クローゼット
それらは、とうの昔に、弾圧され、禁止された職業。
『ヘンゼル魔女裁判』と聞いて、知らないという者は、少なくともこの国では赤子だけだ。
技術と魔術の訣別を、決定的にした、最高裁判所の判決。
当時の王太子が、一人の魔女を相手取って起こしたもので、以後、この国では科学技術信仰が主流、というか一本道だ。合理を求め、論理を愛し、便利を楽しむ。魔法とか魔術とかいうものは、公的な場のみならず日常会話でも、決して出てこない。
そんな背景があるというのに、この人は。
「おちょくっているんですか!」
「……これは心外。正直に打ち明けたというのに」
アークさんは本当に残念そうに言う。しかしそもそも『ヘンゼル魔女裁判』からもうすぐ一世紀が経たんとしている。彼が魔法を遣えるというなら、年齢的に、弾圧後、彼に魔法を教えた者がいる。……彼がこの見た目で百歳を超えているというならば話は別だが。
「この部屋の家具も、魔法によってここに出したのですよ?」
信頼を得ようとしているのか、アークさんは話し始める。ここに『出した』――『出現させた』?「
アークさんは首を振る。「それは
アークさんはこちらを見て頷くと、
“ ¿%%%%%? ”
綴りの解らない言葉を呟く――と、
「――ええぇ?」
わたしの目の前に、絵に描かれていた通りの滑り台が出現する。
驚いて絵を見ると、そこにはある筈の滑り台が描かれていない。
わたしはもう一度滑り台を見て、そしてアークさんを見る。「ああ、これはどうしますか? 部屋に置いておきたいならそれでよいのですが……」
わたしは逃げた。
当然だ、魔法などという正体不明なもの、それを遣う人と同じ屋根の下で過ごせる訳がない。先程は科学技術を軽んじたが理論が解る分そちらの方がまだ馴染める。彼が技術を齧っていたら好きな電気自動車会社のことで話が弾んだかも知れないが、よりにもよって魔術。何も解らない。絵から物を取り出していたのだろうか――意味不明過ぎる。そしてその混乱は、容易に恐怖に変換された。
わたしは何も考えず夜の『ラウドラ』に飛び出す。
あちこちから怒号が聞こえる。暗闇。改造車のエンジン音が煩い。室内では何も聞こえなかったのに。それも魔法なのか?
「何をやっているのですか、グレーテル」
アークさんだった。
「夜の街がどれだけ危ないか、聡明な貴女が解らない筈ないでしょう。戻りますよ」
「で、でも、あなたはッ……!」
「驚かせてしまって申し訳ない。しかしまずは安全第一です。協力して下さい」アークさんは静かな声で言う。周りには数人の大人。囲まれている。
わたしは任せるしかないと思った。わたしは頷く。
「では、目を閉じて下さい」
「?」
わたしは言われた通りに目を閉じる――
“ ¡****! ”
彼は高らかにそう叫び――世界は、白一色に包まれる。
☨
アークさんに運ばれて、元の場所へ戻ってくる。
「あなたがそれでいいといならば、いいのですが……」
わたしは当初の希望だった、今晩一日だけ、というのを認めてもらう。彼は至極残念そうだったが――魔法。魔法である。
(
それとこれとは、話が別で。
わたしはもう再び二階の部屋に通される。「この部屋の物は全て絵から取り出しました。私が詠唱しない限り、絵の中に戻ったり、消えてなくなったりはしませんので」それだけ言って、アークさんは一階に下りていった。
わたしはベッドに寝転ぶ。依然としてドレスだったが、着替えがなく、そのままだ。
それにしてもふかふかのベッド。
一階のソファもそうだった――あれも絵から出てきたのだろうか。それにしては寝心地が完璧。自分の家のベッドを思い出す。わたしが使っていたものは、ドレスも含め、品質だけは確かなものばかりだった。しかし、そんな
それは大き過ぎる
人々が見るのは、その名札だけ。思い出とか思い入れとか、そういったものとは無関係な次元。わたしもそうして、他人の優しさとか楽しさとかから離れたところにいて。
……ドレスはやはり居心地が悪い。わたしはベッドから降り、部屋の中を歩き回る。フロアの半分の面積とはいえ、そこまで大きい訳ではない。壁には、ベッド等を取り出したと思われる空っぽの部屋の絵、先程見せられた公園の絵、他にも食器棚の絵、薄暗い倉庫のような絵、家具店の絵の連作等が並んでいる。人間や食べ物がどれにも描かれていないところをみると、そういう類は出せないのだろうか。それはつまり、晩ご飯に食べたバゲットは、本物だったということ。取り敢えずひとつ安心だ。
と、ある絵に目がいった。服がたくさん並んでいる。街の服屋のようである。服は自宅で採寸してもらい、特注でしか買ったことがないが、家具店やアクセサリー店と同じような様子。恐らく店頭で商品を閲覧し、店員に訊いたり試着したりするのだろう。そしてその絵の――一部分。右端のハンガーラックには、何も掛かっていなかった。他の三つのラックには服がたくさん並んでいる。
わたしは――部屋のクローゼットを開けてみる。
そこには、絵から取り出したと思われる服たち。
決して豪華ではなく、着たことのない形状のものもあったが、どれも可愛くて、綺麗で。
わたしは、慌てて一階に降りる。
アークさんは、管理人室(としよう、仮に)でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。わたしが入口に来ると、新聞を丁寧に畳んで、わたしを見る。
「何でしょうか、グレーテル」
「……そのコーヒーは、本物なんですよね。新聞は解りませんが」
わたしはそう訊いてみた――アークさんは、それに対し。
「…………!」
驚きを隠せない様子であった。わたしはこの部屋の絵もざっと見る。人間・食べ物、共に確認できない。三階より上に、まだ絵があるかも知れないが、見たところここが生活スペースのようだから、少なくともコーヒーとか、嗜好品は近い方がいいだろう。人間・食べ物――厳密には、動植物も描かれていない。無生物限定の魔術、ということか。
わたしはアークさんが次の言葉を言う前に、言葉を重ねる。
「見ました、クローゼットの中。……用意して下さっていたんですね」
彼は開きかけの口を閉じ、頷く。
「それも、あれほどたくさん」
服は、クローゼットの中に、所狭しと、しかし丁寧に、並べられていた。
そんなことをする必要はないのに。
せいぜい一着、今の服と交互に着させればいいのに。自分が捨てようとしていたお古でもいい。サイズも度外視して――それなのに。
彼はそれでも、私に服を与えてくれた。
衣。食。住。どれか一つ欠けていたとしても、室内に避難させてもらえる立場のわたしは、何も言えない。夕飯を貰えた時点で明日は朝食抜きを覚悟していたし、寝室だって、壁に囲まれているとはいえどこに雑魚寝させられるか戦々兢々としていた。
しかし、絵から取り出した立派なベッド、その他の家具、そして服を与えられ、それが彼がわたしに与えんとする『優しさ』だと解った。きっと彼は明日の朝も、わたしに食事をくれるのだろう。彼が欲しいのは、多分安寧だ。魔法遣いという特殊な、異端な自分を隠して、この街で静かに暮らしていたい。わたしがその平和を壊さない限りは、優しく接したい。そういう人なのだ。
「先程は――取り乱して申し訳ありませんでした。魔法――を、初めて見たものですから」
わたしは言う。
彼の瞳は優しく歪んだ。
「魔法の件、口外いたしません。改めて、これからよろしくお願いします、アークさん」
わたしの言葉に対し、彼は黙って、握手を求めた。
驚かされるのは、今度はわたしの番だったが――それに応じる。
「それでは、早速なのですが、明日の仕事の話をしましょう」
アークさんはそう言った。……んん?
「しごと?」
「当然ではないですか。――“εἴ τις οὐ θέλει ἐργάζεσθαι μηδὲ ἐσθιέτω”ですよ」
「――
しかしそれは事実。かも、知れなかった。
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