第37話 付添人は兄
平日だが、学校には健太が休みの連絡を入れている。
大切な静のためならば、元気にジーンズと薄手のパーカーに着替えた一ノ瀬太路が発熱していると嘘をつくくらい朝飯前である。
太路の家から静の寮の最寄り駅までは電車で2時間半かかる。
そこから、更に電車で1時間と少しを経て太路と静は大都会に降り立った。
「人酔いしそうだよ。よく静はこんな所で仕事できるな」
と静の方へと振り向いたら、小柄な静が電車に乗り込もうとする波にさらわれて行く。
「静!」
太路が慌てて駆け寄り、静の手を取る。
「迷子になってる場合じゃない。会場まで手を離さないからね」
「う……うん」
静も人混みは苦手だったな、と顔を赤くする静を見て太路は思い出した。
本当に、静はよくがんばっている。僕と健ちゃんにだけはめちゃくちゃ愚痴や文句を言いながらでも、どんな仕事も懸命に取り組んで、こうして新しい挑戦もこなす。
「七瀬静です」
「メールの確認をさせていただきます。はい、ありがとうございます。七瀬さんですね。ホテル内ではこちらを必ず付けてください」
新人女優を発掘するべく行われるオーディション会場はホテルだ。
宴会場の入り口で受付を済ますと、ここで付添人とはお別れさせられるらしい。
早めに着いて良かった。
受付を終えた静が再び太路の手をギュッとつかむ。
まだ時間はある。太路は静の手を引っ張って廊下の角を曲がった。
「静、大丈夫だよ。演技経験のないことがオーディションの参加条件なんだから、求められているのは演技の上手さじゃない。一生懸命演じる姿勢、この仕事をやりたいって熱意だよ」
「うん」
静は世間的には肝が据わった怖いもの知らずだと思われているが、根っこは臆病者である。
太路はよく分かっている。どう言えば静が自信を持てるのか。
「地元のみんなが静を応援してる。佐藤のおじさんも鈴木のばあちゃんも高橋のじいちゃんも田中のおっさんも伊藤仙人も合格祈願に寺社巡りしてたよ。いつものコース」
「うん」
「健ちゃんも言ってた。僕は静のバッテリーだから、僕が付き添いなら静は絶対に合格するって」
うつむいていた静が顔を上げた。
「僕もそう思う。静は絶対に合格する」
断言して、落ちた時にどうするんだと思われるかもしれないが、静にその心配は無用だ。
「そうよね。この私を落とすようなことがあったら、関係者の目が腐ってるってだけだもんね」
「そうだよ。また違うオーディション受けて、合格して大女優になって見返してやればいい」
「違うオーディションなんて受けない。私は絶対に合格するから」
いつも通り勝気に笑って、手を離すと受付でもらった名札を付けた静は背筋を伸ばして宴会場へと入って行った。
太路も受付で渡された付添人の証明であるヒモで結ばれた札を首からぶら下げる。
久しぶりに手をつないだな。
唐突に手持無沙汰になった右手を太路は見つめた。
小さい時は毎日のように手をつなごうって太路の手を握ってきた静だったが、いつからか言わなくなった。
「付き添いの方はこちらでお待ちください」
スタッフの人が呼び掛けている。
待機室の空気はきっと最悪だろうと外に出ようかとも思ったが、大都会に慣れていない太路がひとりで過ごせる場所など存在しない。
渋々スタッフに従い、教室くらいの広さはある真っ白な壁の無機質な部屋に入った。
中には長椅子が壁に沿ってぐるりと置かれていて、距離があるとは言え、全員の顔が見回せてしまう。
太路は気まずくて、椅子に座るとスマホを取り出した。
ネクストジェネレーション・サードエディションオーディションが行われているアプリを立ち上げると、平日昼間だというのに何人かは配信中と光っている。
とりあえず一番上の子をタップした。すると、
「わあ! 500ポイントもありがとうございます!」
と甲高い声がして、慌てて退室ボタンを押した。
周りの視線を感じたくない太路は、足と腕を組み目を閉じて寝たふりをしてみた。
500ポイントか……あの子、稼いでたな。どんなパフォーマンスをしているのか気になるが、イヤホンを忘れて来てしまった。ここで見るのは無理だ。
焦りが募る。
まさか、ニコちゃんがあんな――
「すみません」
肩をポンポンと叩かれ、太路は目を開いた。
40代か50代くらいの赤いフレームのメガネが印象的なご婦人の顔が見える。
「はい」
「ネクジェネのセイさんの付き添いの方ですよね。事務所スタッフさんですか?」
太路は良く言えば大人びている、悪く言えば老けている。
とは言え、この待機室にいるほとんどが参加者の保護者だと思われるが、さすがに静の親には到底見えないだろう。
どうしてこんな若造が付き添いを? と疑問に思わているらしい。
「いえ、事務所とは無関係です。僕は七瀬静の兄なので」
「兄?」
「はい。静の保護者です」
「そうでしたか。お休みのところ失礼しました」
にこやかに笑って軽く頭を下げ、ご婦人は待機室を出て行った。
それを見て、太路は違和感を覚えた。
あの人……保護者じゃないんだ。
この部屋にいる人は皆、付添人に渡された札をつけている。ご婦人には、それがなかった。
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