第208話

 去り際、ワイド伯は僕たちに錠剤をいくつか渡した。


「これはいずれ患者全員に渡すものだが、君たちには先に渡しておく。この病気は空気を挟んで人から人へと伝わっていく。君たちだって感染するかもしれない。そうなってしまったら、困るだろう?」


僕たちは拠るべきところがあのボロいホテルくらいしかないからな。


 そのぼろいホテルに戻ると、ドウランは退屈そうにしながらも、赤ん坊を抱いていた。ハモニカは少し寝息を立てながら、彼女の腕の中で寝ている。


「この坊や、全くぐずらないぞ?」


「よかったじゃないか」


「逆に退屈さ」


「じゃあ、僕たちが変わるから、ドウランも気分転換してくるといいさ」


「ええ、ここらの近くなら、あまり人目もありませんし、危なくはないはずです」


「本当? ならお言葉に甘えて……」


僕たちはハモニカを受け取った。


 ドウランがいなくなって、急にしんと静かになった。僕もシルバータさんも、病院の空気がむせ返るようだったので、ちょっと疲れている。


「シルバータさんは、ワイド伯と親しかったんですね」


「ええ、私の中隊と彼の中隊が一緒に行動することが多かったので」


そこがかなり意外だったというか、面食らった。


「優しい人なんですけどね、少し考えすぎるというか。昔からずっと悩んでいたように思えます。自分のことでもないだろうに」


「ワイド伯は、今も悩んでいるんですか?」


「ええ、悩んでいるんでしょうね。私にはあまり理解してあげることなんてできないですけど。でもまぁ、今はかなり前向きにその悩みと向き合っているみたいですね」


「前向きっていうのは、この一連の反逆のことですか?」


「私たちの立場から見ればそういうふうになりますけど、彼からしてみれば、なにも敵意だけでこのようなことをしているのではないと思います。ただ、行く道が自分の国と違っていた。真っ向からぶつかってしまった、それだけのことです」


ワイド伯のことを話すシルバータさんはひどく傍観者のようだった。


「だから、彼を捕らえようとするシャラパナの方が正しいのか、それともワイド伯の行く先に何か光り輝くものがあるのかはまだ分かりません。それまではあくまで私は見守っておこうと思います」


「軍人がそれでいいんですか?」


「よくないですね。ただし、私の圧倒的な力で可能性をむやみやたらに潰してしまうのは、もっと良くない」


……圧倒的な力、確かにそうだな。シルバータさんなら病院で彼に出くわしたあの場で、ワイド伯を殺してしまうことができたはずだ。


「先ほど話して、より一層そう思いました。まだ見守っておこうと」


「もしワイド伯があらぬ方向へと行ってしまったら?」


「その時は私が捕まえます。そして、檻ごしに説教なり慰めなりをしてあげますよ」


僕には、なにも分からないな。ワイド伯が一体何に悩んでいて、どこに行こうとしているのかなんて。


 


 ハモニカが目を覚ました。目が覚めて、僕たちのことを見ても、全く泣きださない。普通、家族じゃない知らない人に抱かれていて、しかも母親がいない状況なんて、泣かない方がおかしいと思うのだけど、ハモニカはニカニカと笑っている。


「愛嬌があって、かわいい子ですね」


「ええ、でも慣れません。僕には子供なんていたことがありませんから」


兄弟がいたわけでもなく、しかもずっと独身だったものだから、赤ん坊の世話なんてしたことがなかった。


「私も分からないですけど、泣いちゃったらどうしましょう?」


「色々理由があるって聞きますけど、オムツ替えとか、お腹が空いたとか」


「大丈夫でしょうか? 私、お乳が出る自信がありません」


「いやいや、出さなくていいですから!」


でも、どうしようか。実際そのうち困ってしまうよな。


 赤ん坊に必要なものを、僕たちが持ってきているわけがない。買ってくるしかないか……。


「シルバータさん、バンビルビに戻りましょう。買い物をしなきゃ」


てなわけで、ドウランが帰ってきてから、また留守を彼女に任せて、僕たちはバンビルビに向けて出発した。


 買い物をするためには、わざわざ隣の街にまで行かなくてはならないのは、不便なことこの上ない。とりわけ、人目を気にしなくてはならない僕たちにとっては。


 バンビルビへの道のりは流石に覚えている。とはいえ、マハムンテを出るときの門での検問のようなのは、流石に抜けることができないので、シルバータさんに一瞬飛んで外に僕ごと運んでもらった。


「うまく出られましたね」


「見られていないといいのですけど」


バンビルビの街まで歩きはそこそこキツかったが、仕方がない。ずっと飛んでいったらさすがに見つかってしまう。


 歩いて歩いて、ようやくたどり着いたバンビルビなのだが、むしろここからが大変。街全体が市場のようになっているのだから、その中から目的のものを探し出すのにも一苦労なのだ。


 オムツに粉ミルク……ってこの世界にあるのか? まあそこらへんは必須だろうな。あとは、おしゃぶりやおもちゃでもあれば文句ない。


「何日か分くらいの消耗品はこの子と一緒にしておいてもらいたかったですね」


「切迫していたのは分かりますけど、そのくらいのアフターケアは欲しいところですよね」


オムツを見つけるのにも、一苦労だった。


 元の世界のやつとは違う。性能面で問題はなさそうなのだけど、見た目が違うからなんとなく違和感。そして、どういうわけか値段もかなり高かった。


「三十枚、ええと、この値段は、イデレートに換算すると、12,000イデですね。持ってます?」


「いくらか交換してもらえたので、そのくらいは」


かなり高額なんだな。


「高級品ですからね、オムツは」


「え?」


「普通は赤ん坊の便なんて垂れ流しなんですよ? 貴族でもない限りは」


「マジですか!」


それは意外すぎる事実。だから、僕たちが買うと言った途端店主が驚いていたのか。


 でも、やはりオムツは買っておかなければ。お金を渡して三十枚入りのオムツを買った。


「次は、粉ミルクですか……赤ん坊用の飲み物、何か知ってます?」


「ええと……あれならいいんじゃないですかね? 乳児用のナッツミルクがあったはずです」


それも初耳のものだな。想像もつかないものだ。この世界生まれのシルバータさんに来てもらっておいてよかった。


 こちらは廉価の品だった。オムツはなくても、しこたま不便なだけでやっていけるかもしれないが、飲み物まで高価なのはやっていけない。


「こっちはどれだけ買いましょうか?」


「途中で足りなくなっても困りますから、たくさん買っておきましょう!」


というわけで、かなりの量を買い込んだ。


 あとは、いくらか回って僕たちの想像の限りで、ハモニカに必要そうなものを買い込んだ。買い物が終わった頃にはもう日没。


「夕日が綺麗ですね」


空を見て唐突にシルバータさんがそう言った。


「突然ですね」


「夕日はどこから見ても綺麗なんだなって、ふと思っちゃって」


「それは、シャラパナから見ても、マハジャから見てもってこと?」


「そういうこと」


彼女に倣って、僕も夕日をぼんやり眺めながら歩いた。


 すると、その夕日の中に人馬一体の影が一つ。


「あら、こっちの方向に向かってきますよ」


「あ……」


近づいてきた鞍上の人間は、知り合いだった。


 向こうもこちらに気づくと、減速した。


「奇遇だね、また会った」


さっきも病院で会ったレイアだ。レイアはシルバータさんにも気づいたが、あまり驚いてはいなかった。きっとワイド伯から話があったのだろう。


「大将、お久しぶりです。私を覚えておられますか?」

 

「ええ、弟くんと一緒に覚えてますよ。グレル准将」


よかったな、シルバータさんが覚えているみたいで。


 それにしても、病院にいたはずの彼女がどうしてここにいるのか?


「病院はクビになったんですか?」


「いや、自主退職、というかばっくれてきた。伯爵から新しい任務を仰せつかったからね」


「新しい任務?」


「ええ、そうなの。内容は教えられないけど、私は今からベルスニーチェに向かうわ」


ベルスニーチェ……ワイド伯、今度は何をするつもりなのか?

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