第7話 白波と海月(上)

―――6年前・5月上旬。


終業のチャイムが鳴ると同時に椅子を引く音、押す音がガタガタと教室内に響く。足でその振動を感じながら、すでに学校の外を歩く帰宅部ガチ勢を窓から眺めていると、聞き慣れた甲高い声が耳元で聞こえた。


「ねぇ由佳!」

「わぁ、どうしたの?」


女友達の亜紀ちゃんだ。

クルクルした髪をなびかせて、私の前の椅子に腰掛けた。


「九条君ってさ、彼女いるの?」

「いないと思うけど…?」


突然の名前に動揺しつつ、私は落ち着いて答える。


東京での出来事からより一層九条君を意識するようになった私とは対照的に、九条君はあの翌日からも何気ない様子で、あの夜も幼馴染みとのお泊まり会程度にしか思っていないのかもしれない。


私の返事を聞いて、亜紀ちゃんはさらに詰め寄って来る。


「でも由佳とも付き合ってないんでしょ?」

「あ、まぁ…。てか、あの人は今まで彼女いたことないはずだよ」

「まじぃ!?」


亜紀ちゃんのあまりの驚き方に教室内に残っていた人達も皆こちらを見た。亜紀ちゃんは私の耳元に寄り、小声で続ける。


「最近、九条君が話題になってるんだよ」

「ど、どんな??」


亜紀ちゃんが焦れったい言い方をするものだから、私は少し慌てて急かすように訊いた。


「かっこいい…って!」

「な、なんだぁ」

「なんだって何よ!…あ、もしかして彼女関係だと思った??」


わざとからかってくる亜紀ちゃんに頬を膨らませると、彼女が突然大きな声を出して私の肩を叩いた。


「噂をすれば…!!」


教室の扉を見ると、九条君が立っていた。

心臓がバクバクしているのを亜紀ちゃんの大声のせいにし、私は急いで荷物をまとめて教室の外に出た。


「九条君、どうしたの?」

「どうしたもなにも部活行くぞ」

「え、男友達と帰らなくていいの?」


九条君は少し驚いた顔をして「あいつらも部活だから」と呟くと、唐突に私を引っ張って歩き出した。


校内を歩くとやはりたくさんの視線を感じる。

多くの女子が振り返って九条君を見ている気がする。


自分でも性根の悪さを感じるけれど、なんだか自分の特別さに優越感を覚えていつもより声が大きくなった。


「今日の写真部はどこに行く予定ですか!」


一方の九条君はいつも通りの無愛想で返してくる。


「ん~特に決めてないけど、とりあえず散歩」

「よし、じゃあ私に任せなさい!!」


日中の授業でたくさん寝たおかげもあって、とても元気な私は財布の中身を確認して、九条君より先を歩き出した。



*



ようやく外の空気も暖かくなってきた頃だけれど、日中の浜辺は強い潮風が吹いていてとても肌寒い。


太陽が雲に隠れているからか、海も若干灰色のように見える。

海水浴シーズンではないため、浜辺にも人はほとんどおらず、飼い犬と散歩しているご婦人が一人いるくらいだった。


九条君は「やっぱ寒いな…」と呟いて、ウインドブレーカーのチャックを上まで閉めてポケットに手を入れた。


「散歩で電車に乗って海まで来る奴いないぞ」


九条君のもっともな指摘を無視して、私は潮風にスカートをなびかせる。


「やっぱり潮風は冷たいね!」

「この時間は潮風が吹くからな」


九条君が云うには、海よりも陸の方が温まりやすいため、日中には陸上の空気の密度が低くなり浮力を受けて上昇気流を生じさせるが、上空は気圧が高いために空気が冷却される。海上ではその逆が発生し下降気流が生じて、海から陸へ風が吹くのだという。


「―――んで、朝と夜は逆の原理で陸風が吹くってわけだ」

「説明上手だねぇ~、意味分からなかったけど!」


私は石段を駆け降りて潮の香りをいっぱいに吸った。九条君は「それほめてんの?」と言いながら、ゆっくりと階段を降りる。


「潮の香りってなんかいいよね!」


強い潮風のせいで二人ともいつもより大きな声になっている。なんだか分からないけど、楽しい気分なのは間違いない。


「それプランクトンの死骸の臭いだぞ…」

「聞こえな~い!」


私は顔に張り付いてくる髪を抑えて、カバンからスマホを取り出した。白い泡を立てて行ったり来たりしている波を画角に捉えながら、ふと亜紀ちゃんとの会話を思い出した。


「…九条君さ、彼女いたことある?」

「は!?」


九条君は海を撮ろうと構えていたスマホを落としそうな勢いで動揺した。

その反応に自分の鼓動が速くなったのを感じる。


「い、いないけど」

「…嘘じゃないよね?」


安堵する前に、口が勝手に訊いていた。

同時に、九条君の言葉だけじゃ信用できない自分の弱さに失望する。


「嘘じゃないよ」

「そ、そうだよね、ごめん。九条君は嘘つかないもんね」


苦笑いする私に九条君は「嘘はつくよ」と笑って追撃した。

風の隙間に聞こえたその一言に、私は再び上手く笑えなくなる。


「例えば、今日。俺の友達部活あるって言ったけどほんとはない」


真剣な目をした九条君から出た告白に、私は思いがけず笑みがこぼれた。


「なんだ、そんなことか。重い空気出さないでよ!!」


九条君は「なんだって何だよ!」と言って頭を掻いた。久しく忘れていたけれど、九条君は真面目な人だから、どんなに小さなことでも重く捉えてしまうのだ。


九条君の素直さと真面目さを改めて感じることができ、少し幸せな気持ちにすらなった。


「そんなに私と一緒にいたかったんだぁ」

「そんなことはないけど」

「あ、また嘘ついた!」


不意に雲で隠れていた太陽が顔を出して、肌に温もりを感じた。

灰色の海にも光の道が開いて、音を立てる白波が照り輝く。


「海が青くなったよ!!」

「お、ほんとだ!」


風もだいぶ弱まってきて、THE・デートの雰囲気であることを察した私は調子に乗っていつもの悪い癖が出てしまう。


「今日は終電で帰ろう!!」

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