第2話 氷の女神の秘密
「雪宮……?」
余りの事態に、相手の名前を呼ぶことしか出来ない。
「……八ツ橋、生徒会長……?」
雪宮も、いつもの切れ長の目を見開いて俺の名前を呼ぶ。
互いに見つめ合ったまま動かない。いや、色んな考えが頭を駆け巡って動けない。
なんでここに雪宮が?
なんでお隣から出てきたんだ?
というか、インターホンの画面で俺が来てるのを確認できなかったのか?
俺はお隣に挨拶しに来た。それなのに出てきたのは雪宮。
待て、どういうことだこれは?
白峰女子は、それなりに格式のある学校だ。入試では家柄を見られることもあると聞いたことがある。
だから通っている女子生徒の大多数は本物のお嬢様で、雪宮も当然その一人だと思っていた。
それなのに雪宮は今ここにいる。大豪邸でもなく、超高層マンションの最上階でもなく、俺の部屋の隣に。
「え、と……ご両親は……?」
「い、いないわ。一人暮らし、で……」
「そうか。お、俺もだ」
「そ、そう……」
……なんつー会話してんだ。俺たちは。
だけど今の会話でなんとなくわかった。
雪宮は一人暮らし。ということは、家の事情や方針で一人暮らしを余儀なくされてるとか、そういうことだろう。知らんけど。
俺が現状の整理をし終える前に、先に回復した雪宮がいつもの冷たい視線で俺を睨み付けてきた。
やめろよ、春先なのに体が冷えるじゃないか。
「どうしてあなたがここにいるのかしら? ストーカー? 変態? 不審者?」
「それほとんど全部同じ意味だろ。さっきも言ったが、この春で隣に越してきたんだ」
「私が住んでいるのを知っていて引っ越してきたんでしょう。いやらしい」
「ちげーわ。むしろ知ってたら引っ越して来てないから」
学校でもあんなに冷たくされてるのに、私生活でも冷たくされたいとかどんなマゾだ。
俺は決してマゾじゃない。ちょっとゾクゾクしたけど、これはマゾ的なあれじゃなくて冷たい視線による寒気だから。
……ウソジャナイヨ。
そっと嘆息すると、手に持っていたカレーが少し冷めてることに気付いた。なんだかんだ、結構な時間固まっていたみたいだ。
「つーわけで、これからはお隣さんってことになるらしい。ま、学校も一緒で、家も隣なんだ。隣人同士助け合って、仲良くしようぜ」
勿論、社交辞令である。
出来ることなら関わりたくないし、穏便に、平和に、何事もなく生活したいというのが本音だ。
でもそれを言うと、俺らの関係に角が立つ。ただでさえナイフのように尖りきっているのに、更に剣山のように尖った関係になってしまうだろう。
学校でも私生活でもそんな生活を続けてたら、いつか胃に穴が開きそうだ。
だから表面上だけでも、友好の意を示す。これ重要。俺大人。
「なんか気持ち悪いわね。裏があるんじゃないの?」
……このアマ。
いや、落ち着け。ここで俺が怒り出したら、それこそダメだ。とにかくここは俺が大人の対応を見せよう。
「何もない。ただの本心だ」
「どうだか」
信じろよ、そこは。……あ、でも逆の立場だったら、俺も信じられてないかも。うん、これは雪宮が正しいような気がする。
「こほん。ところで……」
「ん? どうした?」
雪宮がちらちらと俺の手元を見ている。どうやら、タッパーに入っているものが気になるらしい。
「ああ、これか。挨拶の手土産がなかったもんでな。ちょうど作ってたカレーを持ってきたんだが……好きか?」
「カレー……」
雪宮の視線がタッパーに釘付けになっている。――直後、変な音が廊下に響いた。
地鳴りというか、地響きというか……ぐるるるるるる~、って感じの音。
それは間違いなく、雪宮から聞こえてきたものだ。
「……腹減ってんのか?」
「空いてないわ」
「でも今の……」
「空いてないわ」
「…………」
「空いてないわ」
何も言ってねーよ。
試しにタッパーを上に掲げると、雪宮も釣られて視線を上げる。
左右に揺らすと同じように体を揺らし、決してタッパーから目を離さない。
その間も、雪宮は腹をずっと鳴らしている。学校帰りで腹を空かせているにしては、尋常じゃない鳴りようだ。
なんとなく気まずくなって視線を逸らす。と……部屋の中が目に入った。
「……は?」
え……え、は? これは……見間違い、か?
廊下に溜まっているかなりの量の洗濯物。
袋に大量に詰められている空のカップ麺やコンビニ弁当の箱。
買い溜めしているのか、段ボールに入ったままの水のペットボトル。
シンクの中には、いつから溜まっているのかわからない大量の食器類が水に漬けられている。
チラッと見えるリビングも、廊下と似たような現状だ。いや、惨状と言っていい。はっきり言って超汚い。
だからインターホンの画面を確認できなかったのか。
こいつ、こんな部屋で生活してるのか……?
お嬢様だから料理出来ないとか、掃除出来ないとかはなんとなく想像出来るけど、これは想像を絶する汚さだ。
「……雪宮、待ってろ」
「え?」
「いいから、そこで待ってろよ」
「え……ええ」
困惑している雪宮を残して急いで部屋に戻ると、余っているタッパーに炊き立ての米を入れて廊下に戻った。
「米も持ってきた。これと一緒に食え」
「……どういうつもり?」
「どうもこうも、こんな部屋だと満足に米も炊いてないだろ」
てか、こんな生活をしてるやつが、米を炊けるように見えない。カレーだけだと寂しいし、流石にな。
「施しは受けないわよ」
「とか言いつつ視線外せてないぞ。いいから受け取れ」
ぐいっとカレーと米の入ったタッパーを押し付けると、雪宮は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。思いの外わかりやすい性格してるな、雪宮って。
「カレーは中辛だ。あまり辛くないよう調整はしてるつもりだ。タッパーは今度洗って返して……いや洗わなくていいわ。そのまま返してくれ」
「……そういうことね」
「何が」
「私の食べカスを舐めようって魂胆でしょう。この変態」
「どつきまわしたろか?」
女だからって俺が何も出来ないと思うなよ。俺は男女平等主義だ。やると言ったらやるぞ。
「冗談よ」
「お前の真顔は本気と冗談の区別がつかないんだよ……」
あ、でも今ちょっとドヤってるな。いや、今の冗談はつまらんからな? くそ、ドヤ顔可愛いじゃねーか。
なんとなく気まずくなって頬を掻く。
雪宮は大事そうにタッパーを抱えると、少しだけ笑顔を見せた。
「ありがとう。美味しくいただくわ」
「あ、ああ。そうしてくれると、俺も嬉しい」
誰かに自分の料理を食べてもらえるのはいつぶりだろうか。
両親は忙しいし、少なくともここ数年ではなかったと思う。ちょ、ちょっと緊張するな。
「タッパーは流石に洗って返すわ。そこまで礼儀知らずじゃないわ」
「でもお前、皿とか洗えないだろ」
「……………………洗えるわ」
今の間はなんだ。今の間は。
まあ、ちゃんと返してくれるなら、洗っていても洗ってなくてもどっちでもいいか。
「それじゃあ、帰る」
「ええ」
……あー、えっと……こういう時、また明日とか言えばいい……のか?
まあ学校も一緒で家でも隣だから、ちゃんと挨拶した方がいいか。
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