三 慰撫

 都会は私の憧れ。こんなに人がいるんだもん。ほらまた男が寄ってきて、「お茶しない?」だって。私は丁重にお断りしたわ。

 私にはお気に入りの場所があるの。そこは都会だけれど、私の街のように寂しくて暗い場所。でも、人の気配をはっきりと感じられる、私にとって桃源郷のような場所。

 着いたわ。あそこの公園よ。そこの木陰のベンチがそれなの。その下に蟻の巣があって、そこの蟻は、きっと私と同じ感情を持っているの。同属嫌悪だなんてありはしない。ただ近くでフェロモンのようなものを出し、慰め合うの。実際に出しているかどうかは分からないけど、少なくとも私はそれをしていると思うことで慰められている。


 彼女の桃源郷は不思議なことに子供や猫、虫や男や規格外でさえも近寄らない、不気味な雰囲気があった。霊異的でもなく、汚いと言うと訳でもないが、そこへ来るのは彼女だけなのである。言ってしまえば、彼女だけの空間。周りから見られはするが。

 そこで彼女はよく鼻唄を歌っている。時に流行歌を。時に身体でリズムを刻みたくなるようなワルツ調の曲を。彼女にしか聞こえないほどの音量でそれをしているのだが、偶に周囲に漏れ聞こえる。しかし、彼女の奏でる調べは美しく、聞いた人間は、大抵笑って通りすぎるのだ。

 この日も彼女は鼻唄をうたう。今日はワルツ調の曲を。目を瞑った。頭の中に舞踏会の様子が浮かんでくる。桜色の簡素なドレスを装い、同じ色で光る髪飾りを輝かせながら、壁の花となっている彼女自身を想起する。目の前で踊る数多の男女を見つめながら、小さくステップを踏んで、相手をしてくれる男を待つ。しかし、相手は来ず、そのまま家へ戻るのだ。

 これを空しい妄想だと言うのは的外れである。これは彼女の傲慢さを、明快に表す妄想なのだ。そう、彼女にとって自尊心を高めるもの、つまり慰めなのである。一通りその慰めを終えると、彼女はそのベンチを離れる。桃源郷を桃源郷のままにしておくためだ。


 都会の桜もまだ咲かないでいる。だから、空を見上げているのは私だけ。誰も、何もない空を見上げはしないよね。ここの通りの街路樹は全て桜。季節になれば、天上の世界より美しい場所になる。その時にはきっと……。


 彼女が行き着いたのは、その通り沿いに構えてある書店。四階建ての一階の広いとも狭いとも言えないスペースで色々な本を売っている。この店を彼女は勝手に『桜書店』と名付けた。桜書店は彼女の心の潤しである。

 そして、よくそこで一人の同級生の男と鉢合わせになる。彼は彼女に『ボッコくん』と呼ばれている。初めて鉢合わせた時に、彼が手に取っていた本が星新一の「ボッコちゃん」だったからだ。この日も彼はいた。


 「ボッコくん」私は周囲に配慮して、彼の名を呼んだ。

「桜さん」彼はいつも通り空想から現実へ戻されたように返事をした。私は慣れたように彼の横へ立つと、彼の心を感じ取った。今日も彼の心は、私に対するプラトニックな恋心で一杯だった。それを感じとると、やっぱり緊張する。目に入った本を適当に彼に見せる。

「この本、面白そうだよね」

「どんな本?」

「分からないけど」

「買って読んでみたら?」

「分かった」

 私が会計へ向かうと彼も一緒に来た。

「もうすぐ誕生日だよね。払うよ」私は目を逸らして頷いた。「はい」と言ってその本を渡すと、私は彼の後ろを付いていった。


 彼女は彼の前においてあの傲慢さは無くなり、一人の恋する乙女となる。やはり、そんな彼女も美しく、書店にいる男の店員や客は、卑しい恋心を抱いた。彼女はそれを感じとると、普段より一歩、ボッコくんに近付く。そうすることで卑しい恋心は薄まる。そして、ボッコくんはよりプラトニックな恋心を抱くのだ。

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