?」

 「驢馬を放っておく気か? あいつらをこんな山中に置いて行ったら、ひからびて死んでしまうぞ」

 アジェスはにべもなく言い重ねた。

 「朝になったら山を降りて村へ帰れ。礼金は荷物の中にある」

 「ひどいぜ、アジェス! おれも行くよ!」

 ラナスは驢馬を放って、アジェスに駆け寄った。取りすがるようにする。

 「一緒に行きたいんだよ、連れていっておくれよ、アジェス」

 「よせ」

 アジェスは短く言った。暗い中だ。表情は判然としない。だが、声は冷たかった。

 「これは、おれの旅だ」

 だから、道連れは要らない、というのか。

ラナスは目の奥が熱くなるのを感じた。自分はアジェスにとっては、ただの案内人に過ぎなかったのだ。相棒ではなかった。仲間ではなかった。かねで雇ったただの小僧だ。

 どんなにあこがれても、駄目なのだ。一人でしか旅の出来ない男というものがいる。いや。

 男というものは、一人でしか旅ができない生き物なのかもしれない。

 ラナスはへたりこんだ。

 彼自身、疲労困憊していた。歩けない。

 地面にしゃがみこんで、泣いた。

 それでもアジェスは足を止めない。ほんのわずかな身の回りの荷物しか持たず、それでも行く。

 ラナスを振り返ることもしない。ただ、彼方のわずかな明かりだけを見逃すまい、としている。

 ラナスの声はすぐに聞こえなくなった。安心した。これならば、先を行く隊商には届いていないだろう、と。

 それからすぐにラナスのことを忘れた。



 ラナスは驢馬のもとに戻った。驢馬は道端に座り込んで、荒い息を収めていた。 ラナスは驢馬たちに水と餌を与えた。

 それから、膝を抱えて驢馬にもたれかかった。

 驢馬は静かにラナスの好きなようにさせている。

 驢馬に身体を預けてラナスは目を閉じた。

夜が明けたら、アジェスを追おう。

 追い付けたら、もう一度頼んでみよう。ヴェルノンヴルフェンを見たい、その気持ちを伝えよう。

 きっと、わかってくれるはずだ、と自らに言い聞かせた。

 いまだ、アジェスはラナスにとっての英雄だった。

すうすうと、ラナスは寝息を立て始めた。


 暫くの後、闇がのろり、動いた。

 驢馬ですら気がつかないほど、見事に気配は断たれていた。

闇は肉体の形をとった。

 二人いる。

 二人の影は、ラナスの寝顔を覗きこんだ。

 お互い、顔を見合わせた。

 片方が、軽く肩をすぼめるような仕草をした。



 山に入って二日め、いよいよアルカルルン越えにかかった。

 山肌にかろうじて刻まれた細い道を隊商は行く。

 馬車一台がようやく通れるだけの幅しかない。その片方は切り立った断崖だ。危険この上ない。

 アジェスにとってまずいことに、この道ではさすがに身の隠しようがなかった。

 やむなく、昼の内は隊商の取るルートを物陰から見つめつづけ、夜になってから移動した。さすがにこの難所には隊商も昼にしか移動せず、暗くなるとすぐに宿営に入ってしまうのだ。

 夜目の利くアサッシンたちでさえ避けるこの難所の夜行を、アジェスはあえて行うしかなかった。

 何度か足を踏み外しかけた。落ちれば死ぬ。アジェスは全身に冷や汗をかきつつ、進んだ。

 途中何ヶ所か、道が崩れているところがあった。昼間、隊商が難儀をしていた場所だ。覚えていなければ、あっさりと死んでいるところだった。

 距離を稼げるだけ稼いだ後、夜明けまでのわずかな間眠りを取った。

 朝からはまた隊商の監視をした。

 見つからないよう、かなり後から後をつけた。

 天候はよかった。それが救いであった。

 だが、照りつける日射は激しく、空気も薄くなっている。

 辛い行程であった。

 だが、行くしかない。

 そして、また宵闇が迫った。

 いよいよ切所となった。

アルカルルンを越える。

 やはり、隊商は最良のルートを知っていた。

 岸壁を登るための装備も不要だった。

 アジェスの足取りは軽かった。

 あっさりと峠へ出た。

 アルカルルンを越えた。

 ここより先はヴェルノンヴルフェンだ。

ついに、アジェスは人界を出た。

 冥界に入った。

 「そこまでだ」

 声がした。

 アジェスは足を止めた。

 行く手に影が湧いた。

 三つだ。

 アジェスの血が冷える。

 振り返った。

 二人、影がある。

 いつの間にか挟まれていた。

 アサッシン。

 夜を徘徊する者たち。

 甘かった。追跡していることを見抜かれていたのだ。

 闇が動いた。

 黒い光がひらめいた。刃に煤を塗り付けた暗殺用の剣だ。

 アサッシンは疾走した。

アジェスに迫る。

 


アジェスは自らの死を覚悟した。

 相手は暗殺者だ。人の死を司る死に神の化身であるとしてもよい。

 その刃を逃れられるとは思わない。

 だが、ただ座して死を待つことはできない。

 そう考えるより先に身体が動いている。

 少年の頃からそういう生き方をしてきた。死と隣り合わせの生き方だ。

 上体を沈めた。

 その頭上を敵の刃が擦過する。

 「待て、おれは敵ではない」

 かわしつつ、叫ぶ。

 背後の影が襲いかかっていた。

 「無用」

 くぐもった声が言った。

 一撃が後頭部に入った。

 意識が吹き飛ぶ。

 視界が暗くなった。

 それでもアジェスは踏ん張った。

 ヴェルノンヴルフェンに入ったのだ。緑の海のすぐ近くまで来ているのだ。

 死ねない。

 アジェスは顔を上げた。

 闇を見た。

 闇の中に双眸が浮かんでいた。

 若い顔だった。

 「眠れ」

 短く言った。

 掌が突き出された。

 アジェスの前額部を包みこんだ。

 その瞬間、どういう作用か、完全に意識が切れた。

 崩折れた。



           5.緑の海のほとりで


 揺れている。

 そういう感覚があった。

 アジェスは意識を取り戻した。

 馬が曳くらしい荷車の上に寝転んでいるようだ。

 目を開いた。

 意外に、光があった。幌が見えた。光を通している。

 激しく馬車は揺れている。道はそうとう悪いようだ。よく眠れていたものだと呆れた。

 「アジェス」

 耳元で声がした。

 首を巡らした。

 ラナスの真摯な面持ちがそこにあった。

 まだ男らしさを感じさせない顔立ちだ。輪郭が細い。

 アジェスは寝ぼけているらしい。ラナスが側にいることに違和感を持たなかった。

 「もう朝か」

 「ああ、明けたばかりだよ」

 ラナスがうなずく様を見て、脳裏が晴れていった。記憶が鮮やかに蘇る。

 「ここは……」

 アジェスは起き直ろうとして失敗した。ぶざまに荷台に身体をうちつけた。

 手足が縛められていた。鉄製の鎖に錠がかかっている。

 「……これは」

 「アサッシンの馬車だよ。おいらも昨夜捕まっちまったんだ。眠っていて、気がついたらこの上にいたんだ」

 「ラナス、おまえは縛られていないようだな」

 ラナスは片膝を立てて座っている。特に自由を封じられている風はない。

 ラナスは手をぶらぶらさせた。

 「逃げようとしても無駄だよ。やつらは人間離れしてすばやいんだ。昨夜、おいらも何度か逃げようとしたんだ。でも、全然駄目だった。あきらめたら、やつらはおいらを放っておくようになったんだ」

 「そうか。おれたちが追っていたことをやつらは気付いていたんだな。だが、なぜ」

 殺さないのか、という疑問が胸に湧いたが言葉にはしなかった。ラナスに答えられるはずもないと思ったからだ。だが。

 「やつらは、おいらたちを殺さない、と言ったよ」

 ラナスはアジェスの心を読んだかのように言い出した。

 「おいらは話したんだ。やつらの頭目と。そいつが聞いたんだ。なんのために後をつけていたのかを」

 「で、どうした?」

 ラナスは肩をすぼめた。若いと、言葉に応じて身体が動くものらしい。

 「しゃべったよ。別に隠すことはないと思ったから。アジェスのことも。だって、アジェスも捕まるなんて思わなかったもん」

 「なんと言ったんだ」

 「なにも悪いことは考えていないって。ただ、緑の海を探しているだけだって。だってそうなんだろ?」

 「それはそうだ。で、頭目は何か言ってたか?」

 「面白そうな男だな、だってさ」

 「頭目とは、どんなやつだ」

 「そうだね……なんか影の中に埋もれちまったような陰気なやつだよ。でも、意外に若かったなあ。アジェスよりもきっと年下だね」

 「ほうお」

 アジェスは無理にもたげていた頭を下ろした。とりあえず、相手に害意がないのであればそれでよしとしよう、と思った。自分一人ならともかく、今はラナスもいる。無理はできない。

 「外は見えるか?」

 「うん。でも、緑の海なんてなさそうだよ。土と岩しかないよ」

 「道は下っているようだな。どれくらい下りたか、わかるか?」

 「さあ……でも、息苦しくなくなったから、だいぶん下りたみたいだね」

 確かにそうだ。だが、行程から考えると、まだ高山帯にあることは間違いない。息が苦しくなくなったのは、身体の方が環境に適応したからだろう、とアジェスは思った。


 

 しばらく走って、馬車が停まった。

 幌が左右に開いて、男が荷台の中を覗きこんだ。

 「飯を食うか」

 それだけを訊いた。

 「ご挨拶だな」

 アジェスは笑いながら言った。

 「もう少しまともな口上はできないのか?」

 言いながら、相手を観察した。

 濃い灰色のフードを今は上げており、顔が剥き出しになっている。

 つりあがった切れ長の瞳。滑らかな肌。頬骨が高く、顎は尖っている。

 女性的な顔立ちであるといえる。目鼻立ちは完璧だ。だが、両眼は陰惨な光を湛えている。暗殺者の目だ。まったく表情がない。

 その双眸に見覚えがあった。

 「昨夜は世話になったな」

 アジェスは気安く声をかけた。昨夜、アジェスの意識を奪った男であった。

 「アジェス、やつがそうだよ、頭目だよ」

 ラナスが耳元で囁いた。

 アジェスは表情を変えずにうなずいた。

 視線はアサッシンの頭目に据えられたままだ。

 「おれはアジェス・ルアーという。ラナスから聞いただろう。あんたは?」

 アサッシンは口元をかすかに歪めただけで答えなかった。安易に他人に名前を教える暗殺者はいまい。逆に考えれば、名前を教えてもいい相手というのは、早晩殺すつもりの人間のはずだ。

 アジェスは相手が名乗らないことに、少し安堵した。

 「あんたたちはアサッシンだな。ルヴィアンの雇われ犬だろう。それがなぜ、こんな辺境に入った? 目的はなんだ?」

 探りを入れた。返答は期待していない。ただ、相手の表情の変化を読み取ろうとした。かなり危ない綱渡りだ。だが、鋼の意志を持つアサッシンであれば、簡単には逆上はすまい、という読みはあった。

 アサッシンは答えなかった。答えない代わりに、手にしていた包みをラナスに放った。

 ラナスはそれを空中で受け止めた。中身は穀物の挽き粉をこねた団子であった。彼らの常食らしい。それに少量の水の入った革袋が入っていた。

 男は荷台から立ち去った。

 「無口な男だな」

 アジェスはラナスに話し掛けた。

 「アジェスにちょっと似てるよ」

 「まさか」

 「似てるよ、何を考えているか、わからないところなんか」

 ラナスが真顔でそう言ったので、アジェスは苦笑した。

 「まあいい、飯にしよう。食わせてくれ」

 情けないが、そう頼むしかなかった。

 


 馬車の旅が続いた。その間、アジェスの縛めが解かれることはほとんどなかった。わずかに用足しの際に、監視つきで馬車から降りられるくらいだ。それにしても、アサッシンの鋭い感覚を出し抜いて脱出することは不可能事だった。

 隊商の規模は男ばかりで十五、六名というところか。頭目は例の若い男で、その他の人員もすべてアサッシンであった。年齢は結構ばらけている。かなり年配の者もいた。

 彼らの特徴は、極端に口数が少ないということであった。長い旅程の中で、ふつうは時間を持て余して、つい駄弁にふけるものだが、彼らにあっては一切無駄話というものがない。必要最少限度の単語をしか口にしない。

 したがって、アジェスはまったく彼らから情報をとることができなかった。

 「この鎖だけは、なんとかしてくれ」

 アジェスは頭目を見掛けるたびに抗議した。

 「おれは逃げない。あんたたちが緑の海に向かっているのなら、頼んででも一緒に連れていってもらいたいくらいなんだ」

 だが、返答はまったくなかった。言葉が通じていないはずはないのに、アジェスを見ようともしないのだ。恐るべき無関心さであった。

 アジェスも、ついにはあきらめざるを得なかった。



 捕らえられてから二日が過ぎた。

 所々に難所はあったが、無事に通過していた。まずまず順調な旅であった。自由を封じられているアジェスとラナスを除いては、である。

 三日目、一行は、また登りにかかった。

 傾斜はかなりある。荷台が傾いでいた。

 アジェスたちは馬車から降ろされた。馬車を押すのを手伝え、というのだ。

 ようやく、アジェスは縛めを解かれた。

 解かれたと思ったら、重労働が待っていた。

 凄まじい傾斜であった。

 そそり立つ壁にかろうじてついた道を一行は登っていた。

 馬車が二台通れるくらいの立派な道だが、いかんせん、傾斜がきつかった。

 馬も毛長牛も悲鳴を上げていた。アサッシンたちも馬を降り、かつ、馬車を押し上げる仕事に参加していた。

 アジェスも力を振り絞った。逃げることは考えなかった。今この時、アジェスに奸智があったなら、馬車を押し上げるふりをして馬に近づき、その足を蹴折って馬車を擱座させて、その隙に馬を奪って逃走すること思いついただろう。そしてそれが実行できるくらいの度胸がアジェスにはある。

 だが、アジェスは一心に働いた。汗みずくになった。

 身のこなし、動きの迅速さについてはアサッシンたちがはるかに立ち優っていたが、膂力に関してはアジェスの方が上だったらしい。アサッシンたちよりもめざましい働きをアジェスはした。

 ほう、というようにアサッシンの頭目もアジェスを見た。

 「ほら、声を出せ! 力を合わせるんだ!」

 アジェスがはっぱをかけた。

 アサッシンたちは戸惑ったような表情を浮かべた。どんな時でも無言で統率のとれた連繋を見せてきたアサッシンたちだったが、今回ばかりはいつものやり方を改めねばならないらしい。

 アジェスは掛け声を始めた。全員を引っ張るように、ゆっくりと、力強くリズムを刻む。

 最初は無言だった。だが、馬車にかかる加重が増し、馬たちの足取りが怪しくなると、人間が頑張らねばどうしようもない。

 ようやく声が出た。

 かすかだが、アサッシンたちの唇が開いたのだ。

 「ようし、あと一息だ、頑張ろう!」

 アジェスは言い、額の汗を頭を振って飛び散らせた。

 その飛沫が近くにいたラナスにかかった。

 ラナスの頬にも汗のしずくが垂れている。

 ぎりぎりと荷車の車輪が軋んでいる。方角が狂えば、あっさりと崖下に荷車は落ちてしまいそうだ。

 高い。

 下を見ると、茶色と灰色の峡谷が絵画のように広がっている。その景色はまるで果てしもなく続いているかのようにラナスには思える。今まで馬車であの光景の中を旅してきたのだ、とはとても思えない。

 もう、故郷は遠い。だが、ラナスは故郷を忘れていた。

 帰れないかもしれない、とはラナスは思っていない。ただ今は、このとてつもない冒険に胸躍らせていた。

 だが、その旅の目的地も近い。ラナスは悟っていた。

 アサッシンたちが今は声を張り上げて、アジェスと一緒に力を絞っている。

 その声は旅の終わりが近いことを告げていた。

 ラナスも声を上げ、精一杯に押した。

 押して、押して、力が抜けた。

 それまでかかっていた重さが、すうっ、と消えたのだ。

 歓声が上がった。アサッシンたちの口からだ。

 ラナスは顔を上げた。汗が目に入って、目がなかなか開かない。

 傍らのアジェスを見上げた。

 アジェスは無言で立っていた。

 茫然としているように思えた。

 「どうしたの、アジェス」

 声をかけた。

 アジェスはぽかんと口を開いて、一点を凝視していた。

 ラナスは荷車の影から出た。アジェスの見ているものを探した。

 「あ……」

 言葉を忘れた。

 ラナスの脳が白く焼けていく。

 視界が開けていた。峠を越えたのだ。それも、最後の峠を。

 靄が大地を覆っていた。

 白くたなびく靄が見渡す限りに続いている。

 そこは、広大な盆地であった。遠く遠く、霞むほど遠い彼方に、やはり高い峰々が見える。摺鉢状の広大な土地のようであった。

 空がとてつもなく蒼い。その蒼さに負けない碧が大地を覆っていた。

 「緑の海……」

 ラナスがようやく言葉にしたその光景は、傍らのアジェスが追い求めていたものであった。

 「やっと……見た」

 ぽつり、つぶやいたアジェスの表情は惚けていた。

 しばし、立ち尽くした。

 

 

          6.密林の奇襲


 アサッシンたちの一行の足取りが軽くなっていた。

 明らかに、先程までの無気味な暗殺集団とは違っていた。

 安気な様子が見えていた。普通の隊商よりも、もっと砕けた雰囲気になっていた。

 アジェスとラナスも馬車を降りて歩いていた。

 初めて見る光景であった。

 植物に満ちた世界であった。

 木がある。それも群生していた。

 彼らが知る「木」とは、人間が精妙に心配りをして、ようやく生き延びさせることができる「宝物」だった。自生している木など存在しなかった。その他の植物も、すべて稀少品であり、人間の手によって管理されなければ数日ともたなかった。

 風が種を孕まなくなったからである。大昔には更地を放っておくと、いつの間にか植物が芽吹いたというが、現在では想像すらできない。更地はいつまで待っても剥き出しの地表に過ぎず、雨が降っても、そこに水たまりができるだけの話だ。その水もすぐに大地に吸収されるか蒸発してしまう。

 大地は死んでいる。その不毛の大地の代表が愚者の海だ。

 その愚者の海から来たアジェスたちから見て、この光景は不可解であった。なぜ、こうも植物が存在しているのかがわからない。

 道すらが、雑草によって塞がれそうになっている。

 雑草。

 アジェスの知る世界には、雑草などはありえない。穀物と野菜と果実とそして鑑賞用の植物しかない。すべて人間によって種が管理されているものだ。

 名付けることすらできないほどの種類の草があり、それらが生き生きと繁茂している。

 そして、見上げれば、空をすら隠してしまいそうなほど木々の枝が張り出している。

 不思議な香りがする。身体が寛ぐような安らぎがある。

 「これが森だ」

 頭目が短い言葉で教えてくれた。アジェスはその言葉を口の中で反芻した。

 「もり」

 懐かしい響きがある。

 「なぜだろう」

 アジェスは首をひねった。見たこともない世界を意味する言葉なのだ。懐かしいはずがない。

 「こんなにたくさん木があるところ、絵でも見たことないや。どんな大金持ちの屋敷だって、こんなにはないよね」

 ラナスがはしゃいで言った。

 「ここはまだ森の外縁部だ。奥に行けば、もっと木々の密度は高い。足元も見えにくくなる」

 頭目がそう教えた。

 ラナスの目が丸くなった。

 「どこへ向かっているんだ」

 アジェスはようやくと頭目に目を向けた。今まで、この光景に心を奪われていて失念していたが、アサッシンたちの目的やその背景についての疑問はまだ晴れていない。そも、アジェスとラナスが彼らの囚人であるという事実はどうなったのか。

 「故郷(くに)だ。おれたちの」

 「故郷、だと」

 「そうだ。この森がおれたちのふるさとだ。賢者の森、などと呼んでいる」

 「賢者の森……か」

 辺境の船乗りたちが伝説として語り伝えた黄金郷に、ついにアジェスは来たのだ。

 「だが、アサッシンたちの故郷がヴェルノンヴルフェンにあるなどとは、聞いたことがなかったぞ」

 アジェスは現実に自分を引き戻し、問うた。流浪の民、時代が下がっては恐るべき暗殺集団となった彼らは、もともと愚者の海を往来する家なき人々ではなかったか。

 「むろん、完全な意味での故郷というわけではない。おれも、ここにいる連中も、生まれはみなルヴィアンだ」

 頭目はいささかも感情の覗かない声で言葉を続けた。

 「だが、おれたちの祖先はこの地に暮らしていた。しかし、ある時を境にこの地を離れ、愚者の海に散らばっていったのだ。つまり、故郷を追われたのだな」

 「追われた……・?」

 アジェスは重ねて問おうとした。だが、頭目は口をつぐんだ。これ以上答えるつもりはないらしい。この男が黙ったからには梃子でもしゃべらないことを、アジェスもこの幾日かの経験でわかっていた。

 道は細く、かすかであった。

 森に深く入り込むにつれ、陽は翳り、道はうねった。

 鳥がやかましいほどに鳴く。

 かすかに、動物の鳴き声らしいものも聞こえる。

 「ここには色々な獣が住んでいるらしいね」

 ラナスはアジェスに話し掛けた。アジェスが寡黙になったのを気遣っているらしい。

 アジェスはそれを悟り、少しおどけて見せた。

 「こんな視界のよくない森の中で、人食い豹でも出たらどうする?」

 だが、ラナスにはアジェスの脅かしは通じなかった。

 「大丈夫だよ。なにしろ、おいらたちはアサッシンたちと一緒なんだ。これだけの数のアサッシンを相手にできるのは、完全装備した一個大隊の軍隊くらいなものさ」

 胸を張って、そう言う。

 アジェスは苦笑した。自分たちを虜囚にしているやつらをボディガードのように感じているのだ。子供の心というのは妙なものだと思う。

 アジェスはラナスとの戯れ言につきあってやることにした。こういう暇潰しでもしないと、単調な道行きは耐えられない。もっとも、アサッシンは平気なようだが。

 「一個大隊か……しかしな、これだけ遮蔽物があれば、もっと小数の兵士でもうまく戦えるものだぞ。特に、奇襲をかける場合はな」

 たとえば、というようにアジェスは行く手の大きな木を指差した。

 「あの大きな枝の上に射手を忍ばせて、一行が通過する瞬間を狙って矢を射れば、簡単に隊列を崩すことができる。後は要所に伏せさせた小隊で、惑乱した敵を切り伏せれば済む」

 と、単純な戦術講義をラナス相手にぶっていた時だ。

 その木の枝から、本当に矢が射出された。



 「ラナス、伏せろ!」

 アジェスはラナスを突き飛ばした。矢はアジェスの右肩をかすめ、後方に消えた。

 アサッシンたちは既に行動を起こしていた。

 左右に展開していた。

 無言だ。すさまじく統率の取れた動きだ。

 アジェスも身体を沈め、射手の狙いから自分の姿を隠そうと試みながら、先程の戦術講義を訂正したくなった。

 アサッシン相手に際しては、奇襲もそう有効な攻撃手段ではない、と。

 アサッシンたちは見事なまでに気配を断っている。すぐ側にいるはずなのに、アジェスにもその位置がまったくわからない。

 アジェスは頭目の姿を探したが、ただ背の高い雑草がそこかしこで揺れているだけで、人影はまったく見えない。

 矢が飛来した。

 草むらに手当たり次第に射込んでいる。その手際の不味さから、射手はアサッシンたちの動きをまったく掴み切れていないようだ。

 射手の狙いが何なのかは判然としない。まだ、敵か味方かもわからない。だが、アジェスが少しでも動いたら最後、必殺の矢がアジェスめがけて飛んでくることだけは間違いない。

 動けない。

 ねばい汗がアジェスの額に浮かんでいた。



 ラナスも草むらに身を隠していた。

 ラナスも事態は理解していた。襲撃を受けていることはわかっている。だが、自分の行動を決定するまでは場馴れしていない。

 すぐにでもアジェスと合流したかった。すぐ近くにいるはずなのだ。

 中腰になって、アジェスを探そうとした。

 それが間違いだった。だが、無理からぬことではあった。

 草むらから上体を起こした姿が樹上の射手に晒された。

 矢が放たれた。

 射手は一人ではない。複数。それぞれ、違った角度から射られる。

 ラナスの喉、胸、腹に矢が吸い込まれる。



 アジェスはラナスが動いたのを感じた。血が冷えた。

 顔を上げた。周囲の木々から異様な殺気がほとばしるのを感じた。

 跳んだ。

 夢中で叫んでいた。

 ラナスの身体が吹き飛んだ。

 ラナスは背中から地面に落ちた。だが、草がクッションになっている。

 起き直った。

 「アジェス!」

 叫んでいた。

 アジェスの背中と肩にそれぞれ一本ずつ矢が刺さっていた。もう一本は、アジェスの側頭部をかすめて外れたらしい。

 間一髪、アジェスが飛び出してラナスを救ったのだ。

 ラナスは射手の存在を忘れて、アジェスに取りすがった。

 そのラナスに、樹上の射手たちは弓を構えて、戸惑った。ラナスが子供だとわかったらしい。

 と、その戸惑いにつけこんで、影が走った。

 射手の首に細い革紐が巻き付いた。

 あっと思う間もなく、射手たちは枝から落下した。

 別々の木から、三人とも同時にだ。

 地面に叩きつけられた。

 首の骨が折れるいやな音がした。

 三人の射手は死体になっていた。

 その側にそれぞれひとりずつアサッシンが立っている。無表情だ。森に入った際の安気さは、今はその顔には微塵もない。殺人に対する昂ぶりもない。醒め切っていた。

 「もうおしまいか、ソフィア」

 森の奥に向かって、そう声を上げたのは頭目であった。

 声には嘲弄の響きが含まれていた。

 森の奥から、武装した一団が現れた。これが本隊であろう。図らずも、アジェスが述べたのと同じ作戦を展開しようとしていたものらしい。

 ところが、皮肉なことに、そのアジェスがスケープゴートになって、アサッシンたちは敵の奇襲から免れた形になった。

 武装集団には、既に戦意がなかった。武器を構えている者はいない。

 彼らの容貌も、アサッシンたちに似ていた。むしろ、その形質が強調されていた。すなわち、切れ長の一重まぶた、なめらかな肌、黒い髪に瞳、高い頬骨、などだ。そして、その顔つきは、みんなどことなく似通っている。

 彼らは草の繊維を編んだらしい軽快な服の上に、革製の防具を着けていた。装備は長めのナイフと、小型の弓。いかにも猟に使いそうな品で、戦闘専用というわけではなさそうだ。

 武装集団の列が割れ、一人の少女が現れた。

 十三、四のまだ稚なさの残る少女だ。樹皮をほぐして作った繊維で編んだ服を着ている。つつましやかだが、その立居振舞が優雅なので、不思議な威厳を感じさせる。

 この娘だけは、他の人々と顔立ちが違う。二重まぶたで瞳が大きい。しかし、漆黒の長い髪とその顔立ちの秀麗さは、アサッシンたちにも通じるものがある。

 だが、アサッシンたちとは決定的な違いがこの少女にはある。

 瞳が悲しみに濡れていた。

 肩が細かく震えていた。悲しみに必死に耐えているのだ。

 「殺したのですね」

 稚なさを感じさせないおとなの口調だった。外見からは予想できないほどに、少女の精神は完成されているのだろう。

 「三人も……なんて恐ろしい」

 「子供を射ろうとした報いだ」

 頭目は意地悪く言った。顎でラナスを指し示した。ラナスは必死でアジェスを介抱している。

 少女は苦しげにラナスとアジェスを見た。

 だが、頭目には、毅然とした表情を向けた。

 「こんな罠を張ったのは確かに卑劣だったと思います。でも、あなたたちは人殺しを生業にしています。こういう手段でも使わねば、わたしたちに勝ち目はありませんでした」

 「そうかい。だが、この子供も射殺された男もおれたちの仲間ではないぞ」

 頭目の言葉に少女の表情が歪んだ。

 「その人は……死んではいないはずです。矢には鏃はつけませんでした。誰も殺したくなかったからです。ただ、先端に狩りで使う麻酔薬は塗りました。しばらくは意識を失っているはずです」

 そう言ってから、きっ、と頭目を睨みつけた。

 「関係のない人達を巻き込みましたね、アル・アシッド! どういうつもりなのですか!?」

 「なんということもないさ。この男が緑の海を見たがったからな。懐かしいだろう、平原の男だ。おまえの父親と同じ人種さ」

 頭目は―――アル・アシッドは、そう言って高笑いをした。

 この間に、アサッシンたちは武装集団にいつでも襲いかかれる場所に展開を果たしている。頭目の指の動きひとつで、殺戮を開始できる体勢になっている。

 「また、おれたちの勝ちだな。いい加減に認めたらどうだ。この森をおれたちに開放しな。おれたちにだって、この森で暮らす権利はあるはずだぜ。なにしろ、父祖の思い出の地だからな」

 アル・アシッド、寡黙なアサッシンの頭目は、ここに至って正体を現していた。

 残忍なアサッシンの獣性を剥き出しにしていた。

 アシッドはソフィアという名の少女に近づいた。

 その周囲の男たちが、アシッドの接近を阻む仕草を見せたが、ソフィアがそれを制した。アシッドが指で合図するだけで、誰かが死なねばならない。

 アシッドはソフィアのすぐ側に立ち止まり、顔を覗きこんだ。

 「少し見ぬ間に、娘らしくなって来たではないか。ま、まだ子供だがな」

 アシッドはソフィアのおとがいに手を触れ、そして頬を撫でた。ソフィアの目許が強張った。嫌悪感と闘っている。

 それをアシッドは冷酷な瞳で見つめている。

 ふ、と笑いに似た音を漏らした。

 「また、しばらく世話になるぞ。ルヴィアン宮廷からの親書も預かっている。つまりは正式な使者として遇してもらおう。おまえの家に泊めてもらうぞ」

 ソフィアは強張った表情のままで、肯いた。

 それから、迅速に手配りした。

 アジェスの介抱と治療の指示を出し、ラナスとアサッシンたちの接待を命じた。

 少女の姿に似ず、その指配ぶりは堂に入っていた。

 ラナスはしばし茫然とした。自分とそう年は変わらないように見える少女に、計り知れない威厳があるように感じたのだ。


<第三部 了>

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