第8話 白波と海月(下)
「やっぱりだめだな…」
九条君はスマホを覗き込みながらそう呟く。
私はそんな九条君を見かねて一声かけた。
「やっぱりスマホじゃ上手く撮れない?」
「う~ん、スマホは画素サイズが小さいからね…」
残念な表情を見せる九条君は「実際はもっと綺麗なのになぁ」と下を向いた。私が「私のレンズも九条君と一緒の性能で良かった」と笑うと、九条君は「視力は俺の方が良いけどね」と皮肉っぽく返した。
辺りはかなり暗くなっていて、九条君の顔すら視認しづらい。
浜辺にはさざ波の音だけが静かに鳴っている。私はしばらく頭上に広がる星空に呑まれていた。
曖昧な地平線を介して空と繋がった海に少し欠けた月が浮かぶ。
海月は柔らかく揺れていて、二人の口調もいつもより落ち着いている。
「ISO感度も2000くらいまであげたいんだけどな」
「難しいカメラ用語は分からなーい」
まだ文句を言っている九条君を横目に、私は考えることを放棄して大の字に寝転がった。ほんのり温かさの残る砂が気持ちよくて、大地の寛容さを実感する。
「母なる大地よ~ってなんか今はすごい分かる」
「…は?」
九条君は呆れた笑いを吐いて、私の隣に寝転んだ。
「――あ、分かるかも」
そう言って笑う瞬間が束の間の幸せと分かっていても、私はそれに浸らざるを得なかった。できるならこのまま時間が止まればいいのに、なんてありきたりな気持ちが湧いてきて、そんな自分に少し恥ずかしくなる。
不意に九条君が口を開いた。
「由佳ってさ、良い意味で向こう見ずだよな」
「なにそれ褒めてなくない?」
「いや褒めてるよ。俺はこういうこと言ったらどう思われるかなとか、こんなことしたらなんて言われるかなとか未来のことばっかり考えちゃうからさ」
私は猛烈に恥ずかしい気持ちに襲われた。
恥ずかしげもなく言った「九条君って彼女いたことある?」がふと脳内で再生されたからだ。
あのときは何も考えず勢いだけで訊いてみたけれど、よくよく考えればとても恥ずかしいようなことを訊いてしまっている。これが向こう見ずか――――と思いつつ、どうにか撤回しようと身体を起こした。
「ち、違うよ。彼女いる?ってのは亜紀ちゃんに訊かれたからで…」
「えっと、亜紀ちゃんって今日話してた子?」
「そう。なんかね、学校で九条君かっこいいって話題らしいよー」
「あぁ、そうだったのか」
私は熱くなった身体を冷やそうと、急いで靴と靴下を脱ぎ、海に向かって走り出す。九条君は「おい…!」と叫ぶだけでさすがに追いかけて来ない。
波が足を過ぎり、私は思わず身震いする。
そんな自分に吹き出しながら靴下を両手に振り返ると、スマホを構えた九条君の笑った口元が見えた。
*
―――現在。
大学生時代に一時期うつ病で通院していた頃、軽度の境界性パーソナリティ障害であるという診断を受けた。
日常生活に支障はないけれど、感情の起伏が激しく自分の気持ちをコントロールできないことがあるそうだ。
私としてはどんな感情や気持ちも自然と湧くものだから、あまり自覚はない。
しかし、日記の1ページには「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「つまらない」という語句が驚くほど混在していて、少し違和感を覚えた。
過去の日記を読んでいると、当時の自分を客観視することができて、なんだか自分というものを1時間前よりも解った気がする。
こうして過去を振り返ってみて、自分の不安定さにも気付くことができた。思い返すと私は昔から人からの無視や嘘に敏感で、私の日常は絶対的な九条君の存在で成り立っていた。
「…暗くなってきたな」
気がつくと夕日もすでに沈んでいて、部屋の中はかなり暗くなっていた。でも、その暗がりが不思議と私に寄り添ってくれているようで少し安心する。
それでもこんなに暗いと日記の文字も読めないので、私は仕方なく部屋の電気を付けることにした。
スイッチ1つで急激に部屋は明るくなったけれど、自分の気持ちは置いてけぼりで軽くなるわけもない。ただ眩しい日記と虚しさだけが手に余って、置いていかれた自分をひどく情けなく感じた。
込み上がってきたこの感情も障害のせいだというのなら、本当の感情はどこにあって、本当の私はどこにいるのだろうか。
あの綺麗な星空も月も海も、私のレンズじゃ上手く映せない気がして、他の人と一緒に笑えるかどうか自信がなくなる。
そして、そんな風に考えてしまう自分も正常な自分ではないんだ、と思ってしまう自分も――――。
システムエラーでシャットダウンするPCのように、不意に頭が重くなって視界が暗闇に包まれていくような感覚を覚えた。
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