第18話 慎重な追跡

 だが、時として原因が分からず、対策を立てられないことがある。それは尾行がバレた、あるいは尾行されていたと分かった瞬間だ。そのような場合、仕事に支障が出るため、そこから一刻も早く撤退しなければならない。しかしその際、すぐに動かない人が一部いる。これは明らかに避けるべき、最悪な選択だろう。どうしてそう言い切れるか。人が見て、考え、認識するという過程の中に、必ず時間差が発生しているからであり、その間に人混みに溶け込めば、大きな代償を払わずに済むからに他ならない。


 ただ、相手がスパイやテロリストなら?上手く逃げれる保証はない。執拗に追跡され、油断した隙に殺される。だからそのような対象に対しては、より慎重に動かざるざるを得ない。もちろん一般人とは違うため、単独での尾行は極めて危険だ。ゆえにか、スパイやテロリストなどの危険人物を追うとなれば、役割分担をしながらチーム単位で尾行するのが当たり前になる。


 とは言えそれは、国や自治体の管轄組織に限定した話。逆に犯罪組織は、常識がなく、秩序もない。そしてまとまりもない。そのため、犯罪組織にいる人々の尾行からは常に、破壊と殺人を伴う恐怖を感じるらしい。本当なのか?尾行されれば分かることだが経験はしたくないという感情が、確かに心の中で渦巻いていた。


 感情には、当たり前のように個人差がある。喜怒哀楽?違う。感情をどう解釈するかという話だ。渦巻くもの。芽生え、巨大化するもの。他にも様々。そして今の私には、若干の不安が寄生虫のように、身体を駆け巡っていた。


「標的を再確認した。後で接触を図る」


 見失ったのはわずか30秒間。時間的に考えれば、ほぼ一瞬。のはずが、標的の左手には、先ほどまでなかった黒色の鞄。そこまで大きいようには見えない。


 これで合わせて3つ。不確定要素その1。標的がどこへ向かうのか。不確定要素その2。標的が手にしている鞄の入手手段。不確定要素その3。鞄の中身。不確定要素その2を特定するのは、既に難しい段階に来ている。しかし鞄の入手先が敵の協力者だった場合は?それこそ、予断を許さない状況になるだろう。


(どうするか……。2~3人をここに残して別のチームと合流するか?)


 取り出した水のボトルを口に含みながら、さり気なく遠くの仲間に合図を送る。指の動き。目の方向。それは情報となって伝わる。間違ってはいけない。正確に、自然と、素早く。そうして認識の一致を瞬時に済ませ、水のボトルを収納してから、仲間の1人を視界の外に置いた。


 ここに長居するわけにはいかない。私は濡れた襟袖にハンカチを当て、湿った水気を拭き取りながら、速くはない足取りで歩くこととした。正直、何で濡れようが、私にとっては大した問題にはならないのだが。


(目的は別だ。果たしてジェイは気づいてくれるだろうか)


 ポケットからハンカチを取り出した時。その際に敢えて、小さく丸めておいた紙片を床に落としておいた。普通の人がその光景を見たら、紙のレシートか、メモ帳の切れ端だと思って拾う事さえない。拾うとすれば、ジェイか、ゴミ収集人。それか、敵のスパイ。さて、どうなるのか。


 正面から近づいてくる仲間が、友人のように呼び掛けてくる。


「よう、ツォッティ。久しぶりだな。元気か?」

「もちろんだ。いつも通り、細心の注意は払ってるけど」

「含みのある言い方じゃないか」

「落とし物をしたんだよ。ついさっきね」


 私は軽いトーンで返した。仲間はともかく、敵にまで落とし物の重要性を悟らせてはいけない。紙片に書かれた暗号を解読されると、次に行う作戦と、取るべき行動が筒抜けになる。そうなると大きな犠牲を払わねば、作戦は完遂できない。


(その時の代償は命か、情報か。あるいは別の……)


 何かを得るには、何かを手放さなければ。私はそうやって家族を手にかけ、長年共にしてきた仲間を殺してきた。好き好んでなどいない苦渋の選択。


 必要ならば、シェーニィもジェイも葬り去る。それくらいの覚悟が無ければ、スパイは務まらない。世間の持つ一般的なイメージは全て、映画などが作り上げたもの。実際のスパイは目立たず、派手な装いもしていない。


「でも大丈夫。大したものじゃない。それよりもお勧めの店があって」

「へぇ、それはどこなんだ?」


 興味を持ったらしいシェーニィに、私は夜の店を紹介した。そこなら騒がしく、閉鎖的であるがために、どんな話でもしやすく、何かあっても即対処できる。それが敵との遭遇であっても、仲間の裏切りであっても。


 トラブルに見舞われるたび、スパイは冷静に最善策を実行していく。しかし思わぬ形で襲われ、拷問されることもある。それが敵対組織よるものならば、状況は別として気持ちの整理はつく。だが、仲間だと信じていた人間が、敵のスパイだと知ってしまったなら、一瞬でも動揺はする。


「僕の演技、結構上手かったでしょう?」


 約半年間の苦楽を共にしてきたヴェイズことセアが喋る。


「苦労したんですよ。どうやって貴方に近づき、信頼を得るかって部分でね」

「そうか……。それで何をした?」

「余計なことは口にしない主義なんですね。簡単なことですよ。僕と同じような人に口利きしてもらいました。後はご想像の通りです」


 駆け引きとは、情報の質と量で決まると言ってもいい。そしてそれを工夫しながら繰り返すことで、徐々にではあるが、自分に有利なところまで持っていくのが、一般人のふりをしながら生きるスパイの仕事だ。ただ、今回はそれが使えない。


「なるほど。お見事だよ」

「ですよね。僕的にもこれは、感嘆に値すると思うんです」


 確かに、セアの計画は完璧だったのかもしれない。そこは素直に褒めるべきだろう。とはいえ、いつも俺の傍には複数人がいる。


「でも、疑問に思ってるんでしょうね。目撃者もいたはずなのに、と」


 人通りの多い場所に居れば、それだけ通報されるリスクも高くなる。どんな手を使ったとしても、目撃者全員の口を封じるのは不可能。それなら。


「クッ……!」


 突如、伝わる重石のような衝撃。それが腹部にぶち込まれ、椅子に拘束されたまま、後ろに倒れた。痛みのあまり、途切れそうな思考。それを何とか繋ぎ止めるため、荒い息を整えていると、頭上から声を掛けられた。


「それくらい、どうにもでもなりますよ」


 立ち止まり俺を見下ろしていたセアが、しゃがみ込んで不気味に笑う。


「酒を飲ませたらどうなります?毒薬や睡眠薬の場合は?答えは分かり切っているはずです。通常の状態でいられなくなったら、介抱するふりして始末すればいい」


 ああ、そういう事か。標的の邪魔になる存在は消す。そして、周りには介抱する親切な人としての記憶を植え付け、通報させない。


「みんな、殺したんだな」

「さあ?僕は全く知らないですよ。ですから、聞くだけ無駄です」

「それを判断するのは、お前じゃない」


 そう言った瞬間、強烈な蹴りを脇腹に食らった。痛いなんて比じゃない。まるで押しつぶされるような圧迫感。


「この状況で、よくそんなことが言えますね」


 セアが冷酷さを瞳に宿らせ、俺の脇腹を執拗に踏みつける。


「分からないんですか?貴方の生殺与奪は、僕が握っているんですよ」

「そんなことは承知の上だよ」

「なら何のために?」

「それを考えるのが君の仕事だろう?」


 俺が答えると、セアは残念な表情を見せながら、俺の真横を通り過ぎて、後ろに向かって歩いていった。言うまでもなく、何も聞こえてこない。偶然ではない。スパイというのは、慎重な追跡や、速やかな離脱、あるいは逃走のために、訓練で足音を消して移動する方法を習得させられている。


 ただいくら時間が過ぎても、何も変化がない。聞こえるのは自らの心臓音と、呼吸音、そして体がよじれる音のみ。静かであるというのは、ここまで辛いのか。シンプルながら、よく考えられた拷問だと思ったその刹那。肉と骨が悲鳴を上げた。


「ぐわあああああ……!」

「どうしたんです?そんな声出して。ビックリしましたか?」

「どうだか。殺すならさっさと殺せ」

「そうしたい所なんですが、貴方に是非とも、紹介したい人がいまして」


 セアは満面の笑みで回答を濁らせ、横にいる人物を指さした。スラリとした長身に、横長の目、肩まで伸びる長い黒髪が特徴的だ。


「マストルに所属するゲイリーさんです」

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