第9話 惜春と葉桜
―――6年前・5月中旬。
黒いカーテンを開けると、白いレースに朝日が溢れた。
父は連日の仕事で疲れてまだ眠っているけれど、母はすでに起きているようで、キッチンからは油のはねる音が聞こえる。
大きなリュックに荷物を詰め込んで、動きやすい服装に着替えると、リビングへ向かった。
「おはよう~」
「あら、おはよう。これ、朝のトーストとお昼のお弁当ね」
私は母に感謝を伝えて、バターを塗ったトーストに手を合わせた。朝ご飯を食べ終えて歯を磨き顔を洗うと、ようやく父も起きたようで2階から下りてきた。
まだ温かみのあるお弁当を傾けないよう慎重にリュックに入れて勢いよく背負う。体育用のランニングシューズを履いて、両親に別れを告げた。
玄関の扉を開けたところで、ちょうど迎えに来た九条君と鉢合わせした。
「あ、おはよ!」
「おう、行こうか」
私は元気に頷いて、明るいのに静かな住宅街を歩き始めた。
*
もうとうに春は過ぎて、初夏のやわらかな緑風を感じられる季節になった。
眠っていた土の苦い匂いが鼻を少し刺すけれど、それもまた懐かしく感じて清々しい気持ちになる。
それでも春が終わり桜が散ってしまうのは惜しい気がして、桜だけでも咲き続けて欲しいなと思ってしまう。
「来年の青い春が待ち遠しいな~」
「いや、終わったばかりだろ…」
間の抜けた私の呟きに、九条君は呆れて笑った。
もちろん青い春は好きだけれど、だからといって夏が嫌いなわけではない。
「よし、今日は初夏をお祝いしに行こう!!」
「由佳はいつも元気だなぁ」
九条君は最近さらにバイトのシフトを増やしたそうで、疲れが溜まっている様子だ。放課後も遊―――写真部の活動に出られない日が多くなり、学校で話す機会も少なくなってきた。
ただ、九条君の噂は嫌でも亜紀ちゃんを通して耳に入るので、あまり離れている気もしない。唯一気になることと言えば、九条君が写真部よりもバイトを優先していることだ。何か理由があるのだろうけど、少し嫉妬してしまう。
「最近バイト入れすぎじゃない?」
「うん、でもお金欲しいんだよね」
そんな阿呆のような会話をしているうちに、最寄りのバス停に到着した。九条君はスマホと時刻表を見合わせて時間を確認する。
「よし、もう少しで来るはず」
しばらく待っていると、2分遅れでバスが到着した。
目的地まではバスで30分ほどかかる。私は朝が早かったせいか完全に居眠りしてしまい、目が覚めたときには目的のバス停に到着していた。
「…あんな爆睡することある?」
「ごめん!」
バスを降りたあとで、私は手を合わせて九条君に頭を下げる。九条君は笑いながら「いいよ」と言って、私の頭に手を置いた。
その一瞬で眠気が取れて周囲を見渡すと、眼前に広がる緑壁の奥で虫の音や鳥のさえずりが響いているのに気がついた。
登山道の入り口で、私たちは一度立ち止まる。
「ここから先は山だよ…」
「由佳、遭難するなよ」
「それだけは私が言いたい!」
私はリュックを背負い直して気合いを入れる。ここからは闘いの場だ。少しの油断も命取りになる。何よりも隣で欠伸をしている九条君が心配だ。
九条君は初登校の日に学校で迷子になったように、かなりの方向音痴だ。子どもの頃から私と二人でよく迷子になった記憶がある。
「よし行こう」
私の心準備を無視して九条君が歩き出す。
そうして、私たちの冒険は始まった―――。
*
「…思ったよりきつくない??」
膝に手を当て息切れをする私に、九条君は「まだ歩き出して1分しか立ってないけど」と現実的な指摘をする。
「そういえば、この間の体育でも持久走クラスでビリだったらしいな」
「え、それどこ情報!?持久走は下から2位ですけど!!」
「大して変わらんわ」
九条君は口に手を当てて馬鹿にしたように笑う。私が対抗して「九条君はどうせ持久走サボったんでしょ!」と言うと、九条君は下手な口笛を吹いて歩みを速めた。
「ちょ、ちょっと置いてかないで…!」
九条君は不意に引き返して私の手を掴むと、「そのペースじゃ山下りるときには文明変わってるぞ」と言って先導した。
登山道は意外と整備されていて、比較的歩きやすかった。
道を囲む木々には一本ずつ名前が貼られている。
私の目には全ての木が同じように見えてしまうけれど、それぞれ異なる特徴を持っていて葉や花をつける。
一本一本生きているんだと強く思わされて、その登山道をすごく気に入った。
九条君が不意に私の手を離して声をあげたので、私も視線の先を合わせた。目の前の看板には「500m到達!山頂まで残り4km」の文字。
「え、無理じゃない?」
「うん。」
私たちは珍しく同意して、無言で来た道を戻ろうとする。
しかし、振り返ると別の看板が目に入った。
「諦めちゃだめ!中間ポイントからロープウェイに乗ろう!…だって」
「よし行こう」
徒歩での到達を速やかに諦めた私たちはロープウェイを使って山頂を目指した。いざロープウェイに乗ると、その快適さに人類の叡智を実感した。
山頂に到着して辺りを見回すと、地元を一望できる展望台とは反対側の小さなスペースに桜の木がぽつんと一本だけ植えられていることに気がついた。
「ねぇ見て!桜の木があるよ!」
私が九条君の腕を叩くと、九条君は「何でこんなところに?」と不思議そうな表情を浮かべた。
桜の木に貼ってある説明書きを読むに、町の団体がかつてこの登山道を造るにあたり山のシンボルとして自然に植生していた山桜を一本移植したそうだ。
青く澄んだ空を背景に、ぽつんとそれでも堂々と咲く葉桜は、私たちに季節の変化を実感させた。
そして、それは良い意味でも悪い意味でも「日常」の終わりを暗に示していたように思える。
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