12 noon
自転車を漕ぐ。ペダルをぐっと踏み込む。なだらかな坂道、自然と前に傾く身体。立ち漕ぎになってはじめて頬に感じる風。もう、すっかり夏だ。
ちっぽけな町が見渡せるこの丘は、私と先生の秘密の場所だった。こっそり盗んだ屋上の鍵。給水塔の影に潜む私を、先生は叱らなかった。代わりに、この丘のことを教えてくれた。いつか一緒に、という社交辞令染みた約束は、果たされることはなかった。
先生が定年退職をして一年半。身体を壊して七ヶ月。ホスピスに入って三ヶ月。自宅に戻って二週間。そして、四日前。先生は鬼籍に入った。
先生は、退職してからも私のことを気に掛けてくれていた。月に二通は手紙が届いた。真っ白い封筒に、飾り気のない白い便箋。先生は達筆で、ときどき崩しすぎて読めない字が混じっていた。私は毎回すぐに返事を書いた。けれど、数ヶ月前から私はそれをしなくなった。便箋の上を走る先生の文字が、震えるようになったから。怖かった。私が返事を書かなくなっても先生からの手紙は届き続けた。
三日前、訃報が届いた。先生の奥様からの電話だった。是非葬儀に来て欲しいと乞われた。ちくりと胸が痛んだ。不義理だけではない、疚しさを私は抱えていた。迷いに迷って、私は。
今朝、セーラー服に袖を通した。クリーニング帰りのそれは糊がよく利いていて、入学式の日を思い出した。あの頃はスカーフが上手に結えなくて、固結びにしていたっけ。今ではもう手元を見ないでも綺麗に結える。なのに、今朝はスカーフを結ぶ指が震えた。紺色無地のソックスに、
斎場まで十分、自転車を漕いだ。道順を地図アプリで調べておいたから迷わなかった。こめかみを伝う汗を拭ってから斎場に入った。斎場の中で制服を着ていたのは私だけだった。芳名帳に名前を書いていたら、受付の女性から声を掛けられた。お手紙をお預かりしています。先生の奥様からだった。白い封筒が二通。同時に、香典を固辞されている旨を伝えられて、行き場をなくした香典袋と一緒に鞄の中に仕舞うことになった。
僧侶の読経だけが聞こえる中、焼香の順番を待った。前日に一連の流れは調べたけれど、それでもやっぱり緊張した。手順を間違わないかだけじゃない。私は母から借りた数珠をぎゅっと握った。
私の前で手を合わせていた男性が席に戻り、私は一歩前に出た。遺族席に目を向けると、黒喪服を着た上品な老婦人が座っていた。一目で奥様だとわかった。目が合うと、奥様は柔らかく微笑んだ。ちくり。胸の痛みを悟られないように、静かに礼をして祭壇に向き直った。黒い額縁の中の先生は、最後に会ったときと同じ朗らかな
それからのことは、よく覚えていない。抹香を摘んだかどうかさえ確かでない。覚えているのは、お茶碗の割れる冷たい音だけ。
斎場を後にして、私は必死に自転車を漕いだ。なだらかな、けれど長い坂を登って、この丘を目指した。木陰に腰を下ろして、ハンカチで汗を拭った。スカートが汚れるのなんて構いはしなかった。
――とうとう言えなかった。
整いはじめた息を一瞬止めて、最初に思ったことがそれだった。
秘めたままでいよう。そう自分で決めたはずなのに、永遠に叶わなくなってから後悔するなんて。滑稽すぎて涙が出る。
先生は、言葉を沢山持っていた。言葉を持たない私に、先生はそれを少し分けてくれ、増やし方も教えてくれた。私の中で言葉は、少しずつ、先生への想いと同じ曲線を描いて増えていった。
――先生。
私は、あなたのことが好きでした。
あなたはきっと、それは恋愛感情とは違うものだよ、と眉をハの字になさるでしょう。
けれど、これを。私の胸の内側で燻り続けるこの気持ちを、恋以外になんと呼べばよいのか、私には分からないのです。だって、あなたは教えてくれませんでしたから。
ねえ先生。
私は、確かに、あなたに恋をしていました。
一生恋をしないなんて言いません。だから、もう少しだけ、あなたを想うことを許してください。
鼻の奥で燻る焼香の匂いを、深く吐き出す。
そうして吸い込んだ空気は、夏の匂いがした。
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