変化
第10話 噂話
―――6年前・5月下旬。
誰もいない教室の机は冷たい。
締め切った窓からは野球部の朝練の声が微かに聞こえる。
自分の息で机の表面が少し濡れて、顔を上げた。
ふと人の気配がして扉の方へ視線を向ける。
「あれ~今日は早いね!」
朝から調子の良さそうな声を出しながら、亜紀ちゃんが机の間を上手く抜けてこちらへ寄って来た。
「あぁ、亜紀ちゃんおはよ…」
「声まだ寝てんじゃん!てか何でこんなに早いの?」
亜紀ちゃんの声は所々音が高くなるので頭が痛くなる。
それはさておき「九条君と鉢合わせするため」なんて口が裂けても言えない。
最近、九条君はバイトで疲れてるのか、登校時間がいつもバラバラで、以前のように登校中に道で待ち伏―――ばったり会うことができなくなった。
だからこうしていろいろな時間を試して登校しているのだけれど、早起きする私への負担が思う以上に大きい。
「ごめん、寝させて…」
睡魔に負けた私はそう言って再び机に突っ伏した。
*
不意に目が覚めたのは前の席の子が私に紙切れを渡そうとして来たときだった。動画の再生ボタンを押したかのように、それまで全く聞こえて来なかった黒板の音と先生の声が突然耳に入って来る。
時計を見るとすでに1時間目の途中で、あれから50分もの時間眠っていたことになる。教科書もノートも出さずに眠っていた自分と誰も起こしてくれない現実に驚きながら、前の子から1枚の紙切れを受け取った。
二つ折りにされた紙切れには
「九条君ゲイってほんと?」
の文字。
反射的に「は!?」と言いそうになって、私は口を手で押さえる。
右斜め前の席にいる亜紀ちゃんの方を見ると、にこやかな笑顔でこちらに相図を送っていた。私は声を出さずに「だれからきいたの」と口パクで伝える。
授業中にもかかわらず亜紀ちゃんは堂々と左斜め後ろに身体を向けている。亜紀ちゃんが読唇に苦労していると、その死角から先生が近づいているのが見えた。
私は慌てて「うしろ」と口を動かす。亜紀ちゃんは元気に大きく頷いて、先生に頭を叩かれた。
その後はずっと二つ折りの紙切れを眺めていた。
確かに九条君が同性愛者である可能性も否定できない。あんなにモテる九条君に彼女ができないのは確かにおかしい。
勝手に私のことが好きなのだと思い込んでいたけれど、全く告白してくる様子もないし、私の勘違いなのかもしれない。
ふと、浜辺で九条君に彼女がいたことあるかを聞いた時の動揺具合を思い出した。九条君が嘘をついていないと仮定すると、あの動揺の仕方は引っかかる。
九条君がゲイなのであれば、対象は「彼女」ではなく「彼氏」になるので、ああいう反応をしたという可能性も十分納得できる。
だんだんそんな気がしてきて、真相を知らずにはいられなくなった。
お昼休みに九条君の元へ行こうと計画して、チャイムが鳴ると同時に立ち上がった。小走りで扉の近くまで行くと、扉の前に亜紀ちゃんが立ちはだかる。
「由佳ちゃん!よく考えてよ、九条君が由佳ちゃんにそのことを言わないってことはよっぽど知られたくないってことでしょ?」
私は亜紀ちゃんの言葉にハッとした。
確かにそのとおりだ。九条君が私に重要な隠し事をするはずがない。それでも隠すということは私には絶対に知られたくないということだ。
私が九条君に事の真相を訊いてしまえば、九条君はショックで学校に来られなくなってしまうかもしれない。最悪の場合、死―――なんてことになったら…。
「亜紀ちゃん、ありがと!私、大事なものを失うところだった」
「いいんだよ、友達じゃないか」
私は亜紀ちゃんと抱きしめ合って、九条君の私情はまたゆっくり考えようと思った。
「あとさ、実は九条君が由佳ちゃんのこと嫌いで避けてるって噂あるよ?」
「……九条君のところ行ってくる!!」
私は全力で扉の外に向かって踏み出すも、亜紀ちゃんの全力の静止によって取り押さえられた。
息切れをしながらよく回らない頭でさっきの言葉を再生する。九条君が私のことを嫌いで避けている。そんなことありえないと思うと同時に、不安になる要素も大量に飛び出してきた。
例えば最近のバイトのしすぎ、登校時間のばらつき、部活の誘いの無さなど点と点が繋がったような気がしてとても怖くなる。
目が泳ぐ私の肩に手を置いて亜紀ちゃんは笑顔で言った。
「気になるなら調査してみれば良いじゃん!!」
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