007・祈りと記念日

007・祈りと記念日


「今年は凄いね」

 

 僕の言葉に、妻は満更でもない表情で答える。


「でしょう? 頑張っちゃった」


 卓上には豪勢な料理が並んでいる。ロブスターのグラタン、生ハムのサラダ、コーンポタージュ、ガーリックバゲット。妻は赤ワインのボトルとコルク抜きを僕に渡し、言う。


「さて、今年の引っ越し記念日の料理がこんなに豪勢なのは、いったいなぜでしょう?」


「えーっと……」


 僕はコルク抜きを差し込みながら考え、ポン、と音を立ててコルクを引き抜き、言う。


「引っ越し記念日を迎えたのが、十回目だから」


 妻は驚いた表情で黙る。僕は澄ました顔で、彼女の前にあるグラスにワインを注ぐ。そして自分のグラスに注ごうとしたときに、妻は半分咎めるように言う。


「あてずっぽうでしょう」


「もちろん」


 妻は呆れて笑い、僕も笑い、僕達はグラスを掲げる。


「引っ越し記念日に乾杯」


 引っ越し記念日とは、その名の通り、その家に引っ越してきた日を記念し、祝す、我が家独自の記念日のことだ。


 僕達は結婚前に六年ほど同棲生活を送っていたのだが、その間に四回もの引っ越しを経験していた。勿論、引っ越しが趣味というわけではなく、その都度、諸般の事情――被災、転職、構造的欠陥の発覚、オーナーの都合――が存在しているわけだが、それはともかく、そのどこかの時点で――例によって、どの時点かは忘れてしまったが――妻が引っ越し記念日の設立を提案してきたのだ。


 記念日の祝い方は二部制になっていて、第一部では妻の作った料理と、用意してくれたワインを楽しみ、第二部では、僕が用意したケーキと動画――妻や僕がスマホに取りためた写真を繋げ、音楽を足した簡素なもの――を楽しむ。ただそれだけの、慎ましやかなものだ。


 しかしこれまでに、既に十回……つまり十年ものあいだ、この記念日を祝い続けているので、少なくとも僕の中では、結婚記念日よりも思い入れのある記念日となっている……というか、若い頃はあまり意識しなかったが、最近ひしひしと、記念日の意義や大切さを感じることが多くなった。



 記念日は毎年やって来る。こちらの意志とは関係なく、記念日に我々は到達してしまう。そして、それがトリガーとなって我々は、昨年の記念日、或は最初の記念日を迎えた頃の自分の精神状態へと半強制的に戻される。


 これは、タイムトラベルに近い、と僕は思っている。


 もちろんここで言うタイムトラベルは、過去へ行くだけの一方的なものだし、過去の出来事を改変することだってできない。


 だから多くの人はこれをタイムトラベルとは認めないのかもしれないけれど、少なくとも過去の自分には戻ることができるわけだし、過去の出来事の解釈を改めることもできるし、過去の視点に戻って現在を見つめ、未来の行動を決定していくことだってできる。


 そしてその一連の現象は、僕にとってタイムトラベルという呼称が一番しっくりと来るのだ。


 そして、こういった記念日の効力に気がつくことができたのは、恐らく、僕がもう若くはないからなのだと思う。


 今年で僕は四十一になり、彼女は三十八になる。未来は既に、かなり限られている。出来ることは絞られている。死は必ずやって来る。それは決して、肉体に限った話ではない。精神だって、死を迎える可能性は充分にあるのだ。


 そう。時折思う。僕は妻の事を心の底から愛しているが、もしこの引っ越し記念日が無ければ、その愛という想いは、死んでいたのかもしれない、と。


 というのもここ数年、記念日を迎える度に、彼女への愛情が、若々しく蘇える感覚があるからだ。それは逆に言えば、普段は死へ向かって老いている、ということになる。


 僕は彼女を愛し続けたいと心から願っているが、しかし、その願いには、彼女への愛情の老化を止めるだけの効能は無いらしい。


 それに、もしかしたら、とも思う。


 仮に、あらゆるものに等しく死が訪れるのであれば、記念日だって死を迎える可能性もあるのではないだろうか、と。すなわち、僕達が記念日を祝う意味を見失ってしまう日が、いつか来てしまうのではないか、と。


「ねえ、紅茶はダージリンでよかった?」


 妻がソファの前のローテーブルへトレイを置き、僕に尋ねる。トレイの上には湯気の立つティーカップと僕が仕事帰りに買ってきたケーキが並んでいる。そう。夕食を終えた僕たちは、第二部の準備に取り掛かっている。


「ありがとう。それがいいと思う。じゃ、再生するよ」


 妻が頷いてソファに腰かける。手元のパソコンはHDMIケーブルでテレビに繋がれている。僕は動画のファイルをダブルクリックして、妻の隣に腰かける。


 音楽に合わせて、写真が流れ始める。照明は落としてある。テレビの光だけが、彼女の顔を照らし出す。


 そんな彼女を横眼で眺めながら、僕は祈る。


 僕は無力だから、いや、無力だからこそ、必死に祈る。


 神様。


 どうか妻の死を、遠くへ追いやってください。


 神様。


 どうか僕の、妻への愛の死を、遠くへ追いやってください。


 神様。


 どうか引っ越し記念日の死を、遠くへ追いやってください。


 神様。


 どうか。どうか。どうか。

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