ネコチヤン

朝霧

 今日もまたネコチヤンが来た。

 ネコチヤンは推定野良猫である、四ヶ月ほど前に傷だらけで路地裏に蹲っていたのをなんとなく放置できずに手当てしたのが出会いだった。

 傷自体は大した事はなかったのだが、雪がちらつくような寒い日であったので身体が冷え切っていて、いつ死んでしまってもおかしくはないように見えた。

 だから仕方なく家まで連れ帰って風呂場にたたき込み、普段は節約的な観点から滅多につけないストーブをつけて部屋を温めた。

 お腹が空いていそうだったのでご飯もあげて、夜も遅かったのでその晩だけ一泊させて、朝ごはんをあげたあと野に放った。

 ネコチヤンとはそれきりだと思ったのだが、何でか知らんがその日以降時折やってくるようになったのである。

 懐かれた、というわけではないのだと思う。

 ただ面倒を見てくれる都合の良い便利なニンゲン扱いされているだけなのだろう、ネコチヤンという生き物は多分そういう生き物なのだ。


 ネコチヤンは気分屋である。

 構え構えとこちらの作業を積極的に邪魔してくることもあれば、人んちにわざわざ来たくせにちょっとでも構おうとすると無言で威嚇してくることもある。

 威嚇するくらいなら来るなとは度々思うが、ネコチヤン相手にそんなことを考えても仕方がないので気にしないことにした。

 それにネコチヤンが威嚇してくる日は大概天気が悪い、ひょっとしたら雨宿り的な意味合いで仕方なく来ているだけなのかもしれない。

 そんな今日の天気は快晴、だけど天気予報によると明日から天気が崩れるらしい。

 ネコチヤンの今日の気分は普通であるようだ、そして今日は構ってちゃんモードらしく、こっちの作業を邪魔してくる。

 明日は数学の小テストなのでそのための勉強をやっておきたいのだけど、膝枕と頭のなでなでを強要してくる、膝枕だけならまだ勉強は続行できるけど、なでなでまで追加になるとちょっと難しい。

 さっきから右手で式を書きつつ左手でネコチヤンを撫でているのだけど、片手だけだとノートがずれて書きにくい。

 しかもネコチヤンは片手間で相手にされていることに大層ご不満らしく、ちょいちょい妨害してくる。

 ネコチヤンに長居する気がないのであれば今この瞬間だけ構えば終わりになるのだが、今日は泊まる気らしいしおそらく今日はずっとかまってちゃんモードだろうから後で勉強の時間が取れるとも思えない。

 なので妨害の手を阻止しつつ問題を解く、あんまり集中できてないしやる意味あるのかこれ、とも思いはするがやらないよりはマシであろうと思う。

「明日小テストなのだけど」

 ノートに伸びてくる手をやんわりと戻しつつそう言ってはみたけど、結局ノートもシャーペンもその辺に弾き飛ばされ両腕での抱っこを強要された。

 ネコチヤンには私の都合なんてどうでもいいのだ、ただ自分の欲求さえ満たされればそれでいいのだろう。

 そして欲求が満たされなければめっちゃ不機嫌になる。

 なので仕方がないので明日の小テストは諦めることにした。


 小テストの結果は思っていたよりも悪くはなかった。

 放課後、すぐに家に帰ろうかと思ったけど、ふとあることを思いついてそれを実行することにした。

「あら、こんなところで会うなんて珍しいわね」

「あ、部長」

 思いついたこと、図書室での勉強をしていたら部長に話しかけられた。

 家にネコチヤンがいると勉強できないことの方が多いので、それだったらいっそ家以外の場所で勉強すればいい、と思い立ったのである。

「お勉強? 数学の……ひえ……嫌なやつだあ……」

 理数系が壊滅的であるらしい部長はこちらの手元を覗き込んですっぱい顔をした。

「この辺難しいので一応復習を、と思いまして……」

「そう……頑張ってね」

 ファイト、と言いながら部長は民俗学コーナーに消えていった、そういえば次の部誌のネタどうしようか……


 勉強は一時間ほどで切り上げた。

 そのあと図書室内をぐるりと回ってネタになりそうなものを探した。

 あんまりめぼしいものがなかったので、家に帰ってから考えることにした、本当に何も思い浮かばなければ適当に目に入った単語で無理矢理捻り出そうと思う。

 学校を出て、コンビニであまいものを買ってから家に帰ったら、自分ちのドアの前にネコチヤンがいた。

 見るからに機嫌が悪そうだった、ちょっと前に来たという感じではないのでひょっとしてずっと待っていたのだろうか?

 ネコチヤンはこちらの姿を見るなり思い切り睨んできた。

「ご、ごめん……」

 思わず謝ったけど別になんの約束もしていないのである。

 

 家の中に入るなり飛びつかれた、耐えきれずに床に転がる。

「ちょっと……」

 あまいものが入っているビニール袋も何処かにぶん投げられる、中身は飴とチョコと金平糖とマシュマロなので今くらいの衝撃では割れたり潰れたりはしていないだろうけど。

 仰向けに倒れたところで上に乗られる、胸に乗せられた顔が不満げだったので頭を撫でると本当に少しだけ表情が和らいだ。

 不満げなのも機嫌悪そうなのも相変わらず、勘弁してほしいなと思ったけれど黙っていた。

 ネコチヤン相手に何を言っても基本的に無駄なので。

 それに全く不満がないわけではない。

 顔も怖いし態度も悪いし、俺様何様お猫様だし。

 けれど素直になれないくせに私にこういう風にくっついていたいところとか撫でると嬉しそうにするところとかは可愛いので、なんかもうこれでいいか、と思っている。


 ネコチヤンはしばらく不満げに私の顔を睨んでいたけど、一時間くらい経ったら寝てしまった。

 重い。

 どかしたいけどきっとちょっと身動きをとっただけで即座に目を覚まして睨んでくるのだろう、そして機嫌が酷い時は噛まれる。

 以前首を噛まれた時は死を覚悟したし、しばらくあとが残った。

 もうあんなのはごめんなので目を覚ますまでおとなしくしておくのが無難だろう。

 ネコチヤンは基本的に体温が低い、というか冷え性らしく手足なんかは大体氷みたいに冷たい。

 それでも私にひっついているとだんだん温くなっていく、今は眠っているのもあるのだろうけど、結構温かい。

 寝転がっている床は硬いし冷たい、ネコチヤンは重い。

 寝床としては最悪に近しいけど、それでもネコチヤンが温いのでだんだん眠たくなってきた。


 頬をぺしぺしやられて目を覚ます、すっかり暗くなっていた。

 自分の上に乗っかったままのネコチヤンの機嫌は直っているようだけど、何故か目が合うなり盛大に溜息をつかれた。

 私が覚醒したのを確認したネコチヤンは私の上から退いた。

 起き上がって体を伸ばし、立ち上がる。

 カーテンを閉めて部屋の照明をつける、ついでにポケットの中の携帯端末を確認すると、七時をもう過ぎていた。

 今日はもう何もするつもりが起きなかったので、ご飯は休日に冷凍しておいたお米とおかずを適当にチンして食べることにした。

 どうせ食べていくのだろうと思ったのでついでにネコチヤンのご飯も用意した。


 ネコチヤンは別に毎日家に来るわけではない。

 時々連続でくることもあるけど、大体は何日かに一度のペースで来る。

 そして来ない時は本当に来ない、どっかでくたばっているんじゃなかろうかとなんとなく不安になった頃に何食わぬ顔でひょっこりやってくる。

 ネコチヤンというのはそういう生き物なのである。

 そんなネコチヤンだが、今日初めて町中で見かけた。

 後ろにお友達らしきのをぞろぞろ引き連れていたので、遠目にスルーしようと思ったけど目があった。

 視線でこっちに来いと言われたが、さすがに少しためらった。

 だって後ろにいっぱいいる、これからいわゆる集会というやつなんではなかろうか?

 けれど会釈して手を振るために手をあげようとしたらめちゃくちゃ怖い顔で睨まれたので渋々近寄った。

 ネコチヤンはお友達に私を見せたかったらしい。

 よくわからないけどこれには手を出すなとかなんとか言ってたっぽい。

 ネコチヤンはやっぱり他に用事があったようでそれだけでお友達を引き連れて去っていった。


 今日はネコチヤンのお友達に絡まれた。

 休日だったのでお米と牛乳と数日後までのおかずの材料を買いに行った帰りだった。

 金色に黒のと黒色に白のネコチヤンのお友達、顔つきが似ていたのでひょっとしたら兄弟だったのかもしれない。

 最初に絡んできたのは金色に黒の方、どうしたものかと困っているうちに黒色に白の方が現れて止めてくれた。

 金色に黒の方はタラシっぽかったけど、黒色に白の方はマジメくんらしい。

 金色に黒の方は本当に困り切っていた私の顔を見てケラケラ笑っていたけど、黒色に白の方はそんな金色に黒の方に一撃入れた後、私の方を見てちょっとションボリしていた。

 黒色に白の方は全然悪くないしむしろ助かったのでありがとうを言っておいた。

 それで一人で帰ろうとしたら黒色に白の方が『本当にそんな大荷物で大丈夫か……?』って顔で見てきたけど、別に問題はなかったのでその場を去った。

 その日の夕方、ネコチヤンが家に来た。

 ちょっと機嫌が悪そうだった、なでなでや抱っこは強要されなかったけど傍から離れようとしない。

 夜寝る時も布団の中でぴったりひっついて離れようとしない。

 寝苦しいのでもう少し離れて欲しかったけど、何様俺様お猫様なネコチヤンには何を言っても無駄なので、しかたねえなと思いつつ目を閉じた。


 また町中でネコチヤンを発見した。

 今度はお友達ではなくちっちゃなちっちゃなコネコチヤンを連れていた。

 どうやら妹であるらしい。

 コネコチヤンはネコチヤンと違って大層愛想がよく、にこにこ笑顔が可愛らしい女の子だった。

 一方ネコチヤンはコネコチヤンのお兄ちゃんをやっているところをうっかり私に見られたのが気恥ずかしかったらしく、ずっと機嫌が悪そうだった。

 結構怖い顔をしていたけど、コネコチヤンはネコチヤンのそういう顔を見慣れているのか特に気にせずじゃれついていた。

 なんだか微笑ましいなあと頬が緩んだけど、その顔が気に入らなかったのかネコチヤンに思いっきり頬をつねり上げられた。

 そこまでやらなくても良くない?


 ある日を境にネコチヤンが来なくなった。

 最初の一ヶ月は忙しいのかな、と思った。

 二ヶ月経てば嫌われたかな、と思った。

 半年も経てば、もうきっと生涯あの姿を見ることはないのだろうと諦めがついた。

 出会いも唐突だったが、別れも突然で予感も予兆も何もない。

 けどまあそんなものだろう、それがネコチヤンという生き物だし、それがニンゲンの人生ってやつなのだから。

 死んでいるとは思わないことにした、生きてどこかで気に入った人間を下僕にして好き勝手生きているのだろうと思った方が、精神的に楽だったから。


 ネコチヤンがいなくなってから四年程の年月が流れた。

 ネコチヤンがいようといなかろうと、私の人生はきっと何も変わらなかったのだろう。

 だけど時折あのぬくもりや重みをこいしく思うことがある、パズルのピースのいくつかの、その端っこが欠けているような居心地の悪さを感じることがある。

 だけどそれがきっと人生ってやつなのだ、足りないものも欠けたものもあるのが普通の人生、私の場合は欠けも欠損も少ない方なのだろうから、きっと不幸な人よりもずっとマシな人生を送っている。

 そうやって、人より恵まれていると言い聞かせながら幸せなふりをして、生きている。

 それでも寂しいなあ、なんてポエミーに浸りながら歩いているのも、両手に引っ下げたビニール袋の重みを忘れるためだったりする。

 やっぱり米と牛乳はダメだ、その上今日飲むつもりの酒まで入っているので重いったりゃありゃしない。

 それでももうすぐこの重みからも解放される、後ちょっとで家に着く。

 なんて思っていたら雪がちらつき始めた。

 昔は雪が降ったらその物珍しさにはしゃいでいたけど、今は特に楽しくもなんともない。

 電車は遅延するし、転ぶし、スーパーからものが消えるし、転ぶし、あの日のことを思い出して寂しくなるし、寒いし、そして何よりも転ぶのだ。

 ああ、嫌だなあなんて思って、家に急ぐ。

 急いだ甲斐があって家が見えてきた、それと同時にどの近くにある、大きな生き物がポッカリと大口を開いているような暗い路地裏の入り口も。

 荷物は重い、米と牛乳と酒瓶のコラボはものすごく重い。

 それでもいつかのあの日のように気まぐれを起こした私はその暗い路地裏に入り込む。

 それから少し歩いて、やっぱりいないな、これと同じことするのって何度目だっけ、と踵を返そうとした時だった。

 視界の先の方に何かが見えた。

 ゆっくりと近寄ると、いつかと同じようにそこに何かが蹲っている。

 思わず空を見上げて溜息を、雪は途切れず振り続ける、途切れるどころか増えていく。

 視線を戻して、目があった。

「……そういうふうに一人で蹲っているな、次があったら助けを呼べって言った覚えがあるのだけど、忘れた?」

 言っているうちにふわりと血の臭いがした、あの日よりもボロボロ具合が酷い、というかお腹が真っ赤なんだけど、どういうこと?

 ビニール袋をその辺に放り投げて駆け寄る。

 暗くてよく見えない、だけど酷い血の臭いがする、赤いところに目をよくこらすと大きな傷と、そこから溢れ続ける血が見えた。

 傷が大きい、血が、どうしよう、溢れてる。

 手当てでどうにかできるものではないことは素人目でもわかった。

「きゅ、救急車……!! いや、先に止血……」

 右手で携帯端末を、左手でハンカチをポケットから取り出しながらしゃがみ込んでハンカチを傷口に押し当てようとした。

 その前に腕が伸びてくる、動かない方が、と言おうとしたところで両腕が背に回って抱き竦められる。

 ゾッとするほど冷たい身体と密着する、血の臭いが強くなる。

「は、はなせ……止血と救急車……このままだと死ぬぞお前……」

 抱き竦められた拍子に端末は取り落としてしまった、画面の光が遠くに見える、手を伸ばしただけだと届かない。

 早く、どうにかしないと、そう思っても抱き竦めて腕の力が強くて振り解けない、というかあんまり動くと傷に障りそうで怖い。

 内心パニックに陥っていたら、こちらを締め付ける腕の力が弱まった。

 今のうちに、と思っていたら片手で顎を掴まれ無理矢理上を向かされる。

 満足そうに笑う目と目があって、唇を舐められた。

 血の味がした。

 微かな笑い声が聞こえてきたけど、すぐに途切れた。

 背に回っていた腕から力が抜けていた。

 聞こえてくる呼吸の音が自分のものだけになっている。

 冗談じゃない。

 だけど何度声をかけても答えはなく、冷たい身体はさらに冷たくなっていく。

 何度も叫ぶように声をかけていたら不審に思った誰かがやってきたらしく、遠くから悲鳴が聞こえてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る