第86話 修行?

 緊張している淳也を見て笑いを堪えていると、俺たちの前に春風さんとメイドの1人が立った。

 ロングの黒髪と、おっとりとした印象の目元。。口角が少し上がり、第一印象は穏やかな美女という感じだった。

 だけど、ピリついた空気というか……笑顔なのに、雰囲気は真剣そのものだ。俺たちまでつい身を正してしまう。



「お待たせしました~。雪宮会長たちは、こちらのつむぎさんが指導しますね」

「紬と申します。雪宮様、黒月様、八ツ橋様、水瀬様。本日より1ヶ月の短い期間ですが、よろしくお願い致します」



 左足を引き、膝を僅かに曲げて無駄のないお辞儀をする紬さん。なるほど、これがメイドのお辞儀なのか。洗練された動きすぎて、見惚れちまうな。

 春風さんはにこやかな表情で、「後はお願いしますね~」と言い、教室の後ろの席に座った。



「それでは早速、始めさせていただきます。まずは基本の姿勢ですね。猫背にならず、体幹をぶらさない。頭の上から、一本の糸で吊るされているように立ちます」



 まあ、それくらいなら……。

 言われた通りに真っ直ぐ立つ。横を見ると、雪宮と黒月はさすがに慣れているのか、立ち姿さえ様になっていた。

 逆を見ると、淳也は少し窮屈そうな顔をしている。当たり前か。こんな背筋正しくすることなんて、普段はないからな。



「皆様、素晴らしいです。それでは、次のステップに参ります」



 と、紬さんはどこからか木の板を取り出した。それを俺たちの頭の上に乗せていく。

 多少バランスを取りずらいけど、まだ耐えられる程度だ。……と、思ったのに、その上に水がなみなみと入ったコップを置いた。

 ……え??



「あの、紬さん。これは……?」

「バランスと体幹をぶらさない訓練です」



 そのまま俺たちに背を向け、黒板付近まで歩いていく。振り返ると、とてもいい笑顔で手を広げた。



「さあ、そのまま零さず、こちらまで歩いてください」

「できるか」



 今にも零れそうで強めのツッコミすらできない。メイドというより、なんかの武術の修行か何かか?



「因みにそのグラス、1つ10万円ほどのものなので、決して割らないように」

「「ヒュッ……!?」」



 俺と淳也の口から変な息が漏れた。なんだよ10万円って。そんなもの学校に持ってくるんじゃない。紙コップでいいだろう、紙コップで……!

 なんとかバランスを保つだけで精一杯で、一歩も動けない。今だって、水を零していないのが不思議なくらいだ。



「じゅ、淳也。歩けるか?」

「無理に決まってんだろ。10万だぞ。俺の1ヶ月のバイト代より高いんだぞ。割ったら上の水どころか下の水が失禁大洪水になるわ」

「やめろ汚ェ」

「まだやってねーのに軽蔑すんな」



 俺らがいつも通りの軽口を叩いていた、その時。なんと雪宮と黒月が一歩踏み出した。



「懐かしー。昔、よく練習させられたよ」

「私もやらされたわ。嫌々だけど」



 まるで草原を散歩するが如く、談笑しながら歩いていく2人。

 おい、マジか。本当に水が一滴も落ちてない。というか、水が微動だにしていない。意味がわからん。達人か、お前ら。

 2人が紬さんの元に到達すると、紬さんが小さく拍手をした。



「さすがは雪宮様と黒月様です。一切のぶれがありませんね」

「ぬへへ。褒められた」

「淑女たるもの、これくらいは当然です」



 くっ……ちくしょう。雪宮の奴、いつもはポンコツなのに……!

 ええいっ。くそっ、やってやる……!

 見様見真似で体幹をぶらさず、バランスを取り、真っ直ぐ一歩踏み出す。が、少し動いただけで頭の上のグラスが揺れるのがわかった。

 こここここんなに揺れるのかよっ? こんなの絶対に無理じゃん!?



「う、おっ……!?」



 落ちる落ちる落ちちゃう!? 10万円落ちちゃうーっ!?



「ちょ、くくっ……は、葉月そのへんてこな動きやめろっ。笑ってバランスが……ぶほっ!」

「こっちは真剣なんだこんにゃろうっ! あ!」



 やべっ、脚がもつれ……!

 何をするのが正解なのかわからず、10万円を守るため思わずグラスを両手で掴んだ。当然そんなことをすれば、受け身を取れずぶっ倒れるわけで。スローモーションの世界の中、目の前に床が迫る。



「八ツ橋くんっ」

「はづきち……!」



 2人の声が聞こえるが、何もできず目を強く閉じて衝撃に備えると……ふわっと、何かに支えられた。

 柔らかいものが顔を包み、華やかな匂いが肺いっぱいに広がる。

 痛くはない。な、なんだ……?



「八ツ橋様、ご無事ですか?」

「……え?」



 耳元から聞こえる声に、ようやく目を開ける。

 そこには、柔和な笑みを浮かべて俺を抱き留めている紬さんの姿があった。ご丁寧にも、水の入ったグラスを一滴も零さずキャッチして。

 え、あ、え? 俺……まさか美女に抱き留められてる?

 …………あ、やべ鼻血が。



「まあ、大変ですっ。どこかぶつけてしまいましたか……!?」

「ち、違いますっ。だだだだ大丈夫ですから……!」



 鼻を抑えて紬さんから離れる。幸いにも、紬さんの服に血は付いていなかった。

 が、それよりも大問題は……憎悪と嫉妬の視線を向けてくる男子どもの視線と、ジト目で見てくる雪宮と黒月だった。

 後で何を言われるか……やだなぁ。

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