第一章 ラウドラ

邂逅


 わたしは物音で目を覚ました。

 ――

 ソファの背凭れに埋まっていた顔をそっと上げる。部屋の電気がついていた。発光素子LEDである。

 誰かいる。

 そう思った瞬間、背中に声が掛かる。



「起きましたか、お嬢さん」



 地方の訛りが少し入っているが、丁寧な物腰が解る。わたしは警戒しながら振り向いた。

 ソファのすぐ横に椅子が持ってこられていて、そこに一人の男性が座っていた。二十代後半から三十代前半の見た目。茶髪は適度に長く、同じ髪型の人を町で数人見かけた。流行っている、もしくは一般的な髪型なのだろう。服装は単なる黒いシャツに単なるジーンズ。そして、顔には微笑。

 わたしは敵意なしと判断する。スカートに気づき、すぐに躰を起こした。「え、えっと、勝手に貴方の家屋に侵入してしまい、誠に――」

 ぐー、と。

 お腹が鳴ってしまう。

 男性はフッと笑うと、立ち上がって視界から消えた――かと思うと、どこからか丸テーブルを持ってきてソファの前に置いた。その上に、デスクの上にあったパン屋の袋を置く。

「まずは食べましょう」

 そう言って袋から取り出したるは――スライス済みのバゲット。計四切れ。

人造酪マーガリンを塗っておいて下さい」男はどこからか薄黄色の箱を取り出し、それをわたしに渡すと、部屋から出ていった。まーがりん? と首を傾げたが、箱を開け、乳酪バターのようなものだと理解する。

 パンにバターを塗るのは、家ではわたしの役割だったので得意だ。与えられた面積に、均等に塗りつけることができる。

 男はレタスの葉を数枚と、ハム数切れを持ってきて、四つのバゲットに分配していく。

「いただきます」

 彼はわたしを見た。わたしも、いただきます、と言い、バゲットを取る。



 食事はすぐに終わる。男性がテーブルをどこかにしまい、戻ってきたところで、わたしは口を開く。

「食事をありがとうございました。よろしければ今晩だけここに泊めて下さい。明日の朝早くに発ちますので」

 それに対し、彼は。

「なぜです?」

「え?」

「行く当てはあるのですか?」

「それは……」わたしは口ごもる。

「――見たところ、貴女はこの辺りの人ではない。貴女のようなを受け入れてくれる場所は、この大スラム、『悲憤慷街ラウドラ』には、うち以外にはありません」

 わたしはその言葉を咀嚼する。「……ではなぜ、貴方はわたしを助けて下さるのでしょうか」



「なぜって」彼は笑う。「貴女が困っているからですよ。まあそれは、ここの人々には共感してもらえないようですが」



 わたしはその返事に――の面影を見た。

 のような、優しさ。態度。

 この人は、信じていいと思った。

「部屋を用意しましょう。鍵がかかる方がいいですよね? こちらに――」



「グレーテです」



「?」

「わたしの名は、グレーテといいます。これからよろしくお願いします。あの、長居はしませんので」

 男性は不意を突かれたようだったが、「私はアーク。アーク・M・ノイホーテです」と応じてくれる。「アーク、と呼んで下さい。――貴女のことは、何と呼べば?」

 わたしは考える。「普通は皆『グレーテ』と呼びますが……特に親しい人は、『グレーテル』と呼びます。どちらでも構いません」

「では、グレーテル。こちらにどうぞ」男性――アークさんは、階段へわたしを連れていく。

 階段を上がる。踊り場もLEDで照らされている。この建物は見かけは老朽だったが内部の設備は悪くない。そんなことを考えていると、二階の部屋の前に着いた。

「少し待っていて下さい」

 アークさんは一人で暗い室内に入った。わたしは辺りを見渡す。同じ階には、部屋がもう一つだけある。廊下を挟んで反対側の部屋で、二室と階段でこのフロアは完結しているようだ。

「どうぞ、グレーテル」

 アークさんが、戸から顔を出した。わたしは一階の部屋に入った時と同様に「失礼します」と言って室内へ。

 ――机。ベッド。本棚。クローゼット。美しい木目の調度が並んでいる。壁には何枚か額に入れられた絵が飾られていた。木製ならではの味わい。この国で、かようなものがまだ取引されているとは知らなかった。

 物心ついた時から、この国は、科学技術に裏づけられた資本の行き来に支配されている。この家具のような、いちいち素材を気にかけなければいけないようなものは『非効率』として生産ベルトから外されているだろう。あるのは、金属製の武骨な量産型のものばかり。最近は自然への回帰が話題ブームで、木目調のシートや森林の香りのアロマなどが出て好評を博しているとか。悲しい話だ。

 そういえば、と部屋の床に目を落とす。クリーム色のカーペットの下には、べトンが広がっている。確かこの『ラウドラ』は人口増加に対応するために急ピッチで造られた建物が連なっていて、人が住める安全水準ではないとの見解が一部ではあるらしい。そんなところに大企業は勿論寄りつかず、気がつけば、低所得層の溜まり場となっていた。

 それでも、こんなにたくさんの高級品に溢れている、建物は――

 ハッとした。

「――ではないですよね?」

 先程、信用したばかりなのに、そんな発想に至る――だが、それが一番、理屈が通っているのではないだろうか。食べ物こそ質素だったが、机、ソファと、そういう高価なものを買うだけのお金はあるという、この男性。それならまず、『ラウドラこんなところ』に住むことはないだろう。

 この国の大多数の人々風に言うならば、『不便』、だから。

 衛生環境にも懸念があるし、治安もあまりいいとは思えない。昼にしか街を歩いていないが、ソーセージ屋の店主といい、ソーセージを盗っていった男の子といい、夜はもっと危険だと考えるべきだ。

 それでも、この区域にいるということは――やはり、お金の問題があるのではという考えになる。

 お金がないなら、この建物にある、デスクやソファ、LEDにカーペット、たくさんあった本だって、買うことはできない。それがこの社会の最も簡単な仕組ルール

「…………」

 アークさんは、黙ったままだ。

「……どうなのですか」

 わたしは畳みかける。彼は、うーん、と唸った。

「口調だけかとも思いましたが……十分、賢いようですね」

 そんなことを呟き。

「では、こうしましょう。貴女をうちに泊めるのは、私の厚意ではなく、交換条件です。私のことを口外しないならば、貴女はこの家に、この部屋に泊まって構いません。気が済むまで、いつまででも」

「それは――」

 ――、ということか。

 身の安全を保障する見返りに、この手を悪に染めろと。

 人の弱みにつけ込み、いいように利用する。詐欺の典型的なやり方だ。そして詐偽そうだと気づいても後戻りできないところが巧い。

 わたしは、覚悟をして、会話を続ける。

「先に、貴方の秘密というのを、教えて頂きたいです」

 彼はわたしに、敵意や殺意、そういう強い感情は抱いていないようである。理由は解らないが、それならば、と主導権イニシアチヴに手をかける。

 アークさんは。



「いいでしょう。――私は、なのです」



 わたしは。



「――はあああああぁッ!?」

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