さよならを忘れて

増田朋美

さよならを忘れて

春がやってきたと思ったら、雨が降ってきて、寒い日であった。暖かくなれば暑いくらいだし、寒いときは真冬並みに寒い。そんな気候が日本で続いたら、どうなるのだろうか、と思われる日々が続いていた。

その日も寒いなあと言いながら、杉ちゃんが水穂さんに、ご飯を食べさせていると。

「こんにちは、桂です。右城先生、いらっしゃいますかね。今日はぜひ、演奏を聞いてほしいと思いまして、一人連れてきました。先生、聞いていただけますか?」

と言いながら、やって来たのは浩二くんだった。時折、連絡も何もなしにいきなり製鉄所にやってきて、演奏を聞いてくれるように、おねがいするのが、浩二くんなのである。せめて、何日に来るからとか電話くらいくれればいいのだが、そういうことは一切ないのだった。そして、浩二くんが連れてきた演奏者たちは、大体が何かの訳ありであることがほとんどである。

「連れてきましたよ、先生。名前は、えーと、佐々木千賀子さんという方です。」

「よろしくおねがいします。」

と、言いながら入ってきたのは、80歳をとうに越した、おばあちゃんだった。腰が曲がっているとか、そういうことはなにもないが、小柄なおばあちゃんで、ちょっとピアノを弾くと言うには向かない人だった。

水穂さんは、よいしょと布団の上に起きて、よろしくおねがいします、と、座礼した。

「じゃあ、早速聞いていただきましょうか。曲は、シューベルトの、ピアノソナタ21番変ロ長調、第1楽章です。」

「結構な大曲だなあ。」

と、杉ちゃんがいった。千賀子さんと紹介されたおばあちゃんは、おねがいします、と頭を下げて、ピアノの前に座り、シューベルトのソナタ21番を弾き始めた。杉ちゃんも水穂さんも、予想していなかったのだが、結構リズムはとれていて、三連符も、付点のリズムも正確に決まっていた。音のバランスもよいし、左手がうるさすぎることもない。ちゃんと、掲示部と展開部の動きも掴めていて、しっかり演奏できていた。

「よくやったなあ。」

杉ちゃんは、演奏が終わると、でかい声で言った。

「どうですか、右城先生。なんでもいいです。良かったこと、悪かったこと、しっかり説明してください。」

浩二くんに言われて、水穂さんは、少し考えて、

「そうですね。音はよく取れていると思いますので、もう少し、強弱をつけると良いのではないかと思います。」

と、彼女にいった。

「どうもありがとうございます。こんな人間に、評価をしてくださるだけで、嬉しいです。」

と、千香子さんは、申し訳無さそうに言った。

「よく、ベートーヴェンのソナタと間違えられるので、困っているそうです。」

浩二くんが言うとおり、たしかにベートーヴェンのソナタとよく似ている曲である。

「まあ、それはよくありますよね。特にシューベルトのソナタはそうだと思いますよ。それは仕方ないことかもしれない、ではなく、違いがきちんと表現できるようになるといいですね。ベートーヴェンのような荒々しさとは、また違うんですよね。」

水穂さんは、音楽家らしくいった。

「そのためには、どうしたらいいんだ?」

杉ちゃんがすぐ横槍を入れる。

「はい、フォルテをきつくではなく、ピアノを穏やかにやると良いとおもいますよ。それが、ベートーヴェンとの違いだと思います。」

水穂さんは、そう答えた。

「なるほどね。それで、穏やかにするのが一番のちがいなのね。良かったなあ。水穂さんに、ピアノをみてもらえてさあ。それで、他にどっか注意しなければならないところはあるかな?」

杉ちゃんにそう言われて、水穂さんは、

「ええ、そうですね。とにかく、この作品はシューベルトの最晩年の作品でもありますし、穏やかな気持ちが一番大事なんだと思います。一番にあるような、明るくて元気いっぱいのシューベルトとは違います。その違いを表現できたら、すごいと思います。」

と、にこやかに笑っていった。

「あ、ありがとうございます。」

千賀子さんは、いきなり涙を流して、泣き始めてしまった。

「一体、どうしたんだよ。」

杉ちゃんが聞くと、

「いえ、こんなふうに、演奏を聞いてくださったのは、生まれて初めてで、なんだか、申し訳ないというか、そんな気持ちになってしまいまして。」

と、千賀子さんは答えた。

「そんなこと気にしなくていいさ。いまは水穂さんに見てもらっているんだもん、それを大事にしたほうがいいよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「いえ、あたしは、そんなことができる年齢でもないですし、なんだか、偉い先生に聞いていただけるなんて申し訳ないですよ。」

と、千香子さんはいうのだった。

「年寄は、立場とか、偉いとか、そういうのに弱いからねえ。まあ、でも気にしなくていいよ。昔の偉い人とは違うから。いまはもう、気軽に好きなことをやってもいい時代じゃないか。だから、思いっきりピアノを楽しもう。それで、いいんじゃないの?」

と、杉ちゃんは、彼らしいことを言った。たしかに立場を気にしないで、何でも言ってしまえるのは、杉ちゃんだけであった。

「だから、思いっきり楽しめよ。そんな泣かなくたっていいんだよ。それよりも、ピアノを好きなだけやって、やって後悔したほうが、やらないよりよほどいいぜ。」

「良いですね。わかいかたは。何でも明るく考えられるんだから。私は、こんな人間で、逆に偉い先生の前に出てしまって、申し訳ないですよ。」

千香子さんは、そんなことを言った。

「私は、大した仕事をしていたわけでもないし、学業成績も、大したことありません。やっぱりピアノを弾くには、すごい偉い人でないと、できないのではないか、と思います。」

「そんなものどうでもいいじゃないか。偉いやつじゃなくたって、下手なやつでも人前で演奏しているやつはいる。それで良かったと思えるやつはいっぱいいるさ、それとおんなじだと思えばそれでいいよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑ったが、千香子さんの表情から、決して喜んでいるのではないんだなと言うことが読み取れた。浩二くんとしては、それが腹が立つきがする。もしかしたら千香子さんは、水穂さんの、着物のことを知っていて、それで水穂さんをバカにしているのではあるまいか。でも、それを確かめるには、水穂さんが、傷つくことになるので、口に出して言うことは、浩二くんには出来なかった。もしかしたら、水穂さんに敬意というものはまったくなくて、単に水穂さんの前から消えたくて、申し訳ないという言葉を使っているのではないか、という予想もしてしまった。そんな予想をしてしまうほど、水穂さんは美しい人でもあるし、浩二くんには、尊敬する右城先生でも、あったから。

「じゃあ、もう一度やってみてくれますか?音の間違いとか、いくつか見受けられましたから。」

水穂さんがそういうと、千香子さんははい、わかりました、と言ってピアノを弾き始めた。目が悪いとか、そういう言い訳もしなかった。水穂さんが、左手の音の間違いや、強弱記号などをしてきしていくと、千香子さんは、いちいち演奏をとめて、鉛筆でしっかり書き込んでいた。ということは、学ぼうとする意志があるのだろうか?その時も、すみませんとばかり口にしていた。

「すみませんなんて言わなくていいんだよ。レッスン受けてるんだから、あたり前のことだ。単にハイでいいんだ。」

しまいには、杉ちゃんにそう言われてしまうほどである。

「ごめんなさい。音の間違いが多すぎますよね。」

千香子さんは、そのようなことばかり言っているので、浩二くんはちょっと嫌になった。

「気にしないでいいんだよ。音の間違いなんて、誰でもやることだから。」

と、杉ちゃんに言われても、すみませんとか、ごめんなさいとか、そんなことばかりなのだ。

「とりあえず、音を直して頂いて、今日はここまでにしましょうか。かなり長い、曲ですし、一回弾くと、かなり時間がかかりますよね。」

水穂さんが、そういったとおり、プロのピアニストが弾いても、15分近くかかる作品であるから、千香子さんが一度弾くと30分近くかかった。

「ありがとうございます。右城先生、本当にありがとうございました。」

千香子さんは、椅子から降りて座礼した。

「いえ、右城は、旧姓です。現在の姓は磯野です。ただ、演奏していたときは、右城と名乗っていたので、皆さんにはその時の姓でよばれるだけです。」

水穂さんはそう返した。

「そうなんですか。いまは、男性でも、苗字を、変えられるんですね。私のときは、女性が、変えるのが当たり前で、男性が変えることは、まったくありませんでした。今は時代が違うというけれど、本当なんですね。」

千香子さんがそういったため、浩二くんは、水穂さんのことをバカにしているのではないか、という不安を一層強くした。

「よし、レッスンのあとは、お茶にしよう!」

杉ちゃんがそういったため、みんなでお茶を飲むことにした。杉ちゃんというひとは、そういうときにもてなし上手で、すぐにお茶を持ってきてくれて、千香子さんがすきそうな、和菓子まで出してくれた。

「さあどうぞ。なんでも食べてみてくれ。最も、お前さんの好みに合うかは不明だが、とりあえず、持ってきたから。」

杉ちゃんに差し出された和菓子を、千香子さんはハイと言って受け取った。

「ありがとうございます。こんなお菓子が今でも売っているとは思いませんでした。どこで手に入れたんですか?」

千香子さんが聞くと、

「ああ、作ったんだよ。和菓子創るの好きだからさ。まあ、素人の趣味だから、大したものじゃないけど、今は、そういうのの作り方を公開してくれる、面白いやつがいてくれるもんでさ。」

と、杉ちゃんは、すぐに答えた。

「そうですか。なんだか、皆さんとお話していると、自分が若い頃に、戻ったようです。若い頃は、着物を着ていたお父さんなんて、当たり前の様にいましたし。それが、いつなくなっちゃったのか、は、わからないですけど。なんだか、この世にさようならする前のご褒美のような気がします。」

千香子さんは、なんだか、過去を懐かしむような顔で、杉ちゃんと水穂さんを眺めた。

「ということは、知っていらっしゃるんですか?水穂さんの事。」

浩二くんは、思わずそう言ってしまう。それはもしかしたら、水穂さんが、冷たく扱われていた事を知っていて、千香子さんは、そういったのだろうか?

「ええ、知っていますよ。私が若い頃は、そういう人の、着物を着るなって、よく注意されましたもの。確かに、銘仙というと、そういう人の着物だって、認識はちゃんとありましたよ。」

と、千香子さんは、静かに言った。

「それをご存知なのなら、水穂さんの事を、だめなやつだとは、思わないでちょうだいね。水穂さんは、それのせいで、とても苦労してきたんだぜ。」

杉ちゃんが、和菓子を食べながら、でかい声で言った。

「ええ、わかりましたよ。それは、私達の頃もちゃんと言われていたことですし、私達は、新しい時代になって、学問ができることを喜んでいたから、銘仙の着物を着ていたことで、馬鹿にするようなことはしませんよ。」

千香子さんは、にこやかにそういった。確かに、彼女が若い頃は、学校というところは、まるで理想郷のような感じだったのだろう。皆、学校で勉強できることがとても嬉しくて、貴族であれ、そうでない人であれ勉強ができることに、喜びを持って勉強していたのだ。だから、身分で差別することもしなかった。それは、紛れもない事実である。

「本当にありがとうございました。みなさんが、ピアノを教えてくれたおかげで、私も、ここでありがたく、この世界とさようならできます。本当に、今日は楽しませていただきました。ありがとう。」

「さようなら?」

浩二くんが、彼女の言葉を繰り返した。

「ええ、さようならですよ。だって私は、もうおばあさんですもの。もう、この世から必要ないのよ。」

千香子さんはそう言うと、

「はあ、それはどういう意味ですかな?なにか、意味があるのかな?」

杉ちゃんが、すぐに彼女の話しに口を挟んだ。そういうふうに、人の話していることに、すぐに口を出すのが、杉ちゃんという人である。

「もしかして、自殺するつもりなんかな?」

杉ちゃんの言う言葉を聞いて、浩二くんは、それだけは困る!という顔をした。

「まあ、それに近いのかもしれないわね。もうすぐ、老人施設に入って、そこで余生を送るんですよ。私は、それで、人生を終えるのよ。だから、この世とさようならするの。」

と、千香子さんは答えるのだった。

「どうしてそう思うんかな?」

杉ちゃんがすぐに口をはさむ。

「だって、私のところにはもう人が寄り付かなくなったし。娘たちは、もう、自分たちの生活で、口が多いことをいやいや言ってばかりだし。それなら、私は、もう、消えたほうがいいのかなと思うんです。そうするのが、私は、一番の子供たちに対するお礼ですね。施設に入って、区切りのいいところで、さようならするつもり。それが、私の人生に対する、締めくくりと言うことかしらね。」

千香子さんは、杉ちゃんの質問に答えた。

「何を言うんですか。これからも、僕のところへピアノを習いに来てくれるんじゃなかったんですか。僕は、ピアノを続けてくれるから、右城先生のところに連れてきたのに。それなのになんですか。自殺だなんて。」

浩二くんは、思わず、そう言ってしまった。まるで、自分が裏切られてしまったような気がしてしまうのであった。

「もし、娘さんたちが、千香子さんの事を、邪魔とか、いらないとか、そういう事を言うんだったら、娘さんのためにいろんな苦労をしてきて、それが、あんたがくれるお礼かと、しっかり怒鳴っても構わないと思いますよ。だって、事実そうじゃないですか。娘さんがいるってことは、そういうことになりますよね。それなのに、年を取ったからと言って、ゴミのように施設に入れられてしまっては、虫が良すぎますよ。それは、娘さんに、嫌だとはっきり主張してください。そうやって、さんざん苦労されてきたのに、ゴミみたいに捨てられてしまうのは、ちょっと、千香子さんが可哀想過ぎると思うんですがね!」

「うん、僕も浩二くんの言うとおりだと思うよ。それに、80を超えてこれから、自分の本当にやりたいことを大手を振ってやれる年齢じゃないかよ。若いときにできなかった事を、思いっきり挑戦してもいいんじゃない?それは、年を取ってからの特権だと思う。それを放棄して、施設に入って、この世とさようならしようなんて、ちょっと、は?と思っちゃうね。可哀想とか、そういう事を思っているわけでは無いよ。それよりも、自分のために生きてもいいじゃないかと言っているんだ。それは、間違いではないと思うんだがな?」

浩二くんと杉ちゃんは、相次いでそういう事を言って、千香子さんに自殺を思い止めようとしたが、

「いえ、私が決めたことだから、もうそれでいいのよ。でも嬉しかった。最後に一度だけ大好きなソナタを弾かせてもらうことができたから。」

と、千香子さんはにこやかに笑った。

「でも、やっぱり、そういうことは、しては行けないと思うんですけどね。」

「それに、宗教によっては、罪ととられることもあるよ。」

浩二くんと、杉ちゃんは、二人でそういったが、

「いえ、僕は、千香子さんの気持ちはわかります。それは、多分、つらい気持ちを体験した人でないとわからないと思いますし、きっと、千香子さんは、そうするしか、娘さんたちが幸せになれないことを知っているのではないかと思います。」

水穂さんが静かに言った。

「先生までそんな事言っちゃだめですよ。先生がそういうんだったら、千香子さんは、もっと悪いことをしているんじゃありませんか。先生は、理由がなくても、つらい思いをしているんです。千香子さんは少なくとも、そういう経験がなかったわけですから、それで死のうとしていることは、右城先生のような生きたくても生きられない人に、失礼なんじゃありませんか?」

浩二くんが、若者らしくそういう事を言ったが、

「いいえ、人と、辛さを比べることが、一番のエゴだって、言いますよね。それよりも、本当にそうしなければならないというのは、彼女が、一番良くわかっているんじゃないですか。きっと、そうしなければならない事情があるんだと思います。彼女がそうしなければならないと感じている理由もあるんだと思います。だから、僕達は、それを楽にしようとしている彼女の意思を止めては行けないと思うんですね。」

水穂さんは、そう話を続けた。

「水穂さんらしい答えだな。でもねえ、僕らは、なんとなくだけど、止めなきゃいけないんじゃないかっていう気がするんだよね。それは、間違いなのかなあ。まあ確かに自殺行為をする動物もいることにはいるが、死にたいなんてわがままをいう動物は、人間だけだと思うよ。それを止めるのも、人間にしかできないんじゃないの?」

こればかりは、個人の意識の問題だった。自殺を止めなければならないという気持ちが湧くかわかないかは、その人の宗教観ばかりではなく、その人が育ってきた環境とかそういうものもあるだろう。死にたいと言われて、はいそうですか、といえる人は、なにか事情があるのかもしれない。

「でも、そうしてやってください。僕は、それより、彼女がこれからも生き続けるとなると、また娘さんから辛い思いをさせられるのではないかという方が、悲しいと思うんですね。それが永遠に続いてしまうのであれば、無理して生きていなくてもいいのではないかと思うんですよ。」

「そうだねえ、、、。」

杉ちゃんは、思わず考え込むような仕草をした。

「右城先生は、あまりにも、そういう辛い体験をしてきたせいで、本当の優しさというものがどこかに逝ってしまったのではないでしょうかね。」

浩二くんは、そういう事を言ったが、

「じゃあ、もう一回シューベルトのソナタを弾いてみてくれや。今度はちゃんと音の間違いを直してな。今日は、さよならを忘れて、思いっきり楽しもう。」

杉ちゃんは、にこやかに笑った。


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さよならを忘れて 増田朋美 @masubuchi4996

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