第15話 閃きと繋がり(上)
雨に打たれたせいか、一時間目の途中から体調が悪くなった。
保健室のベッドでしばらく休んでいると、思った以上にぐっすり眠ってしまっていたようで、目が覚めると午前の授業が終わり昼休みに入っていた。
ゆっくりと布団をめくり身体を起こすと、太もも辺りの布団が重くて動かない。ぱっと目を向けると、椅子に座ったままベッドに倒れ込んでいる亜紀ちゃんがいた。
保健室の先生曰く、私の体調を心配して来てくれたらしいけれど、そのまま眠ってしまったようだ。
「亜紀ちゃん起きて」
私が肩をゆすると、亜紀ちゃんは眠そうに目を擦って寝ぼけた顔を上げた。授業に出られるようになるまでは時間が掛りそうなので、私は保健室の先生に頼んでもう少しここにいさせてもらうことにした。
不意に亜紀ちゃんは柔らかい声で「九条君さっき教室に来てたよ」と呟く。私はその言葉に一瞬ドキッとした後、赤ん坊をさするように「会わないよ」と言って窓の外を見た。
眠っている間に情報も整理できたし考えもまとまった。
同じ話を二度も聞きたくない。
九条君は、依存度の強い私が怖かったのだろう。だから私を嫌いだという噂を流して避け続けた。
そうすることで私との距離を上手く離したのだ。
しかし幼馴染みとしての関係は崩したくないし、学校でも超人気な自分の好感度を下げるわけにもいかない。
だから、私からの心証を悪くしないように話をつけに来たのだろう。きっと私とは友達でいたいと言うつもりに違いない。
九条君は頭が良いから、こうやって細かく計画を立てていてもおかしくない。
そう思うとなんだか腹が立ってきて、私は絶対に九条君の策略には乗らないと心に誓った。
*
昼休みが終わった後、九条君の姿をちらほら見かけた。
授業と授業の間の休憩時間に私の教室の前まで来ていたのも、女子たちで廊下が騒がしいので気づいたけれど、頑なに知らない振りをした。
私は声をかけられても無視するし、クラスの女子たちも亜紀ちゃんを主軸として「由佳ちゃん周り隊」が結成されている。
九条君を私に近づける者は誰もいないのだ。
九条君は自分の邪魔をする女子たちに困惑しながらも、なんとか私に会いたがっているような様子だった。
それはそれで若干気持ちが良い。一方で、だんだんと九条君が気の毒に思えてもくるけれど、結局会ってしまえば私の負けだ。
午後の授業が終わり放課後になると、私は急いで荷物をまとめ教室を出た。
九条君に会わないためだ。
しかし家に帰るわけではない。
家に帰ってしまえば、九条君が私の家まで押しかけてきて、事情の知らない親が九条君を招き入れてしまうかもしれない。私らしくないけれど、私は考えを巡らせてしばらく屋上で潜むことにした。
近頃の私は以前よりもずる賢くなった気がして、自分の成長に嬉しいような悲しいような気持ちになる。
屋上の扉を開けると、唐突に冷たい風が吹き込んできて髪を抑えた。
閑散とした屋上の空には、雨の上がって晴れ間が覗いている。灰色に塗られた雲の奥から白い光が漏れていて、アスファルトに出来た水たまりや銀色の手すりが輝いて見えた。
下校を始めた生徒たちも雨上がりを確信したようで、傘を開く音はほとんど聞こえない。
ふと地面から上ってきた水蒸気に、もわっとした土や草の匂いが混ざっていて鼻をくすぐった。
「雨上がりって何の匂いなんだろう…」
ふと疑問に思って考えてみるも、答えが浮かんでくる気配はない。
潮の香りを説明していた九条君なら、この変わった匂いの正体も知っているのだろうか。私はすぐに答えが聞けないもやもやに陥って、スマホで検索しようとポケットに手を入れた。
「ジェオスミンだよ」
扉の開く音と同時に懐かしい声が耳に入って、私は驚いて振り向いた。九条君は雨が降っていないか空を見上げつつ話を続けた。
「雨上がりの独特な匂いの正体は土壌細菌の死骸」
「また死骸…」
私のぎこちない反応に、九条君は薄く笑って背後のベンチに腰掛けた。ふと頭に別の疑問が浮かんできて、私は口を開く。
「どうしてここだって分かったの?」
「下駄箱」
九条君の一言にハッとした。
さっきまで「ずる賢くなって悲しい」とか感じていた自分がありえないほど恥ずかしく思えて、熱くなる顔を冷たい手で覆い被す。
それでも、変わらない自分の間抜けさに安心もして、なんだか心が軽くなった。
「最近俺のこと避けてるみたいだけど、あの噂のせいだよな?」
「…まぁ、うん」
小さく頷く私に、空気を良くしようと九条君はため息をついて無理に少し大きな声を出す。
「あんな噂信じるなよ。まぁ、確かにバイトが忙しくてあんま構ってあげられなかったけどさ…」
「いや杉野さんは否定してなかったけど?」
言い逃れしようとする九条君に私は強く詰め寄る。九条君は少し驚いた顔をして首をかしげると、「それは俺の言い方が悪かったかもな…」と頭を掻いた。
「俺はどちらかというと由佳のことが好きだよ」
「え…?」
突然の「好き」に頭が混乱しそうになったけれど、九条君の平然とした顔に私の鼓動の高鳴りもすぐに収まった。
この「好き」は私の想像している「好き」と違うと察したからだ。
「これだけ幼馴染みとしてやってきたわけだし、由佳は家族みたいにとても大切な存在なんだよ」
「よくそんなこと平気で言えるね」
九条君は私を照れさせて話を逸らせようとしているのだ。これは喧嘩中にケーキを買ってくる典型的なパターンと同じ。
「あ、いや、好きっていうのはそういう意味じゃなくて」
「別に分かってるよ」
私の冷たい反応に、九条君はまた頭を掻いて思い出したように言った。
「そういや、杉野も大変そうだったよ。俺と付き合ってるなんて噂流されてさ…」
「え?」
不意にズレたことを言い出して情報が頭が混乱する。おそらく九条君は、私が杉野さんから話を聞いたことを知らないから、上手く言い逃れをしようとしているのだろう。
「いや私、杉野さんからも話聞いたけど」
「はぁ!?え、俺と付き合ってるって言ってたの?」
「…うん」
私はそう答えながらあの時の会話を思い出す。
―――言ってなかったような気がした。
「…いや、言ってないかも」
九条君は「なんだよ、焦った」と笑いながら胸をなで下ろした。私はまた頭が混乱して、どこかで大きな思い違いをしているような恐怖を感じた。
でも実際、確かに杉野さんは私に「健君と付き合っている」なんてことは言っていなかった。
九条君の主張に一瞬の妥当性を覚えたとき、あの決定的な証拠が脳裏をかすめた。
「いや、でもあの写真があるでしょ!」
「しゃ、写真!?」
九条君は急に大きな声を出して驚いた表情を見せる。さっき亜紀ちゃんからもらった写真を見せると、九条君は「なんだこれ…」と目を見開いた。
「うーん、バイト終わりじゃないかな。俺らバイト先同じだし」
盲点だった。
確かにバイト先が一緒ならば、2人で帰るのも当然あり得る。それにこの返答の速さは嘘をついていないようにも感じてしまう。
しかし九条君は頭が良い。
侮ってはいけない。
私のアホな頭では簡単にだまされてしまうのだ。
不意に九条君は立ち上がって、濡れた手すりを袖で拭くと、手すりに肘を置いて寄りかかった。
「杉野にはいろいろ相談を聞いてもらってたんだよ」
「それに、俺に彼女ができる日は来ないと思う」
九条君が放った2つの台詞が驚くほど妙に重たく感じて、私の本能が口よりも頭を動かすように言ってくる。
私の横で空を仰ぐ九条君の姿が、今朝の杉野さんと重なって大事なことを思い出す。
そういえば、杉野さんはもともと九条君のことが好きな私を応援するつもりだったと言っていた。しかし、九条君から話を聞くことでそれが変わったのだと話していた。
九条君の云う相談とはその「話」だったのかもしれない。そして、それは九条君に彼女ができない理由と繋がっている。
と同時に、私と九条君の仲を裂くべき内容だったということだ。
私はふと全ての点が繋がって線になったような感覚を覚えた。いわば腑に落ちたというものを初めて体感したのだ。
私は溢れ出る達成感に笑みを隠しきれなかった。
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