ドーナツを穴だけ残して食べる方法
わたしは窓を拭き始める。まずは廊下の端の大きな窓から。
続いて洗剤の液性を見る。『弱アルカリ性』とある――窓とドアノブを拭けとの指令だったため、妥当だろう。油分の多い手垢がつく部分にはアルカリ性を選択するのが基本である。外側はどうするのかと思い、窓の鍵を探してみたが、嵌め殺しのようだった。ということは外側はまた別の人、それも高層建築だから専門業者に頼むのだろう。
さて、お手洗いで雑巾を濡らし、窓拭き開始である。
重力があるため、水滴は上から下に垂れる。よって窓拭きは上から始める。一番右上端からまっすぐ左向きに拭く。端まで拭いたら、直角に雑巾一枚分だけ下向きに引く。そして今度はまっすぐ右向きに拭く。端まで拭いたら、直角に雑巾一枚分だけ下向きに引く。この繰り返し。『蛇のように』とか言われる、端まで行ったら折り返す、端まで行ったら折り返す、という拭き方。途中までは台を活用して、最終的には台を降りて、一枚を拭き終える。そんなに汚くはなかったが、一回洗っておこう。
続いて、一つ目のドアの前に立つ。
細長い窓と、銀色のドアノブ。特にドアノブは不特定多数の人間が触るのでしっかり洗浄しよう。ノブの形を見る。ドアから生えて、右に伸びている取っ手は7㎝程。この折れ曲がっている部分の裏側が、特に汚れが溜まりそうだ。わたしは頭の中でノブの形を思い描きくるくる回していろいろな方向から眺めてから、取り掛かる。細長い窓は、雑巾一枚分の幅しかないので上から下にまっすぐ拭けばよし。ただし一応、二度上から下へ拭く。
そのようにわたしは掃除を進めていった。アークさんは黙々と、丁寧にカーペットを掃除している。わたしもそれに倣い、丁寧さを意識して取り組む。
二人共、廊下の反対側の端に到達する。
「ではグレーテル、一階下がりましょう」
「掃除用具は、どうしますか?」
「こちらです」アークさんは、廊下の端の薄暗い部屋を開ける――それは反対側と同じ造りの用具倉庫だった中に物はあまりない。「この建物には全ての階の端と端にこのように用具倉庫があり、それぞれ鉛直方向の倉庫とは小型エレベータで繋がっているのです」
アークさんはそう言って壁に埋まっているのガラスケースを指す。確かに、右端の倉庫にも同じものがあった。言う通り小型で、わたしがギリギリ乗ることができるくらいだ。
わたしたちはそれに掃除機と洗剤だけ載せ、二十階に送る。
「これは、建物全体――一階から二十一階まで、一通路につき一機ですか?」
わたしは疑問に思ったことを尋ねた――そうでないと、他の筐体とぶつかってしまうのではないか、と。
「その通りです。流石ですね」アークさんはそうわたしを褒めると、無線をオンにする。「アークです。西エレベータ使います。どうぞ」
『オクトーバー諒解。アークさん、二人がかりはズルいスよ。スよ。どうぞー』
『カミヤ諒解』
「では降りましょう。雑巾はそこに掛けて下さい」
わたしたちは真ん中のエレベータに乗った。
☨
二十階。
十九階。
十八階。と掃除していったところで、正午になる。放送があって解った。
「昼食は食事券が支給されているのでこの建物の食堂で頂けます。グレーテルの分も、もらっておきました」アークさんはそう言って小さいプラスティックのカードをわたしに渡す。「食堂は一階です。来年公共のレストランとしての開店も考えているそうで、味は確かですよ。頼み方は、行けば解ると思います」
エレベータで一階へ。食堂はまだ混雑前、という感じだった。これだけ大きいビルなのだから、社員数は決して少なくないだろう。食堂に見られたのは、この建物に入っている小企業数社分の人数くらいだった。見渡すと、端の方でブロックさんとカミヤさんは同じ机で既に食べ始めていた。
わたしたちはまず列に並ぶ。メニューはパンに麺に魚に肉、野菜果物、飲み物まで(お酒以外)、幅広く揃っている。もらった食事券では、一日につき、料理に関わらず二品までは無料で頼めるようだ。例えば、ヒレステーキとオレンジジュース。ハンバーガーと野菜サラダ。肉団子と食パン。というように。食事券+数品、という想定なのだろうが、アークさんはペペロンチーノとフルーツサラダ、わたしはハンバーグとチョコドーナツを選択。水だけは無料で飲めるそうなのでコップに注いで、仕事仲間のいるテーブルまで行った。
「グレーテちゃん、ドーナツは主食かよ? かよ?」
「ドーナツ主食は賛成できかねますがドーナツ批判は許しませんよ」
カミヤさんはそう初めてブロックさんより長い台詞を発した。二人の前には明らかに二品を超える皿の数。
「フッフッフ。この食堂では『持ち帰り』が可能なのだ。大目に買えばその分大目に持ち帰ってもいろいろ言われにくい。こっちは金を落としている側だからなぁ。なぁ」
ブロックさんはそんな持論を展開しながら多分三個目くらいのハンバーガーにかぶりついた。アークさんは静かにペペロンチーノを食している。食事中にあまり話す方ではないらしい。或いは、親の教育か。
そういえば彼の喋り方は、どことなく『矯正された』感がある。レベルの高い大学の出とか、何らかのよい教育を受けたことは確実だが、それならばやはり、あのスラムに住んでいる理由が謎だ。魔法に学力が必要とかどうとかいう話は特に知らないが、いつかのタイミングで、作法と魔法を教わって、今は魔法が遣えることを隠すために、目立ちにくいあの場所に住んでいる、とか。給料は安くも高くもないということはいわゆる中所得者層、『ラウドラ』に住まねばならない程ではないだろう。しかし、魔法を隠すために住むというのは変な話な気もする――遣わなければ、バレないものではないのだろうか。現に仕事中、彼が魔法を使っているような場面はなかった。同僚二人も、知らない筈である。
この辺の事情は、いずれ、はっきりさせるべきだろう。
そう思いながら、わたしはドーナツを齧る。
ところでさっきから気になっていたが、カミヤさん、明らかにこのテーブルの誰よりも食べているしブロックさんは一部
☨
十三時から再び掃除を開始する。
十八階。
十七階。
十六階。
十五階――の半分まで来たところで、無線が入る。
『カミヤです。終了しました。どうぞ』
もう終わったそうである。ブロックさんも言っていたが、我々は二人なのだから、他より作業効率がいい筈である。それなのに負けてしまった。
「アーク諒解。先に休んでいて下さい。どうぞ」
『オクトーバー諒解っスっスー』
わたしたちは残り半分を手早く終わらせる。アークさんが無線を入れる。
「アークです。終了しました。どうぞ」
『……オクトーバー諒解。今日も勝てなかった……』
カミヤさんからは返ってこなかった。恐らくもう無線を切ったのだ。わたしたちは十五階の左端、最終到達点の用具倉庫に、使ったものをしまう。今度はこの場所から開始すればいいということだろう。
「戻りましょう、グレーテル」
わたしたちはエレベータで一階まで降りた。
しばらくして、ブロックさんが降りてくる。「はー、終わりやしたぁ。たぁ」
時刻は十六時過ぎ。やや短めの勤務時間だが――とにかく疲れた。
「では解散としましょう。ブロック、カミヤさん、おつかれさまでした」
ブロックさんは手を振って、カミヤさんはお辞儀をして帰っていった。
「――では、帰りましょうか」
帰る場所があることが、久し振りに嬉しかった。取り敢えず帰ったら真っ先にシャワーを浴びたい。
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