残夏
ららしま ゆか
8.13 am
昨夜から降り続いた雨は、今朝にはもう上がっていた。
ベランダに繋がる掃き出し窓を開ける。吹き込んだ風がカーテンを揺らした。サッシに手を掛けたまま、マグカップの中の少し温くなったコーヒーを口に含む。
ミルクも砂糖もなしでコーヒーを飲めるようになって、もう何年経ったろう。
食べ物の好き嫌いは幾らか減った。当たり障りのない振る舞いも、歯に衣を着せることも覚えた。あの頃より僕は大人になった。けれど何故だろう。大人になりきれない、否、大人になることを拒んでいる自分が居る。いつかの昔に自分の一部を置き去りにしてきたのかもしれない。幼稚な空想は、とうに消えた湯気のように霧散した。
カップの中の黒い水面に目を落とす。そして、あの夏の苦さを思う。
あの年も今年と同じように梅雨が長くて、七月の半ばを過ぎても雨が降り続いていた。
病室の窓から見える景色は灰色で、繰り返される日々も代わり映えしなくて、ひとを生かすための場所で僕は、毎日を死んだように過ごした。砂を噛むような食事も、繋がれっぱなしの管も、トイレにだって難儀する自分の身体も、なにもかもが嫌だった。外に出たかった。陽の光を浴びたかった。けれどそれは叶わないと分かっていた。僕は病気だった。
梅雨の
院内学級をサボった日、僕は彼女に出会った。彼女は白い病院着を着ていた。一目で彼女も入院患者なのだと分かった。何処か儚げなひとだった。
彼女と出会ってから、毎日を彼女と過ごした。他愛のない話を沢山した。猫が顔を洗うと雨になる理由や、涙が塩辛い訳、プルースト効果。彼女は博識で、僕が知らないことをなんでも知っていた。
陽当たりのいい談話室の、自販機のすぐ隣のソファーは、僕たちの指定席になった。彼女は缶コーヒー、僕は紙パックのりんごジュース。砂糖もミルクも入っていないコーヒーを、彼女は美味しそうに飲んだ。一口貰ったことがあったが、思わず眉を顰めてしまった。君にはまだ早いかな。そう笑う彼女はものすごく大人に見えた。口直しに含んだりんごジュースはとても甘かった。
彼女からはときどき煙草の臭いがした。見付かると叱られると分かっているのに辞められないのだ、と決まりが悪そうに笑っていた。僕はそんな彼女が嫌いではなかった。
梅雨開け宣言の次の日、退院が決まった。そのことを彼女に告げると、彼女はよかったねえと僕の頭をわしわしと撫でてくれた。あんなに外に出たかったのに、まだ此処に居たいと思ってしまう自分が居た。彼女に出会っていなければ、きっと退院は決まらなかった。だって、僕を病室から連れ出してくれたのは彼女だったから。彼女に会うために僕は、自分の力で病室の外に出たのだ。毎日、点滴スタンドを引き回して。
退院を前日に控えた朝、すっかり管が取れ自由になった身体で病棟を歩き回った。退院する前にもう一度、彼女に会って挨拶がしたかった。けれど彼女は何処にも居なかった。いつもふたりで過ごした談話室にも居なくて途方に暮れた。担当看護師に彼女のことを聞こうとした。そのときはじめて、僕は彼女の名前も知らないことに気が付いた。
その日の夜、僕は彼女の夢を見た。廊下を慌ただしく駆ける足音に逆らって、彼女は僕の枕元にやって来た。彼女はなにも言わなかった。ただ静かに、儚げに笑っただけだった。朝、目が覚めると、微かに煙草の臭いがした。
結局彼女に会えないまま僕は退院した。久しぶりに浴びた陽の光は鋭く尖って、ちくちくと僕の肌を刺した。青空に浮かぶ入道雲。その白さに、彼女を思った。
今にして思うと、あれはただの夢ではなかった。予感や予兆という類のものでなく、現実だった。あの夜、きっと、彼女は。夏の空を見上げるたび感傷的な気分になってしまうのは、心の何処かでそれを理解していたからなのかもしれない。
不意に、溺れるような仕草で飛ぶ一頭の蝶が眼前を過ぎった。思わず目で追い掛ける。ゆらゆらとよろめきながら、蝶は天上を目指す。生き急ぐように舞う蝶は、やがて空に融けて見えなくなった。代わりに、空の色の淡さが視界一杯に広がる。勿忘草色の空に浮かぶ綿雲。空との境は滲んだように薄ぼけていて、けれど雲は一際に白くて、その潔さに目が眩んだ。
遠くから聞こえる蝉の声が耳鳴りのように渦を巻く。
今、無性にあの煙草の臭いが恋しい。
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