第7話

『ぐぅー』

 やる気のない腹の虫の鳴き声で怜が目を覚ます。

 自分の手を見るとまだ手錠はかけられたままだし、周囲は窓がない閉鎖空間のままである。昨日の出来事は夢ではなかったんだなぁ、と少々落胆した。

 古屋の目的、そして、古屋から聴かされた、弐沙の本心。それが頭の中を頻繁に過ぎる。

『君が居なくなって辛くないですか、と聞いたところ、逆に良かった。清々したとも言っていましたね』

「弐沙……」

 弐沙の顔が過ぎるたびに胸が苦しくなってグッと拳を握り締める。それと共に空腹音も鳴り響く。

「……お腹空いたなぁ」

 よくよく考えてみればこの古屋の別荘に訪れてから何も口にしていない。窓が無いから今が何時かは全く把握することは出来ないが、空腹音の酷さから一日は軽く経過していることだと察知した。

 空腹とこの状況によるストレスから、次第に怜にイラつきが募っていく。

「クッソ」

 握った拳でドンと壁を叩きつけつるが、好転する気配はない。

『おや。これはこれは、お早い起床ですねぇ』

 声がして怜が顔を上げると、其処にはニコニコと笑顔を浮かべて古屋が現れていた。

「気分はどうですかね?」

 この状況を作った張本人がわざとらしい質問を投げかける。怜はまるで吐き捨てるかのように答える。

「おかげさまで、最悪だ」

 その目は冷ややかに古屋を睨みつけた。

「おー怖い。食べていた甘味が切れると人格が変わるとは聴いていましたが、まさかコレほどとは。くわばらくわばら」

 やはり怜に関する情報は粗方収集されているらしい。前日までと性格がまるで違う怜に、古屋はそんなに驚いている様子も無かった。

「見れば分かると思うが、俺はイライラしているんだ。あまり変なことを言っていると、どうなっても知らないよ?」

「一応その手錠とかは怜さんでも壊せないように頑丈に作られていますからね。多分暴れようとしたって体力が消耗してしまいますから無駄ですよ。それに、出来るだけ商品は傷つけないようにするというのが僕のモットーですから」

「商品ねぇ……俺も、お前の売り物の一つになったってコトか」

「まぁ、ゆくゆくは……ね?」

 そう言って古屋は牢の中へと入っていく。手には注射器らしきものが握られていた。

「何をする気だ」

「決まっているじゃないですか、実験ですよ。本当は眠ったままの間にやって置きたかったですが」

 古屋が注射器を持っている左腕を高々と振り上げ、怜の体に向かって注射器を振り下ろす。それは怜の肩部分に命中した。針が痛覚に触れ、怜の顔が痛みで歪む。

 注射器の中に入っていたやや蛍光グリーンの液体は次第に体内へと投与されていくようで、ドンドン見える量が少なくなっていった。

「ふむ、こんなもんですかね。おっと」

 古屋は楽しそうに注射器を引き抜く最中、怜が殴りかかろうとして来たので、ひょいと回避する。

「チッ、避けられた。こんなものさえ無ければ、お前なんかすぐに処分してやる」

「そんなにイライラしなくていいですよ」

 怜の態度に顔色一つ変えない古屋。


「まぁ、そんなイライラもそろそろする暇がなくなるわけですが」


 古屋は腕時計を確かめて、そろそろかな? と呟く。

「何が、そろそろ……っ!?」

 怜は突如脱力し、床へとへばり付く。が、その刹那、体のあちらこちらがまるで火に炙られたかの様に熱く感じ始め、顔には夥しい量の脂汗が噴出する。

「初めは小手調べとしまして、ちょっとした農薬のブレンドを投与してみたんですが、結構皆さんすぐ力尽きてしまうんですよねぇ。いやぁ、性根が足りませんねぇ」

「何が……小手調べだ……」

 過呼吸かのように細かく息をしながら、怜は悶え苦しむ。

 心拍数がドンドン上がり、このままでは心臓が物理的に軽快に破裂するんじゃないかという勢いだ。

「普通……に、致死……量」

 呼吸が先行してしまって、怜はなかなか声を出すことが出来ない。

「僕の実験に耐えてもらうにはコレぐらいは序の口ですよ。それにしてもやっぱり怜さんはお強いですねぇ。まだ意識がある」

 普通の人ならあっという間に息をしていませんよ?と楽しそうに古屋は語る。

「どうです? 本当にイライラする暇もないでしょ?」

「後で……覚えて……ろよ」

 怜は必死に起き上がろうとするが、体に全く力が入らず、床に這い蹲ることしか出来ない。その様子を古屋が愉悦の表情で眺めていた。

『おっと、進一郎さん。何処にも居ないと思ったらこんなところにいたんですか』

 聞き覚えの無い第三者の声が聞こえてきて、怜は必死に顔を上げる。

 其処には全身黒い服で身を覆った、男が古屋の横に立っていた。

 顔の雰囲気は何処か優男な感じで、このような場所には似つかわしくは無い。

「……あれ?」

 その優男に対して怜は何処か見覚えがあるような気がしたが、投与された毒によって判断能力が低下しているため、それが定かであるかどうかが判別できなくなっていた。

「あー、ソテツさん。わざわざこんなところまでご足労ありがとうございます」

「彼が例の」

 必死に動かない体を動かそうともがいている怜をソテツと呼ばれた優男が指差す。

「えぇ。とてもいい実験体を入手できました」

「いいなぁ。バイヤーの俺も彼の話を聴いてから欲しいと思っていたがなかなか手に入らなかったからねぇ、苦労しましたか?」

「準備は念入りにしましたから、それはもう丹念に」

「進一郎さんらしい」

 ソテツはフフッと笑う。

「それで、完成後はやはりオークションに出されるのですか?」

「はい。きっと、沢山の入札があるでしょうねぇ」


「そりゃそうですよ。だって、あの伝説の殺し屋さんがこうして自分達の手に入るのです。欲しくない人なんていないでしょう」


 ソテツと名乗る男も怜の過去を誰かから聴いている人物だった。

 怜はその昔、依頼を遂行する殺し屋として働いていた。依頼で偶然弐沙と出会い、紆余曲折を経て一緒に仕事をし始めたのだ。そのことを知る人物は数少ない。

「そうですね、これから彼がどのように変貌を遂げるか楽しみでなりません」

 そう笑う古屋を見ながら、怜はあまりの毒の強さに気絶をしてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る