第87話 恐怖×2

 あの後、まだこの歩き方は俺と淳也には早いと判断され、まずは直立不動の姿勢を維持するよう指示された。

 頭に板と水の入ったグラスを入れた状態で一時間。加えて、丸いトレーに紅茶セットを乗せた状態で一時間立ちっぱなし。最後の一時間は、体幹を鍛えるために筋トレと校庭の走り込みをやらされた。

 因みに雪宮と黒月は、立ち方と歩き方はほぼ完璧。残りの時間は、メイドの作法や給仕の仕方を座学形式で聞いていた。ここでも勉強なのか。



「それでは、本日の研修は以上になります。お疲れ様でした、皆様」

「「お疲れ様でした」」



 紬さんに続き、他のグループを担当していたメイドさんたちがお辞儀をする。

 俺たちもそれに倣い、見様見真似でお辞儀をするが、なんとも不格好だ。

 え? 俺たち以外の奴らはどうなったかだって? こっちはこっちで必死だったから、あまり見てはいないが……。



「「「ぉ……ぉぉぉぉ……っ」」」



 見た通り、死屍累々だ。いったいどんな特訓をしたらこんなに疲れるんだろうか。

 でもそのおかげで、さっき紬さんに助けられたことはうやむやになった。いやー、助かった。

 教室を出ていく春風さんとメイドさんたちを見送り、ようやく緊張の糸が切れた。伸ばしていた背筋を緩めて、その場にしゃがみ込む。



「あぁ……つっかれた」

「俺、もう脚が棒だぜ? 次のバイトに支障が出そうだ」

「けどこれから毎日研修だぞ。バイト大丈夫なのか?」

「それがよ、どうやらうちの店、春風さん個人で請け負ってる仕事の系列らしくてさ。ちょっと融通してもらってる」



 マジかよ。なんつー世間の狭さ。てか春風さん、家が太くて金持ちなのに、自分で事業してんのかよ。いったい何者――ガシッ。

 急に両肩を掴まれ、硬直する。この久々に感じる絶対零度の圧……まさか。

 壊れたロボットのようにゆっくりと振り向く。と……。



「はづきち、お話し中のところ悪いけどさ~」

「さっき紬さん相手に鼻の下を伸ばしていた件、詳しく聞こうかしら」



 恐怖×2が、そこにいた。



「い、いや、あれは事故というか、紬さんが助けてくれたというか……!」

「ふーん。事故なら女の人の胸に顔を埋めていいんだぁ~」

「そんなこと一言も言ってねーよ……!?」



 お、おい淳也、お前らっ! 見てないで助けてくれ……って、誰一人いねぇんだが!? いつの間に帰った、あいつら!?



「落ち着きなさい、黒月さん。今日はもう最終下校時間間近だから、また明日じっくり聞きましょう」

「……それもそうだね。はづきち、時間に向かってありがとうございますって言うといいよ!」

「ありがとうございます時間様!」



 ……なんで俺、時間に向けて感謝してんだろう。

 というか意外だ。雪宮が意外と冷静なんだもん。もっと威圧的に来ると思ったのに。

 黒月が帰りの支度をしているのを横目に、雪宮が俺の肩に手を添え……そっと、耳打ちしてきた。



「続きは帰ってから、たっぷりと……ね」



 ……あぁ、そうだ。そうだった。俺には逃げ場はないんだった。

 ははは。俺、神様なんて信じてないけど……恨むぜ、神様。



   ◆◆◆



「まったく……今日初めて会った女性にデレデレするなんて、信じられないわ。やっぱりあなたも性欲まみれの野獣だったのね。いやらしい」

「そ、そこまで言うことないじゃないか」



 結局帰宅後もこんこんと詰められている俺。雪宮の大好きな目玉焼きチーズインハンバーグにしたのに、まだ怒っていた。料理で釣る作戦は失敗か。



「でもラッキーとか思ったんでしょう」

「思ってねーよ。助かったとは思ったけど」

「じゃああの鼻血は何?」

「……条件反射だ」



 だって、あんなふくよかな胸に抱き締められたこと、人生で無かったんだもん。反射的に鼻血が出るくらいは許してくれ。

 雪宮はハンバーグを頬張ってジト目で睨みつけてくる。だって、だって……。



「……まあ、美人だったものね、紬さん。あなた、あんな感じの人がタイプなの?」

「え? ……いやぁ、どうだろう。確かに美人だとは思ったけど、俺いつも雪宮と一緒にいるからなぁ」



 雪宮と黒月が完全無欠の別嬪さんすぎて、感覚が麻痺している可能性がある。人の容姿を比べるなんて愚の骨頂だが、この2人に関しては別格だ。

 ぼーっと雪宮を見つめると、急に恥ずかしくなったのか頬を染めて顔を逸らした。



「ほ、褒めてうやむやにしようだなんて、そうは行かないわよ。ご飯を食べたら宿題。宿題を終わらせたら特訓の続きするから」

「え、まだやるの?」

「当たり前でしょう。あなたは伝統ある白峰高校の生徒会長なのよ。人前に立つ以上、無様な姿は見せられないわ」



 ジーザス……マジで逃げ場ないのかよ。

 誰か、俺をここから連れ出してくれ。

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