掃き溜めの文芸部
分厚い防音扉を開け、男子生徒が中へと足を踏み入れる。
ピアノの長椅子に腰掛けて本を読んでいた私に、彼は声を掛けてきた。
「先輩、今日は何を読んでいるんですか?」
「心理学の本よ」
そして私はしれっと誤魔化した。
実質に心理学に関連した内容なので、嘘ではない。ただ詳細を誤魔化しただけのはず。
内心で言い訳をしているうちに追求されても困るので、話題を変えてしまわないと。
「今日も弾くのかしら」
「そうですね。弾こうかな、と」
この部屋に「弾くもの」はひとつしかなく、そこに備え付けられている長椅子には私が座っている。そして本が乱雑に積み上げられたこの部屋に椅子はひとつしかない。もっと言うと、新たに椅子を置けるだけのスペースが無い。
私が端に詰め、真ん中に座った彼を背もたれにする形で寄りかかる。
所定の位置に着いて間もなく、彼が演奏を始める。最初に聞かせてもらった曲はもっと激しいものだったはずだけれど、ここ最近はしっとりとした穏やかな曲がほとんど。それに伴って、激しく動いていた背中も今は僅かに揺れるだけとなっている。
別に構わないのだけれど、読書を邪魔しないように気を使っているのかもしれない。
かつてはどちらもぎこちなくて、微動だにしないガチガチの背中から可能な限り小さな音で演奏している感じだった。無理しなくていいわよと言ったのだけれど、いつの間にか無理なくBGMに徹するようになっていた。
活字が好きな者同士でも言葉でのコミュニケーションはあまり多くない。けれど、口にせずとも通じ合っているような感覚は心地が良い。
彼が弾いているのはクラシック風の曲で、聞いてみたところ元は普通のクラシックだったものが好き勝手弾いているうちに見る影もなくなってしまった、とのこと。
元の曲を聞いたことがあるからか、耳に馴染む音を聞きながらページを捲る。
一曲弾き終え、彼は少しの間考える素振りを見せた。
「……そろそろですかね。先輩、椅子を退かすのでちょっと立ってもらっても良いですか?」
「構わないわ」
栞を挟んで本を閉じ、私は席を立った。すると彼は椅子を退かし、鍵盤の上を開け、正面や足元の板を外す。
彼いわく「アップライトピアノ」の表面が取り払われ、弦や鍵盤のパーツがむき出しになる。
私は本を
◆◇◆
新年度から一ヶ月ほど。
去年と異なり、私しかいない部室は腕時計の針が聞こえるほど静かで……
そんな中、唐突に鳴り響いたノックの音で、心臓が止まりそうになった。分厚い扉の
無駄に頑丈で開けにくいドアノブが音を立てて回った。
「失礼します。ここは……何部ですか?」
小さく会釈をして入ってきた新入生は、部屋を見渡してそう口にした。
「見ての通り文芸部よ。」
そういえば部室前に張り出した部員募集の張り紙には、ここが何部なのか書き忘れたような気がする。
彼はもう一度部屋を見渡し、近くに積んであった本のひとつを手に取って開いた。
「……先輩は普段、何をしているんですか?」
「当然、ここで本を読んでいるわ。」
何を今更、とも思ったが彼は貴重な入部候補。あまりにも雑な受け答えをしようものなら、このまま踵を返して去ってしまうかもしれない。
「……本の上に座って?」
「ここに椅子は無いわ」
「部室なのに?」
「……ええ、そうね。」
やめて、そんな目で見ないで。
去年も必要最低限の人数で、部活という名目の空き教室の管理をしていたのよ。
この部屋は元々、音楽第三準備室と呼ばれていた。
その部屋が使われなくなり、学校の様々な使わない備品が運び込まれた後に、当時はかなり活動的だった文芸部によってその上から本の巣窟とされてしまった。
かつての備品を使用するにはこの魔境をなんとかしなければならない上にそもそもが狭い。そんな部屋を使いたいと言い出す他の部活もなければ、職員としても管理が面倒。
その結果、二学年以上に一人ずつ部員がいればーー即ち管理の引き継ぎができさえすれば、文芸部の存続が認められている事となった。
ちなみに部誌を発行しているわけでもなく、実態としては読書部のようなものだ。
「まぁ、また来ます。」
何を話すべきか迷い、そのまま逃げるかのように彼が帰ろうとした。
「ま、待って! 君、入部しない?」
つい反射的に立ち上がって駆け寄り、呼び止めてしまった。
二つ上の先輩が卒業したことにより現在の文芸部員は私一人だけ。つまりこのまま誰も入部しなければ、この部屋でのんびりとくつろぐことが出来なくなってしまう。それはなんとしても避けたかった。
更に言えば部活勧誘期間は残り半分もないので、もう誰も来ないかもしれない。
付け加えるなら、私が表に出て勧誘をして回るという手段は本末転倒な結果をもたらしてしまう可能性が大いにあるので出来るだけ避けたい。
「ね、ぇ……」
扉に手を掛けたまま訝しむようにこちらを見る彼と目が合った瞬間、口ごもってしまった。
全てを見通されていような感覚に、言葉が上手く
「あの、いつ来てもいいし、何しててもいいし、えっと……私が付き合ってあげる!」
口にしてすぐに気付いた。
暇な時は話し相手にでもなってあげるという意味で言ったつもりが焦り過ぎた結果、上から目線で、打算的な交換条件として、仕方なしに告白でもしたかのようにも受け取れてしまう発言をしてしまったことに。
「あ、えっと……」
すぐに否定できれば良かったが、どうにもあの眼を前にするとダメなようで何も言葉にならなかった。
じっと私の眼を見てから、ふと奥に視線を移した彼は静かに歩を進めた。募る緊張に体を強張らせていると、視線を合わせることなく彼が言った。
「このピアノは……?」
「ぇ……ぁ、前からここにあるものよ。」
慌てて振り向くと、そこには私が今まで特に意識したことのなかったピアノがあった。普段気にしていなかったものに目を向けたことで、知らない物が自分の部屋に紛れ込んでいたかのような違和感を感じる。
そっと蓋の埃を指でなぞった彼は、身をかがめて何か工具のような物を拾い上げた。
彼はそれをまじまじと見つめて、手元から目を離さない。
「このピアノは好きにしても良いんでしょうか?」
「……ここにあるものは本以外、何年も前に放棄された物ばかりよ」
この部屋にあるものは全て、学校側でさえ何があるのか把握してはいないだろう。
「……ちなみに本はーー」
「文芸部の備品よ」
少し食い気味になってしまったかしら。
本に関してはかつての文芸部員が置いていった物なので、そこを譲れないのは仕方のないことでもある。
「先輩」
「な、にかしら」
いきなり軽く振り向いて私を見た彼に、少したじろいでしまった。
「入部させて頂きますね。これからよろしくお願いします」
私が狼狽えているうちに彼の入部が決定してしまった。
◆◇◆
結局、口走った事は機会を逸したことにより未だに訂正出来ずにいる。当初は、それをした途端に彼が辞めてしまうかもしれないと思ってしまったことも原因である。
どこから探し出したのか調律の教本を片手に、初日からピアノの調律を始めた時は正直驚いたけれど特に騒ぐわけでもなく淡々と作業をしていたので特に気にしないことにした。
一週間が経つ頃にはピアノの周辺は整理され、私は座れるようになったピアノの椅子を使うように促された。とはいえ部室唯一の椅子を独占するのも
とは言え今のように互いにもたれかかるのではなく、ピアノに対して縦向きに置いた椅子の両端に座る形だったけれど。
彼と顔を合わせ、放課後は毎日部室で
同じ部屋にいるのだから、当然何かしらの言葉を交わす。
段々お互いの距離感が分かってきて、今では彼を背もたれにする始末。
明らかに距離が近くなっている。
(……これは単純接触効果なのかしら)
手に持った心理学ーー特に恋愛に関して書かれた本を読む手が止まる。
正直なところ、不満はある。
私ばかりが悩んでて、彼は出会った頃よりも親しみやすくなったけれどそれはそれとして変わった様子はない。
もうひとつ挙げるならば、私が異性として見られていないのではないかと不安になるほど彼が何の反応も示さないこともである。
今までは心底どうでもよく考えていたのだが、私は比較的容姿に優れていると言われてきた。しかしそれが事実なら、こんな事で悩んではいないのではないかと思う。
面倒事ばかり呼んでないで、少しは役に立って欲しい。
付き合うことになったとあの時勘違いしたのなら、手を出してくれてもいいでしょう。
つい勢いで口にしてしまったこととして聞き流してくれたのならば、告白とまでは言わずとも多少気を引こうとするような
放課後は毎日来ているのだから、どうせ他に彼女がいるわけでもないでしょうに。
いつの間にかそんな事を考えており、それに気が付いてしまった日には、自分の気持ちを理解してしまった。
そして同時に、あの時言い間違え、訂正出来なかった自分を再び恨めしく思うこととなった。
◇◆◇
およそ半年ぶりに、チューニングハンマーを手に取った。毎日弾いているだけあって、どの音が特に狂っているのかはよく分かっている。
素人が全ての調律をしていては日が暮れてしまうしまうので、目立って違和感のある音を優先して直していく。
慣れない姿勢で凝ってしまった体を
足を組み、その上に本を乗せる所までは普段と変わらない。しかしそれを持つ手に力が無く、本は上を向いてしまっていた。
視線を上に移すと、何を見るともなくこちらを向いていた先輩とバッチリ目が合った。
「……どうしたんですか? 先輩」
「べ、つに、ちょっと見てた……だけ、よ」
先輩はすぐに視線をずらし、つっかえつつもそう答える。ふと前々から思っていたことを口にしてみた。
「先輩って、顔見られてると言葉に詰まりますよね」
それを聞くや否や、半目でこちらに抗議の視線を向ける先輩。しかし目が合った瞬間に、異議ありといった目つきは跡形も無くなっていた。
「……気のせいじゃないかしら」
「いや、言いながら眼を逸らさないでくださいよ」
呆れたような視線を自覚しつつ、ゆったりとした足取りで先輩に詰め寄る。
「あなたみたいに顔を覗き込んでくるような人間が、今までどこにもいなかっただけよ」
「……そんなわけ」
思わず
本人はあまり気にしていないのかも知れないが、この先輩は俗に言う高嶺の花である。
下駄箱を開けるとラブレターが雪崩落ちるとか、そういうことが実際に起きるような部類の人間なのだ。……なお、差出人は男女問わない。
まあ確かに、綺麗な顔って意外と迫力あるけど。先輩、口数少ないし。
「それにしても挙動不審じゃないですか?」
以前見かけた先輩は、相手の目を見て話していた。普段は表情の変化に乏しい美人が真正面から見つめてくるのは威圧感が凄いのか相手はすぐに目を逸らしてしまった為、結果的に目を合わせて話していたわけではなかったが。
それにしても普段から目を見て話す人が、目が合っただけで話せなくなるというのは、少し過剰ではないかと思う。
とはいえ
◆◇◆
何故か今日は、後輩がグイグイ来る。別に近寄られることが嫌なわけではないけれど。
彼のピアノを聴きながらの読書はこの上ない癒しとなっているのだけれど、目を合わせることは逆に緊張してしまう。こればっかりはいつまで経っても変わらなかった。
とはいえ、恋愛脳は緊張程度じゃ止まらない。もしかしたらこのまま抱きしめられ、告白でもされたりするのではないか。
極度の緊張の中でも、そんな淡い期待が頭をよぎる。
「……そんなこと、ないわよ」
きっと、この後輩はそんなことを考えてなどいない。
勝手に他人の休み時間に予定を入れ、言いたい事だけ言ってきて、そのくせこちらの目も見れない有象無象は掃いて捨てるほどいる。
彼はあれらとは違って不思議なくらい優しくて、いつも私に合わせてくれる。
「それなら、こっちを見てくれますよね?」
そして彼だけは、容赦なく私を見つめていてくれる。
◇◆◇
毎日来る必要はないと言われたにも関わらず部室には一日も欠かさず来てはいる。が、内容はピアノいじりが半分を占めていた。
何をしてても文句のひとつも言わない先輩を観察する事も多く、最近はひたすらに目を合わせない先輩をじっと見つめる、なんて事もしている。綺麗な眼はその人の本質を表しているような気がしていつまでも見ていられそうだと思う。
目が合うのは苦手だが他人の眼を見るのは好きで、目線を外すほどにむしろ観察されてしまう事を先輩は知らない。
黒目がちな人が多い日本人の中でも先輩のは珍しいくらいに黒く、底知れない、それでいて澄んだ眼をしていて、見ていると吸い込まれるように思える。
「それなら、こっちを見てくれますか?」
目が合うのは苦手だが、それでも正面から見据えてみたいと思ってしまった。
ーーーーーーー
お久しぶりです。
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