第3話
出勤すると、刑事部の入口前で仁王立ちしている猪又がいた。邪魔だな。なんで中に入らないんだ。田村を出待ちしてるのだろうか。
朝から猪又の相手をしている暇も気力もないので、目を合わせないように
「望月、昨日はすまなかった」
猪又が姿勢よく頭を下げた。驚く俺に、猪又は力のこもった眼差しを向ける。
「確かに俺、感情的になってた。お前のお陰で、あの後、冷静になることができたんだ。それで考えたんだけど、お前、捜査二課に来ないか? 二階堂警部もお前の事気に入ってるし、俺と組もう」
「は?」
俺は一瞬、頭が真っ白になる。
「いやいや、ちょっと待て。何言ってんだ? そんなことできるわけないだろ」
「でも、四課の間宮警部もお前引き抜こうと小林課長に交渉してたんだろ?」
「なんで知ってんだよ。そんなの篠原警部が
「篠原警部だぞ?」
猪又が顔を突き出してきた。
「言うなよ、それを」
猪又の顔を押し返しながら、
「考えないようにしてんだから」
「諦めないからな」
「熱烈だな」
俺はなんだかおかしくなって笑った。笑うな、と猪又が不貞腐れている。二課に移る気は――そんなこと絶対ないだろうが――さらさらないが、必要とされるのは悪い気はしなかった。
「邪魔だ」
背後からの不機嫌そうな声に慌ててドアから離れると、声の主は田村だった。
「なんだよ、驚かすなよ」
田村は俺を
――田村? お前、なんでこんなタイミングで出て来るかな。隣を見上げると猪又が憎々しげに田村を睨んでいる。面倒臭ぇ。
「じゃあ俺も行くわ。猪又、またな」
田村を追うように執務室に入る。
「おい、朝から機嫌悪いな」
前を歩く田村は何も答えず、そのまま席に着くとすぐさま報告書に取り掛かり出した。
なんだよ、まじで機嫌悪いのか? 廊下ではまだ恨めしそうにしている猪又。フォローしようとも思ったが、若林たちが部屋に続々と入ってきたので行きにくくなってしまった。ここに来てから、気苦労が絶えない気がする。
ゲンナリしながら鞄を置くとコーヒー飲み場に向かう。日課の朝の一杯。いつもは田村も飲むのに、今日は様子がおかしい。何かあったのだろうか。
仕方ないので二杯分のコーヒーを作る。
「ほいよ」
田村の机にコーヒーを置く。返事も礼もないがいつものことだ。俺は席に着き、淹れたてのコーヒーを
取り掛かった報告書が、出来上がったところで若林が声をかけてきた。タイミングを窺っていたようだ。
「修平、今日飲みに行かないか? 前に言ってた駅前のバル」
「いいすね」
若林の選定眼には定評がある。前に連れて行ってもらったイタリアンの店も、酒、料理ともに抜群に美味かった。
「あの、俺もいいですか?」
何を食べようかと考えていると、背後から野太い声がした。振り返ると、いつの間にか猪又が立っている。
「いいよ、猪又も来いよ。多い方が楽しいしさ」
若林が快諾する。
「猪又、俺今日は美味い酒飲みたいから
俺が猪又を睨むと、「分かってるよ。悪かったって」と猪又が苦笑した。
三人でバルでオススメの肉料理の話をしていると、篠原の机の電話が鳴った。
一瞬にして
「中央署で捜査本部設置だ。俺は、藤さんたちと少し遅れて行くから、先に行ってくれ」
少し前に所轄から戻ってきていた藤堂と陣内。三人は小林に別の案件で進捗報告をしているところだった。
「例の通り魔事件だな、やっぱりな」
廊下を歩きながら、若林が苦々しそうに言った。四ヶ月前から起こっている通り魔殺傷事件の事だ。
「確か一人亡くなってますよね――」
俺が言うと若林が頷く。
一貫して、深夜帰宅途中の女性を背後から襲うというこの事件。最初に犯行が行われたのは、六月下旬、被害者は背中を刺されて重傷を負った。
二件目は七月中旬、被害者は背中を数ヵ所刺され重症。三件目は、八月上旬に背中を刺されて重傷、そして四件目とうとう死者がでた。
八月二十六日、俺たちがまだ爆破事件の犯人を追っている最中、その夜に帰宅途中の女性が背中を数ヵ所刺されて失血性ショックにより死亡。いずれも中央署管内で事件は起こっている。被害者も後ろから襲われているというのもあり、犯人の特長を覚えてはいなかった。
「卑劣ですね」
嫌な事件だ。女性を、しかも後ろから襲うなんて。アレ、でも――
「犯人が女っていうのはないのかな?」
頭に
「忘れたのか、犯人が三件目の事件で被害者の流した血を踏んで逃げた事を」
田村に突っ込まれて思い出した。情けない。そう、犯人は右足27cmのスニーカーの
「いないわけはないだろうけど、現実的ではないか。その線もこれまで当たってるだろうし」
地下駐車場に着き、いつものように田村の車に乗り込んだ。二台の車のエンジン音が地下駐車場内に響き渡った。向こうは若林の車で行くようだ。
「こんな事件、早く終わらせようぜ」
「そうだな」
地上に向けてアクセルを踏み込んだ。
「なぁ、被害者はお互い面識ないんだよな」
「だから通り魔なんだろ」
ハンドルを握りながら、素っ気なく田村は言い放った。
「お前な――だからさ、よく推理小説である一人を狙う為に通り魔に見せかけて殺人を犯すってのがあるだろ。なんか今それが頭に浮かんだんだ」
「どうだろな」
随分と今日は素っ気ない。やはり様子がおかしい。それとも事件に集中してるだけだろうか。
中央警察署に着くと、すぐに捜査会議が始められた。今まで出ている情報以外で目新しい情報が出ることもなく、俺たち二人は第一被害者のもとに聞き込みに行くことになった。
「またあとでな」
若林たちは、まだ入院している第三被害者のもとへ行くことになっている。第二被害者は、同じ病院の集中治療室に入っていて、未だに意識は戻っていない。
第一被害者は、アパレル会社に勤務している佐々木頼子、二十四歳。彼女も数日前に退院したばかりだった。今は実家に帰っているそうなので、実家のある南東区に向かう。
「私は県警の望月、隣が田村といいます。何度も申し訳ありませんが、事件当夜のことをもう一度詳しく話していただけませんか?」
モダン調の広いリビングに通された俺たちは、オフホワイトのソファに腰掛け、向いに座っている頼子が話し出すのを待った。彼女は当時のことを思い出すのを一瞬
「あの夜も、音楽を聞きながら一人で歩いていました。後ろから誰かついて来てるなんて、思ってもみませんでした。何かが背中にぶつかったと思ったら背中が冷たく感じたんです。痛みは最初、ありませんでした。背中を触ったら手に血がベットリついてるのを見て、初めて刺されたことに気付きました。それからどんどん痛みが出てきて――。しゃがみ込んで、叫び声を上げました。近所の人が出て来てくれなかったらと思うとゾッとします」
話をする間、彼女の膝の上で握り締められた手が震えていた。いくつか質問をしても、入院中に証言してもらった内容と同じで、新たに思い出した記憶などはなかった。犯人は刺したと同時に逃げていて姿も見ておらず、犯人について思い当たることもないと言うことだ。彼女の体調のこともあり、佐々木邸をあとにすることにした。
「ありがとうございました。また何か思い出したことがあったら連絡下さい」
頼子に送られて玄関先まで行くと、後ろから力のこもった声で頼子が声を掛けてきた。
「絶対、犯人捕まえてくださいね。もう誰にもこんな怖い思いして欲しくないから」
力強く頷くと、頼子は笑った。今日始めて見た、彼女の笑顔だった。
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