白球姫

しずの

1イニング <始まり>

 春。無事に公立白浜高校に入学した私は、真新しい制服を着て校門をくぐった。ライトグレーのブレザーに、それより暗いグレーのチェックのスカート。薄ピンクのリボンが最初は恥ずかしかったけれど、着けてみるとグレーに映えて最近は少し気に入っている。

「おはよう!しずは。桜もう結構散っちゃったねー」

 その時後ろから元気な声が聞こえてきた。振り向く間もなく声の主は私の隣に並んだ。

「おはよう、さあや。そうだね」

 今は4月の終わり。彼女の言う通り、もう桜の木々は緑に染まり始めていた。

「あ、そう言えばさ、部活どうするか決めた?あたしね、野球部にしようと思うんだ!」

「えっ?!」

 突拍子もない彼女の言葉に、私は思わず足を止めてしまった。

 石川さあやは、ショートヘアの似合う活発な女の子で、地味で根暗な私とは正反対だった。赤いヘアバンドについたリボンが愛らしい彼女は、私にとって奇跡的に出来た校内一番の友達だ。けれど彼女には、今のように何の脈絡もない話を切り出したり、勢いで何でも決めてしまったりするところがある。そんな豪快さに救われることも多々あるけれど、今回は聞き捨てならない。

 だって、私は、わざわざ野球部のない高校に入学したはずなのだから。

「しずは?どうしたの?」

 さあやはそんな私の思いも知らず、リボンを揺らして無邪気な瞳で見つめてくる。

「うちの高校に……野球部はないはずでしょ?」

 私は何とかそれだけさあやに問い返した。

 すると彼女は大きな目を輝かせて言った。

「今年から出来るんだって!キラッキラの、あったらしい野球部が!」

 新しい、野球部?

 私はその言葉に、目の前が真っ暗になった。なんで、どうして。

 よりによって今年から出来てしまうなんて。

「しずは!もう朝礼始まっちゃうよ、早く教室行こ!」

 思考はまだ全然まとまらない。けれど、焦るさあやに手を引かれ、私は引きずられるように教室へ向かった。


 動揺はしたものの、まだここまでは嘘だと思えた。さあやの勘違いか何かだと思っていた。

「えー、今年から!弘道三中野球部元エース、我らが生徒会副会長阿部マキの怪我完治を祝して、本人たっての希望により、白浜高校に野球部を新設する!!」

 けれど、それが紛れもない事実だということが、数日後体育館で開かれた部活動紹介で明白になってしまった。

冒頭で、生徒会長が力強くそう宣言したのだ。

「ね!言った通りでしょ!」

 隣からすかさずさあやが囁く。

 気が遠くなりそうだったが、私はふと閃いた。そうだ、野球部が新設されたって、入らなければいいだけのこと。私はとにかく野球から離れたくて、地元から遠い高校を選んだから、ここでは誰も私が中学まで野球をやっていたことなんて知らない。そう、何も気にすることはない。私はここで、野球とは無縁の学校生活を送るんだ!

 と決意していたのに、それはさあやによって早速おびやかされることになった。

「阿部副会長!!あたし、野球部やりたいです!」

 部活動紹介が終わった途端、さあやは私の手をしっかり握って副会長の元へ駆け寄ったのだ。

「えっ!?ちょ、さあや!?わ、私は野球部入らないよ?」

「ん、君は……龍谷(りゅうこく)中学校の蝶野しずはじゃないか」

 副会長は、一部を長く伸ばした個性的な黒髪ボブスタイルに相手を射抜く鋭い目を持った、凛とした雰囲気の人物だった。そんな彼女に名前を呼ばれた瞬間、私は絶望した。あろうことか、名門野球部出身の副会長は私を知っていたのだ。

「阿部副会長、しずはを知ってるんですか?」

 驚いたさあやが私と副会長を交互に見る。

「ち、違います!人違いです!!私は野球なんてやってませんーっ!!」

 その視線に耐えられなくなった私は、そう叫ぶと一目散に逃げ出した。

「ちょっとしずはー!どうしたのさー!」

 さあやの声が追いかけてくるが、私は振り向きもせずその場を去った。

 が、当然逃げ切れるはずはなかった。

「えー、1年A組蝶野しずは、放課後生徒会室に来るように。繰り返します。1年……」

「わーしずは、呼び出しがかかってるよ!すごいねぇ」

 能天気に言うさあやに、この時ばかりは腹が立ったが、彼女に怒っても仕方ないと思い直す。これは私自身の問題だし、何より私は野球をしていたこともトラウマのことも、さあやには話していないのだ。

「実はあの後、入部手続きとかあるから、あたしも副会長に会いに来てって言われてたんだ。だから、一緒に行こう!」

 私の様子がおかしいことを気遣ってか、さあやがいつもより優しい口調で言う。その目には心配そうな色が浮かんでいた。

 何も知らない彼女にそんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、私は覚悟を決めた。

 こうなってしまったら仕方がない。きちんと会って、私は野球はしたくないと逃げずに言おう。

「……うん、ありがとうさあや」

 そうして放課後、私達は二人で生徒会室を訪れた。

「待っていたよ、石川さん、そして……蝶野さん。来てくれてありがとう」

 すると、部屋の中央に置かれたソファに腰掛けていた副会長が柔らかい微笑みで迎えてくれた。その予想外の対応に、私はすっかり拍子抜けしてしまった。彼女の厳格な雰囲気から、てっきり逃げ出したことを問い詰められると思っていたのに。

「ようこそー、お二人さん!どうぞ、こっちに座ってー」

 続けて、部屋の奥の書斎机に向かっていた生徒会長が、明るい声で副会長の正面のソファを勧めてくれた。

「はーい!しずは、座ろ」

「う、うん……」

 ソファに座ると、副会長が真剣な表情で切り出した。

「単刀直入に言うが、まず、石川さあやさん。入部を希望してくれてありがとう。通常なら体験入部を経て入部申請となるが、今回はまだ活動が出来ない為、簡単な説明と質疑応答の後、入部申請をしてもらうことになる。流れはいいかな?」

「はい!私は準備オッケーです!」

 さあやは副会長の気迫をものともせず、いつも通り元気に答えた。その声で場の雰囲気がいくらか和み、副会長の顔にも笑みが浮かんだ。

「よかった。では、説明に入らせてもらう。蝶野しずはさん、悪いが君も一緒に聞いていてくれないか」

 そこで副会長は視線を私に向けて、穏やかな口調でそう言った。その丁寧な物腰に、私はつい断れなくなって頷いてしまった。

 説明と言っても、まだ部員募集を始めたばかりで希望者がそろっていないらしく、決まっていることは少なかった。部長は副会長が務めること、練習場所と頻度、部室についてなど一通り話し終えると、副会長はさあやに言った。

「説明は以上だが……石川さん、何か気になることがあれば遠慮なく聞いてくれ」

「えっと……あたし、走るのには自信あるんですけど、野球は全くの初心者なんです。ルールもよく分からないんですけど、それでも大丈夫ですか?」

 さあやのその言葉に、一同は呆気に取られた。そう言えば、どうしてさあやが野球部に入ろうと思ったのか私も理由を聞いていなかった。

「そ、それは全く構わないが、では何故君は野球部に入ろうと……?」

 副会長はちらりと私に視線を向けつつ、さあやに問いかける。いいえ、副会長。期待されても困ります。さあやが野球部に入りたがっていることと私は全くの無関係です。と、私は心の中で答えた。

「えー……マキせんぱい、怒らないで聞いてくれますぅ?あたしマキせんぱいを信じて言いますよ?信じますよ?あのですね……あたし、1番乗り、大好きなんです!」

 その瞬間、私の背筋は凍った。怒る。そんな理由、副会長じゃなくたって怒るに決まっている……!

 さあやは私の心配をよそに話し続けた。

「新しいものって、なんか、ワクワクするじゃないですか!あたし、高校に入ったら、今までやったことのない、全く新しいことに挑戦しようって決めてたんです。そしたら、新しい部活が出来るって聞いて、すっごく嬉しくなって、入部するの楽しみにしてたんです!あたし運動は好きなので、野球も、きっと楽しいと思うんです!よろしくお願いしますっ!」

 いつの間にかさあやは立ち上がっていて、勢いそのままお辞儀をした。

 一方の副会長は、そんなさあやの勢いに呆気に取られて言葉を失っているようだった。

「あっはっはっはっは!面白いじゃん、マキ!その子、絶対大物になるよ!よかったね!あはははは!」

 その時、生徒会長が弾けるような笑い声を上げて言った。

「え?あたし、大物になれますかね?えへへっ」

 さあやもそれを聞いて嬉しそうに笑う。私はそんな中、副会長の反応を見守った。

「……そうか、石川さん。君は真っ直ぐだね」

 やがて口を開いた副会長は、怒るどころか感服した様子だった。

「へ?」

「野球は楽しいよ。君みたいな子に入ってもらえることが、私もすごく嬉しい。本当にありがとう。こちらこそよろしく」

 そう言って副会長が差し出した手を、さあやは嬉しそうに笑って両手で握り返した。さあやをすごいと思うのは、こういう時だ。彼女はその純粋さと迷いのない明るさで、いつも人の心を動かすのだ。

「それで……蝶野しずはさん。出来れば、私は君にも野球部に入部してもらえないかと思っている。君は見たところ石川さんのお友達なようだし、二人で入ればきっと……」

「い、嫌です」

「え……」

 さあやによって温められた和やかな空気が、急速に冷えていくのを感じる。副会長の表情が強張り、さあやが悲しそうに俯く。何かを察した生徒会長は、そっと窓の外を見つめた。

 分かっている。きっと、さあやとなら楽しいかもしれない。ここは元々野球部のない学校。0からのスタートだし、さあやも初心者だ。そこまで気にすることもないかもしれない。

 だけど、それでも。

 私の心は、あの日に囚われたままなのだ。

「嫌です……。私に、や、野球は、もう……もう、出来ないんです」

 私は震える声で、自分の膝を見つめてそう言った。

 しかしその時、膝の上で握り締めていた私の手に、さあやの手が重なった。

「さあや……」

 驚いて顔を上げた私に、副会長が静かに言った。

「勿論無理にとは言わない。だが、私は野球が好きだ。仲間と共に練習に励む時間も、試合の緊張感も、勝った時の喜びも負けた時の悔しさも全てが好きだ。野球を通して味わうそれらが好きなんだ。幸い、君のお友達もこうして一緒にやりたいと言ってくれている。今が……君にとってもチャンスなんじゃないか」

 私はその言葉に更に驚き、まじまじと副会長の目を見つめた。何、それはどういう意味なの。貴方は、私の何を知っているの。

「しずは……あたし、しずはと野球、やってみたいな。しずはが経験者なら、あたしも安心だし……」

「ダメ。それでもダメなの。私は……ごめんなさい。もう、みんなに迷惑をかけたくないの。私のせいで……全てが台無しになるのはもう嫌なの!」

 この人達はいい人達だ。副会長は落ち着いていて大人だし、さあやはすごく優しくてどんな時でも元気をくれる。こんな人達と、大好きな野球が出来たらどれだけ楽しいだろう。

 けれど。

「こんな終わり方、最悪だよ!今まで頑張ってきたのは何だったの!?」

「真面目に練習してればあの位取れて当たり前じゃない……最後の最後でエラーなんて許せない」

 あの日浴びせられた言葉が、今もはっきりと脳裏に響いてくる。そして、それに呼応するように体を包む倦怠感や、土と汗の香り、更に照りつける太陽の光までもがまざまざと蘇ってきた。

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白球姫 しずの @hosinotamago

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