「そういやセンパイってカノジョからネコチャン呼ばわりされてんの?」

 後輩からそう聞かれて、思考が一瞬停止した。

 女遊びが激しいらしい生意気な後輩はそんな自分の顔を見て笑っている。

 ネコチャン、猫ちゃん、猫?

 猫扱いされている?

 誰に? まさかアレに?

「さっきそこであったんだよね。最初はオレのことわかってなかったっぽいけど、しばらくして『ああ、ネコチヤンのお友達か』って」

 ネコチヤン、そんなふざけた呼び方をよりによってこの愉快犯の前でしたのかアレは。

 というかそもそもアレはカノジョとかではない、じゃあ何かと言われると返答に困るが。

 何ヶ月か前にヘマをして路地裏で蹲っていたところに無謀に声をかけてきたのがアレだった。

 見てしまったからにはほっとけない、と無理矢理アレの家まで引き摺られた上に風呂場にブチ込まれた時、世の中には随分と頭のおかしい人間がいるものだと呆然とした。

 一人暮らしの女が男を自宅に引き摺り込むな、自分が幼い子供だったとするならまだいいのかもしれないが、たいして歳の変わらない見知らぬ男を何故家に連れ込む。

 風呂に入れただけでも大概だが、夕食まで用意した挙句もう遅いから泊まっていっていいよとかほざき始めたときにはこいつ狂ってるな、と思った。

 そういうのがお望みなのかそれともこっちを嵌めるつもりなのかと勘ぐっていたら、アレはささっと後片付けを終わらせて一人で床に突っ伏して寝始めやがった、開いた口が塞がらないとはまさにああいうことを言うのだと思う。

 アレは多分、常識を知らないというか危機感をどこかに置き忘れてきたのだと思う。

 最初は襲われても返り討ちにできるくらい強いのだろうかとか、それとも貞操観念がないのかとか色々考えてみたが、最終的な結論はただの考えなしの間抜けで馬鹿な阿呆だった。

 そしてそんな阿呆相手にごちゃごちゃ考えるのも馬鹿らしくなったのでその日は普通に寝た、こっちで寝ていいと敷かれた布団を指差すアレに言われていたけど、さすがにどうかと思ったので床で寝た。

 どうせ眠れないだろうと思っていたが意外と眠れて、気がついたら朝になっていた。

 その後は朝食を食べさせられて『大丈夫そうだね。もうあんな風に一人で蹲っていちゃ駄目だよ。次があったら誰でもいいから助けを呼んで』と見送られた。

 アレの家を出て、しばらくするとあれは本当にあった出来事だったのか、実は狐か狸にでも化かされたんじゃなかろうか、とも思った。

 それで後日なんとなくアレの自宅付近をうろついていたら、呑気に一人で歩いているアレを発見した。

 どこかの高校の制服を着て、スーパーマーケットの袋を重たそうに抱えていた。

 随分と頼りない姿だった。

 そして遠目に見ていたからこそ、怪しげな男がアレのあとをつけているのに気付いた。

 そいつを蹴り飛ばして締め上げてみれば、その不審者はアレのストーカーだった。

 その不審者をタコ殴りにして、アレの隠し撮り写真が詰め込まれた携帯端末を粉微塵にする勢いで蹴り潰し、他にデータがあれば即座に消すこと、同じようなことをしたら二度と朝日を拝めない身体にしてやると散々脅した後に解放した。

 一仕事終えた自分はこう思った。

 アレを放置すると、後々ひどいことになる。

 アレはストーカーの存在にはカケラも気付いていないようだった、考えなしの間抜けで馬鹿な阿呆な上に、呑気で危機感が欠片もない無防備な女だからだろう。

 見知らぬ馬鹿で間抜けな女がその危機感のなさから何をされようとどうでもいいが、アレは一応自分の恩人である。

 なので、何かあったら非常に目覚めが悪い。


 そういうわけで自分はアレの家に通うようになった、何かあったとしても女一人くらいなら守れる自信はあったので。

 多くを語らず家に通い詰めるようになった自分のことをアレは呑気に受け入れた、いつだったか「うちってそんなに居心地いいの?」と聞かれたことすらある。

 居心地も悪いも何も自分はアレを守ってやっているのである、実際アレは変態を引きつけやすい性質であったらしく、アレが寝ているうちに探してみれば盗聴器が見つかったし、こっそり遠くから見守っていればアレのあとをつけている変態や、レイプしようという気が満々な変態を何人も発見した。

 そういう不届き者を何度も何度も蹴飛ばして再起不能にし続けているが、おそろしく察しが悪く疎いアレは一切気付いていない。

 借りを返すつもりで始めた狩りも通いも、本当はある程度でやめるつもりだった。

 けどあまりにもアレが無防備だったのと、なんだかんだいってあの家の居心地が良かったのでずるずると続いている。

 間抜けで馬鹿な阿呆なくせに、アレは他者との距離を取るのが上手かった。

 そして妙に懐が広い、少しでも危機感を煽らせようとわざと乱暴に触れても「まあいいか」みたいな顔でへらりと受け入れてくる。

 何度か徹底的に痛めつけてブチ犯して、心にも身体にも一生消えない傷を刻み込んでやろうかとも思ったが、あの「まあいいか」という顔に毒気が抜かれた上に、アレの体温も肌触りも妙に癖になるせいでただ触れているだけでこちらも「もうこれでいいや」という気になってくる。

 アレは多分、おそろしい生き物だ。

 だけどとても弱い生き物だから、他のものに手を出されないように守らなければ。


 猫呼ばわりされている、というか猫扱いされていると考えると妙に腑に落ちた。

 確かにあれは路地裏で蹲っている不審な男への対応ではない、傷だらけの野良猫への対応だった。

 ある程度乱暴に触っても「猫ちゃん(気質)だから仕方ねーな、ほれほれ」という反応だったとすると腹が立つほどしっくりくる。

 そりゃあもちろん、というか流石に服を脱がせようとしたり事に及ぼうとしたら抵抗くらいはするだろうが、その段階まで進んだことはないのでわからない。

 というかアレだとそういったことすら仕方ねーなで済ませそうだから怖い。

 ほぼ赤の他人、それも数日に一度の単位で勝手に押しかけてくる不審な男に対してもそうなのだから、きっと自分以外の誰かにも似たような対応をするに違いない。

 そう思ったら腹の中を真っ黒でべったりとした泥で満たされたような不快感を感じた。

 イライラする、むしゃくしゃする。

 誰でもいいから誰かを半殺し程度にボコボコにしてやりたい気分を抱えて歩いていたら、自然と足がアレの家に向かっていた。

 チャイムを鳴らすと無防備にドアが開く、「また来たの」とか呑気にいうアレを抱きしめて首筋を軽く噛む。

「いっ!!?」

 噛み跡が残った首筋を見下ろして、少しだけ気がおさまってきた。

 温い身体を抱きすくめて、今この瞬間だけは腕の中の生き物が自分だけのものであるという実感が、腹の中にべったりと張り付く黒色の泥を本当に少しずつ消していく。

 金髪に黒のメッシュを入れた後輩の言葉を思い出す。

 カノジョ? 冗談じゃない、そんな軽い言葉で済ませてたまるか。

 これはいつか、自分がその全てを所有するべき何かだ。


 妹がバラバラ死体で見つかった。

 腹違いの妹だ、ちょうど六つの誕生日を迎えた直後の出来事だった。

 少し前に無理矢理繋がされた小さな手のひらの指は全て切り取られ、よく泣きよく笑う目は両方とも抉り取られていた。

 遠い異国に帰ったはずの実母の生首が発見された。

 父親とは随分前に縁を切っていたのに、自分達の関係者であったが故に殺されたらしい。

 養母が複数の覆面男に生きたまま解剖される映像が記録された記憶媒体が屋敷のポストに投函されていた。

 映像に写っていた覆面男達曰く、これは復讐なのだという。

 父親や父親の部下達に、妻や娘、妹や恋人を殺されたから、その復讐だと。

 目には目を、歯には歯を、だから自分達の『女』を奪ったお前らの『女』も奪ってやる、と。

 そう宣言した覆面男達が狂ったように笑ったところで映像は途切れていた。

 父親や父親の部下達は怒りに打ち震えていた、自分の妹や二人の母だけでなく、父親の部下達の関係者の女も何人か被害にあっているらしい。

 怒り狂った父親達は犯人達を探し出して血祭りにあげた、だけど父親達は多くの人間から恨みを買っていたらしく、いくら叩き潰しても覆面達はゴキブリのようにいくらでも湧いてくる。

 この国はここまで治安が悪いのかと、治安が悪い代表の家の関係者である自分が頭を抱えたくなるくらい、酷い事件が何度も起こった。

 だから自分は、アレの元に通うのをやめた。

 自分の関係者であるだけで殺される可能性があったからだ。

 一部の人間にアレが自分のお気に入りであることは知られていたので、しばらく監視は続けていたが幸い何事も起こらなかった。

 覆面達がアレに注意を向けないように、自分はやりたくもない女遊びをするようになった。

 自分が他の女に目を向けていれば、アレへの興味をすっかり失ったと思わすことができれば、覆面達もアレに関心を向けることはないだろう。

 だから触りたくもない女に触れて、言いたくもない上っ面だけの愛の言葉を囁いた。

 最初に見知らぬ女を引っ掛けて抱いた後、その女が寝付いた後に耐えきれずにトイレに駆け込み胃の中身を全てぶちまけた。

 それでも少しでもアレが殺される確率が低くなるのであれば、構わなかった。

 一人に執着しているように見られたらその女が殺される、だから何人もの女と関係を持って、誰かが殺される可能性を少しでも潰そうとした。

 そんなことをやっているうちにいつの間にか自分は大層な色狂いだと言われるようになった。

 月日が流れて三年経った、覆面達の幾人かは父親達が細切れにして魚の餌にしたが、主犯を含めた大多数がまだ捕まえられていない状態だった。


 覆面のうちの一人を追い詰めどうにか殺したが、反撃を喰らい腹を刺された。

 傷は深く、出血もひどい、というかどうも毒を塗られていたようだ。

 おそらくこれはもう助からない。

 殺した覆面は妹を殺した犯人だったらしい、殺した後に覆面をひっぺがしてみたら自分よりも少し年下に見える若い女だった。

 声色から女だというのはわかっていたが、自分とそれほど変わらぬ歳だとは思っていなかったので少し驚いた。

 それにしても、随分と無様なやられっぷりだ。

 普通だったらあんなの一瞬で返り討ちにできるのだが、煽られたので冷静でいられなかったのだ。

 とはいえ生きたまま切り刻ざまれた妹の泣き声の声真似をされて発狂せずに冷静でいられる方が異常ではあると思うので、反省はしても後悔はしていない。

 刺された腹が痛い、血が抜けていくせいで酷く寒い。

 顔を上げると雪がちらつき始めた、そこで初めてこの場がどこかで見たことがある風景と同じである事に気づいた。

 アレの家の近くにある路地裏の一つ、今思い返すとアレの家の周辺はやけに人通りの少ない路地裏ばかりであまり治安がよろしくなかった。

 もう死ぬのか、と思った時に感じたのは絶望ではなかった。

 むしろ少し安堵した、もう触りたくもない有象無象の女共の相手をせずに済むのだと。

 なんだ、さっさと死ねばあんなことしなくて済んだのか。

 思わず苦笑した、それでもやっぱり今でなければ死を選択することなんてできなかっただろうとも思う。

 二人の母の仇はきっと父が討つだろう、娘の仇も討つ気満々だったらしいので、余計なことをと怒鳴り散らされるかもしれない。

 思わず笑う、笑ったせいで口から大量に血が溢れた。

 もう眠ってしまおうかと思ったけれど、意に反して足が勝手に進む。

 身体は重い、正直言ってもう動きたくない、どうせ死ぬならもう楽になりたい。

 それなのに自分はどこに向かっているのか、その答えは割とすぐに分かった。

 暗い路地裏を歩き続けて、たどり着いたのはアレと初めて出会った場所。

 アレに拾われた時と同じように壁に寄りかかり、蹲る。

 何をやっているんだろうか、自分は。

 だけど、ここで死ぬのなら。

 足音と、ビニール袋が擦れるような音が聞こえる。

 きっと走馬灯の一種だろう、あの時も意識が朦朧としているうちにこの音を聞いた。

 足音は近付いてきているような気がした、走馬灯にしてはやけに鮮明な音だと思った直後、大きな溜息が聞こえてきた。

 なんとなく顔を上げると、重そうなビニール袋を両手に持っているアレが空を見上げていた。

 走馬灯にしてはあの時と見た目が違うな、なんて思っていたらこちらを向いたアレと目があった。

 服装が違う、顔付きも少し違う、走馬灯のくせになんだこれ。

「……そういうふうに一人で蹲っているな、次があったら助けを呼べって言った覚えがあるのだけど、忘れた?」

 呆れたような声色で、アレは聞き覚えのない台詞を吐いた。

 は?

 こんなことを言われた覚えはない、じゃあこれはなんだ?

 考えずとも答えはすぐに出た。

 ああ、この大馬鹿女。

 夜中に女一人でこんな路地裏に入り込むな。

 襲われてもなんの文句も言えねーぞ。

 アレはこちらの状態に今更気付いたらしく、顔を歪めてビニール袋をその辺に放り捨てる。

 どしゃりがちゃりとやけに重そうな音が響く。

 駆け寄ってきたアレは自分の腹の傷を見て絶句して、悲鳴を上げる。

「きゅ、救急車……!! いや、先に止血……」

 あわあわと携帯端末やらハンカチやらを取り出し始めたアレに両腕を伸ばして抱き竦めた。

 ああ、温かい。

「は、はなせ……止血と救急車……このままだと死ぬぞお前……」

 うるさい、動くな。久しぶりなんだから堪能させろ。

 それにお前が何をしたところで自分はもう死ぬ。

 アレはこちらの腕から逃れようともがいているが、動きがぎこちない。

 血塗れの男に抱き締められるような状況に陥って、ようやく危機感でも覚えたのだろうか。

 最期に顔が見たかったので片手でアレの顎を掴んでこちらを向かせる。

 涙で潤んだ目と目が合う。

 唇を舐めてやると、アレは狐に化かされたような顔でこちらを見た。

 その顔があんまりにもおかしかったので、思わず笑ってしまった。

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ネコチヤン 朝霧 @asagiri

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